ニア
レオニードの言葉が終わる間際に、マリーネが躊躇いがちに口に開いた。
「どうしたの?」
「この後、オフ会できますか?」
「僕はいいけど。レオは?」
僕はそう言いながらレオの方を見た。
「あ、オレもいいよ。まだ仕事まで時間あるし」
レオがそう答えたので、僕はマリーネに言った。
「じゃあ、15分後に集まろうか。何処がいいかな?」
「札幌駅前でどうですか? 今日はわたしが言い出したことですし」
「OK、じゃあそうしよう。それじゃ後で」
僕はそう言うと、レオに頷いてみせた。そしてメニューからログアウトのボタンを押す。一瞬にして、僕の意識は『ノワルド・アドベンチャー』から離れた。
*
目覚めると、薄暗い視界が入ってくる。僕はVRヘッドセットのバイザーを上げた。そうすると視界によく見知った天井が映る。此処は間違いなく、勝手知ったる我が家だ。現実の僕はベッドに横になって、VRヘッドセットを被っていたわけである。
僕は身体を起こして、VRヘッドセット『フロート・ピット』を頭から外した。フロート・ピットは見た目は王冠のようだが、後頭部を抑えるパーツは中央から分かれ、前面部にバイザーが着いている。このバイザーを降ろすのが、メタバースに入るスイッチでもある。
フロート・ピットはメタバースに意識がまるごと入るフルダイブ・システムの用具である。脳細胞の電気情報をスキャンして意識活動を読み込むと同時に、脳活動が身体に反映されないようにシャットアウトする(そうでないと、メタバースで動いた時に、現実の身体を動かしてしまうからだ)。
メタバースの『レナルテ』がオープン・プラットフォームとして公開された直後に発表されたため、レナルテの広がりとともにフロート・ピットは劇的に広まった。今ではフルダイブすることを「浮遊する」という言い方の方が浸透している。
時計を見る。
「20:47か…」
世界最大のMMORPG(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロールプレイングゲーム)である『ノワルド・アドベンチャー』の登録者数は12億にのぼると言われている。その世界『ノワルド』では、時間が経つ。ノワルド・Jでは日本時間よりマイナス8時間、つまり向うでは12:47分だったことになる。
夕方からログインすることが多いため、そのような時間設定になってるのだが、時間設定が異なる4つのワールドがノワルドにはある。J(日本)、E、I、Aとなっていて、それぞれの主要地域のマイナス8時間が、ノワルドの時刻設定となっている。
僕はフロート・ピットを外すとトイレに行って小用を足した。フロートしてる間に生理的欲求や身体的異常が見られると、レナルテにいる自分にバイオ・アラームで知らされる。ので、メタバースにいる間に粗相をしたりすることはないのだが、それでも途中で席を立ってログアウトしたりするのは面倒だ。
ついでに冷蔵庫を開けて、缶のグレープハイと栄養補給食を取り出した。冷蔵庫の中には大したものは入ってないが、酒と栄養補給食だけは常備している。栄養補給食を頬張りながら、ふと思いついた。
「レナルテの外食が多い人は、現実の食事を粗末にする傾向があるかもな…」
自分で思うと、ちょっと知りたくなったので僕は声を上げた。
「ニア、レナルテの食事と現実の食事の関係を調べて」
「判りました」
落ち着いた女性の声が響く。これは僕のAIマネージャーの声だ。便宜上、僕は『ニア』と呼んでいる。すぐに返事が返ってくる。
「レナルテで一週間に3度以上食事をする人は、現実の食費を栄養補給食等の簡単な食事で済ます傾向が高い、という調査報告をアメリカペンシルベニア大学のラドリー・マッケンジー博士の研究チームが報告してます」
「やっぱり」
「その他には、レナルテで得られる満足感が、現実の食事への満足感を減少させるという研究もあります。大脳生理学者キャサリン・ポートマンの報告です。詳細を知りたいですか?」
僕は口中の水分を奪う栄養補給食を、グレープハイで流し込んだ。その後でニアに答える。
「もういいよ。それよりビールとチューハイ、栄養補給食を注文しておいて」
「定数まででよろしいですか?」
「うん、お願い」
ニアは僕の冷蔵庫の中だけだけでなく、スケジュール管理、健康管理、財政管理までしてくれる。その都度、それぞれのオンラインサービスに頼る方法もあるが、僕は一括で個人データを管理してくれるAIを購入して『ニア』と名付けた。僕のようなやり方が大半だろう。古いSFファンの中には、AIの声を渋い男性にして、『キッド』とか『ジャービス』とか呼んでる人が多いらしい。
僕はもう一度フロート・ピットを立った状態で被る。バイザーの先端が赤く点滅しているが、これは身体をスキャンしてる状態だ。やがてそれがグリーンに変わると、スキャン完了でフロートOKのサインである。僕はベッドに横になると、バイザーを降ろした。