第46話「黒の取引」
春に訪れた公爵家の使者の件は、すぐに村全体を巻き込んだ話し合いへと発展した。
研究組とオスト村、そして隣村の三者から代表を選び、囲炉裏を囲んで夜更けまで意見が飛び交った。
結論はこうだ。
これまで収益の半分を研究費に回していた取り決めを三割へと縮小し、浮いた二割は隣村の人々の移住支援に充てる。家を建てる費用や新しい畑の開墾に使えば、不満もいくらか和らぐはずだ――と。
実際、それなりの金額が動くことになり、隣村の代表も一旦は首肯した。
だが、根にある遺恨は消えない。
広場の隅では小競り合いが続き、罵声が飛ぶことも珍しくなくなった。互いに背を向け合いながらも、同じ肥料で潤う現実だけが彼らをつなぎ止めていた。
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そんな中、クラウスはただ見守るだけではいられなかった。
彼は農夫たちの畑を手伝い、時には肥料の袋を担いで運び、率先して汗を流した。
オスト村の老人からは
「エルンスト様の従者は本当に頼りになる」と声をかけられ、隣村の若者たちからも「よくやるな」と苦笑まじりに認められる。
彼なりに、両者の溝を少しでも埋めようとしたのだ。
――だが、それは同時に、隣村の人々と深く関わる入口にもなっていた。
「でもさ……こうやって一緒に汗を流してくれるクラウスさんなら分かってくれるよね?」
「俺たちばっかり運搬じゃ、不公平だろ? 研究所の連中は暖かい部屋で机に向かってるだけだし」
声の調子は柔らかかった。責めるでも怒鳴るでもない。
けれど――「あなたは味方だよね?」と迫るような響きが、クラウスの胸に刺さった。
「……それは……」
曖昧な返事しか返せない。
忠義と共感。その間で揺れる心が、彼の喉を締め付けていた。
彼らの愚痴や不満を耳にし、共に荷を担ぐことで自然と同じ目線に立つ。忠義は揺るがないはずなのに、心のどこかで「彼らの言い分にも理があるのでは」と思いかけている自分に気づき、胸の奥で小さな痛みが広がっていった。
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季節は移ろい、春の芽吹きはもう初夏の光に溶け込んでいた。
雪解けの土に打ち込まれた杭のまわりには、若い苗が整然と並び、青い葉が風に揺れている。陽炎が立ち上り、川面には銀の筋が踊る。
新しく建てられた隣村の家々はまだ木の香を残し、白い漆喰の壁が陽光にまぶしく照り返していた。子どもたちは裸足で走り回り、犬の吠える声が青々した畑に響く。
一見すれば、ここに不安や亀裂はない。豊かさが日常を覆い、季節は確かに前へと進んでいた。
だが、地の底にはわずかなざらつきが残っていた。笑顔の影に、言葉にされぬ嫉妬や疑念が息づいている。クラウスはそれを誰よりも肌で感じながらも、取り持つ言葉を探し続けていた。
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そんな折、コハルが一通の報せをリーナに届けた。
公爵家の使者がオスト村を訪れ、研究の取り込みを持ちかけたという。
村は保留としたが――時を置けば置くほど、圧力は強まるだろう。
リーナは即座に決断した。
守りに回る前に、先に一手を打つ。
その行き先は、国の農政を担うアルノルト伯爵のもとであった。
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重厚な扉が開き、豪奢な広間にリーナが通された。
長机の奥、静かに杯を傾けていたのは、農務省を束ねるアルノルト伯爵。落ち着いた眼差しがこちらを射抜く。
「……お時間をいただき、ありがとうございます」
リーナは胸に手を当て、深く一礼した。
伯爵は口元をわずかに緩める。
「今、帝国中で話題をさらっている方からの要望です。こちらから出向いても良いほどだ。それで――今日はどのようなご用件で?」
リーナは一歩進み、澄んだ声で告げた。
「端的に申し上げます。黒い肥料の――全量買取契約をお願いしたく参りました」
「ほう」伯爵の目が細められる。
「わざわざ全量? 聞けば、暴利を貪らず、農民にも利益が行き渡る価格を維持していると評判だ。既に独占販売しているも同然ではないか。わざわざ全量買取などせずとも、正しく市場に流しているのでしょう」
リーナは首を横に振った。
「今は、です。ですが今後は様々な力が働きます。いずれは私どもだけでは抗えない圧力もあるでしょう。加えて――我ら商隊は規模が小さすぎます。需要は膨れ上がる一方ですが、人材をむやみに集めれば、どんな者が入り込むか分からない。規模を広げた途端、信頼が揺らぐ危険があります」
伯爵は低く唸る。
「なるほどな。しかし領が全量を買い上げれば、市場価格は必ず跳ね上がるぞ。農民が困ることになれば本末転倒だ。その点、どう考えている?」
リーナは間髪入れずに答えた。
「当然、その分は安くお譲りいたします。農家への販売価格は据え置きできるよう調整いたします。ただ一つお願いがございます」
「申してみよ」
「手元に金がなく、肥料を買えない農家もまだ多くおります。税を誠実に納めている者には、先売り制度を設けていただきたいのです。私どもでは調査ができませんが、伯爵様の御領政であれば可能でしょう。それで販路は広がり、販売量が増えれば十分利益が見込めます」
伯爵は杯を置き、鋭い眼差しを側近に送った。
「……去年の収穫量は、どれほど増えていた?」
側近は懐から帳面を取り出し、淡々と答える。
「閣下、昨年はおよそ一五%の増収にございます。まだ肥料を導入していない土地も多く、概算ですがさらに一五%の伸びしろは見込めます。合計三割――帝国の農政にとっても無視できぬ規模です」
伯爵はしばし沈思し、やがて小さく頷いた。
「三割、か……。確かに帝国の未来を左右する数字だ」
リーナは静かにその言葉を待ち受けていた。
伯爵は椅子の背に身を預け、静かに言葉を落とした。
「生産地は……確か、オットー男爵領だったな。公爵の影響はどう見る?」
リーナはすぐに答える。
「当然、公爵よりの領地です。ですが逆に今は好機かと。先に伯爵様が手を打たれれば、肥料については公爵家といえども容易に介入できなくなるはずです。加えて――男爵は“税”さえ納めれば、それ以上に口出しをすることはございません」
伯爵は片眉を上げる。
「公爵自らが手を出してきたらどうする?」
「無用に公爵様が動かれれば……帝都では『強すぎる力は謀反の芽』と騒ぎ立てる者も出ましょう。伯爵様のお立場なら、その声を利用できるはずです」
伯爵の瞳が細まり、唇が静かに引き結ばれる。
強すぎる公爵。確かに国にとっては危うい。
バランスを取らねばならぬ。
――その思考が、彼の中で一つの答えを形づくっていった。
「……なるほど。確かに一理ある」
伯爵は杯を手に取り、淡く揺れる酒を見つめながら呟いた。いずれにせよ、この肥料を安定供給することはかなり重要な案件。金を払ってでもすべき事が利益込みで手に入る…。
「国家の均衡を保つためにも、肥料は我が手で押さえる価値があるな」
伯爵はしばし沈黙し、深く椅子にもたれかかった。
机に置かれた指先が、軽く、とん、とん、と音を刻む。
「……なるほど。話は分かった。では、リーナよ――お前は我に何を望む?」
リーナは一度小さく息を吸い、まっすぐに答える。
「まずは人材を。特に交渉に長けた者と、数字に強い者を。今のまま拡大を続ければ、早い段階で捌ききれなくなります。そして――商会の本店を、この伯爵領に置かせていただきたい」
伯爵の瞳が鋭く細められる。
「なるほど……そこまですれば、対外的に言わずとも“我が領とお前の商会は深い関係にある”と示せる。なかなか抜け目がない」
リーナは微笑み、静かに首を振った。
「もちろん、それもあります。ですが――この国を誰よりも憂い、誰よりも支えてこられた伯爵様だからこそ。私は、ともに発展したいと願っております」
「……ははは」伯爵は声を立てて笑った。
「世辞まで口にできるか。だがいい。気に入った!」
椅子から身を起こし、真剣な眼差しをリーナに向ける。
「やるからには覚悟せよ。分かっているとは思うが――これは国が動くレベルの話だ。途中退場は許さん」
リーナは即座に深く一礼した。
「承知しております」
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この大胆不敵な一手が、やがて帝国全体を揺らすうねりへと変わる。
その加速が、誰の想像をも超えていくことになる。
そして――後に“黒の協約”と呼ばれる、歴史の転換点となることまでは、この場にいた誰一人、思い至らなかった。
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