第112話「聖母」
宿場町が見えたのは、山道が一度ゆるく開けたところだった。
街道沿いに並ぶ倉庫の屋根。馬屋の柵。乾いた土の匂い。人の声が、風にほどけて耳へ届く。
「ここが中継の宿場町です」
ルッツが、杖の先で道の端を示した。街道の両側に、荷車がすれ違えるだけの幅が確保され、車輪の溝が何本も刻まれている。
「山から領都へ運ぶなら、ここが“喉”になる。喉が詰まれば、全部が止まります」
カイは頷いた。喉の奥が乾く。責任の形が、言葉で輪郭を持つと、急に重くなる。
「……だから、先に話をつけるんですね」
「ええ。今のうちに、倉庫の貸し出し、通行税、護衛の手配。 “揉める前”に利を作っておく。交渉の基本です」
ルッツは涼しい顔で言った。
「俺も、同行していいですか」
カイの声は、思ったより硬かった。ルッツは一瞬だけ目を細め、すぐに笑い皺を深くする。
「もちろん。見て学ぶのが一番早い」
その会話の横で、コハルが耳をぴくりと立てた。腰の新しい武器に手を添え、指先で感触を確かめる。
「あたしは町の外れで少し動いてくるね。今、なんか掴めそうなんだ」
高揚というより、獣が獲物の気配を嗅いだ時の、静かな集中。以前の無邪気さよりも、輪郭のある“手応え”が表情に出ていた。
「無茶すんなよ」
ザイルが短く釘を刺すと、コハルは肩をすくめた。
「分かってるって。倒れない程度にやる」
そしてミラが、宿場町の奥――小さな丘の上にある建物を見た。
白い石壁。窓は小さく、入口の前には木の柵。そこだけ少し静かで、空気が柔らかい。
「あそこがウォーレン様が話してた孤児院だよね」
ミラの声が、ほんの少しだけ弾む。サラも同じ方向を見て、頷いた。
「寄っていいかな? 少しだけでいいんだ」
カイは反射的に口を閉じた。ウォーレンの言葉が脳裏をよぎる。
――若く美しい女性が狙われている。
「……誘拐の話、聞いただろ」
ミラは、その視線を外さずに言った。
「うん。でも、町の中だし。孤児院に行くだけだよ。それに……見ておきたいの。ウォーレン様が守ってる場所を」
サラが、そっと添える。
「私も一緒に行こうかな。すぐ戻るよ」
カイの喉が鳴った。
不安を止めたいのに、止めればミラの“優しさ”を折る気がした。そこへザイルが一歩前に出る。
「だるいが俺も行くしかねぇな。……それならいいんじゃねぇか?」
カイは、ようやく息を吐いた。
「……わかった。ザイ、頼む」
分担が決まり、街の空気がまた動き出す。
ルッツとカイは役所の方へ。
コハルは町外れへ。
サラとミラとザイルは丘の孤児院へ向かった。
孤児院の扉を開けた瞬間、温い空気と、子供の声がぶつかってきた。
「お客さまだー。あそぼー」
小さな靴の音が床を叩き、布の匂いが近づく。ミラは膝を折り、目線を合わせて笑った。
「うん。少しだけね」
手が、袖を引く。髪に触れる。
ミラが笑うと、子供たちはそれだけで安心したみたいに声を上げる。
サラは、奥で手伝いをしていた職員に会釈し、薬草の包みを差し出した。
ただ、病の気配は感じられない。ここはちゃんと“生きている場所”だった。
ザイルは入口の少し外。
孤児院の柵にもたれ、周囲を見回していた。
視線を流す。
通り。露店。荷車。宿屋。
――食堂。
戸口の影に、粗い布の男たちが固まって座っている。笑っている。だが、笑い方が硬い。肩が立っている。
視線が、孤児院へ向いている。
(……あいつら、領民じゃねぇな)
旅慣れた雰囲気の割に落ち着きがない。
ザイルは目を細めた。
その瞬間――
食堂の奥で、ひときわ高い声が上がった。
——————————-
「レムリスさん、もう探さなくていいんですか」
酒杯を置く音。椅子が軋む音。
レムリスと呼ばれた男は、眉間に皺を寄せ、低く吐き捨てた。
「分かってる」
「分かってる、じゃないですよ! これじゃ、いつまで経っても――」
若い信者が熱を帯びる。手が震えている。恐れと興奮が混じった色だ。
「ここじゃ俺たちの言うことが正しいって、誰も信じねぇ。貴族がいかに汚えか知らないんだ。だからこそ言葉を伝える象徴が必要なんだ。――聖母が」
その言葉で、周囲の男たちの目が光る。
レムリスは舌打ちし、声を落とした。
「……ゲオルグがいる限り、勝手な真似はできん。警告されただろ。次に同じことをすれば――俺たちは、一瞬で真っ二つだ」
不満が、喉の奥で泡立つ。
「じゃあ、待つんですか……?」
「待つしかないだろ…」
――そう言ったはずだった。
だが、レムリスの視線が、ふと外に吸われた。孤児院の庭で、子供たちに囲まれている女。
笑っている。触れられても嫌がらない。その姿が、妙に目に刺さった。
「……ああ、なんと美しい…」
思わず呟いて、同席の男たちの視線も自然とミラに集まっていく。
(あんなのが、象徴なら)
その時、子供が勢いよくミラに抱きついた。
ミラの腰の小袋が揺れて、紐がほどけ――
ころり、と。
石畳に落ちた小さな結晶が、薄く黒紫に光った。
虚晶石。
落とした本人は、気づかない。だが、それを見た男たちは、確かに見た。
「おい!見たか!」
「……禍石?!」
息を呑む音が重なる。
「持ってる……? あの女が……?」
レムリスの瞳が、熱を帯びる。
(優しく美しい女。慈愛に満ちた表情。子供に慕われ、そして禍石を持っている)
(――聖母だ!)
その瞬間、食堂の空気が一気に沸いた。
「おい、レムリス、今の見ただろ!禍石持っている女なんて普通じゃない!聖母だ…ゲオルグも今ここにはいないんだ、チャンスじゃねえか!」
だが同時に、元傭兵のレムリスは気づいた。
「待て」
孤児院の外――あの男はおそらく女の護衛だ、こちらを時々見ている。
「……あの男、相当やるぞ。何度も死線を潜り抜けてきた人間の眼だ」
「じゃあどうする?このまま聖母がいなくなるのを黙って見てるのか?!」
レムリスは、口元を歪めた。
そして、指先だけで命令した。
「――囮を作れ」




