表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
虚晶の賢者――異世界魔法を科学する  作者: kujo_saku
第三章【知の灯】
30/52

第28話「春は駆け出す」

本日から第三章です!



春の光が差し込む小屋は、湯気で柔らかかった。


ことことと、鍋が小さく息をする。


刻んだ香草の青い匂いが、火の匂いと混じって鼻に残る。木の卓に置いた手のひらに、陽だまりのぬくもりが染みてきた。


外からは鳥のさえずりと、溶けた雪を集めて流れる川のせせらぎが届く。村はまるごと、春の音に包まれていた。


ミラは髪を結い上げ、袖を高くまくっていた。木杓子で鍋をゆっくり回す。表面の泡がはじけるたび、具の影がきらりと見える。


塩壺の蓋を開けるか迷って、俺の顔を見る。


「もう少しだけ……か」

「うん。味見してみるね」


木の匙が鍋肌を擦る音。ふう、と短く吹いて口に運ぶ。ほっとする顔。


「いい感じ、だと思う」

こうしてミラと食事を作るのも日常になったな、とふと思っていると、戸口が急に明るくなった。


「ただいま〜!」


勢いよく開いたドアから、犬耳がぴょこっと跳ねて、コハルが飛び込んできた。外の風の匂いが一緒に入る。土と草と汗。耳の先に道の埃がついている。


「あれ、コハルちゃん。帰ってきたんですね」


俺が立ち上がるより早く、彼女はにこっと笑った。


「ん? ソウマとミラはもう番いになったのか?」

「な、な、何を言ってるの! コハルちゃん!」


ミラの頬が一気に赤くなる。木杓子を取り落としそうになって、両手で慌てて受け止めた。


「だってさ、この匂い。家の匂い。そういう匂いする」


「し、しません!」

「する」

「しません!」


俺は小さくため息をついた。


「……リーナからの手紙は?」

「これだよ。ちゃんと預かった。」


コハルが腰の鞄から封書を抜き出す。表の俺の名は、豪快な筆圧で少し滲んでいる。文字に目を走らせると、思い描いていた調子そのままの豪快さがそこにあった。


内容は勢いそのものだった。


――黒いミスリル、伯爵領で大評判。

――名前はこのままで押し切る。覚えやすくていい。

――予定通り増産、可能な限り早いほうがいい。

――それから。帝立魔法研究所の視察団がそっちへ向かう。商人に金を掴まされたヤツがいる可能性が高い。ソウマなら大丈夫だとは思うが気を付けて。



俺は読み返し、短く息を吐いた。

「……思ったより早かったな」


ミラが不安そうに覗き込む。


「視察団……来るの?」


「来る。帝都でも騒ぎになってるようだ。リーナの言い回しだと、かなりのものだな」


「黒いミスリル、そんなに評判なんだ」


コハルが胸を張る。


「評判だよ。伯爵領だけじゃなくて、帝都の市でも聞いた。『黒い肥料、黒いミスリル』が凄いらしい 。味が格段に良くて、これはすぐ広まるぞ」って。

耳が得意げに揺れた。


外から、畑の方の掛け声が届く。


荷車の軋む音。空になった袋が風で鳴る音。

ここ数日、その音は夜まで消えない。黒いミスリルは、笑顔と同時に、豊かさと活気を運んでくる。


手紙の下段に、リーナの追伸。


――人手が足りないなら、隣村と話してみてはどうだろう?私は向こうにも貸しがあるし、もともと協力体制のある村だ。うまくやれるはずだ。

――ソウマ。倒れるなよ。ミラをよろしく。


「増産か……」


口の中で転がす。必要な事と問題点を手早く頭の中で組み上げていく。


測るべきことが増えた。発酵温度、水分、運搬経路の効率。系統を組み替える必要がある。


「まずは村長に相談だな。やるなら、仕組みをもう一段上げる。発酵の管理を詰める。運搬の経路も引き直す。水も……」


言いながら、窓の外を見た。

芽吹きの緑が、風で細かく震えていた。


ミラが鍋を火から下ろした。


「ごはんにしよっ。考えるのは食べてから」


木碗を三つ並べる。湯気が立ち、香草の香りが一段濃くなった。


コハルが鼻をひくつかせる。


「うん。番いの味」

「ち、違います!」

「違うの?」

「違います!」


俺は笑いそうになる口元を指で押さえた。


「コハル。手紙の内容以外で、他に聞いたことは?」


「帝都の噂はいろいろね。帝都の人たちは気が強くて、プライドも高い。けど、リーナは平気な顔してた。『売れる物は正義』って言ってた」


リーナらしい答えだった。あの人の、歯切れのいい笑い方が目に浮かぶ。


「視察団は、いつ頃?」


「二、三日で着くと思う。ずいぶん早足だったよ」


二、三日か。

思ったより、早いな。


匙を置き、代わりにペンを取った。頭の中に書き上げた今後の予定を書き上げ、封をする。


「リーナに渡してくれ」


帝都がこちらを向く。その重みは、想像よりも大きいのだろう。しかし、想定はしていた事だ。

農業がネックのこの帝国において”黒いミスリル”の影響は計り知れない。


それは、新しい舞台への合図でもある。


観察して、測って、積み上げる。俺にできるのは、それだけだ。


「先生」

ミラが碗を差し出す。

「食べよ。冷めちゃうよ。」

「……ああ、すまない。いただこうか」


舌に塩気。芋の甘さ。柔らかな肉の旨み。

体の隅々に火が灯る。

窓の外で、子どもの笑い声が上がった。誰かがつられて笑う。鳥の声も重なった。

春だ。生き物たちが、みんな前を向いている。


食べ終えて、卓を拭いた。


「村長のところへ行ってくる。エルドにも来てほしいから、呼んで来てくれるか。仕込みを少し変える。明日から、交代制を厳密にしたい」


「うん。お兄ちゃんに伝えてくるね」


ミラの頷きは早い。瞳は真っ直ぐだ。


コハルが腰を伸ばした。

「わたしは隣村を見てくるよ。ここほどじゃないけど、向こうも活気づいてるはずだし」


「助かる。気をつけてな」


「任せて。……あ、ミラのご飯はやっぱ最高♪また食べに来る」


「来てください。でも、番いじゃありません」

「ふふん」


扉が開いて、風が入る。

春の光がもう一度、床を撫でた。


俺は手紙を折りたたみ、胸の内側に差し込んだ。紙の角が、心臓の鼓動に合わせて小さく当たる。


「……思ったより早かったな」

独り言は、湯気に混じって消えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ