第31話「新たな空を得るために」
午後は、測ることに費やされた。
杭を打ち、糸を張り、水盛り管の泡を覗き、若芽の高さを刻々と記録していく。俺が数値を読み上げ、ミラが素早く書き込み、エルンストが補助線を引いて流れの癖を見極める。
指先に土のぬめり、耳に水路のかすかな泡立ち、背中にはまだ霧の余韻がひんやり残っていた。
視察団の多くは、飽き始めていた。
泥に慣れない靴を気にして足踏みし、数値の羅列に退屈し、やがて日陰で欠伸を噛み殺す。
マルクは最後まで芝居がかった相槌を打っていたが、それも夕方になれば面倒になったらしい。
「……もう十分だろう。報告には困らん」
「そんなことよりも……肝心のところを聞かせてもらおうか」
広場に緊張が走る。
村人の背筋が一斉に固まった。
「原料は何だ? どうやって作っている? 黒いミスリルとやらの製法を、帝都に報告せねばならん。いや――国家のために、だな」
言葉の端に、わずかな嘲りが混じっていた。
研究員たちも口々に囁き合う。
「こんな田舎で秘密を抱えるな」
「帝都に渡せばもっと有効に使える」
「そもそも異郷人が口を出すなど滑稽だ」
ミラの手が震えた。村人たちは互いに目を見合わせるが、誰も声を出せない。
俺は一歩前に出て、静かに告げた。
「答えるつもりはない。ここで生まれた成果は、この村のものだ」
空気が一層張り詰める。マルクの目が細くなった。
「ほう……異郷人が拒むか」
次の瞬間、列の中からエルンストの声が響いた。
淡々としているが、強い調子を帯びていた。
「やめましょう。研究の成果とは、その人にとっての宝です。大変な苦労で生み出されたものでも、偶然の着想でも、同じです。
それを横から奪えば……研究は腐るだけだ」
他の研究員たちも黙り込む。
その公平な響きに、言葉を挟む隙がなかった。
――
村の広場に戻る頃には、鍋は二度目の湯気を上げていた。
香草の影に夕餉の匂いが混じり、子どもたちは門の内側で静かに遊び、女たちは笑顔を抑えながら木碗を重ねていく。
口止めの約束は守られている。ざわめきはあるが、どこか控えめな、来客を正面から受け止めるための張り詰めた空気が残っていた。
村長ハルマが一歩進み、杖を置いた。
「遠路の労に報いたい。粗末なものだが、腹を満たしてくれ」
その声音は低く、揺れがない。マルクは表情を変えずに頷き、取り巻きに合図を出した。碗が配られ、短い静寂が落ちる。匙が触れ合う音だけが連なった。
食後、馬車の周りで荷の整理が始まる。帰路に備え、帳簿を挟み、封蝋を増やし、箱の蓋を縄で締める音が立て続けに響いた。
空は薄紫に沈み、鳥が一本遅れて枝を変える。
そのざわめきの中心で、エルンストがふと足を止めた。視線は馬車ではなく、村の奥――夕暮れに溶けかけた畑の方を見ている。
「帰り支度をするぞ」
マルクが振り返りもせずに言った。
「何も得るものが無ければこんな田舎に用はない。報告もさっさと済ませるぞ。”拒否されました”とな」
「主任」
エルンストの声は穏やかだった。だが緩まない。
「私は、残ります」
縄を締めていた若者の手が止まり、乾いた音が遅れて落ちる。
マルクが、ゆっくりとこちらを向いた。
「何と?」
「この場で見た現象は、一日の記録だけでは足りません。季節をまたいで追う価値がある。滞在延期の申請は、私が個人で出します」
淡々としているが、強い決意が感じられた。
取り巻きがざわめく。誰かが小声で
「そんな勝手を」と吐いた。
マルクは顎を撫で、笑みの形だけを唇に残した。
「君は“研究所の看板”を背負っているつもりはないのかね?」
「看板を汚さぬために、ここで確認しておきたいのです」
エルンストは一歩も引かない。
「この黒いミスリルは、偶然の産物ではない。工程も管理も理に適っている。帝都にとって価値があるのは、製法そのものだけではない。私はそれを持ち帰りたい」
一瞬、空気が動いた。
村人の群れの後ろで、ミラが小さく息を呑む。
俺は彼女の横に立ち、ただ見ていた。――この場で口を挟むべきではない。言葉は、今は彼のものだ。
マルクが肩をすくめる。
「帝都の手続きは面倒だ。期日も責任も発生する。……君の付き人は?」
「もちろん、一緒に」
エルンストが視線を送ると、近くで箱を支えていたクラウスが慌てて姿勢を正した。
「は、はい。自分は――」
言い切る前に、マルクが手をひらひらと振る。
「よろしい。ならば君らの責任でやるがいい。――報告書の体裁だけは崩しませぬよう。それが看板というもの」
にべもない承認。だが、拒絶ではない。
取り巻きはなお不満げだったが、主任の言葉が出れば逆らえない。縄の音が戻り、馬車の戸がまた閉まる。車輪の脇で、埃が乾いた匂いを立てた。
「村としては、どう受けましょう?」
ハルマが俺を見る。視線だけで、責任の所在を分け合う。
「歓迎しましょう。観察の手が増えるなら、やれることは増えます」
俺は素直に言った。
「ただし条件が。畑の管理は村が主導し、記録は共有、決定も共有。製法に関わる情報は、ここで合意し認めた範囲から決して漏らさない」
エルンストは頷く。
「当然です。――村の繁栄を損ねるつもりは、ありません」
言葉の選び方が慎重で、同時に誠実だった。ミラがほっと息を漏らし、エルドが胸を張る。
クラウスは一拍遅れて
「よろしくお願いします」
と頭を下げた。
送別の準備は早い。
日が落ちきる前に、視察団の半分が馬車に乗り込み、残る半分が手綱を返す。
「覚えておけ、田舎者」
誰かが吐き捨て、誰かが笑い、誰かが黙っていた。
車輪が回り出すと、広場の土が少しだけ沈み、やがて音は遠のいた。星の最初のひとつが東の上に点る。
その後まもなく、村長のハルマは広場で一同を集め、隣村との合併が正式に決まったことを告げた。
相談を持ちかけた話し合いは、思いのほか早く結実した。
――悪くはない。賑やかな村は心強い。だが、人数が増えるほど秘密を守るのは難しくなる。
横でミラが嬉しそうに笑った。
「……みんなで暮らせば、きっと楽しいよ」
俺たちを取り巻く環境も、少しずつ変わり始めていた。
静けさが来る。
「改めてお世話になります」
エルンストが丁寧に頭を下げた。
ミラが客間へ案内し、俺はその後ろを歩いた。村の灯は少ない。夜目に慣れるまで、足元の石の影が濃く見える。木戸の手前で、ふと振り返ると、エルンストが夜空を見上げていた。
風は冷たく、遠くの森を抜けて乾いた匂いを運んでくる。
見上げた空には、帝都では見えないほどの数多の星が瞬いていた。
川面に映る光は、まるで世界そのものが息をしているようだった。
「……星が、濃いですね」
エルンストが呟く。声は低いが、どこか弾んでいた。
「濃い?」
「ええ。帝都では、あの輝きの半分も見えません。煙と熱気ばかりで、夜空さえ曇って見える。
……でも、ここでは違う。呼吸をするたびに頭が澄む気がします。
ああ、ようやく――研究のために生きてると思える場所に来られた気がする」
ソウマは静かに頷いた。
その横顔は、星明かりの下でようやく年相応の青年に見えた。
「空が違えば、見える星も変わる。
――きっと、見る場所を変えただけなんだろうな」
エルンストは目を細め、少しだけ笑った。
「ええ。ですが、その“場所を変える”のが、どれほど難しいことか。 私は、やっと一歩だけ踏み出せた気がします」
夜風がふたりの間を抜け、星がまたひとつ流れた。
残る者――。
その選択が、何をもたらすのかは、まだ誰にも分からない。
だが、今日の夕暮れに確かだったことがひとつある。観察し、測り、語り合う相手が、ここに増えた。
それだけで、世界はすでに少し、違って見える。
夜風が入って、灯が細く揺れた。
遠くで犬が一度吠え、すぐ黙る。
明日の朝の準備を終える頃、東の端に、もう一つ星が増えていた。




