七話 瞬間湯沸かし器
爪をヤスリで磨きながら、ファルコスは椅子にしていた男の腹を器用に踵で蹴り上げた。四つん這いで地面に手と膝をついている男はその衝撃を逃すことができず、ファルコスが背に乗っている為に身を捩ることもできず、「ぅぐっ」と苦しそうに呻き声を上げる。
「で? メイス、これはなんの報告だ?」
メイスと呼ばれた初老の男は、ファルコスの右腕とも言うべき腹心の部下だ。ファルコスファミリーの実質的No.2といえる。
メイスは横に一人の舎弟を連れていた。頬はパンパンに腫れており、何者かに殴られた跡のようだった。
「ああ……ボス。コイツがですね、ウチの名前を出した挙句、やられて帰ってきたんですよ」
「そうか」
ファルコスが立ち上がった瞬間、メイスは横の舎弟の腹を思い切り殴りつけた。ドボン! と、完全に油断していたところに突き刺さったその拳は、水袋を叩いたような鈍い音を響かせて舎弟の口から「ぐえっ」と潰れたカエルのような音を出す。
「テメェっ! 舐められてオメオメと帰ってくるなんざ! 情けない真似してんじゃねぇぞ!」
腹を抑えて蹲った舎弟へさらに追撃をかけるメイス。蹴りや肘を落としたりと、あらゆる暴力を叩き込む。
さて、今彼らがいる場所だが。
ファルコスファミリーの拠点としている建物の、大きなロビー部分に当たる。そこにはファルコスやメイス以外にも構成員達が所在なさげに立っていた。
つい先ほどメイスが、今ボコボコにしている舎弟をここに連れてくるまでは皆がファルコスの『悪趣味』に付き合わされていたからだ。楽しそうなファルコスを除いた皆が、どこか緊張した顔つきで成り行きを見守っている。
悪趣味、とは。ファルコスファミリーから借りた(厳密には傘下にある末端の組織だが)金の返済期限を遅れた債務者である……先程までファルコスの椅子になっていた男への私刑だ。
男には息子と妻がおり、その二人の無事を保証して欲しければファルコスの暴力を大人しく受けろと言われ、椅子にされ不定期に蹴りを浴びせられていた。
ちなみにだが、妻と息子は『別室』にて───筆舌にし難い仕打ちを既に受けている。男への折檻中に時折席を外していたファルコス自身の手によって。
このあと、男を二人の待つ『別室』へ連れて行き様子を見せ、『続きを行う』
その悪趣味なファルコスの私刑は頻繁に行われており、それをファルコスはいつもファミリーの組員達に見せつけ、たまに彼らに自分と同じ事をさせていた。
とても、たとえ悪の道に身を染めていようとも正気の人間ではなかなか行わない非道だ。それを見せて恐怖心を煽り逆らえないようにする為だとか、非道な行いを共にする事で共犯意識を高めるだとか、そんな目的はファルコスにはない。
だから、悪趣味だ。その性質を組員達は身をもってよく知っていて、だからこそ恐れ、崇拝している。人から外れた行いを平気な顔をして出来るファルコスを、敵に回したくはない。どうせなら、味方の側に立っていたい。
さて、ファルコスの悪趣味を見せつけられていた組員達が、慣れているはずなのにこうも緊張している理由だが。
それは、ファルコスの悪癖はまさに悪癖だということ。その牙が、ファミリーに属しているからと自分達に向かない保証はない。
ファルコスがツカツカと歩き、未だ舎弟を殴るメイスの肩を掴んだ。
「もういいだろう」
空気に緊張が走る。ファルコスの気分次第では、この舎弟はファミリーの顔に泥を塗ったとかそんな理由をいくつか適当に挙げられて拷問にかけられるだろう。
「全く、メイスのやつ、殴りすぎたよな。なぁ?」
しかし、皆が恐れた事態は起きなかった。ファルコスは膝をつき、うずくまり頭を抱えていた舎弟の埃を払って立ち上がらせたのだ。
ホッとした空気が流れた。
つい先程まで舎弟を殴りつけていたメイスも、ホッと胸を撫で下ろす。彼があれほどに執拗な暴力を振るったのも、ファルコスよりも先に自分が折檻することでファルコスの気を紛らわせる為だ。
舎弟がファミリーの名前を出し、その上で手を出され、その相手は野放しになっているというのだ。その事実はいつかファルコスの耳に入る。その瞬間、犠牲になるのは舎弟だけではない。八つ当たりで、一般市民や組員すらも巻き込んだファルコスの暴走が始まるだろう。
「で? 相手は、どんなだ?」
「えっ」
笑顔で問うたファルコスに、舎弟は許されたと思っていたのか油断した顔で呆けた声を出した。
ズプリ。その瞬間、ファルコスはポケットからデバイスを取り出して舎弟の腹を突き刺した。先端からは《刃》が出ている。
背中まで貫通し、血が滲み出す。舎弟は何が起こっているのかわからない様子で、目をキョロキョロとさせていた。メイスは思わず、頭を抱えそうになった。
(このバカが……)
こうなっては、もう助けようもない。メイスは舎弟の命を諦めて、ファルコスの次の行動を誘導することに意識を割き始めた。
「え、じゃないだろう。誰に、やられたんだ? と聞いている。使えないな」
デバイスを抜き、溢れ出した血も気にすることなくファルコスは舎弟を蹴り飛ばす。その合間にもメイスは隠れて部下達に指示を送っており、事前に調べさせておいた書類を用意させる。
「ファルコスさん、どうやら簒奪者の一人らしいです……しかも、まだ小せぇ……女の、ガキじゃねぇか」
「ほぉ」
メイスのもたらした情報を聞いて、ファルコスの目が僅かに輝いた。甚振りがいがある。そんな目をしている。
(この嬢ちゃんには悪いが、喧嘩を売ったお前が悪いんだぜ)
メイスとしても相手の幼さを見て僅かに同情の気持ちが湧くが、ファルコスファミリーの縄張りでファミリーに喧嘩を売るような奴が悪い。ファルコスの趣味に見せしめも兼ねて、生まれてきた事を後悔するような目に遭うだろう。
「よし、早速締めに行こう。俺達ファルコスファミリーが、舐められては困るからな」
「あの男はどうしますか?」
メイスが指差したのは今まで椅子になっていた男だ。ファルコスは既に興味が失せたような瞳を向けて、雑に顎で『別室』を指した。
「適当に捨てとけ」
その後、悲痛な声で泣く男の声が聞こえたという。
*
その男が現れた時、場の空気は一変した。
ファルコスがメイスと手下達を引き連れ、酒場を訪れたのだ。
この辺りでは彼に目を付けられれば自分だけではなく家族や親しい友人の命や尊厳が危ないと有名で、誰もが彼から目を逸らし……彼の気分を損ねないように……関わらないように、気付けば顔を伏せていた。
そんな中、一人の少女はキョトンと彼の方を見ていた。この辺りに住んでいるわけではない余所者の少女からすれば、突然周りの空気が重く静かになったのだから戸惑うのは当たり前だろう。
見るからにガラの悪い雰囲気を放つ男達が現れたことが原因なのだから、思わずそちらの方を見てしまうのも反射的に仕方がない。
ファルコスは、自分を見つめる少女を見て僅かに口角を上げた。
「あいつか」
確信する。余所者で、ここらの『マナー』を知らず───そして、自分に対して媚びず、恐れず、不躾な視線を送ってくるのは───例の自分の部下を殴った少女に違いない。
チュイイイイィィ……。
ファルコスのマジカルデバイスが駆動音を響かせた。それは威嚇に他ならない。ハンターばかりのこの場でそのようなことをすれば、他の者ならば喧嘩を売っていると見なされて即座にハンター達はデバイスを起動してその者をボコっただろう。
しかし相手がファルコスとなれば、俯かせていた顔をさらに下へ向けるしかない。今宵、誰が彼の『暇つぶし』の相手になるのか……その相手のことを気の毒に思いながら、誰もが自分がそうならないように祈り、顔を伏せる。
ファルコスが横柄な態度で歩き、自分を見る少女の前に立った。勘のいい者はその時点でファルコスの『暇つぶし』相手が少女だと悟る。
彼女は、余所者だ。だが可愛らしく、明るい……好意的に捉えている人間は多かった。
だが、誰も助けない。助けられない。
ズドン!
ファルコスのデバイスから『刃』が生まれたと同時、無防備にテーブルの上に置かれていた少女の左手の甲を貫いた。
刃は少女の手はおろかテーブルまで貫通している。その場にいるすべての人間が息を呑んだ。あまりにも自然に、当たり前のように行われた蛮行。人を傷つけることに一切の躊躇いのないファルコスの恐ろしさが、まさにこの行動一つに現れていた。
少女のことを好意的に見ている人間達の中、数人が流石に怒りを覚えデバイスに手を伸ばそうとして───その誰よりも早く、手を貫かれた少女自身が無事な右拳を握り込みファルコスの顔を撃ち抜いた。
バゴォッ! と、凄まじい音が響いてファルコスの身体が後方に吹き飛んでいく。その場の誰もが、状況を理解できなかった。
ファルコスのことを知る者は、少女の突然の無謀な行為に彼女の未来を憂い……かつ自分が巻き込まれるようなことがないよう怯えるしかない。
しかし仮にファルコスの事を知らない者だとしても、息をするように過剰な攻撃を加えてくるファルコス相手に……少なくとも、息をする間もなく反撃ができるのは普通の感性ではない。“普通“を超えてくる狂人相手に一歩も怖気つかない人間は、意外と少ないのだ。
「ぶち殺すぞこのクソがァッ!!」
少女から放たれた怒声はその可愛らしい姿に似つかわしくない、本気の殺意が込められていた。
顔を真っ赤にして、憤怒の表情を浮かべる少女は自身の左手に刺さったままのデバイスを引き抜いて地面に投げ捨てる。ファルコスの魔力が途切れ、刃が消えていく───その瞬きの間さえ、少女は止まらない。
あまりの反撃の速さに周囲の人間達の思考が真っ白になり、一拍おいて少女の行動に顔を青ざめさせる。そんな中いち早く動いたのはファルコスの側近であるメイスだ。
血管がブチ切れそうなくらい額に青筋を浮かべる少女が一歩、吹き飛んだファルコスの方へ歩き出したのを見てメイスはすぐに少女とファルコスの間に割って入った。
もちろん、それは少女の逆鱗に触れる行為だ。
傷口から血が吹き出すのも構わず少女は左拳を握り込みメイスの顔面をぶっ叩く。一撃でメイスは膝から崩れ落ち、そこを更に少女の足で顎をかち上げられた。
その一連の動作の最中、少女は右手でポケットからデバイスを抜き取り、起動。気付く者はそこで気付き、戦慄する。
ファルコスやメイスが身体強化を発動していたかどうかはわからない。しかし少女はデバイス無しの自身の膂力のみで、あの細い腕で大の大人を吹き飛ばすのだ。
ギュィィィィン!!
デバイスの駆動音が苦しそうに空気を震わせる。多大な魔力を急激に稼働させた時に起きる特徴的な音だ。
「こ、殺せっ!」
ファルコスが殴られた頬を抑えながら叫んだ。その声にハッとして、手下達もデバイスを構え始める。一方で少女は、ファルコスの言葉を聞いて一層眼力を強くした。
「こっちのセリフだボケェェェッ!」
ファルコスファミリーと一人のハンターが衝突したその騒ぎは、ハンターズギルドの職員が止めに入るまで続いた。しかし当事者達がそれで納得するわけもなく、もはや抗争とも言うべき勢いでその火は場所を変えて燃え上がるだけだった。
しかし、大所帯のファルコスファミリーに対して相手はたった一人の少女だ。なのに少女の味方をするものは一人もいなかった、それは少女が行方をくらませてゲリラ的な襲撃をしている為に表立って味方できる場面がないせいでもあるし、そもそもどんな状況だとしてもファルコスファミリーを敵に回す事は恐ろしくて出来ないのもある。
ボスのファルコスは、頭のネジが飛んでいる。平気で一線を超えた行いをする。例えば、少女の家族を探し出して拷問して殺すくらいのことはする。
味方する者がいたとすれば、その者だけでなくその家族も友人も同じ目に合わせるだろう。平気でそれをする恐ろしい男なのだ。そして彼に従う荒くれ者達で構成されたファミリーは非常に大きい。
「早くあのガキの家族でも友人でも見つけ出して人質にしろ!」
「それが、あいつ別の地域から来てるらしくて、知り合いらしい知り合いが近くにいないんで」
イライラを隠さないファルコスが怒鳴り、それに答えていた部下は頭を拳銃で撃ち抜かれて死んだ。
それを近くで見ていた他の部下達は肝を冷やしながら、大きな声で叫ぶ。
「今すぐ見つけ出してきます!」
そう言ってこの場を去ろうと考えたのだ。
その時偶然、ファルコスの目に止まった部下の一人が肩を掴まれ、太ももに《刃》を刺される。
「ギャァァァ!」
「くそっ、くそっ……! 苛立つぜ……」
少女に殴られた傷は既に治癒させた。しかし、あの屈辱は晴れない。あの場から少女に逃げられた事自体が腹立たしく、許せない。あの醜態を目撃した、その場に居合わせた奴らは全員殺すべきでは。ファルコスはそう考えた。
そんな彼の元に、側近であるメイスが近付いてきた。ファルコスは無言で彼の頭にまだ中身の入っているワインの瓶を叩きつける。中身とガラスが周囲に飛び散るが、メイスは気にも止めずファルコスに耳打ちをする。
「ファルコスさん、あのガキと同じパーティを組んだことのあるやつを数人捕らえました。あと、『賭波』の方に姉がいるらしくて……」
「さっさと捕まえて来い──! あと、その捕えたガキの知り合いは俺が自ら憂さ晴らしに使う、案内しろ」
「今外にいる連中が、もうすぐ連れてくると思います」
あのガキの姉の元へ部下を向かわせる。そして自分はメイスの案内の下、ガキと関わりのあったという奴らの元へ向かう。
少しでも繋がりがあるのなら、蹂躙する。そしてそれを知った時、あのガキは一体誰に逆らってしまったのかを悟りどれほど後悔をするのか。そして全てが手遅れだと知ってどれほどの絶望をその顔に浮かべるのか。今から楽しみだ。
そんな未来を少し想像して、ファルコスはわずかに気分を良くして口角を上げた。
しかし彼は気付いていない。
致命的なミスだ。復讐の相手が、あの少女一人ならば……あんなことにはならなかっただろう。
*
ハンターズギルドの職員ガゥダーは慌てた様子でメメリュの元を訪ねた。大変なことが起こったからだ。
彼女の家の前でその姿をちょうど見つけて、ガゥダーは声をかける。
「メメリュ! 落ち着いて聞いてくれ、ミィロちゃんが、『双海』のファルコスファミリーに喧嘩売っちまって、今も逃げ回ってるらしいんだ」
「……ファルコス、ファミリーぃ? なにそれ、知らない」
何故か、メメリュは男五人ほどを尻の下に敷いて不機嫌そうに唸った。ガゥダーは腕を組み、少し考えた。
何故こいつは男達をケツに敷いているのか。なんでこんなに不機嫌なのか。そこでふと、ファルコスファミリーはギルドでも要注意しているマフィアグループであり、何故注意しているかというとやり方があまりにも過激だからだ……ということを思い出していた。
その過激なやり方というのは、例えば気に入らない者や逆らった者への報復に無関係の家族や友人を対象にするからというもの。しかも怪我だけで済まない、心や身体に一生元には戻らないような傷をつけるか───殺してしまうか。
ミィロが喧嘩を売ったことによりファルコスファミリーが一体どのような行動を取るのか。ミィロの身近な人間……なんとなく、目の前の光景への答えが見えてきたような気がしてガゥダーは更に考えた。うん、この場から去ろう。その結論に至るまで秒もかからなかった。
ふらりと、メメリュと髪色以外そっくりなミィロが現れた。ガゥダーは耳を閉じようかと思った。まぁ仮に今から彼女達の間でなされるであろう会話を聞いたとして、自分には関係ないから別にいいのかもしれない。いや、やはり見てないし、聞いてないことにしてギルドには適当に報告しよう。
「メメリュ〜。ちょっとさぁ……ぶっ潰したい奴らがいるんだけどぉ、一緒に行かない?」
どこか威圧感を感じさせる曖昧な笑みを浮かべながらミィロがそう聞くと、メメリュはチラリと自分がケツに敷いている者達を一瞥し、その山から降りたと同時にバット型デバイスでフルスイング。
ゴシャア! っと、何かがひしゃげるような音と共に男達の身体はビリヤードのように四方に吹き飛びながら地面を滑って行った。
振り返って、ニコリとメメリュは笑いながら言った。
「当然。行く〜」
「マジやばいっす、多分カチコミにいきましたわ、アイツら」
帰ってそう報告したガゥダーはなんで止めなかったと怒られた。