第28話「春は駆け出す」
本日から第三章です!
春の光が差し込む小屋は、湯気で柔らかかった。
ことことと、鍋が小さく息をする。
刻んだ香草の青い匂いが、火の匂いと混じって鼻に残る。木の卓に置いた手のひらに、陽だまりのぬくもりが染みてきた。
外からは鳥のさえずりと、溶けた雪を集めて流れる川のせせらぎが届く。村はまるごと、春の音に包まれていた。
ミラは髪を結い上げ、袖を高くまくっていた。木杓子で鍋をゆっくり回す。表面の泡がはじけるたび、具の影がきらりと見える。
塩壺の蓋を開けるか迷って、俺の顔を見る。
「もう少しだけ……か」
「うん。味見してみるね」
木の匙が鍋肌を擦る音。ふう、と短く吹いて口に運ぶ。ほっとする顔。
「いい感じ、だと思う」
こうしてミラと食事を作るのも日常になったな、とふと思っていると、戸口が急に明るくなった。
「ただいま〜!」
勢いよく開いたドアから、犬耳がぴょこっと跳ねて、コハルが飛び込んできた。外の風の匂いが一緒に入る。土と草と汗。耳の先に道の埃がついている。
「あれ、コハルちゃん。帰ってきたんですね」
俺が立ち上がるより早く、彼女はにこっと笑った。
「ん? ソウマとミラはもう番いになったのか?」
「な、な、何を言ってるの! コハルちゃん!」
ミラの頬が一気に赤くなる。木杓子を取り落としそうになって、両手で慌てて受け止めた。
「だってさ、この匂い。家の匂い。そういう匂いする」
「し、しません!」
「する」
「しません!」
俺は小さくため息をついた。
「……リーナからの手紙は?」
「これだよ。ちゃんと預かった。」
コハルが腰の鞄から封書を抜き出す。表の俺の名は、豪快な筆圧で少し滲んでいる。文字に目を走らせると、思い描いていた調子そのままの豪快さがそこにあった。
内容は勢いそのものだった。
――黒いミスリル、伯爵領で大評判。
――名前はこのままで押し切る。覚えやすくていい。
――予定通り増産、可能な限り早いほうがいい。
――それから。帝立魔法研究所の視察団がそっちへ向かう。商人に金を掴まされたヤツがいる可能性が高い。ソウマなら大丈夫だとは思うが気を付けて。
俺は読み返し、短く息を吐いた。
「……思ったより早かったな」
ミラが不安そうに覗き込む。
「視察団……来るの?」
「来る。帝都でも騒ぎになってるようだ。リーナの言い回しだと、かなりのものだな」
「黒いミスリル、そんなに評判なんだ」
コハルが胸を張る。
「評判だよ。伯爵領だけじゃなくて、帝都の市でも聞いた。『黒い肥料、黒いミスリル』が凄いらしい 。味が格段に良くて、これはすぐ広まるぞ」って。
耳が得意げに揺れた。
外から、畑の方の掛け声が届く。
荷車の軋む音。空になった袋が風で鳴る音。
ここ数日、その音は夜まで消えない。黒いミスリルは、笑顔と同時に、豊かさと活気を運んでくる。
手紙の下段に、リーナの追伸。
――人手が足りないなら、隣村と話してみてはどうだろう?私は向こうにも貸しがあるし、もともと協力体制のある村だ。うまくやれるはずだ。
――ソウマ。倒れるなよ。ミラをよろしく。
「増産か……」
口の中で転がす。必要な事と問題点を手早く頭の中で組み上げていく。
測るべきことが増えた。発酵温度、水分、運搬経路の効率。系統を組み替える必要がある。
「まずは村長に相談だな。やるなら、仕組みをもう一段上げる。発酵の管理を詰める。運搬の経路も引き直す。水も……」
言いながら、窓の外を見た。
芽吹きの緑が、風で細かく震えていた。
ミラが鍋を火から下ろした。
「ごはんにしよっ。考えるのは食べてから」
木碗を三つ並べる。湯気が立ち、香草の香りが一段濃くなった。
コハルが鼻をひくつかせる。
「うん。番いの味」
「ち、違います!」
「違うの?」
「違います!」
俺は笑いそうになる口元を指で押さえた。
「コハル。手紙の内容以外で、他に聞いたことは?」
「帝都の噂はいろいろね。帝都の人たちは気が強くて、プライドも高い。けど、リーナは平気な顔してた。『売れる物は正義』って言ってた」
リーナらしい答えだった。あの人の、歯切れのいい笑い方が目に浮かぶ。
「視察団は、いつ頃?」
「二、三日で着くと思う。ずいぶん早足だったよ」
二、三日か。
思ったより、早いな。
匙を置き、代わりにペンを取った。頭の中に書き上げた今後の予定を書き上げ、封をする。
「リーナに渡してくれ」
帝都がこちらを向く。その重みは、想像よりも大きいのだろう。しかし、想定はしていた事だ。
農業がネックのこの帝国において”黒いミスリル”の影響は計り知れない。
それは、新しい舞台への合図でもある。
観察して、測って、積み上げる。俺にできるのは、それだけだ。
「先生」
ミラが碗を差し出す。
「食べよ。冷めちゃうよ。」
「……ああ、すまない。いただこうか」
舌に塩気。芋の甘さ。柔らかな肉の旨み。
体の隅々に火が灯る。
窓の外で、子どもの笑い声が上がった。誰かがつられて笑う。鳥の声も重なった。
春だ。生き物たちが、みんな前を向いている。
食べ終えて、卓を拭いた。
「村長のところへ行ってくる。エルドにも来てほしいから、呼んで来てくれるか。仕込みを少し変える。明日から、交代制を厳密にしたい」
「うん。お兄ちゃんに伝えてくるね」
ミラの頷きは早い。瞳は真っ直ぐだ。
コハルが腰を伸ばした。
「わたしは隣村を見てくるよ。ここほどじゃないけど、向こうも活気づいてるはずだし」
「助かる。気をつけてな」
「任せて。……あ、ミラのご飯はやっぱ最高♪また食べに来る」
「来てください。でも、番いじゃありません」
「ふふん」
扉が開いて、風が入る。
春の光がもう一度、床を撫でた。
俺は手紙を折りたたみ、胸の内側に差し込んだ。紙の角が、心臓の鼓動に合わせて小さく当たる。
「……思ったより早かったな」
独り言は、湯気に混じって消えた。




