第118話「制圧」
オットーが倒れた瞬間、戦場の空気が一段変わった。イリーナは歯を食いしばりながら、視線を走らせる。
後衛――弓が落ちた。
これは偶発ではない。狙われ、落とされた。
(……想定より、早い)
だが、致命ではない。イリーナの判断は、揺らがなかった。
獣人の少女――確かに速い。異常なほどに。だが、それだけだ。
(つまり、ハインツを一撃で落とせるだけの攻撃力はない)
この世界の戦の常識。速度を上げれば、力は削がれる。重装の盾役を正面から崩すには、質量か魔力が要る。
「フェルク下がれ!俺が出る!」
短く、明確な意思表示。
巨大な盾を構えた男が、一歩前に出る。同時に、魔法使いたちも判断を下した。
自分たちの詠唱は間に合わない。牽制にもならない。ここで守られる価値はない。
二人はさらに後方へ下がり、距離を取り、ヒーラーは回復に、魔法使いは杖をまっすぐに構え、いつでも魔法を発動できる状態に入る。
フェルクもそれを見て、前線と後衛の中間へと位置を変えた。
遊撃。
これが本来の斥候の仕事だ。
陣形は、再び整った。弓は失ったが、まだ崩れてはいない。その様子を、コハルはしっかりと見ていた。
(……なるほど、だったら狙いは!)
耳が伏せられ、呼吸が低くなる。視線は、自然とフェルクへ向いた。
コハルは地を蹴った。
空気が裂け、景色が歪む。
フェルクが反応する。
刃を構え、半身で受けに入る。
――だが。
「……チッ」
割り込んだのは、巨大な影。盾が、最短距離で差し込まれた。
ハインツだ。
重装の足運び。無駄がない。速度に対して、位置と判断で対抗する。
(……邪魔)
コハルは進路を変え、そのまま流れるように背後へ回った。
一瞬で、死角。完璧な位置。
だが――
刃が、止まった。
(……硬っ)
鎧。筋肉。体幹。切り裂けない。
崩れない。
背後を取られても、ハインツは動じなかった。盾を下げず、足を踏み締め、ただ“立っている”。
フェルクが、その背後で呼吸を整える。魔法使いたちは距離を保ち、無駄撃ちはしない。
正しい。
すべてが、正しい。
この場にいる誰一人として、判断を誤っていない。コハルは、歯を見せて笑った。
「……なるほどね、真面目な奴らだ」
速さだけでは、足りない。世界は、まだこちらを許していない。
だが――
視線の先。
中央で、押され続けている背中があった。
(……待ってなよ)
コハルは、腰に提げたムチへと指を伸ばす。タリアが調整を重ねた、新しい武器。
胸の奥で、何かが静かに熱を持ち始める。鼓動が、ひとつ深く沈む。
――ムチ。
細く、長く、しなやかに伸びるが刃はない。重さもない。だが、しなる先端が空気を切る。
次の瞬間。
バシンッ!!
乾いた破裂音が床を叩いた。
石畳に走る衝撃。粉塵が跳ね、反射的に全員の視線が吸い寄せられる。
ハインツは盾越しに眉をひそめた。
(……ムチ? このタイミングで?)
(後衛狙いか? それとも牽制――)
思考が、途中で切れる。
コハルが――正面から来た。
一直線。躊躇も、間合いの探りもない。ハインツが盾を構え直す、その刹那。
「ハインツ! 気をつけろ!」
横合いから、ゲオルグの声が飛ぶ。
だが――遅い。
コハルは、斬りかかれる距離まで踏み込み、その瞬間、ムチをしならせた。
一閃。細い影が、空を裂く。
次の瞬間には――
ハインツの腕。
盾。
胴。
すべてが、まとめて絡め取られ、まるで大蛇に締め付けられたようになる。
「ぐっ――!?」
反射的に力を込める。
「こんな程度で……俺が止められるとでも!」
膨れ上がった筋肉が軋む。しかしその時コハルの指先から、魔力が流れ込んだ。
刹那。ムチが――硬化を始め、さらに内側には棘が生え、まともに力を入れる事ができない状態へ変化した。
柔らかかったはずの拘束が、一瞬で“枷”へと変わったのだ。
動かない。びくともしない。棘は力を入れるほど伸び、鎧をも貫通し全身を突き刺した。
「……っ!?くそ!」
バランスを崩したところへ――
コハルの足が、低く払われた。
受け身は、取れない。
鈍い音とともに、ハインツの巨体が床に叩きつけられる。
完全な簀巻き。戦線から、消えた。
「……二人」
淡々とした声。その空気が変わったのを、誰より早くフェルクが感じ取った。
――まずい。
背中が、勝手に引く。理屈ではなく、本能が告げていた。コハルは、獲物を見つけた獣のように、ちらりとフェルクを見る。
ニヤリ。
次の瞬間。
世界が、置き去りになる。速度が――さらに、跳ね上がった。
「――っ!!」
フェルクは剣を構える暇すらなかった。気づいた時には、視界が反転している。
そのままフェルクの意識は暗転した。
魔法使いたちは、即座に判断した。二人は同時に方向を変え、イリーナのもとへ退こうとする。
だが――
距離が、足りなかった。
影が、迫る。
風も、音も、残さない。
ドン。
ドン。
ほぼ同時に、二人の意識が刈り取られる。
立っているのは、ただ一人。コハルは、軽く肩を回した。
「……制圧、完了」
その声には、興奮も誇示もない。ただ、事実だけがあった。
そして――
ゆっくりと、顔を上げる視線の先。
血に濡れた剣を持つ男。
「次は――」
獣の瞳が、真っ直ぐにゲオルグを捉える。
「お前だ」
その瞬間、この戦場で、最も危険な二つの存在が、互いを認識した。




