ミラーワールド
一瞬で風景が変わり、僕は薄いグレーの壁に囲まれた小さな部屋に立っている。これがレナルテの特徴の一つである、『ホームボックス』だ。僕は空中に浮かんでいるアイコンから、ミラーを選ぶ。と、前面に今の僕の姿が映る。寝間着のスェット姿だ。
「スェットはないよな」
最初にスキャンした時、フロート・ピットはまずその時の衣装を再現する。僕は横に並ぶ衣装の候補から、白の長Tシャツと、黒のズボンを選ぶ。一瞬で僕の服装が変わった。ちょっと無味乾燥だが、まあ、気取るような席でもない。
このミラーに映る僕の姿は、現実の僕の姿そのものだ。が、これも実はアバターである。この現実的なアバターは『ミラリア』と呼ばれているが、ゲームプレイヤーでもない限り大半の人が使用するのはこのミラリアの方だ。
20年ほど前に起きた新型コロナウィルスの流行で、一時的にリモートワークが流行った。しかしコロナ禍が収まるにつれて、また元の対面式の仕事スタイルに戻っていく。が、一部はやはりリモートワークの利便性が残り、リモートと対面の並走は続いた。
けど、ミラリアを使用したレナルテでの仕事は、リモートであると同時に対面であることを可能にする。ビジネスシーンでミラリアが使われるようになると、プラットフォームとしてのレナルテの普及度は一気に高まった。
「札幌ね…」
僕はお気に入りのメニューから札幌駅前(夜)を選ぶ。一瞬にして、僕は夜景も美しい札幌駅前の広場に立っていた。このレナルテの札幌はメタバースの札幌であり、完全に札幌の光景を再現している。
このような現実的なメタバースはデジタルツインとかミラーワールドと呼ばれていたが、企業の会議室などの個別的な再現をデジタルツイン、広範囲なエリア再現をミラーワールドと呼ぶのが現在では普通だ。
レナルテが大きく広まったのは、このようなデジタルツイン製作の容易さにも一因がある。数枚の画像や動画データから、自動的に計算して立体地図を創る機能がレナルテには備わっている。画像を追加したり、直接、アバターとして中に入って細かい点を微調整できたる点も利便性があった。これはファンタジーゲームの舞台になるような仮想世界も、非常に簡便に作れることを意味した。
が、それ以上に重要だったのは、現実界のミラーワールドを簡便に作れることだった。そのため世界中の大体の大都市や観光拠点は、ほぼレナルテのミラーワールドを製作した。観光拠点は主に昼間のミラーワールドが多いが、都市部は夜の街を敢えて別に再現しているところが多い。現実の時間に合わせないのは、夜中に昼間の観光拠点に行きたい人もいるし、時差もある海外の訪問者の事を考えての処置である。
「まだ来てないかな」
辺りを見回す。と、不意に人が出現した。小柄な眼鏡をかけた女性である。ロングソックスとキュロットパンツに、トレーナー、薄いベージュの上着を身に着けた可愛らしい格好だ。眼鏡がノワルド時の赤ではなく、黒縁だがマリーネのミラリアである。
「あ、キアラさん、お待たせしました」
「いや、僕も今、来たところ」
僕は軽く笑ってみせた。マリーネのミラリアは知っているが、本名は知らない。派手さはないけど、わりかし可愛い方だと思う。まあ、けどこれが本当の現実の姿である、という保証はない。
ミラリアもアバターである以上、修正はできる。僕は面倒だし仕事上でも同じミラリアを使うので特に修正はしないが、女性はミラリアにも修正を入れる人が多い。眼をパッチリにしてみたり、ニキビや痣を消してみたり、鼻を高くする脚を長くする胸を大きくする等々だ。
それは特に問題じゃない。けど、パーティーを組む上では、ストーリー・ビューの演技に同意してくれることと、ミラリアでの打ち合わせが可能な事が、僕のパーティーメンバーの条件だった。
「――おう、二人とも早いな」
そう言って現れたのは、背の高い黒人男性である。190cmを優に超える長身は極めて筋肉質であり、露出している肩は丸々とし黒光りし、タンクトップの胸は筋肉でせり上がっていた。黒髪を短く刈り、顔の彫りが深い。日本の基準で見れば、かなりの男前である。それがレオニードのミラリアであった。
「あ、やっぱりそっちは夏なんですね」
笑みを浮かべながらマリーネが言った。レオニードはアフリカ、コンゴ民主共和国の人だ、と本人からは聞いている。
「お、そうか。日本は冬か」
「いや、東京はもう春だよ。寒いのは札幌くらいだ」
「すみません、寒い所にお招きして」
マリーネが笑いながら言った。無論、ミラーワールドには季節は関係ない前提の冗談だ。