第45話「忠義の心」
帝国北部、ヴァルシュタイン公爵邸。
重厚な机の上に使者の報告書が置かれ、公爵レオポルト•ヴァルシュタインはそれを黙然と読み終えた。
「……保留、だと?」
低い声が、広間の壁を震わせる。
「はい、閣下。村は即答を避け、結論は持ち帰ると」
報告を終えた文官は深々と頭を垂れる。
「下がれ。ご苦労だった」
短く言い捨てると、文官はすぐに部屋を去った。
公爵は椅子に身を沈め、指で机をとんとんと叩く。
「……何を渋る理由がある。資金も施設も与え、肥料も保護すると言ってやったというのに」
脇に控えていた側近のコンラートが答える。
「妙でございますな。禍石の毒性研究に、そこまでの余地はあるとは思えませんが……」
「ふむ……探りを入れさせるか。村に潜らせているのは誰だ?」
「それが……λ83が“面白そうだ”と言って勝手に潜り込んでいるようで」
公爵の眉がわずかに動く。
「またか。あの男は本当に勝手な……まあよい。腕は確かだ。しっかり確かめさせろ」
「はっ」
やがてコンラートは、思い出したように言葉を続けた。
「それと、報告にありましたが……エルンストという名が挙がっております」
「……どこかで聞いた名だな」
「ハルトヴィヒ伯爵家の四男にございます。幼少の頃、“麒麟児”と称された男です。魔法研究所で魔法陣の研究に携わり、それなりの成果は残しているようですが――大きな業績はまだ」
「話題になったのは子どもの頃だけ、というわけか」
「いえ、閣下。私も一度話をしたことがございますが……間違いなく稀代の天才の部類でしょう。凡百の研究者とは違いますな」
「ほう。お前がそこまで言うか。だが、魔法陣の天才が禍石の研究などに興味を持つものか?」
「それは分かりかねます。ただ……もう一つお耳に入れたいことが。報告によれば、赤髪の女技術者が一人いるとか。おそらくは――タリア。エルンストとは魔法学校時代の同期で、かつて我が領の研究所に籍を置いていた女です」
公爵の唇がゆるく歪んだ。
「あの狂気じみた技師か……。なるほど、ますます怪しい」
公爵はしばらく無言で椅子に沈んでいた。
指先が机を叩くたび、重苦しい音が広間に落ちる。
「……急ぐこともあるまい」
低く吐き出すように言葉がこぼれた。
「まずは――λ83の報告を待つとしよう」
その声音には、焦りは一片もなかった。
むしろ、獲物が自ら罠に近づくのを待つ狩人のような静けさがあった。
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研究部屋。
暖炉の火が揺らめき、紙片や石片が散乱する机を囲んで、声が飛び交っていた。
「だから、そこは論理的におかしいって言ってるだろ! 安定しない!」
ソウマの声が響く。
「ではどうする? これ以上のものを作り上げてから言ってもらいたいものだ!」
エルンストも負けじと返す。
「今考えてる!」
「ふん、机上の空論で――」
タリアが退屈そうに割って入った。
「試してみりゃいいじゃないか。どれ……」
「「あ、待て!!」」
ソウマとエルンストが同時に叫び、慌てて視界だけ確保できる防護盾を引っ張り出す。
――ボンッ!
次の瞬間、小さな爆発。硝煙の匂いとともに、タリアの赤髪の先がチリチリに縮れていた。
「……だから不安定だと言っただろう」ソウマが低くぼやく。
エルンストは険しい顔のまま、だが観察を怠らない。
「いや、見たか? 思ったよりも爆発が小さい……なぜだ?」
「第4環が思ったよりぶれていなかった。そこまで影響はないということか……なら、いけるぞ」
ソウマの目が鋭くなる。
「おい、お前ら、私の心配をしろ! ギャハハハ!」
タリアは爆笑しながら、焦げた毛先を指でつまんでいた。
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その後ろでは、クラウスとミラが落ち着いた様子で食卓を囲んでいた。
クラウスが不意に言う。
「そういえば、タリア様は学生時代はストレートの赤髪がとても美しくて、男子学生にも大人気だったそうですよ」
「タリアさん美人だもんね」ミラが頷く。
「でもなんで今はちょっとパーマ?? え、もしかして……爆発??」
クラウスは苦笑して肩をすくめた。
「ええ。エルンスト様のお話によれば……すぐに爆発を起こすから美人だけど危険だ、と広まって人気もなくなったそうです」
「タリアさん、昔から……」ミラはあまりにも彼女らしいそのエピソードを聞き、呆れたように笑った。
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こうして研究部屋は、爆発の煙と笑い声と議論の熱で満ちていた。
外の不穏な影を知らぬかのように、日常の時間が流れていく。
研究部屋での会話が一段落したあと。
クラウスは外に出て、夕暮れの村を歩く。
ふと井戸端で話している隣村の若者たちの声が耳に入る。
「エルンスト様は立派なお方だよ。でも……異郷人やあの赤髪の技師に、少し振り回されてる気がしないか?」
「俺たちも信じたいさ。だが研究費が多すぎる。働いてるのは俺たちだってのに」
その声にクラウスは立ち止まりかける。
反論するべきだと分かっている。
だが、喉に言葉がひっかかり、結局は曖昧な笑みを浮かべただけだった。
その背後――通りすがりの村人がぽつりと呟く。
「……やっぱり、異郷人なんかに任せすぎなんだ。それにエルンスト様も結局は貴族だし、最後は俺たちのことなんて………」
誰が言ったのか、はっきりとは分からない。
だがその一言が、胸の奥に針のように刺さる。
(エルンスト様は……本当に、このままでよいのだろうか)
忠義は揺るがない。だが不安の影が、確かに心に芽生えていた。
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