第107話「リオネールの空の下」
帝都を出て三日。
街道を覆う雲は日ごとに薄れ、空の色は青から琥珀へと変わっていった。
夏も終わりに近い。朝ごとに風は冷たくなってきて、夜ごとに星が近づいてくる。
荷車の軋む音と、蹄の乾いた響きが旅のリズムになっていた。
カイは毎朝、夜明け前から剣を振った。
刃が風を切るたび、露を払う音が草原に散る。
汗が首筋を伝い、まだ冷たい空気を震わせた。
その背を見ながらザイルが煙草を咥える。
「……おい、気合い入りすぎだ。旅はまだまだこれからだ。そんなに飛ばしてたら息切れすんぞ」
カイは手を止めず、短く答えた。
「この任務、失敗できないから」
「そりゃそうだがよ。肩に力入りすぎると、刀の方が泣くぜ」
ザイルは肩をすくめ、すぐ近くで焚き火を整えていたミラに視線を送る。
「なあ、ミラ。リオネールに着いたら、カイに声かけてやってくれ。なんでもいい」
「え? なんで私が?」
「お前の声、落ち着くんだとよ」
ニヤリと笑い、ザイルは立ち上がった。ミラはぽかんとしたまま、赤くなった頬を火に向けた。
その傍らで、コハルが新しい武器の試験を続けていた。
魔力を通すと、鞭が短く唸る。光の線が淡く走り、すぐに消えた。
「……前より軽い。反応も早い。前みたいな切れ味はないけど確かにいいかも!」
指先の動きで制御しながら、息を整える。
以前のような高揚感はない。だが、手の内に残る“確かな手応え”があった。
タリアの調整は間違いなく成功している。
焚き火の煙が湿った風に流れ、焦げた木の匂いが漂う。
サラは薬瓶を整え、ルッツは地図の上に指を滑らせて次の宿場を確かめる。
「順調ですね。あと二日で丘を越えれば、平原が開けます」
「その平原が長ぇんだよな」ザイルが笑う。
カイは少し離れた場所で、剣を磨いていた。
火の明かりが刃に映り、赤い線を描く。
剣を振っている時だけ、心が静まる。
それ以外の時間は、胸の奥で常に何かが燃えていた。
* * *
六日目の朝。
風が変わった。湿り気を帯びた帝都の空気とは違い、乾いた匂いがした。
山を抜けると、眼下に一面の小麦畑が広がる。青々とした澄んだ空気に自然と呼吸も深くなる。
丘の向こう、陽光を反射する白い城壁。
「リオネールが見えてきた」
誰ともなく漏れた声に、全員が顔を上げた。
帝都のような煌びやかさはない。だが、そこには穏やかさがあった。
畑の間を歩く人々の表情は柔らかく、露店には焼き立てのパンと果実の匂いが満ちていた。
戦や陰謀の影が遠い、別の国のような静けさ。
「……はんと、いい街だよな」
カイが呟く。
ミラが隣で微笑む。「うん、みんな幸せそう」
その言葉に、カイの肩からようやく力が抜けた。
* * *
夕方。
宿を決め、荷を降ろしたあと、カイは一人で中央広場のベンチに腰を下ろしていた。
手の中には、ぼろぼろになったノート。
ソウマから譲り受けた手帳は、角が擦り切れ、文字の跡が手に染みつくほど読み込まれていた。
「また、それ見てるんだね」
集中していたせいで、隣にミラが座っていたことに話しかけられるまで気づかなかったカイは少し驚く。隣に座るミラを吸い込まれるように見てしまい、視線を無理やり前に戻した。
「うん。俺にとっては、ここに全部書いてある」
「全部?」
「考え方も、答えも、やるべきことも」
カイは少し笑った。
「ソウマさんに貰ったんだよね?いいなーカイだけなんてずるい!ちょっとだけ見せてよ」
笑顔でにじり寄るミラに、カイはノートを後ろに回して答える。
「これは誰にも見せられない。いくらミラでも」
「えー、いいじゃん。見せてよー」
身を寄せてノートを触ろうとするミラ。
「ダメって言ってるだろ…」
小さな頃から、こうやって二人で戯れていたことを思い出して笑い合う二人。
さらにミラが手を伸ばしたところで、バランスを崩した。
「うわっ!」
反射的に支えたカイの腕の中に、ミラの身体が収まる。
顔が近い。呼吸が聞こえ、汗の匂いが鼻をくすぐる。
「ご、ごめん……!ちょっと調子に乗りすぎちゃったかな…」
「べ、別に……いいけど……」
互いの頬が赤く染まり、視線が宙を泳いだ。
風が通り抜け、ノートのページをぱらりとめくる。小さなころとの戯れとは違う何かが二人を包んでいた。
「……これからが本番だな。ミラ、頼りにしてるから」
ミラは隣で小さく頷いた。
夜の灯が点り始め、リオネールの街に穏やかな音が満ちていく。




