第24話「代償」
ゆっくりと近づいてくる死の象徴……。
村人たちの緊張がとっくに限界を超えたとき、あざ笑うかのように、ワンダリンググリムが腕を地面に叩きつけた。
悲鳴が夜の広場を切り裂く。次の瞬間にはもう、我先にと走り出す影があった。
誰もが恐怖に耐えきれず、背を向けたのだ。
焚き火の灯りが揺れる中、取り残されたのは――小さな子ども。
泣きじゃくり、動けないまま地面にへたり込んでいる。
ワンダリンググリムの首が、ぎぎぃ、と軋むように回った。
虚ろな瞳が子どもに向けられた瞬間、空気が一段と冷え込む。
「やめろォッ!」
エルドが叫び、子どもを抱き上げて懸命に飛び退く。
直後、鋭い爪が地面を抉り、土砂が宙に舞った。――間一髪。
そして、顔が変わった。
笑った……。歪んだ口元が、愉悦に吊り上がる。
――狩りが始まった。
恐怖が膨張し、叫びが連鎖する。
村人たちは泣き叫びながら四方へと逃げ散った。
俺は呼吸を整え、怪物の一挙手一投足を観察する。
無秩序に見える動き……だが、一瞬ごとの重心移動には規則がある。
あれは「予測不能」ではない。身体の構造に縛られた物理だ。
――だが、それが見切れても勝てるわけじゃない。
頭の中で戦力を並べる。今まともに動けるのは……エルドだけだ。
他の狩人たちは恐怖で逃げ出した。カイは逃げはしていないが、抑えられない震えで動けない。
俺は動けはするが、剣を握った経験すらない……。
ワンダリンググリムもそれを分かっているように、一人、剣を向けるエルドを虚ろに眺める。
「ハッ!」
エルドが吠え、斬りかかる。村人とは思えぬ剣圧――しかし、奇妙な身のこなしに読まれ、刃は空を斬るばかり。
間合いが空き、膠着が流れる。遠目に、村人たちが息を呑む。
「エルド兄ちゃん!! がんばって!!」
子どもの悲鳴にも似た声援が木霊した。
ワンダリンググリムはふらりと後退――かと思えば、次の瞬間、突如として動きを止め、口がさらに裂ける。
そして、エルドではなく声を上げた少年を見据え、体が異様なほど沈み込む。今にも飛び掛かる体勢だ。
「!! お前の相手は俺だッ!!」
急いで斬りかかるエルド。
だが、その焦りを見透かすように、踏み込みの矛先は少年からエルドへと切り替わった。
「なっ――」
予測を裏切られ、体勢が崩れる刹那。
異様に長い腕がしなり、エルドの体を打ち据えた。
鈍い衝撃音。
「ぐあっ!」
エルドが転がり、血を吐いて倒れる。動かない。
「エルド兄さん!!」
ミラの悲鳴が夜を裂いた。
喉の奥で息を噛み殺す。
――戦力の柱が折れた。剣も盾も、この場にはもうない。
恐怖で膝をつく村人。剣を抜いたまま震えるカイ。
誰一人として、この怪物に立ち向かえない。
……なら、やるしかない。
異郷人だろうが、剣を知らぬ身だろうが関係ない。ここで踏み込まなければ、すべてが終わる。
腰の袋に手を伸ばす。
黒い結晶の感触が、氷のように冷たい。
――虚晶石を使うしかない。
ぬらりと黒い欠片が月明かりに光る。
理論は合っている。覚悟を一瞬で決める。やる。異郷人の俺なら可能だ。
「……ミラ!」
振り返ると、ミラは蒼白な顔で膝を抱えていた。
「お兄ちゃん、先生。誰か助けて……」
「魔力を注げ! 今すぐ、全力でだ!」
「な、何に!?」
「これにだ!」
瞬きほどの逡巡――それだけ。
ミラは疑問を呑み込み、両手を石に重ねる。光の糸が吸い込まれ、黒石が低く脈動した。空気が軋み、虚晶石が震える。
「よし……!」
迷いなく、石を口に放り込む。
喉が焼ける。胃が裂ける。視界が閃光に覆われる。
不快の源から魔力を奪い、己の力へ変換する魔法陣を体内に展開する。
筋肉の線一本一本が熱を帯びる。
耳鳴りが世界をかき消し、体が異様に軽い。
仮初の――身体強化。
子どもへ跳躍するワンダリンググリム。
俺は一歩踏み込み、その勢いをいなすように腕を取った。
「おおおっ!」
合気道の要領で体を捻り、巨体を投げ飛ばす。
土煙が舞い、背を打つ音。――だが、稼げる時間は僅かだ。
「ミラ!! どうしたら倒せる!?」
「核があるはず……どこかに露出してる! それを壊すしかない!」
背を向けた瞬間、見えた。
肩甲骨の間、脈動する赤黒い結晶。鉄より硬そうに見え、鼓動のたびに全身へ力を巡らせている。
「……あれか」
不気味に笑い、四肢を折り畳む。蛇行。左右にぶれる異様な軌道。
――だが今の俺には見える。
「右膝から――左肩にかけて……!」
強引に追随し、受け流す。背中が開き、赤黒い結晶が目の前に来た。
「割れろ!!」
身体強化にものを言わせ、握り込んだ拳を全力で叩きつける。
……くそ……! 無情にも砕けたのは核ではなく、俺の拳だった。
投げることはできる。流すことはできる。だが壊せない。
合気道はそういう武道じゃないし、この身体強化も借り物にすぎない。
――ならば託すしかない。
「カイ!!」
剣を構えたまま足がすくむ少年を睨む。
「お前しかいない! あれを砕け!」
「む、無理だ……! できないよ」
涙で濡れた顔。震える手。膝が地面に沈む。
「カイ!!!」
その瞬間、ワンダリンググリムが俺の心を見透かしたかのように、ミラへ跳躍した。
「くっ……!」
体をねじ込み、組み合う形で受け止める。
鋭い爪が肩を裂き、血が噴き出す。膝が軋む。力が抜ける。
――それでも叫ぶ。
「できるかどうかじゃない、やれ! 俺には砕けないんだ!!」
時間が止まったようだった。
カイの瞳に、俺とミラが同時に映る。涙を拭う暇もない。
「うわああああっ!!」
叫びとともに跳躍。コハルにも負けない高さ。
逃げようとするワンダリンググリムを、俺は全力で押さえ込む。爪が肩にめり込み、筋繊維がブチブチ切れる感覚――構わない。あと少し。
カイの剣が空を裂き、背へと舞い上がる。
閃き、赤黒い核を叩き切った。
甲高い悲鳴。
ワンダリンググリムが断末魔をあげ、体が痙攣する。
骨が崩れるように膝をつき、血飛沫を上げて倒れ込んだ。
静寂。
その場に膝をつき、喉から熱いものを吐き出す。赤い飛沫が土に散る。
「先生!」
ミラが駆け寄り、俺を抱える。感覚が鋭敏になりすぎている。
遠くの焚き火ですら、肌を焼く炎のように熱い。
全身の痛みが、針のように突き刺さる。
――意識が、遠い。
「しっかりして! ねえ、しっかりして!」
霞の中で揺れる声。俺はただ一言を残す。
「……熱い……火から離してくれ……」
そのまま、暗闇が覆った。
――ソウマはその場に倒れ込み、ミラが懸命に処置を続ける。
カイは放心し、ただ膝を抱えて震えていた。
恐怖と勇気――その代償。
それぞれの胸に、消えない傷が刻まれていく。
明日10/25は2話公開します!
14時 第25話「静寂の代価」
22時 第26話「勇気とは…」
です




