第110話「一本の糸」
――時間は少し遡る。
冷蔵庫プロジェクトが議会で“可決”された直後。
帝都の外れに打ち捨てられた礼拝堂。
ひび割れた床の下へ続く階段を降りると、湿った空気が肌にまとわりつく。
薄暗い地下に、五つの影が集っていた。
ラムダ。
その隣で豪奢な外套を羽織る男――セオグラシア教団の教祖ルシアン。
ルシアンに寄り添う黒髪の若い女性。
無言の巨躯、ゲオルグ・ディートリヒ。
そして、彼の背を守るように立つ副官イリーナ。
揺れる灯火が、五人の影を歪に伸ばした。
「――冷蔵庫プロジェクトが通った。次の動きは見えている」
ラムダは手を合わせるように指を組み、淡々と告げた。
その声音とは裏腹に、瞳の奥には微かな期待と焦燥が灯っている。
「リーナたちは間違いなくウォーレン子爵領へ向かう。禍石とミスリルの流通を確保するには、あそこを通るしかない。だが……あの領には暴徒化した“君たちの信者”がいる」
そう言って、横目でルシアンを見る。
ルシアンは頬杖をつきながら女性の腰を抱き寄せ、気だるげに答えた。
「おいおい、あいつらは“俺の信者”じゃないさ。
俺は舞台に立ってるだけ。煽ってんのはそっちだろ、ラムダ」
その横で女性が肩を揺らして笑う。
艶やかに垂れた黒髪が、灯に照らされて金のように光る。
「でもルシアン。あなたが前に出ると、みんな夢中になるわ。
……まるで本当に神様みたいにね」
ルシアンは鼻で笑い、肩をすくめた。
「悪い気はしないけどな」
ラムダは小さく頷き、話を進める。
「暴徒が暴れ続ければ、リーナたちの進行が乱れる。適度な“試練”は必要だが、完全な暴走は不都合だ。だから――ゲオルグ、君たちに抑えてほしい」
ゲオルグはほとんど反応を見せなかった。
ただ、しばし沈黙のあと、石のように硬い声を落とす。
「……皇帝を殺せれば、他はどうでもいい。
イリーナ、行くぞ」
踵を返し、薄暗い通路へ消えていく。
イリーナは一瞬だけラムダを刺すような目で睨み、彼の背を追った。
階段を上ったところで、部下五人がイリーナを取り囲む。
「イリーナさん……本当に行くんですか?」
「俺たちは……いつまでこんな真似を?」
「俺たちは帝国の盾だったんだ。もう……耐えられませんよ」
押し殺した不満。
迷いと怒り。
その全てがイリーナの胸を焼いた。
「命令だ。従え。
……嫌なら今ここで抜けろ」
五人は黙る。
だがその沈黙は、従順ではなく“限界”の気配だった。
イリーナは一度階段を見上げ――
反転し、再び地下へ戻った。
足音も呼吸も殺し、気配を消す。
次の瞬間、ラムダの背後に影が落ちた。
剣気が奔り、冷たい刃がラムダの首へ触れる。
「……何かな?」
ラムダは驚きも見せず、楽しげに問いかけた。
イリーナは噛み殺した怒りをそのまま声に乗せる。
「勘違いするなよ、ラムダ。
私たちはゲオルグ様の命で動く。
だが――貴様の犬ではない」
刃先が喉元に浅く食い込み、ラムダの肌がわずかに赤く染まる。
「もし貴様がゲオルグ様を“利用”しているだけなら――」
イリーナの声は低く、鋭い。
「私は迷わず、その首を落とす」
ラムダの口元がひくりと笑みに歪む。
「怖いな。だが、誤解だよ。
私はただ……彼の望みに手を貸しているだけさ」
イリーナは息を吐き捨てるように剣を収め、踵を返す。その背中からは、怒気と哀しみが入り混じった熱が滲んでいた。
イリーナが去った礼拝堂に、静寂が戻る。
ルシアンが大げさに肩をすくめる。
「おい、ラムダ。……平気なのか?
俺は別に世界がどうなろうとどうでもいいが、巻き添えはごめんだぞ」
ラムダは影のような笑みで返す。
「大丈夫。ゲオルグは“皇帝殺し”という一本の糸を生き甲斐にしている。
その糸が切れない限り、どこにも行かない。
イリーナも……本当は分かっているよ」
すると、ルシアンの隣の女性がラムダに艶めいた視線を向け、囁いた。
「ねぇ、ラムダ。あなた、
人の心は読めても……女心は全然分かっていないのね」
ラムダはわずかに眉を上げ、静かに笑った。
「……僕は“心の声”を聞くだけだ。
本当の心なんて、分かりたいとも思わないさ」
灯火が揺れ、影が伸びた。
ムダの密談を終えたゲオルグ一派もウォーレン領へ向けて静かに動き出した同じ頃、ウォーレン子爵はすぐさま自領へ戻るため馬車を走らせていた。
帝都に残っていたカイたちは、リーナから任務説明を受け、装備を整え、アルノルトとの最終の打ち合わせを行っていたため出発は、議会から 一週間後 となった。
さらにリオネールで三日滞在し、そこから再び馬車で山道を北上する。
ウォーレンが領へ戻って 二週間ほど経った頃――ようやくカイたちは目的地へと辿り着いた。




