第120話「副官」
コハルが、一歩、前に出た。
呼吸が変わる。
筋肉の張りが、目に見えて増していく。血管が浮き、足元の土が、わずかに軋んだ。
(――まだ、上げられる)
理性が警鐘を鳴らす。この出力は長く保てない。身体が壊れる。
それでも――
(守るって、決めた!)
次の瞬間、世界が歪んだ。音が、遅れる。
視界が、引き延ばされる。
コハルの身体が、弾丸のように射出された。
「――っ!」
空気を切り裂く衝撃。床に残るのは、踏み込みの痕だけ。そして、これまで、半ば楽しむように構えていたゲオルグの表情から。
笑みが、消えた。
剣が閃く。
受ける。
流す。
いなす。
無駄のない、完成された剣技。剣線は美しく、正確で、冷静だった。
だが――
(速い)
ゲオルグは、内心で認めていた。スピードだけなら、確実にこちらを上回っている。
コハルの攻撃は、重くはない。だが、間合いの潰し方が異常だ。踏み込み、切り返し、再加速――その全てが“最短”で繋がっている。
火花が散る。刃と刃が、何度も噛み合う。カイは、息を呑んで見ていた。ザイルとイリーナも、思わず手を止める。
だが――
次の一合で、流れが変わった。ゲオルグの剣が、わずかに角度を変える。
それだけで、コハルの踏み込みが弾かれた。
「……ッ!」
コハルは、即座に距離を取る。後方へ、音もなく跳ねる。呼吸が、荒い。身体の内側が、焼けるように痛む。
(……やっぱり長くは、もちそうにないな)
ゲオルグは剣を下ろさず、静かに構え直した。視線は、真っ直ぐにコハルを捉えている。
確かな評価が、そこにあった。
油断も、慢心もない。周囲は、息をするのも忘れていた。ザイルは、遠目にその光景を見ながら、舌打ちする。
(……あいつ、相当無茶してるな)
イリーナは、無言で拳を握り締めていた。
(あの速度……ゲオルグ様が本気で相手をしている。まずい…ここであの少年か、この魔法使いが参戦したらゲオルグ様でも無傷ではいられない)
そして――
コハルは、ゆっくりと姿勢を落とした。耳を伏せ、重心を低く。
もう一度、仕切り直す構え。
獣と剣士。
互いに、相手を“危険な存在”として認識した瞬間だった。
イリーナの気配が、変わった。
剣先が下がる。呼吸が深くなる。踏み込みの“予備動作”が、消える。
ザイルは、瞬時に悟った。
(……来る)
「何だ? 急にやる気だな」
軽口を叩きながら、視線は一切逸らさない。
「そんな怖い顔してたら、美人が台無しだぞ」
返事はなかった。
イリーナの瞳には、もうザイルしか映っていない。怒りでも、焦りでもない。
決断だ。
「――ゲオルグ様は」
一歩。
「こんなところで」
さらに一歩。
「終わらせていい方ではない!」
床が鳴った。踏み込みがこれまでと質が違う。
「……っ!」
距離が、一瞬で潰れた。完全に、剣士の間合い。ザイルは反射で後退しながら、地面に魔力を流す。
土壁。
即席の遮断。
だが――完成しない。壁が立ち上がるその“途中”を。イリーナは、迷いなく斬り込んだ。
土が裂ける。
魔法が、切断される。
「――っ、マジかよ!」
ザイルは舌打ちしながら、身体をひねる。剣が、頬を掠める。空気が、焼けるように冷たい。
(壁を“壊した”んじゃねぇ)
(魔法が形になる前に潰しに来てやがる!)
距離を取れない。
設置が、追いつかない。
イリーナの剣は、魔法使いを知っている者の動きだった。
詠唱の“間”。
魔力が流れ込む“瞬間”。
その全てを、踏み込みで潰してくる。
「どうした!」
イリーナの声が、低く響く。
「さっきまでの余裕は!」
剣が、連続で走る。
一撃。
二撃。
三撃。
ザイルは、後退しながら、最低限の土操作で足場を歪ませる。
だが、それすら――
「甘い!」
踏み越えられる。剣士の“読み”が、完全に上回っている。
(……ヤバいな、本気で殺しに来てやがる)
ザイルは、内心で笑った。
背中に、冷たい汗が流れる。
だが――恐怖ではない。
(それでも今、俺が引いたら…)
視界の端。中央では、コハルとゲオルグが睨み合っている。
(この女を行かせるわけにはいかねぇ!)
イリーナが、さらに距離を詰める。
鋭い。迷いがない。これまでとは明らかに違う“殺す踏み込み”。
(……間に合わねぇ)
ザイルは反射的に土壁を展開しようとする。
だが――
完成する前に、剣が来た。壁は途中で砕かれ、衝撃が腕に走る。
距離はゼロ。
完全に、詰められた。
ザイルは、笑った。
「――悪いな」
その瞬間、地面が唸った。
ドン――――――――ッ!!
床全体が、まるで生き物のようにうねる。次の瞬間、戦場一帯の地面が一斉に沈み込んだ。
「――なっ!?」
イリーナの体が腰のあたりまで一気に飲み込まれる。
動けない。剣も振れない。
同時に――
ザイル自身の身体も、同じように地面に固定された。逃げ場はない。区別もない。
範囲内のすべてを、等しく縛る魔法。
「……相討ち狙い?」
イリーナが息を呑む。
「正解」
ザイルは、ぐっと歯を食いしばる。視界が、わずかに揺れた。
(……くそ、魔力全部持ってかれたな)
魔力が底を叩いた感覚。もう一歩も動けない。
「悪いな」
ザイルは、肩で息をしながら言った。
「これで俺たちは、動けねぇ」
一拍置いて、続ける。
「……ゆっくり観戦しようや」
「……本当に、ふざけた男だ」
イリーナが吐き捨てる。
ザイルは返さず、視線を中央へ向けた。
血に濡れた剣。捨て身の速度で迫る獣人。そして――変わり始めた心から尊敬する人。
「……復讐、か」
ぽつりと、呟く。イリーナは答えない。唇を噛み、ただ前を見ている。
「やめとけ」
ザイルの声は、意外なほど静かだった。
「月並みな言葉だがな……何も生まれやしねぇ」
「……お前に、ゲオルグ様の何が分かる」
噛みしめるような声。
「“ゲオルグ様”じゃねぇ」
ザイルは、即座に言い返した。
「お前だよ」
イリーナの眉が、わずかに動く。
「この国なら誰もが知る、帝国の英雄」
ザイルは続ける。
「それが今じゃ、復讐の鬼だ」
視線を逸らさない。
「そうなっちまったのは、なぜだ?」
「……そうさせちまったのは、お前らじゃねぇのか?」
イリーナは、言葉を失った。
喉が、動く。
だが、何も出てこない。
「組織ってのはな」
ザイルは、ゆっくりと言った。
「副官で決まるんだ」
魔力の枯れた身体で、それでも言葉を選びながら続ける。
「英雄だって人間だ。間違える。踏み外す。弱る。強いからこその責任もある」
視線が、中央へ向く。
「副官の本当の仕事はな、リーダーが泥沼に足を踏み入れようとした時、その襟首を掴んで引きずり戻すことだ。たとえそのせいで、お前がその男に斬り殺されることになってもな」
沈黙。
イリーナは、しばらく俯いていた。
そして――
ゆっくりと、顔を上げる。
視線の先にいるのは、
血に濡れ、剣を振るう男。
その背中を、イリーナは、まっすぐに見つめていた。しばしの沈黙のあと、イリーナが小さく息を吐いた。
剣を握る手から、わずかに力が抜ける。
「……なるほどな」
自嘲気味に、口角が歪む。
「私は……副官としても、お前に負けていたらしい」
ザイルは、意外そうに目を瞬いた。次の瞬間、鼻で笑う。
「はっ」「買いかぶりすぎだ」
肩をすくめ、あっさりと言い切る。
「俺は副官でも、なんでもねぇよ」
視線を天井に向ける。
「俺たちは軍隊じゃねぇしな」
少し間を置いて、続けた。
「こんな変なヤツばっか集まった集団で、副官なんて役目―― こっちからお断りだ」
苦笑して、首を振る。
イリーナは、呆然としたようにザイルを見る。
「……では、どうして……」
「ん?」
「どうして、皆がお前を信じる」
剣士としてではない、純粋な一人の人間としての疑問だった。
「命を預けるほどに」
ザイルは、少し考えてから答えた。
「さあな」
だが、その声は不思議と軽かった。
「無理に引っ張らねぇし、命令もしねぇ」
「逃げたい時は逃げていいって、最初に言ってる」
イリーナは、目を見開く。
「……それで、誰も逃げないのか」
「逃げるヤツもいるさ」
ザイルは、あっさり言った。
「でもな」
視線が、中央へ向く。
必死に立ち続ける少年。その前に立つ獣人の少女。治癒の光を絶やさないヒーラー。
そして、意識を取り戻したばかりの少女。
「守りたいヤツが、目の前にいるとよ」
静かに。
「逃げる理由が、なくなるんだ」
イリーナは、言葉を失った。
命令。
忠誠。
義務。
誓い。
そのどれでもないものが、そこにはあった。
そして――
イリーナは、もう一度だけ、ゲオルグを見る。剣を振るうその背中を。
(……私は)
(あの人の、何を守ろうとしていたのだろう)
答えは、まだ出ない。
だが――
心の奥で、何かが、確かに軋んだ。




