第108話「月下美人」
夜の帝都。
アルノルト邸の明かりが次々と消えていく中で、執務室の窓だけがまだ灯っていた。
机の上には、整然と積まれた帳簿。その端に、ひとつだけ異質なもの――小さな革のポーチ。
旅立ったコハルの忘れ物だった。
リーナはそれを手に取り、口紐のほつれを直す。
「まったく……まだまだ子どもだな」
そう言って笑ったが、その声音には、ほんのわずかな寂しさが混じっていた。
「まだ起きてたのか」
背後から声がした。
扉の隙間から入ってきたのは、ソウマだった。いつものように静かで、しかしその目は彼女の疲れを正確に捉えていた。
「少し、仕事の整理をね」
「……眠れないのか」
「そうだな、少し落ち着かない」
晩夏の夜、帝都アルノルト邸の中庭に、ひとつだけ白い花が咲いた。
月の光を受けて透き通るように輝くその花――月下美人。
昼のあいだは影も形もなく、夜にだけ咲いて、夜明けとともに散る。
ふと風が通り抜けた。
花弁がかすかに揺れ、甘く濃い香りが部屋の中まで流れ込む。
リーナは帳簿を閉じ、ペンを置いた。
「……咲いたんだな」
母が好きだった花。
家計が傾いても、病に伏しても、母サリナはこの花だけは欠かさず育てた。
『人も花も、咲く時を選べない。だから咲けるときに咲きなさい』――そんな言葉を思い出す。
「寝るつもりだったんだけど、月下美人が咲いてね」
「それは、逃すわけにいかないな」
リーナは窓の外に視線を向けた。
「ソウマ……母さんと、少し似てるって言われたら怒る?」
「光栄だ」
「似てるのは、頑固なところだけどな」
「なら、なおさらだ」
ソウマはそれだけ言って、彼女の隣に立った。
二人の間に言葉はいらなかった。
窓の向こうの白い花を見つめながら、ただ、同じ風を感じる。
「コハルの忘れ物か?」
「うん。出発の朝に、机の端に置きっぱなしだった」
「……寂しいか?」
リーナは少し考えてから、笑った。
「……寂しい。でも、それを言ったらあの子が困るだろうな」
「お前が寂しい顔してるのを、あの子は見たくないだろうな」
「寂しいけど、それは悪いことじゃない。あの子が、ちゃんと自分の足で歩いてる証拠だから」
沈黙。
外の月が雲間から顔を出す。
その光が、白い花をより一層まぶしく照らした。
ソウマは窓際に歩き、月を見上げた。
背を向けたまま、ほんの少しだけ肩を寄せる。
二人の間を風が通り抜け、カーテンを揺らした。
「……背中を向けてるのは優しさ?」
「正面から見ると、泣き顔が見えるだろ」
リーナが小さく笑った。
「ずるいな。そういうとこ」
言葉の代わりに、静けさが降りた。
机の上のポーチの中で、小さな鈴が“ちりん”と鳴る。
月の光がリーナの頬を淡く照らした。
「コハル。ちゃんとやってるかな」
「やってるさ。……あの子はやっぱりリーナによく似てる」
「そう?」
「負けず嫌いで、怖いくらい優しい」
「ふふ、それは否定できないかも」
リーナはソウマに背中を預けた。
「ありがとう」
「何が」
「たぶん、こうしてくれるだろうと思ってた」
「それは……読まれてるな」
「商人だからね」
笑い声が小さく重なった。
そのとき、窓の外の花が、ひときわ強く香った。
リーナはそっと目を閉じる。
「母さん。あの子も、ちゃんと咲いてるよ」
――同じ月の下。リオネールの郊外。
屋根の上でコハルが膝を抱え、夜風を受けて耳を揺らしていた。
遠い空の香りが、ほんの一瞬だけ鼻先をかすめる。
「……リーナの家の匂いだ」
下から、サラの声がした。
「コハル? そんなところで何してるの?」
「月、見てた」
「そっか、私もそこに行っていい?」
コハルはそっと頷いた。サラはゆっくりコハルの隣に座って、優しく、少しだけコハルを見る。
「リーナがいないの、寂しい?」
「それもあるけど、それだけじゃない。
ここは、あの人に拾われた場所なんだ」
サラは静かに見上げる。
「……あの人って?」
「リーナの母さん。あの人がいなかったら、今の私はいない」
コハルは空を仰ぎ、白い息を吐いた。
「ねえ、サラ。昔の話、してもいい?」
「もちろん」
月が雲を離れ、夜の世界を銀色に染めた。
その光の中で、コハルの瞳は静かに揺れていた。
――夜香る花が、遠く離れた二つの心を、確かに結んでいた。




