第30話「邂逅」
取り巻きは不満そうに顔をしかめ、マルクは咳払いで場を仕切り直そうとした。
だが、すでに村人たちも違和感に気づいていた。
帝都から来た者の中で、この青年だけが異質。冷たさではなく、ただ真っ直ぐに見ている。
そして、剣を背負っていた礼儀正しい青年は、どうやらこのエルンストという人物の付き人のようだ。
常にエルンストの後ろに控えている。ただ仕事でそこにいるというよりも、敬意がそこにはあった。
「……行くぞ。時間を無駄にするな」
マルクの声で、再び一行は動き出した。
村人たちは押し黙ったまま道を開ける。
しかしその中に、ごくわずかに安堵と尊敬の色が混じっていた。
俺は一歩後ろからその背中を見送る。
――違うな。
エルンストという人物だけは、俺の知っている研究者に近い。
観察し、疑問を抱き、確かめることを恐れない。知りたいという願望がある目つきだ。
胸の奥で、言葉にならないざわめきが広がっていた。
昼は容赦がない。
陽は真上。畝の土は白く乾き、靴底に熱がこもる。汗がこめかみを伝い、目尻に塩が残る。風はある。だが乾いていた。
「……暑くてかなわん!」
マルクが裾をばさばさ振って怒鳴った。
「この田舎は日陰ひとつ無いのか。仕事の段取りが悪い。水でも撒いておけ!」
村人たちの肩が固くなる。誰も口を開かない。
怒気は熱より人を萎縮させる。鍬の音が止まり、空気がきしんだ。
そのとき、金髪の青年が一歩進んだ。
エルンストだ。
「少し、失礼します」
静かな声。掌を上に向け、短く息を整える。靴先で地面を軽く払う。薄い粉塵が舞い、光の粒になって揺れた。
足元に淡い線が走る。
円。その縁に点。点は六つ。
線が合流し、ほどけ、交わる。
微細な揺れ。流れが組み変わる。
美しい魔法陣に思わず見惚れる。
無駄がなく洗練されている。リーナのアイテムボックスも無駄のない合理性を感じたが、この人の魔法陣は繊細さが際立っている。
数瞬の後、空気が冷えた。
畑の上に白い薄霧が立ちのぼる。霧はすぐに広がり、陽光を柔らげた。頬に触れるのは湿った風。喉の奥の乾きをひとすじ撫でていく。
村人の背から力が抜け、溜息があちこちで零れた。
誰かが呟く。ミラが目を丸くした。エルドがおお!と声を落とす。
「さすがは天才と謳われるエルンスト様だ」
マルクがすぐに調子を変えた。薄笑いを厚く塗る。
「帝都でも難しい術式ですぞ。これはオリジナル魔法ですかな?」
エルンストは首を軽く横に振った。
「暑さは集中力を削ぎます。現場の都合に合わせただけです。古い術式の簡略です」
俺は黙っていた。
脳に焼き付ける。
円の大きさ。点の位置。線の順。起点と終点。
合図に合わせて立ち上がる霧。流れの揺れ。抑え方。
溜めと放ちの間に入った微かな歪み。
覚える。ほどく。組み替える。頭の内で反芻する。
熱は和らいだ。視察団の顔色も良くなる。
マルクは機嫌を直し、今度は日陰を指さした。
「昼にする。休憩だ。田舎の食い物でも持ってこい」
広場に戻る。木陰を作った布の下に長い卓。
ミラが鍋を運び、湯気に肉の匂いが混ざる。香草の青さが立つ。
焼いた麦餅の香ばしさ。
村の女たちが木碗を配り、子どもが走り出すが止められた。どうやら村人たちもしっかり約束事を守ってくれているようで安心する。
「どうぞ」
ミラが笑って碗を置く。
マルクが匙を取り、鼻を鳴らして口に運ぶ。
「……ほう」
彼の眉がわずかに上がる。
「田舎の割には、なかなかだな」
取り巻きが真似をして頷いた。
「塩加減は悪くない」「肉も柔らかい」
ミラはほっと息をつく。
俺は碗を持ち、口に運ぶ。舌に塩が広がり、芋の甘さが追い、柔らかな肉がほどけた。体の内側に火がつく。
賑わいの端。布の影が揺れ、碗を手にエルンストがやってきた。付き人の青年が半歩後ろにつく。
「ここ、失礼してもいいですか」
「どうぞ」
ミラが席を詰める。付き人が礼をして離れた。二人の間に薄い風が通る。
「ひとつ、質問しても?」
エルンストが俺を見る。
まっすぐに。穏やかな声。
「異郷人のソウマ殿は、どうやって魔法を使えるように?」
匙が止まった。
一瞬、心臓が強く打つ。表情は動かさない。
隣でミラがわずかに息をのんだ。視線が泳ぐ。その様子をエルンストは逃さなかった。
俺は碗を置き、エルンストを見る。
「なぜ、俺が魔法を使えると?」
エルンストの口元がわずかに緩む。
「先ほど、私が術を使った時。あなたは魔法陣を見ていました。いや、見るというよりも、観察でしょうか。流れの立ち上がりに目を置き、崩れを探し、手順を心に写していましたね。
あれは、興味の域を超えている。もう実用の入口に立った人間が、活かし方を探す時の目だ。
ただ、確信は無かった。だから、こうして言葉にして確かめた。……無礼をお許しください」
言い切り方がきれいだった。
俺は小さく笑う。
「別に隠すつもりはありません。問題ありません。
――エルンスト様は、魔法陣にお詳しいのですね」
「専門です」
即答だった。
「それと、さきほどの畑。傾斜の取り方も良かった。流れは土と同じで、均せば安定する」
ミラが俺とエルンストの顔を見比べる。
胸の前で手を組み、小さく姿勢を正す。
「えっと……私には難しい話は分からないけど、二人とも楽しそうだね」
「楽しいですよ」
エルンストが短く笑う。
「現場で考えたものに、理が宿る瞬間は、いつ見ても良い」
匙がまた動き出す。卓のあちこちから笑い声。
涼しい霧がまだ薄く残っていて、布の影をひんやり撫でる。風鈴の小さな音が揺れ、鍋の底で泡がはぜた。
「もうひとつだけ」
エルンストが声を落とす。
「あなたは、魔法を嫌っていない。むしろ、好きだ。だが、この世界のやり方には、合わないところがある。……違いますか」
俺は目を細める。
「合わない、とは?」
「手順を暗記し、威力や発動の速さで優劣を語るやり方です。あなたが見ていたのは結果ではない。立ち上がり流れ、その奥にある理論そのものだ。
そこに目を置く人は少ない。だから、あなたの目は目立つ」
言葉が体内に沈む。
的確だ。
それは俺の癖であり、救いでもある。
「見えるものを、そのままに見たいだけです」
短く答える。
「起きている現象を観察して、測って、筋を通す。そこに意味があるなら、使う。
逆に、そこに意味が無いなら、誰がなんと言おうといらない」
エルンストの目がわずかに明るくなった。
「同じです。私は、道具としての魔法陣に興味がある。形ではなく、理に」
「その割には、あなたの魔法陣は美しい。無駄もまた楽しむ、そんな魔法に見えます。」
マルクが遠くで笑った。
「帝都の話をしてやろう。おい、酒はないのか」
取り巻きの笑い声が重なる。
俺とエルンストは卓の端で黙った。
しばらく、湯気の音だけが続いた。
「先ほどの霧」
俺が口を開く。
「円は小さかった。点は六。位置は均等ではない。流れは一度だけ逆相に振っている。
あれは、素材の温度を一斉に下げるための工夫ですか?群れている粒の揺れを、先に合わせて、あとで離した?」
エルンストの目が少し見開いた。
彼は碗を置き、姿勢を正す。
「……そこまで見えましたか」
「見えたものを、言葉にしただけです」
「もう一度、同じ質問を。ソウマ殿はどうやって魔法を?」
「簡単に言うと、この世界の人達は魔法をイメージしてそれが魔法陣となり、魔法が発動する。俺は最初の段階を逆にした。魔法陣を理解し、魔法をそこからイメージした。ただ、魔力はほとんどないので、大した事にはできませんよ。」
短い沈黙。
次の瞬間、彼は小さく息をついて笑った。
「やはり、ここに来たのは正しかった」
声に熱が混じる。
「もう少し話がしたい。午後は測定を見せてください。あなたの基準と、私の術式を重ねてみたい」
ミラが嬉しそうに頷いた。
「昼が終わったら畑に戻るから、測るものは全部出しておくね。糸も、水盛り管も、杭も」
「助かる」
俺は碗を持ち直す。
「午後は風が変わる。あの水路は途中で泡立つ。そこで一度、流れが鈍る。
そこに目印を置こう。霧がまた要るなら、頼んでもいいですか?」
「喜んで」
エルンストが短く答えた。
目の奥の火は、もう抑えが利かない。
付き人の青年が少し離れたところで他の研究員に頭を下げていた。こちらを見て、安心したように微笑む。
昼が終わる。
碗が重ねられ、卓が拭かれ、鍋の蓋が閉まる。
熱は少し和らいだ。霧は薄くなり、陽は布の隙間から斑に落ちる。
「少し失礼を」
エルンストは皆と距離を置いていた。付き人は横に控えている。
足元の土は柔らかく、指先にはまだ塩の感触が残る。
風が変わる。
午後の畑に、細い影が伸びた。
――この男とは、話ができる。
そう思った。こちらからは何も言うまいと決めていたのに、思わず話してしまった。
—----
昼休みが終わり人が散ったあと。エルンストは一人、壁に背を預け、口元を押さえた。
――クソッ……頭が回りすぎて止まらない……!
たった十五分だぞ? この短い間に、これまでの人生で積み上げた思考が何倍も深まった。
もっと話したい。まだ全然足りん!
アイデアが……アイデアが溢れてくる……!
まさか……対等に、真正面から魔法を語れる相手が現れるなんて……。
「どうしたんです? 随分楽しそうですね」
傍らからクラウスの声。
「……ああ、クラウス」
息を整え、いつもの貴族らしい口調に戻す。
「こういう言い方は論理的ではないが……ここに来たのは運命だったようだ。そう考えた方が逆に辻褄が合う。……生まれて初めて、神に感謝したよ」
クラウスは目を丸くし、それから安堵の笑みを浮かべた。
――この方が、こんな表情を……。
主が楽しそうで何よりだ、と心の底から思った。
—--
午後の見学が始まる。
エルンストとの話の中で、俺は溢れ出る思考を止める事ができなかった。分からなかった疑問、突破したかった壁が壊れていく快感に支配されていた。
そして同時に、胸の底で小さな予感が芽を出した。
ここから先、俺の世界は、もう元には戻らない。




