第43話「春光と忍び寄る影」
春の陽はまだ柔らかいが、冬を越えた村を包む空気はどこか弛緩していた。
雪解け水が小川を満たし、畑の土からは芽吹きの匂いが立ちのぼる。
子どもたちが裸足で駆け回り、犬のような笑い声を響かせる。
冬の間、重苦しく垂れ込めていた空気は、もうどこにもなかった。
黒い肥料の効果は目に見えて現れていた。
小麦の芽は早く伸び、牛や山羊の毛並みはつややかに光る。
倉庫にはまだ余裕があり、村人の顔つきも明るい。去年、命を削って必死に守った村が、ようやく春らしい春を迎えていた。
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研究部屋では、エルンストが虚晶石を顕微鏡のような装置にかけていた。
小さな欠片に、わずかながら魔力が吸収されていて、石の内部が淡く光っている。
「……入ってるぞ!」
「おお、ついに……!」
タリアが歓声を上げ、机を叩いた。
量は微々たるもの。だが確かに虚晶石に直接チャージが成功したのだ。
俺は唇の端をわずかに上げた。
「これで、机上の理論から一歩進んだな」
「ただの一歩じゃない!これは研究が一気に進むぞ!!」
タリアは興奮が収まらない。工具を振り回し、部屋の中を跳び回っている。
彼女の言葉は誇張にも思えたが、間違ってはいなかった。
俺とエルンストは目を合わせ頷き合う。ここまで来るのに幾度となく議論し、失敗し、また積み上げてきた。
その果てに掴んだ小さな成果は、どんな宝にも勝る高揚感をもたらした。
胸の奥が熱く、呼吸が浅くなる。――これこそ研究者の至福。
ミラは両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
「すごいです……! これまでの努力がついに結晶になったんですね」
「私には細かいことは分かりませんが、とにかく良かったです!」
クラウスは満足げにエルンストを見つめ、感慨にふけるように呟いた。
春の陽気とともに、研究の部屋も熱に包まれていた。
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「ただいまー!」
そんなある日、村の門の方から元気な声が響いた。
犬耳をぴんと立て、息を弾ませながら駆け込んできたのはコハルだ。
「リーナから伝言だよ! 肥料の評判すごいんだって! 帝都の商人たちまで欲しがってる!」
胸を張り、にこにこと笑う。
村人たちは一斉に歓声を上げた。
「さすがリーナ様だ!」
「これで村も安泰だ!」
農夫たちの声は、雪を溶かすように温かかった。
コハルは振り返り、両手を振って応えると、背負った武器を軽く叩いてみせた。
銀糸が陽光を受けてきらりと光り、子どもたちが目を輝かせて騒いだ。
俺は近寄り、淡々と問う。
「……無茶はしていないか」
「ソウマこそでしょ? ずっと夜更かししてたって、さっきミラに聞いたよ」
にやっと笑って舌を出す。
隣でミラは慌てて頬を染め、
「こ、コハルちゃん……余計なこと言わないの!」と声を上げた。
春風が流れ、村の広場は笑いに包まれていた。
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夕暮れ、クラウスは畑の縁で声をかけられていた。
杖をついた年老いた村人が、深い皺の間から笑みをのぞかせる。
「やっぱりエルンスト様に治めてもらえたらいいよ。あの人は他の貴族とは違うからねえ」
クラウスは少し笑い、手を軽く振った。
「私もそう思います。ですが……本人にはその気がないようで」
「そうなのかい? 残念だねぇ」
「けれど、今は研究をとても楽しそうにされていますから」
「そうだけどさ、クラウスさんから言っておくれよ。村なんてちっぽけな事言わず、あんたが国を治めてくれってさ!」
クラウスは苦笑して頭を下げた。
「ははは……伝えておきますよ」
会話はそれで終わった。
だが胸の奥に、微かなざわめきが残る。
あれほどの方が、一研究者で終わってしまっていいのか。確かにこの村に来てからの主の表情は見たことがなきほど輝いている。
しかし、だからこそ考えてしまう
――エルンスト様は本当にこのままでよいのだろうか。
忠義の心と尊敬が入り混じり、心に霞のようなものを落としていった。
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そのとき。
遠くから低い振動が伝わってきた。
――ドン、ドン、と地を打つ蹄の音。
鍛えられた馬たちの吐息が白く伸び、鉄の匂いとともに風に運ばれてくる。
「……馬車?」
最初に気づいた子どもの声に、村人たちが手を止め、一斉に道のほうを振り向いた。
現れたのは、金糸の刺繍をあしらった紋章旗を掲げる豪奢な馬車。
並ぶ兵たちは鎧を磨き上げ、領主代行フリッツの粗野な一団とはまるで違う。
規律正しく歩みを揃え、村の広場に入った瞬間、空気が張りつめた。
「あの紋章旗……公爵様じゃないか」
「なぜこんな村に……?」
村人の間にざわめきが走り、誰もが息をのんだ。
やがて馬車から降り立ったのは、公爵家の紋章を胸に付けた文官だった。
鋭い視線を広場に投げ、静かに告げる。
「我らが主、ヴァルシュタイン公爵閣下よりの御用にて参上した。村長ハルマ殿、エルンスト殿、そして――異郷のソウマ殿。ただちに屋敷に集まられよ」
選ばれた名が告げられた瞬間、広場の空気が凍った。
村人たちは顔を見合わせ、不安を隠せずに押し黙る。俺は視線をエルンストへ送り、彼もまた眉を寄せて頷いた。
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村長宅の広間。
囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜ、湯気の匂いがわずかに立ちこめていた。
だが、その温もりに反して、場の空気は凍りついていた。
村長ハルマ、エルンスト、そして俺。
選ばれた三人は、並んで文官の前に座している。
文官は背筋を伸ばし、淡々とした声音で口を開いた。
「第一に、禍石に関する研究は、今後は公爵領にて行っていただきたい。施設は整え、必要な資金はすべて公爵領が負担いたします」
村長が驚きの声をもらす。
「……すべて、負担?」
隣でエルンストの瞳がわずかに揺れた。
「第二に、研究にて得られた知見・成果は、すべて公爵閣下の名の下に帰属するものとする」
重い言葉に、俺は胸の奥が冷えるのを感じた。
「第三に、研究の方向性は、領内にとって必要と判断される課題を優先していただきたい。もちろん、余力での探求を妨げることはございません」
一言ごとに鎖を打たれるような響き。
だが文官は表情ひとつ動かさず、最後に視線を村長に向ける。
「第四に、肥料に関しては一切の干渉を加えません。むしろ村の財産として保護し、安定して流通できるよう支援を約束いたします」
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村長は深く息を吐き、顔を明るくした。
「そ、それはありがたい……! 村も安心できますな!」
確かに村にとっては破格の提案だ。肥料を守り、生活を保証してくれる。だが同時に、研究を縛る鎖が見え隠れしていた。
村長はすぐに気を取りなおし、こちらを見た。
「いずれにしても、今回のことについてはエルンスト様やソウマ様へご判断をお任せします」
エルンストは静かに首を振る。
「……今は答えを急ぐべきではない。保留とするのが妥当だ」
俺も無言で頷き、文官に向き直る。
「結論はすぐには出せない。持ち帰り、村全体でしっかり検討させてもらう」
文官は目を細め、淡々と頭を下げた。
「承知いたしました。では追って返答を」
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公爵の使いが去ったあと、村長は主だったメンバーを集め、提案を伝えた。
反応は一様ではなかった。
古くからの村人たちは、俺たちに命を救われた恩義がある。保留の姿勢にも理解を示した。
だが、隣村から来た新しい住民たちは表情を曇らせていた。
収益の半分を研究費に回す取り決めに、すでに負担感を抱いている彼らにとって、公爵の庇護はむしろ歓迎すべき選択に映ったのだ。
しかし、一番強く反応したのはタリアだった。椅子を蹴り、声を荒らげた。
「ふざけてる! アイツに仕える気なんてこれっぽっちもない! 絶対に嫌だね!」
暖炉の火は赤々と燃えていた。
だがその炎の影は、村人と研究組のあいだに、見えない線を刻んでいた。
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