第36話「天才魔道具師タリア・ヴァン=デルク」
夏の光が傾きかけた夕刻。村の一角に、人の出入りが増えていた。
村長のハルマが案内してくれたのは、かつて大家族が暮らしていたという大きな空き家だった。
梁はまだしっかりしていて、広い土間と奥の部屋がある。少し埃を被ってはいたが、片づければすぐ使える。
「ここを、皆様の住居兼研究の場としてお使いください。」
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。これまでの小屋は手狭すぎた。村を救ったこともあり、村人たちからはいつも好待遇を受けていた。
エルンストとクラウスも、今後はこの家で共に暮らすことになった。村人たちに手伝ってもらい、机を運び入れ、羊皮紙と道具を積み、土間は一気に研究室らしい匂いに変わっていく。
ミラは少し口を尖らせた。
「私も一緒に住めたらいいのに……」
その言葉に、すかさずエルドが眉を吊り上げる。
「だめだ! 若い娘が男と一つ屋根の下など!」
村人たちの笑い声に、ミラは顔を赤くして引っ込んだ。
――――
俺とエルンストは新しくなった研究室の机の上に紙を広げ、今後の課題を話し合った。
「やはり――虚晶石の純度を高めることが第一です」
エルンストが指先で石の欠片を転がす。光の加減で淡く揺らめく結晶は、魔力を吸収しきれずにひび割れていた。
「このままでは持久性が足りません。実用化するには、加工と精製の技術が不可欠です」
「その技術者がいない。俺とミラだけじゃ限界だった」
「私も専門家ではないので、まったく同感です」
二人の声が重なり、思わず笑ってしまった。
そのとき、エルンストがふと真顔になり、こちらに向き直る。
「ソウマ殿。……いや、これからは堅苦しい呼び方はやめましょう。私のことは“エル”と呼んでください。私もソウマと呼びます。」
「エル?」
「はい。友として、対等に。幼少期、親しい間柄ではそのように呼ばれていました」
その眼差しは真剣だった。
俺は少し考え、そしてうなずいた。
「……わかった。じゃあ、エル」
柔らかな笑みが返る。
さらに彼は、隣に座っていたミラに視線を向けた。
「それから、ミラさん。あなたもソウマを“先生”と呼ぶ必要はないと思います。同じ研究のパートナーなのですから」
「えっ……」
ミラが目を丸くし、頬を赤らめた。
「そ、それは……」
「呼んでみてください」
エルが微笑む。
しばしの沈黙のあと、ミラは小さな声で言った。
「……ソウマ、さん」
俺は一瞬驚いたが、彼女が真剣に恥ずかしがっているのを見て、笑いをこらえた。
「……ああ、それでいい」
空気が和らぎ、紙の上に影が伸びる。
「さて――問題は、やはり技術者です」
エルが咳払いして本題に戻った。
「心当たりがあります。魔法学校時代の同級生で、私は首席でしたが、彼女が常に次席でした。名はタリア・ヴァン=デルク」
「タリア?」
「魔道具の腕は群を抜いています。本来なら研究所に残っていれば今ごろ主任級でしょう。しかし……彼女は“堅苦しいのは嫌だ”と言って、公爵家の開発部を辞めてしまった。帝都で、自由気ままに暮らしているはずです」
彼の声には呆れと尊敬が混じっていた。
「ただ……変人です。ですが腕は確か。そして、秘密を守れるだけの矜持もある」
俺は頷いた。
「――必要だな。その技術力が」
「面白いと思ったものには絶対首を突っ込みます。だからこちらから手紙を送れば、興味を引けます。すぐに来るかは……本人の気分次第でしょう」
「必ず来ると?」
「間違いなく。」
羽根ペンが羊皮紙を滑り、文字が淡く刻まれていく。エルンストの筆致は、流麗で無駄がない。
手紙には村の様子、新しい魔法陣を背景に描き、具体的には書かないが「ここにしかない挑戦がある」という一文が加えられた。
「これでいい。……夏が終わるまでには来るでしょう」
エルンストは封蝋を押し、クラウスに渡した。
「明日、帝都行きの商隊に託してください」
「はい、承知しました」
――
それからの日々は、研究に没頭する時間が続いた。
大きな課題は二つ。ひとつは発酵の促進。もうひとつは虚晶石の精錬理論。それ以外にも、村人たちの小さな要望もかなえていく。
「腐敗ではなく発酵を制御できれば、肥料の効率は格段に上がるはずだ」
「高純度化の過程では、不純物をどう“吐き出させる”かが鍵だな」
研究小屋の机には羊皮紙が積み重ねられ、墨の匂いが漂っていた。
昼間の労働を終えた後、俺とエルンストは紙に魔法陣の線を描き、次々と符号を書き加えていた。
「例えば――この“アイテムボックス”の陣式。帝都では容量を増やす工夫ばかりが議論されていますが、私はむしろ構造に注目したい。なぜ物が『まとまり』として保存されるのか」
エルンストが流麗に線を引く。円の中に三つの点。だが、俺は首を横に振った。
「違うな。保存されるのは“物体そのもの”じゃない。情報だ」
俺は新しい紙を取り、符号に数字を添える。
「空気も同じだ。ひとつの“まとまり”として保存されているが――ここに“窒素”と“酸素”というタグを付ければ、分けて取り出せる」
言い終えるや否や、俺は掌に魔力を流し、小さな魔法陣を描いた。
淡い光。指先の先で、空気が揺らぎ、青白い火が瞬いた。
「……酸素?」
エルンストが目を見開いた。
「窒素と酸素を切り分けただけだ」
俺は淡々と返した。
「収納時に“タグ付け”理論を応用すれば、空気でも物質でも分類できる」
「わ、私も……ちょっとだけならできます」
そう言って魔法陣を描くと、確かに酸素だけが取り出され、小さな火がぱちりと灯った。
「……!」
エルンストは目を見張り、次の瞬間、身を乗り出した。
「ソウ!ミラさん! これは……これは帝都の学会でも誰も成し遂げていない! どうか、私にも教えてくれ!」
「落ち着け。タグ付けは単純な発想だ。難しい理屈はいらない。要は“まとまり”を定義し直すだけだ」
俺は符号の組み替えを示し、エルンストはすぐに模倣した。
数分後、彼の掌に青い炎が灯る。
「……できた!」
歓声と同時に、彼の目が子供のように輝いた。
「だが、問題は別にある」
俺は視線を黒い石――禍石の欠片に移した。
「この石の“まとまり”をどう定義するかだ。禍石の中には虚晶石が含まれている。もし成分をタグ付けできれば、理論的には純粋な虚晶石だけを取り出すことも可能になる」
「俺は魔力不足で石はアイデアボックスに入れられない。エル、一度試してもらえるか?」
「分かった。やってみよう… 。やはり無理か。」
エルンストは息を呑み、すぐにアイデアの種となる魔法陣を書き始めながら問題を探す。
「理屈は通る……が、禍石の内部構造は複雑すぎる。そもそも何の物質かもよく分かっていない。情報の重なりをどう解きほぐすか」
「魔法に頼りすぎるのもいけない。例えば、砕く、溶かす、などの仮定を一度踏むのもありか?」
エルンストが矢継ぎ早に呟く。
俺も魔法陣を書き足す。
「確かにそうだな。何も一発でやる必要はないし、何度かに手順を分けるのもありだ。純度も100%である必要もない。」
「もし成功すれば――」
「……禍石を“燃料”として扱える第一歩だ。」
俺とエルンストの言葉が重なった。
紙の上で線が増え、魔法陣が並ぶ。
炎の匂いも薬の匂いもない。ただ、思考だけが研ぎ澄まされ、静かな夜が小屋を満たしていった。
――そして、月日はまたたく間に流れ、暑い夏の日が続くある夕暮れ。
「ぽん」
泡の弾けるような、不思議な音が広場に響いた。
村人たちが一斉に顔を上げる。赤く傾いた陽に照らされ、見慣れぬ女が立っていた。
燃えるように赤い髪は爆発したように跳ね、首にはごついゴーグル。腰には工具と革袋が鈴なりにぶら下がっている。
彼女が取り出したのは、細工の凝った笛のようなものだった。
「ほら、こうやって吹くんだよ!」
息を吹き込むと、無数のシャボン玉が飛び出す。
泡は夕日を浴びて虹色に輝き、触れると小さな音を奏でた。
子どもたちは歓声を上げて追いかけ、大人たちは呆然と立ち尽くす。やがて苦笑が混じったざわめきが広がった。
「……なんだあの人」
「遊んでるのか?」
「変わり者か」
だが俺は目を細めた。――違う。
泡の一つひとつは、大気の魔力を精密に振動させていた。
即興で組んだとは思えぬ緻密な術式。これは遊びじゃない。
「……本物だ」
思わず口にした俺の言葉に、隣のミラが振り返った。
「え?」
「いや、あの人……相当な腕だ」
女はシャボン玉の群れを背に、こちらに歩み寄ってきて、にやりと笑う。
「手紙を見たら面白そうでさ、待ちきれなくて来ちゃった。……タリア・ヴァン=デルク、参上!」
自由奔放な声が、夏の夕暮れの村に響いた。




