幕間•理暦アストレア史【黒いミスリル、伯爵領にて】
帝国歴三二一年、初夏。
リーナ•フォルス率いる小商隊がアルノルト伯爵領に入ったのは、まさに小麦が成長を迎える季節であった。
彼女が差し出した黒い袋に、農家たちは怪訝な顔を見せた。
「なんだ、この黒い粉は」
「石炭のかすか? 作物が嫌うだけだろう」
嘲笑する声の中で、リーナは淡々と答えた。
「新しい肥料だ。今年は無料で配る。ただし――試した農家にしか、来年は売らない」
無料と言われても、応じた農家はわずか。だが、幾人かの大農家は“当たれば儲けもの”と撒いてみたのである。
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数日後。
――その畝を見た者は皆、驚愕した。
葉は濃く、茎はまっすぐで力強い。
同じ畑でも、黒い粉を撒いた区画とそうでない区画の差は歴然であった。
「……なんだこれは」
「根の張りが違う。白く太い。これほど健全な作は久しく見ていない」
経験深き農家ほど言葉を失った。
数日で“差”が出るなど有り得ない。だがそれは、収量の増加と早期収穫を示唆していた。
市場において、誰よりも早く出荷できることの意味――それは誰よりも高く売れることであった。
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やがて農家の一人が叫んだ。
「今年分、あるだけ売ってくれ!」
続いて試した農家たちが我先にと群がる。
リーナは涼しい顔で言った。
「欲しいなら――安くはないよ」
それでも取引は即決された。
だが彼女は、試さなかった農家には冷ややかに告げる。
「今年は“試した者”だけだ。他は来年を待ちな」
門前払いされた農家たちは悔恨を抱えて去っていった。
その時すでに“黒い粉”は、「選ばれた者の証」と化していたのである。
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やがて秋。
この未知の肥料を使った畑から、誰よりも早く立派な小麦が収穫された。
味は格別、品質も上々。市場は騒然となり、肥料を手にした農家は大成功を収めた。
この時、リーナはさらに一手を打った。
“畑の奇跡――黒いミスリル”
そう呼ばせるよう仕向けたのだ。
独占販売でありながら価格を不当に吊り上げることはせず、横流しを禁じ、違反者には一切の商品を扱わせない。さらに裏では偽品を高値で流し、競合を自滅させた。
結果、リーナ率いるフォルス商会は「信頼できる奇跡の供給者」として急速に名を広めていった。
だが誰一人、これが“忌むべき魔物の糞”の産物だとは夢にも思わなかった。
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その噂はついに帝都に届く。
帝立魔法研究所はこの奇跡を看過できず、使節団の派遣を決定した。
かくして、小さな村から生まれた黒い肥料は、帝国全土を巻き込む物語の幕を開けたのである。
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『理暦アストレア史』 第一巻・第一節より
編纂:王立史学院
リュシア・フォン=アーベントロート




