第115話「誤解」
数分後。
簡潔な情報が揃った。
――アジトは、採石場跡の倉。
――見張りあり。
カイは、迷いなく決断した。
「行くぞ」
その場に残るルッツが、静かに声をかける。
「私の役目は、ここまでです」
夏の終わりを告げるような涼しげな風が外套の裾を揺らした。
「交渉も、尋問も終わりました。あとは――取り戻すだけ」
ルッツは、まっすぐにカイを見る。
「頼みましたよ。リーダー」
カイは深く頷いた。
「……必ず、連れ戻します」
その言葉に、ルッツは何も返さなかった。
ただ、背中を見送るだけで十分だった。
――同時刻。
元・近衛騎士団。
ゲオルグに従う五人のうち、斥候役のフェルクは、屋根の影に身を伏せていた。
呼吸を殺す。
視線の先。
男たちに担がれていく、一人の女性。
力なく揺れる栗色の髪。
(――やはり、か)
フェルクは奥歯を噛み締めた。
ゲオルグが警告した“越えてはならない線”。レムリスは、それを越えた。
(ゲオルグ様の言った通りだ……こいつは、我慢できなかった)
フェルクは、追わない。すでに連中の根城は把握している。
踵を返し、走り出す。
枝を避け、石を踏まず、夜に溶けるように。
獣人ではない。だが、訓練で獣より速くなった人間の走り。
目指すのは、ただ一人。
ゲオルグ・ディートリヒ。
今もなお、フェルクにとっての――絶対の団長。
報告は短く、簡潔に。それが、この部隊の掟。
――行動を起こしました。
――場所は、採石場跡の倉です。
フェルクはそれだけを告げた。報告を受けたゲオルグは、閉じていた目を、ゆっくりと開く。
怒りはない。
驚きもない。
ただ、確信だけがあった。
「行くぞ」
それだけ。
百戦錬磨の五人とイリーナは、その一言で全てを理解する。
命令ではない。合図だ。誰も言葉を発さぬまま、駆け出す。
まるで――
一つの生き物のように。
——————————————
薄暗い倉の中は、石と埃の匂いが濃くこもっていた。
採石場だった名残の梁がむき出しの天井を支え、壁際には粗末な灯りがいくつも吊るされている。
床に転がるように横たえられたミラの姿を見て、空気が一気に沸いた。
「……すげぇ」
「帝都でも、こんな綺麗な女、見たことねぇぞ」
「ほら見ろ。やっぱりだ……聖母はいたんだ」
低い笑い声。
喉を鳴らす音。
信者たちの視線が、ミラに絡みつく。
意識を失ったままのミラは、抵抗もできず、ただ胸が小さく上下しているだけだった。
「早くしろ!」
レムリスが苛立ったように声を張る。
「禍石を飲ませるんだ!今夜こそ、女神が降臨するのだ!」
「女神が降臨する!」
「我らを導く聖母だ!」
狂信者たちが、口々に叫ぶ。
レムリスは一歩前に出ると、布で包まれた何かを掲げた。包みをほどいた瞬間、灯りが歪んだ。
黒紫に鈍く光る、拳大の禍石。
「……レムリスさん、それは……」
一人の信者が、思わず声を落とす。
「いくらなんでも、大きすぎるんじゃ……。前に使ったのより、明らかに……」
その言葉に、レムリスはゆっくりと振り返った。
目が、濁っている。
「何を言っている」
静かな声だった。だが、その奥に狂気が滲む。
「女神が、この程度の禍石に飲まれるものか」
禍石を、ぎゅっと握りしめる。
「むしろ、これこそが“選別”だ」
口角が、歪に吊り上がる。
「耐えられぬなら、それまで。これに耐えてこそ――本物だ」
周囲が、息を呑んだ。誰も、もう止められない。
レムリスは、ミラの顎に手をかけ、無理やり口を開かせようとする。
――そのとき。
「……何をしている?」
低く、冷え切った声が倉に落ちた。
空気が、一瞬で凍りつく。
入口に立っていたのは、一人の男。
巨躯。
片腕。
無表情。
信者たちの顔から、血の気が引いた。
「……げ……」
「ゲオルグ……!」
レムリスの手が、わずかに震える。
だが、狂気はまだ消えない。
「ち、違う……これは……」
必死に言葉を探す。
「聖母だ!禍石を持ち、慈愛に満ちた女だ! この女がいれば、我らは――」
その言葉を、ゲオルグは最後まで聞かなかった。
「オットー」
短い一言。
「はい」
返事と同時に、風が鳴った。
――ひゅん。
放たれた矢が、一直線に飛ぶ。
次の瞬間。
「――ぐぁっ!!」
鈍い音。
レムリスの手のひらを、矢が正確に射抜いた。禍石が、床に落ちる。
転がり、止まる。
ゲオルグは、ゆっくりと歩き出す。
一歩。
また一歩。
信者たちは、恐怖で誰も動けなくなっていた。圧倒的な威圧感が場を支配していた。
「せ、聖母さえいれば……!」
血に染まった手を押さえ、レムリスが縋るように叫ぶ。
「聖母がいれば、全ては……!」
ゲオルグは、立ち止まった。そして、低く言い捨てる。
「……外道が」
次の瞬間、剣が閃いた。音は、ほとんど聞こえない。恐ろしいほどに無駄のない剣線。
少し遅れて、ただ重いものが床に落ちる音だけが、倉に響いた。
レムリスは、その場で絶命した。
血が激しく飛び散り、ゲオルグはあっという間に血に染まっていく。
だが――ミラの身体には、一滴もかからなかった。
それすらもゲオルグは計算していたのだ。
静まり返る倉。
残された信者たちは、ただ震えるだけだった。
そのとき――
外から、足音が駆け込んでくる。
「ミラ!!」
怒りに満ちた声とともに、カイたちが踏み込んできた。
血に濡れたゲオルグ。
床に倒れたレムリス。
そして、動かないミラ。
状況は、一瞬で“誤解”を生んだ。




