第32話「迫る翅音」
村にエルンストとクラウスが残ってから、一週間が過ぎた。
少しずつ隣村からも人が入ってきている。
朝の広場には、相変わらず鍬の音と水の泡立つ音が響いていたが、空気は以前と少し違っていた。
エルンストは畑の畝を歩く。白い手袋を外し、指先で土を撫で、芽吹きを確かめる。
貴族らしい優雅さは隠せないのに、誰に対しても声は柔らかい。村の子どもが近寄れば、しゃがんで目線を合わせて話を聞く。
クラウスは逆に額に汗を滲ませ、村人と肩を並べて荷車を押していた。
「クラウスさん、もういいですよ」
「いえ、自分も村の一人ですから」
そう言って鍬を振るう姿に、最初は戸惑っていた農夫も今では笑って肩を叩く。
――一週間で、この二人は村に溶け込んでいた。
穏やかな新しい日々が続くと誰もが思った。
だが、その日。
空の色が変わった。
「……なんだ、あれは?」
最初に気付いたのは、見張りの若者だった。鍬を握りしめ、遠くの空を睨む。
黒い雲。だが雲にしては速すぎる。翅のざわめきが、まだ距離があるのに地面に響いてきた。
翅の音が、遠くで震えていた。
地平線の彼方、陽を背にして黒い影が群れて揺れる。まだ豆粒ほどの大きさだが、数は確実に多い。ひとつ、ふたつ、十、二十――あっという間に数え切れなくなる。
「マナローカスト……!」
エルドが呻いた。村人の顔から血の気が引く。
ざわめきが一気に広がった。泣き声、足音、誰かの「もうだめだ」という叫び。
その渦を裂くように、ミラが前に出た。
「子どもたちは家に! 戸を閉めて絶対に出ないで!」
「戦える人は畑へ! 鍬でも棒でもいい、手に取って!」
声は澄んでいて、震えはない。
怯えて足を止めていた村人が、はっと顔を上げた。泣いていた子どもが抱きかかえられ、親が走り出す。若者たちが倉に駆け込み、農具を引っ張り出す。混乱は秩序に変わりつつあった。
俺はその光景を横目に、胸の奥で小さく息をついた。
――ありがとう、ミラ。これで集中できる。
エルンストが俺の隣に立ち、遠くの群れを測るように眺めた。
「数は……農地の規模からしても三百前後といったところでしょう」
「三百……?」
俺は思わず聞き返す。
現代知識に照らせば、“蝗害”といえば数千万、数億の単位だ。それに比べれば確かに少ない。
だが一匹一匹の大きさは常識外れだ。村の柵を越え、畑を食い荒らすには十分すぎる。
エルドは不気味に揺れる黒い雲の最前線に立ち、村人を奮い立たせる。
「畑を守るぞ!狩人組は前に来い!お互い離れすぎないように一匹ずつ複数人でかかれ!」
エルドの声に落ち着いた村人を見て、ミラは俺のほうに駆け寄ってくる。
「先生どうしよう!このままじゃ!」
一瞬考え、即断する。
「ミラ、あれを研究小屋から。”石”も全部だ!クラウス、一緒に取りに行ってくれ!!」
「でも先生、あれは……。わかりました!すぐ持って来ます!」
俺はエルンストに向き直る。
「……ある試作品がある」
早口で説明する。
「後ろのタンクに除虫菊という植物から抽出した殺虫剤が入っている。
ノズルには高純度の禍石を嵌めてある。魔力を吸わせて魔法陣を組み、液を霧状に散布する仕組みだ。――だが、まだ未完成で出力が出てない!」
エルンストが驚いた目をした。
「禍石?吸収?そんな応用が……?」
いくつもの問いかけが喉まで出かかったが、すぐに飲み込む。
「いや、詳しい理屈は後で聞く。今は時間が惜しい」
説明が終わる頃には、ミラが試作の魔道具を持ってきた。
エルンストはノズルを手に取り、符号をなぞり直す。
「霧にしようとするから拡散してしまうんだ。飛距離は要らない、的を絞るんだ」
彼は振り返り、声を張る。
「クラウス!」
「はい!」
「どれくらい届けば使える?」
「一メートルあれば十分です!」
「よし。なら流れを収束させて押し出す。……これで当てられる!」
俺は眉をひそめる。
「ただ……想定よりも個体がかなり大きい。効果が薄いかもしれない」
エルンストが顎に手を当て、目を細めた。
「ならば、魔法陣に一工夫を。液そのものに干渉して、効力を増幅する仕組みを組み込みましょう」
彼の指先が虚晶石を撫でる。
「単純な圧縮の陣式に、“効果を高める符”を重ねる。薬効を一時的に尖らせることができます」
「そんなことが……!」
ミラが振り返る。だがその目には迷いはなかった。
「ソウマ殿、この石の耐久性は?」
「脆い。だが壊れても構わない!替えはいくつか用意できる」
俺は頷いた。エルンストと視線が交わる。
「よし作戦を伝えるぞ!」
—---
翅音が、もうはっきりと聞こえてきた。
低い唸り。土を這うように、胸の奥に震えを残す。
村人たちが一斉に空を仰ぐ。
遠くの黒い雲が、形を持ち始めていた。翅が反射する光がちらつき、無数の点がばらけ、また重なり合う。
「来るぞ……!」誰かが声を震わせた。
喉を鳴らす音。子どもが泣き出す寸前の息。
鍬を握る手に白く力がこもり、老人の杖が土を叩いた。
誰もが呼吸を浅くしながら、迫る翅音に耳を塞ぎたい衝動を必死に堪えていた。
――間に合うか。
ノズルを構えながら、俺は胸の奥で呟いた。
本日22時にもう一話公開します。
第33話「毒を噴く刃」です!




