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異能者 風見弘樹の遍歴

人妻優香の恋人 ~引きこもりの息子に友達がほしい母親の諸事情について~

作者: G3M

1.

 夏休み中の八月初旬、クラスメイトの健一からメールが来た。誕生日会に来いという。中学生にもなって誕生日会なんてするのかと呆れたが、断るのも角が立つので行くと返事をした。だが、前日に連絡をよこすなんて何か事情があるはずだ。おそらく急に来れなくなった参加者の穴埋めだろう。


 誕生日プレゼントは何にするか。突然とはいえ、手ぶらでは行けない。買いに出る時間の余裕がなかったので、自分の部屋にあるもので間に合わせることにした。父親が仕事先でもらってきたマンガ家のサイン色紙と何かの懸賞で当たった女の子のフィギュア。どちらも処分に困って押し入れに放り込んであったものである。健一はアニメおたくだからちょうどいい。


 次の日の午後、弘樹は出かけた。アブラゼミの鳴き声がうるさい晴天の猛暑日だった。健一とは小学生のときからの付き合いだが、それほど仲が良いわけではない。だが何度か家に遊びに行ったことがあるので、住所は知っている。


 住宅街の一角にある一軒家の呼び鈴を押した。母親らしき女性の声がインターホンのスピーカーから聞こえたので、名前を名乗った。「健一君の友達の風見弘樹です。」


 玄関のドアが開いて、丸顔の女性が顔を出した。健一の母親の優香だった。「弘樹君、いらっしゃい。入ってちょうだい。」


 弘樹は「おじゃまします。」と言って家に上がった。玄関ホールにいた健一に「誕生日おめでとう」と言って、もってきた紙袋を渡した。健一は照れくさそうに「ありがとう」と言って受け取り、太った体で袋を抱きかかえた。


 呼ばれたのは弘樹だけだったらしい。健一と優香と弘樹はテーブルについて、大きなバースデーケーキを囲んだ。弘樹と優香はハッピーバースデーの歌を歌い、健一がケーキに刺された十四本のロウソクの火を吹き消した。


 母親が切り分けてくれたケーキを食べているとき、健一が紙袋を開けた。ぞんざいに放り込まれた色紙とフィギュアを取り出して大喜びをした。「うわあ、山留先生のサイン色紙だよ。それにメルルちゃんのフィギュアだ。本当にもらってもいいの!」


「家にあるものを持ってきたんだ。ちゃんと準備できなくてごめん」と弘樹は正直に言った。


「そうなの?こんなの持ってたなんて、弘樹君すごいよ」と健一。



2.

 弘樹は社交的な性格ではない。気まずくならないように健一と話題を合わせていたが、間が持たなくて苦しかった。優香が弘樹の趣味について話をふってくれたので、ピアノを弾くのが好きだ言った。だだっ広いリビングルームの端にピアノが見えていたから。これ以上会話を続けるくらいなら、即興でピアノ演奏を披露する方がましだと思った。


 優香がアップライトピアノのふたを開けて鍵盤を布でふき、弘樹に椅子の高さを合わせてから、どうぞと勧めてくれた。「このピアノは健一のために買ったのだけど、もう誰も弾いていないの。調律を何年もしてないから、ちゃんと音が出るかどうか分からないわ。」


「そんなに上手ではないので、調律なんて関係ないです」と弘樹。


 誰でも知っていそうな曲を何曲か弾いて時間をつぶした。弾いているうちに楽しくなって止まらなくなった。健一のために、知っているアニメソングはすべて弾いた。


「ごめんなさい。下手な演奏をおきかせして」と言って立ち上がった。優香が拍手をしてくれた。


「弘樹君ってすごいのね。こんな楽しい演奏を聞かせてくれた人は初めてよ。お茶を入れるからこちらに座って休んでちょうだい」と優香。


 お茶を頂いたら、お暇しようと弘樹は思った。


 リビングルームの座卓の前には大きなテレビ画面に接続されたゲーム機が置かれていた。健一がゲームをしようと弘樹を誘った。


 お茶を飲みながら、弘樹は健一と対戦型の格闘ゲームを始めた。肥満児でどんくさい健一は、ゲームでは俊敏だった。対する弘樹はゲーム機など触ったことがなかったので四苦八苦した。弘樹が慣れてくると、まあまあ互角で戦えるようになった。


「弘樹って上達が早いね」と健一。


 弘樹はボタンを押すだけのおもちゃに上達もくそもあるかと思った。「結構難しいね。健一君には勝てないよ。」



「トイレに行ってくるよ」と健一が立ち上がって部屋を出た。弘樹は今度こそお暇しようと腰を浮かしかけたとき、優香と目があった。


「弘樹君、もうちょっと健一といてあげてくれないかしら」と優香。


「でもそろそろ時間が」と弘樹。


「もし用事がないなら、夕飯も食べていってほしいの」と優香。


「用事はないですが、親に連絡をしておかないといけないので、電話してみます」と弘樹。


「いいわ、私から弘樹君のお宅に電話するわ」と優香。


 親同士で面識があって電話番号を交換していたのだろうか。優香は弘樹の母親に、息子さんをもう少しお預かりします、と伝えた。一応、弘樹からも帰りが遅くなることを母親に伝えた。


「健一は夏休みが始まってから、私以外の誰ともしゃべってないの。健一には友達が少なくて」と優香。


「ぼくも友達が少ないので、ちょうどよかったです」と弘樹は話を合わせた。


「この頃は私にもぞんざいで、部屋から出てこないことが多くて心配なの」と優香。


 中学生の男子はそんなものだろうと思いながら「やさしいお母さんで健一君がうらやましいです」と弘樹は答えた。



3.

 父親は海外に単身赴任しており、普段は家にいないという。だから夕飯も三人で食べることになった。弘樹は、自分が話せることは何でも話そうと腹をくくった。


 健一はそそくさと食べ終わると、見たいアニメがあるといってリビングルームに行ってしまった。「終わったらすぐ戻ってくるから。」


 弘樹と優香が食卓に残された。弘樹は食が細く、食べるのに時間がかかる。


「弘樹君は夏休み、どこかお出かけしたの?」と優香が聞いた。


「はい。クラブの合宿に行きました」と弘樹。


「どんなクラブなの?」と優香。


「すごくマイナーな武術のクラブです。両親が武道きちがいなので習わされているのです」と弘樹。


「あら、ご両親のことをそんなふうに言っちゃだめよ」と優香。


「でも本当だから」と弘樹。


「お母さんは優しいのでしょう?」と優香。


「いいえ。とても厳しくて……。母が食事とトレーニングの管理をしていて、こんなにおいしいご飯とか、ケーキなんて食べるは久しぶりです……」と弘樹。


「あなたのことを思ってのことでしょう?」と優香。


「どうでしょうか。ぼくには分かりません」と弘樹は正直に答えるしかなかった。


「そういえば、小学生のころ健一がおもちゃを上級生に取られたとき、弘樹君が取り返してくれたわね。とっても強かったって聞いたわよ」と優香。


「あの後、父親にひどく怒られました。殴られて、肋骨が折れました」と弘樹。


「そうだったの。ごめんなさい。知らなかったわ。今度お父さんに会って私からちゃんと説明するわ」と優香。


「ぼくが技を使ったからいけなかったんです。だから、うちの親には何も言わないでください。父が思い出したら、また怒られてしまいます」と弘樹。


「そうなの。わかったわ」と優香。


「弘樹君には兄弟がいるのかしら。」と優香がさらに気安く聞いてくる。


「姉と妹が一人ずついます」と弘樹。


「あら、華やかね」と優香。


 弘樹はどうにでもなれという気持ちになった。「姉は何種目かの格闘技で全国大会に出るほど強いんです。いつも鋭い目をしていて、一緒にいると胸が苦しくなるんです。それから妹は両親に反発して、ほとんど家では話をしないんです。とても気難しくて、いつも悲しそうで、でもぼくにはどうしてあげることもできないんです。ぼくはただ親に言われたとおりにするしかなくて……。」


「テレビ終わったよ」と健一が戻ってきて言った。「デザートないの?」


 プリンを食べ終わると、健一はまたゲームをしようと言った。ゲームでも格闘技なんて胸が悪くなりそうだが、仕方がない。「いいよ」と言いながら弘樹はピアノを弾きたいと思った。



4.

 真夜中になるころには、かなりゲームをやりこんでいる健一とほぼ互角になった。


「そろそろ帰らないと」と弘樹。


「もう泊まっていけよ」と健一。


「泊まれるように、弘樹君のお母さんに私が電話してあげるわ」と優香が言った。弘樹はなぜか少しうれしかった。


 日付が変わる時刻までゲームをした。それから風呂に入って、健一の部屋に布団をひいてもらって床に就いた。弘樹は全く寝られなかった。健一はひどいいびきをかいて寝ている。


 少し外を歩きたかったが、人の家でそれはできない。だからトイレに行くことにした。そっと階段を下りていくと、優香がまだ起きていた。


「あら、どうしたの?」と優香。


「目が覚めてしまって」と弘樹は正直に答えた。


「そうなの。ならちょっとお話しない?」と優香。


「はい」と弘樹は誘われるままにリビングルームに入った。


「弘樹君、今日はありがとう」と優香。


「いいえ。ぼくのほうこそ、ごちそうになって」と弘樹。


「あんなに楽しそうにしている健一を見たのは久しぶりだわ。弘樹君のおかげよ」弘樹。


「とんでもないです。お母さんがやさしいからだと思います」と優香。


「そうかしら。あなたのお母さんも、きっと心の中ではあなたのことを大切に思っているわ」と優香。


「そんなことはないと思います。本当の親子ではないですから」と弘樹。


「え?」と優香。


「ぼくは父の連れ子で、姉は母の連れ子です。妹は今の両親の子供です」と弘樹。


「ごめんなさい」と優香。


「いいんです。弱くて何もできないぼくが悪いんです」と言うと、弘樹は胸が苦しくなって涙があふれ出た。


 優香は思わず弘樹を抱きしめた。「あなたはとても強いわ。弱くなんかないわよ」と優香。


「そんなこと言ってもらえるの、初めてです……」と気がつくと弘樹は夢中で泣いていた。寝間着越しの優香の胸の中は柔らかくて心地よかった。


 優香はしゃくりあげる弘樹をソファーに座らせた。「大丈夫よ。今晩は私が一緒にいてあげるから」と優香はあやすように弘樹の頭と背中をさすった。優香は弘樹と目があった。それから唇を重ねた。優香はネグリジェを首までたくし上げて胸を弘樹の顔に押し付けた。二人は下着を脱ぎ、体を重ねた。



 弘樹は健一の部屋に戻ってぐっすり眠った。翌朝、弘樹は健一に起こされた。三人で朝食を食べ、一回だけ健一と格闘ゲームをし、そして「お暇します」と言った。


 優香は「またいつでも遊びに来てね」と答えた。


 弘樹はドアを開けて外に出た。日差しがまぶしかった。




5.

 誕生日会の後、弘樹は毎日のように健一の家に遊びに行くようになった。


 八月下旬のある日の午前中、健一と弘樹はいつものようにリビングルームのゲーム機で遊んだ。昼ごろになるとゲームに飽きた弘樹はキッチンに行き、昼食を準備している優香の手伝いをしていた。


 呼び鈴が鳴った。「お客さんよ、健一、玄関に出てちょうだい」と優香は、一人でゲームをしている健一に言った。


 健一は部屋を出て玄関のドアを開けた。「お父さん!」と大きな声を上げた。


 「何ですって!」と優香が言って玄関に向かった。


 優香に続いて弘樹は廊下に出た。玄関では中年太りをした背の高い男が靴を脱いでいた。健一の父親の孝雄だろう。健一から、父親は商社に勤めていて、今は東南アジアで駐在員をしていると聞いていた。


 旅行帰りらしく、脇に黒いスーツケースが置かれている。ポロシャツに綿パンのカジュアルな服装で、顔はよく日に焼けていた。


「ずいぶん突然ね」と優香が言った。


「今朝、空港に着いたんだ」と孝雄。


「先月の仕返しのつもり?」と優香。


「急にチケットが取れたんだ。昨今のテロ騒ぎで航空券は取り合いなんだよ」と孝雄。「お前も知ってるだろ?」


「あなた、携帯電話を持ってないの?」と優香。


「サプライズで驚かそうと思ったんだよ」と孝雄は言いながら、上がり框をあがって健一の頭を撫でた。「元気にしてたか?」


「うん。元気だよ」と健一はうれしそうに答えた。


「その子は健一の友達か?」と孝雄は弘樹を見て言った。


「弘樹だよ。うちに遊びに来てるんだ」と健一。


「お邪魔しています」と弘樹は頭を下げた。


「弘樹君、初めまして。私は健一の父親だ。今日、マニラから帰ってきたんだよ。だが気にしないでゆっくりしていってくれ」と気さくに言った。


「本当に気にしなくていいわよ」と優香は弘樹に言った。


「座らせてくれよ」と孝雄。「疲れたし、腹が減ったよ。」


「今、昼食を用意していたところよ」と優香。「テーブルに座って。」



6.

 孝雄はキッチンから一番離れた席に座った。


「健一、久しぶりだから、あなたはお父さんの隣に座りなさい」と優香は言った。


 健一は孝雄の隣に、弘樹はその向かいに座った。優香はカルボナーラを盛りつけた四人分の皿をそれぞれの前に並べ、弘樹の左隣に座った。


 健一は「おいしい、おいしい」と言いながら、大盛りのパスタをあっという間に平らげた。「ごちそうさま、ぼくはゲームをしてくるよ」と言って席を立った。


 健一の早食いはいつものことだが、弘樹は険悪な雰囲気の夫婦の間に残されて少し戸惑った。しかも、皿にはいつもより多く盛りつけられている。食の細い弘樹には到底食べきれる分量ではない。


「弘樹、来いよ」と健一が誘った。


「弘樹君はまだ食べてるでしょ。一人で遊んでなさい」と優香が言うと、健一は隣のリビングルームに姿を消した。すぐにゲーム機の音声が室内に響いた。


「あなた、ドアを閉めてくださらない?」と優香。


 孝雄がリビングルームとダイニングルームの仕切りのドアを閉めると静かになった。優香はテーブルの下で弘樹の左手首を握った。


「それで、あちらの家はあなたがいなくても大丈夫なの?」と優香。


「メイドがいるから問題ないよ」と孝雄。


「そのメイドは元気なのかしら?」と優香。


「二人目の子供が生まれそうだ」と孝雄。


「そう。よかったわね。それであなた、ここへは何しに来たの?」と優香。


「待ってくれ、ちゃんと説明する」と孝雄。「そのために帰ってきたんだ。だが……。」


「何かしら?」と優香は言った。


「弘樹君がまだ食べ終わってないじゃないか」と孝雄。


「かまわないわ」と優香は冷たい目を孝雄に向けた。弘樹は普段の優香とは別人のように感じた。「説明して。」


「わかった。先月のことは謝る。突然来るとは思っていなかったんだ」と孝雄。


「健一のことで、どうしても直接会って相談したかったのよ。電話では埒が明かなかったから。それに、あらかじめ私が行くと伝えたら、あなたはスケジュールを調整するとか言って先延ばしにするでしょ」と優香。


「お前が来るときは、ちゃんと準備をして迎えるつもりだったんだよ」と孝雄。


「玄関で追い返されると思わなかったわ」と優香。


「すまん。メイドにお前のことをまだ説明していなかったんだ」と孝雄。


「彼女はあなたの妻だと言ってたわよ。子供もいるって、赤ん坊を見せられたわ」と優香。


「慣例なんだ」と孝雄。「駐在員は現地でメイドを雇うとき、結婚の手続きをするんだよ。ただし、婚姻届と離婚届の両方を作っておいて、帰国する時に離婚するんだ。」


「そんなことを私に説明する気だったの?」と優香。


「そうじゃない。日本から妻が来るときには、現地妻はメイドのふりをして、子供は妻の親族に預けるんだ」と孝雄。


「その準備ができなかったから申し訳ないと?」と優香。


「そうだ。本当に申し訳ない」と孝雄は頭を下げた。


「私がそれで納得すると思っているの?」と優香。


「駐在員の仕事は過酷だから、その分手当てがつく」と孝雄。「それに、給料に含まれない収入も結構あるんだ。だから、君への仕送りを増やすことができる。」


「お金で解決したいのかしら?」と優香。


「そういうことじゃなくて、オレの立場も考えてほしいっていうことだよ」と孝雄。「それがお前のためにもなるんだよ。」


「あちらの子供はどうなるの?」と優香。


「もちろん、現地で育てさせるよ」と孝雄。「日本には絶対に連れてこない。約束する。」


「そんな約束いらないわ」と優香。「子供は男なの?女なの?」


「女の子だ。お腹の子供も女の子のはずだ」と孝雄。


「健一には会わせないの?腹違いの妹よ」と優香。


「いずれ、健一が社会のことを理解できる歳になったら話すつもりだ。だが、今は知らせない」と孝雄。


「家族に自分の都合の悪いことを隠すのが、あなたのやり方なのね」と優香。


「必要な嘘があるんだよ」と孝雄。「すべてを教えることが子供にとっていいわけじゃないんだ。」


「そうやって、自分は立派な社会人のふりをするのね」と優香。


「社会的な立場とか、世間体だとかも守らなきゃならないんだ」と孝雄。「お前だってわかるだろ。旧家のお嬢様じゃないか。」


「わたしは体裁ばかり気にする人が嫌いなの。他の人からどう思われるかなんて、どうでもいいのよ」と優香。


「だが、オレは困るんだよ」と孝雄。


「あなたのことが嫌いだわ」と優香。「もう、帰ってこなくていいわよ。」


「ここはオレの家だろ?」と孝雄。


「なら私が出ていくわ」と優香。


「待てよ。離婚する気なのか?」と孝雄。


「仕方がないでしょ」と優香。


「待ってくれ。離婚だけはやめてくれ」と孝雄。「オレが会社で強い立場でいられるのは、お前のお父さんの後ろ盾のおかげなんだよ。」


「あなたの都合で夫婦を続けるなんて嫌よ」と優香は不快そうな顔をした。


「わかった。このまま離婚しないでいてくれたら、お前の言うことを何でも聞く」と孝雄。


「何でもですって?」と優香。「よほど会社員の身分と愛人との生活が大切なのね。」


「何とでも言ってくれ」と孝雄。「オレが個人でできる約束なら何でも聞く。だから頼む。」


「本当なの?」と優香。「その場しのぎの口約束だったら許さないわ。」


「弘樹君には気の毒だが、証人になってもらう。弁護士に来てもらってもいい」と孝雄。「だからお前の気の済むような条件を言ってくれ。」


「いくつでもいいの?」と優香。


「もちろんだ。好きなだけ言って構わない。飲める条件はすべて飲む」と孝雄。


「そう。わかったわ」と優香。「まず、この家は私がもらうわ。あなたは夫婦のお芝居に必要な時だけ、ここに来てもいいことにする。それから、あなたの資産の半分を私の名義にして。もちろん、今まで通り健一と私の生活費を毎月いただくわ。」


「わかった」と孝雄。「他は?」


「あなたとはもう他人よ。私は愛人を作るわ」と優香。


「いいだろう」と孝雄。「それから?」


「愛人の子供を産むわ」と優香。「そして、戸籍上はあなたとの間の子供として育てる。その子の養育費ももらうわ。」


「オレも現地妻との間に子供がいるからお互い様ということか」と孝雄。


「そうね。仕方がないでしょ。離婚できないのだから」と優香。


「わかった。すべての条件を飲むよ」と孝雄。「だが、健一の前では夫婦のままでいてくれないか。頼む。」


「かまわないわ」と優香。「だけど、いずれ仮面夫婦だってばれるわよ。」


「そのときは仕方がない」と孝雄。「オレが責任をもって説明する。」


「健一は今のまま、あなたに放っておかれるのね」と優香。


「ここにいる間はちゃんと相手をする」と孝雄。


「頼んだわよ」と優香。



7.

 少し間があって「ところで、今、お前に愛人がいるのか?」と孝雄が言った。 


「あなたには関係のないことよ」と優香。


 弘樹は居たたまれない気持ちになって、優香の顔を見た。


 弘樹と目が合った瞬間、優香はいつもの優しい表情に戻った。「一緒にいてくれて、ありがとう」と言って、右手で強く握っていた弘樹の手首を放し、弘樹の肩から背中をやさしくなでた。


 それを見ていた孝雄は「まさかお前の愛人って、弘樹君のことなのか?」と言った。


「それがどうしたの?」と優香。


「彼は中学生だろう?」と孝雄。


「そうよ」と優香。


「それは犯罪だよ」と孝雄。


「あなたが警察に通報するの?」と優香。


「そんなことはしない」と孝雄。


「なら問題ないわ」と優香。


「弘樹君、いいのかい?」と孝雄は弘樹に言った。


 弘樹はちらりと優香と目を合わせてから、孝雄に向き合って「はい。ぼくは優香さんを愛しています」と言った。



 優香が立ち上がって、リビングルームとダイニングルームを隔てている引き戸を開けた。リビングルームでは健一がテレビゲームを続けていた。


「健一をどこかへ遊びに連れて行ってちょうだい。五月からずっと家から出てないのよ」と優香。


「学校に行ってないのか?」と孝雄。


「そうよ。電話で言ったでしょ」と優香。「夏休みの間はずっと家で弘樹君に遊んでもらってたのよ。」


「すまなかったな」と孝雄は弘樹に言った。



 人生で最悪の交渉だったと孝雄は思った。玄関を出て、健一と庭のアプローチを歩いた。


 孝雄は、ガレージに駐めてあった高級外車のエンジンをスタートさせた。助手席に座らせた健一に「どこに行きたい?」と聞いた。


「ゲームセンター!」と健一は元気に答えた。


 早くマニラの家に帰りたい、と孝雄は思った。


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