第百一話 復讐の味未だ知らず
黒髪へと変わったソルグランドの姿を見た時、人類の側で何を意味しているのか、正確に理解できた者は少ない。
その数少ない理解者の内の一柱、夜羽音はこの場から居なくなった真上大我への感謝と申し訳なさに、一度だけ視線を伏せた。他者からは冥福を祈るように見えたかもしれない。
ヒノカミヒメの完成を待って行われるはずだった主導権の交代が、ソルグランドの敗北によって行われるのは、最悪の可能性として想定してはいたが、よもや現実となってしまうとは。
「コクウさん、あの方は誰なんですか? ソルグランドさんじゃないですよね?」
困惑に染まった顔で尋ねてくるソルブレイズに、夜羽音は表情を改めて、ヒノカミヒメを見つめながら口にするべき言葉を探す。
万が一にもソルグランドが乗っ取られた、などと誤解されて人類側から攻撃をされてしまっては、ますます救いようのない話になってしまう。
夜羽音はこの場に居る魔法少女ばかりでなく、ザンエイのブリッジとマジカルドールにも通信を繋げて答えた。神々の入っているネイバー達はあらかじめ事情を知っているから、極東の国で作り出された最も新たな女神の真価を見定めようとしていた。
「彼女の名前はヒノカミヒメ。我々が本来、想定していたあの肉体の主です。魔法少女ソルグランドとは、あの肉体をヒノカミヒメの代替となる人格が動かすことで成り立っていました」
「じゃ、じゃあ、ヒノカミヒメさん? という方が表に出てきたのは、そる、ソルグランドさんが」
「残念ながら活動を停止してしまったと判断するしかありません。だからこそヒノカミヒメが表に出てきてしまったのですから。本来ならヒノカミヒメと円満に交代するはずだったのですが、これでは……」
実質、ソルグランドは死んだと言われたも同然の夜羽音の言葉に、ソルブレイズは顔色を青くして膝から崩れ落ちそうになり、それを咄嗟にアワバリィプールが受け止める。ただ、そのアワバリィプールも顔色はよくない。
これまで彼女達にとって絶対的な守護者だったソルグランドが敗れた事実は、この場に居る魔法少女全員にとってあまりにも衝撃的すぎる。この場は宇宙だが足元の大地が崩れて、底なしの穴に落とされるような心持ちだろう。
夜羽音達から浴びる注目など知らず、ヒノカミヒメは凍らぬ涙をぬぐい取ってから、ナラカ・コーラルの残骸に埋もれるボイドリアへと向けて、虚空に一歩を踏み出した。
これにボイドリアは即座に反応した。これまでの情報収集で判明していなかったソルグランドの第二形態あるいは第二人格に対し、最大級の警戒を抱いているが、まだ撤退の選択肢を取るには早すぎた。
「機体の損傷修復を最優先。ソルグランド撃破後に起動したオペレーションシステムをヒノカミヒメとして登録。データ収集を開始」
ボイドリアの埋もれていた残骸ばかりでなく、周囲に広がっていた残骸が一斉にボイドリアへと引き寄せられ、触れる端から次々にその体の中へと取り込まれてゆく。
ナラカ・コーラルの残骸を捕食することによって、ボイドリアは肉体の損傷を急激に修復しようと試みているのだ。それでも苦殺那祇剣に焼かれた肉や骨、神経は遅々とした速さでしか直る様子を見せない。
ただ残骸を捕食するだけでヒノカミヒメの歩みを止められるわけもなく、また完全に修復が成されたとしても、対ソルグランドに特化したボイドリアには不安要素がどうしても拭いきれなかった。
アンテンラにソルグランドとの戦闘データはリアルタイムで送っているが、ボイドリア本体に記録したデータも重要だ。
損耗した状態ではあるが、新たなソルグランドのデータも可能な限り収集しなければならない。貴重ではあっても、ボイドリアもまたアンテンラ、ひいてはエゼキド監査軍にとっては駒の一つに過ぎないのだから。
ボイドリアの価値がアンテンラにとってどうであれ、ヒノカミヒメには関係のないことであった。桜の花びらを斬り抜いたように美しい唇から零れる言葉の、なんと冷たく恐ろしいことか。
「ただ朽ちよ。お前などではあの方へ捧げる価値もないが、私の鬱憤が少しばかり晴れるだろうから」
ヒノカミヒメが二歩目を刻もうとしたその瞬間を狙いすまし、残存していたマムールとアマンタの大群が渦を巻いて上下から襲い掛かる。
まだ四桁近い数を残すそれらはボイドリアの命令に従い、ただただヒノカミヒメの足止めだけを目的に自滅を問わない突撃を敢行したのだ。
ザンエイであってもただでは済まない、無数の魔物が形作る竜巻が上下から迫りくるのに対して、ヒノカミヒメは一瞥もくれなかった。
あらかじめそうなると分かっていたかのように、上下の竜巻に横から猛烈な砲撃と打撃が撃ち込まれて、百単位の海鮮系魔物が粉微塵に吹き飛ぶ。
それを成し遂げた張本人たる魔物少女フォビドゥン、ディザスター、スタッバー、シェイプレスは、ヒノカミヒメに仕える巫女か守り人であるかのように、その周囲に降り立った。
ソルグランドと共にナラカ・コーラルへ突入しながら、無様に外へと放逐されて、なんの役にも立たなかった自覚を抱えるフォビドゥンが、真っ先に口を開いてヒノカミヒメに尋ねた。
ボイドリアの次に自分達が処刑されても文句は言えないわね、とは口に出さずにおいた。
「ソルグランドは?」
「もうこの身体にはおられません。そしてお会いすることもないでしょう」
新たな涙が流れ落ちそうになるのを、ヒノカミヒメは堪えなければならなかった。父のように、兄のように、祖父のように慕っていた大我が、この肉体にはもう存在していないのを、彼女自身が他の誰よりも理解してしまっている。
今にも胸の張り裂けそうな思いに襲われて、半狂乱になって叫び出したいのを必死に耐えているのは、未だ闘争の場であり、ソルグランドを終わらせた下手人が目の前にいる事、そして庇護するべき人間達が居るからだ。
生まれたばかりの女神ながら、神としての矜持と大切な人を奪われた怒りが、ヒノカミヒメに戦いを選ばせていた。
「そうか。山ほどある借りを一つも返せないままになってしまったのね」
フォビドゥンはソルグランドの消失を告げられて、自分の感情が予想していなかったものになっているのに困惑していた。
これまで数えきれないほど痛めつけられ、屈辱と恐怖を与えられてきた相手だったが、同時に優しくされたのもソルグランドが初めてだった。食事を与えられたのも、笑いかけられたのも、柔らかい声音で名前を呼ばれたのも。
居なくなれば清々する、消えるのが喜ばしい、そういう相手だと認識していたソルグランドが居なくなったと告げられて……
「私は、惜しんでいるのか?」
フォビドゥンが自身の心の動きを理解しきれずにいる一方で、ディザスターの反応は分かりやすく顕著だった。
「私がぶっ倒すはずだったのに、あいつに取られた! だったらその代わりにあいつを、ボイドリアを私が倒す。そうすれば私の方がソルグランドよりも強いと、証明できる!!」
あくまで自分の強さの証明を求める言葉を口にしながら、ディザスターの表情がひどく苦しげに歪んで見えたのはフォビドゥンの見間違いではなかったろう。
二人の魔物少女がソルグランドの喪失に思いがけない感情に戸惑う中、スタッバーとシェイプレスは淡々と最優先の状況把握、すなわちヒノカミヒメの判断を仰いだ。
スタッバー達としてはこのまま総がかりでボイドリアを押し込み撃破したいが、ソルグランドに並みならぬ感情を寄せていたヒノカミヒメが合理的な判断を下せるとはとても思えない。
「ヒノカミヒメ、我々の助力は必要か? 奴は既に外見を取り繕う程度には回復しているだろう」
「それとも我々は余計な横槍が入らないように、残る魔物を相手するべきですカ?」
シェイプレスばかりは黄泉比良坂で叩きのめされた一件が根深く、ヒノカミヒメの顔色を過剰に伺っているが、ヒノカミヒメは彼女らのことなどまるで興味がないかの如く、淡々と命令する。
ソルグランドが彼なりに魔物少女達に労わりを持って接していたのに対し、ヒノカミヒメは冷淡さを隠さない。ましてやこの状況では猶更であろう。
「耳障りな雑音を除去なさい。あのボイドリアなる魔物少女は、自ら口にした通り私の手で最後の魔物少女としてくれる」
ぐつぐつと煮えたぎっていた怒りが、徐々にヒノカミヒメの身体に滲みだしつつあった。
ヒノカミヒメのゆっくりと開かれた口の中では、真っ白い歯がギリギリと噛み締められ、今にも口から怒りが真っ赤な炎となって噴き出しそうな、憤怒の相である。
自分に向けられた怒りではないというのに、シェイプレスが大きく変幻自在の身体を震わせる迫力に満ちている。
「分かった。そちらの意向に従おう。フォビドゥン、ディザスター、シェイプレス、ソルグランドのかたき討ちを自分の手で成し遂げたいかもしれんが、ヒノカミヒメに逆らうな」
「誰がソルグランドの仇なんて取ろうとするもんか! 私は私がソルグランドよりも、ボイドリアよりも強いと創造主に証明し、失敗作の烙印を取り消させたいだけだ!!」
「だったらその泣き出しそうな表情を引っ込めろ、ディザスター。フォビドゥンも思考を戦闘に切り替えろ。量産型の魔物とはいえ、宇宙空間での戦闘型は惑星への被害を考慮していない分、出力が高い。我々でも他のことに気を取られながら戦ってよい相手ではないぞ」
「何時になく多弁ね、スタッバー。そうさせてしまうほど私達が動揺しているということか。忠告感謝するわ」
ようやく自分のステータスが異常なものと認識したフォビドゥンは、それでも戦闘用に作られた存在として思考を切り替え、ヒノカミヒメの望みに従うこととした。
誕生以来となるヒノカミヒメの感情の激発を受け止めなければならないボイドリアに、少しだけ憐憫の情を抱く。
あの闇ばかりが広がる坂で自分達がヒノカミヒメから受けた以上の仕打ちが、これから彼女に待っているだろうから。
合図の声もなく四人の魔物少女は一斉に動き出した。彼女達ばかりでなくネイバーやマジカルドール達もザンエイからの指示を受け、残る敵性魔物を掃討するべく止めていた動きを再開する。
周囲が騒がしくなり始めたのをきっかけに、ヒノカミヒメは見た目だけは整えたボイドリアを睨み、右腕の人差し指を向けた。
「エゼキド監査軍、創造主アンテンラ。お前の知る全てを詳らかにすれば、苦しまずに死なせてあげましょう」
「交渉は無意味である。ソルグランド撃破という本機の当初の目的は既に達成されたが、貴機の情報収集へと更新された。戦闘は継続される」
「駒の扱いが雑な創造主であること。では残骸からお前の全てを奪い取るとしましょう」
何の前触れもなくヒノカミヒメの周囲に色彩豊かな光が次々と生まれ、それらは刀剣、槍や矛、鎚や斧、矢に杖と多種多様な武器の形をとって、ボイドリアを目掛けて殺到する。
日本神話のみならず世界中の神話から提供された神器のコピー品である。黄泉比良坂ではフォビドゥン達を散々に痛めつけたコピー神器の数々は、今度はボイドリアただ一機を目標として、太陽系とは異なる宇宙を貫くように迸る。
敵対する神を、神をも脅かす怪物を、あるいは荒ぶる嵐や大火を斬り裂いた伝説を持つ神器のコピーを、ボイドリアは常夜と変幻自在の肉体を駆使し、次々と弾き返していった。
重力変動を利用した超高速移動で宇宙を飛びながら、前後左右上下、およそ全方位から時間差でもって襲い来るコピー神器を、プラーナ無効化の能力を乗せた常夜で迎撃するボイドリアだが、早々にこれらのコピー神器の正体を把握した。
「未知のエネルギー仮称“神通力”を中心に物質化された特殊な兵器群。プラーナ含有率は微少。対ソルグランド用に特化した本機との相性劣悪と判断」
「分析と判断は正確かつ迅速と認めましょう。しかし」
逃げる隙間もないほど無数のコピー神器と星系を揺るがすかのような雷、太陽の誕生を想起させる炎がボイドリアを包み込んでいた。
いずれも呪詛の類ではなく直接ボイドリアを破壊しにかかる攻撃であるのは、ソルグランドとヒノカミヒメとの性格の違いをよく表していた。
ソルグランドよりも直接的で暴力的な力の行使に、味方であるはずのソルブレイズやザンアキュートでさえ、思わず背筋の震える無慈悲なまでの暴力の行使であった。
しかし、例えソルグランドが相手でなくとも、ボイドリアが最高性能を与えられた魔物少女であるもまた事実。砕けた神器や乱舞した神罰の数々が唐突にぼやけはじめ、底なしの穴でも開いたような勢いで破壊の中心部──ボイドリアの下へと吸い寄せられてゆく。
あまりに膨大なそのエネルギーは、ほとんどがプラーナでない為、ボイドリアが再利用できることはなかったが、一時的に転移用の亜空間へと隔離して無害化させる程度は出来た。
「ソルグランド用のチューニング設定を破棄。プラーナ無効化能力を神通力に対する干渉能力へ修正開始……」
とはいえ神通力相手となるプラーナほど簡単には操れておらず、神通力で鍛造されたコピー神器や神罰の数々を型崩れさせることはできたが、そこまでだ。
可能なら吸収してエネルギー源にするか、肉体の再生に転用したかったのが、ボイドリアの目論見は早々に外れている。機体そのものは変わっていない筈なのに、まるで別の機体であるかのような戦闘能力だ。
「機転も利く。ソルグランド様を害したのだから、その程度の芸当が出来なければ、尚のこと許せんが。ではソルグランド様と同じようにしてみようか」
それまでの歩みから一転、ヒノカミヒメはふわりと黒髪と裾をなびかせて、宇宙を舞った。
専用の装束も舞台も音楽も必要ない。
ただ舞い手一柱が居るだけで、神に捧げるどんな神楽よりも美しい舞となった。ある意味では当然だった。舞っているのが紛れもない真性の女神なのだから。
ボイドリアは自らに迫るヒノカミヒメをその鋭敏なるセンサー類で確実に捕捉していたが、だからこそ反応が遅れた。
詳細に記録されるヒノカミヒメの動作の一つ一つ、揺れる瞳やまつ毛の震えに至るまですべてがあまりにも美しすぎて、異星の感性と美意識をもって製造されたボイドリアでさえ、“感動”してしまったのだ。
そうして感動による忘我という不可解極まりない体験に、ボイドリアの思考が困惑を禁じ得なかったその瞬間に、報いは与えられた。目の前に降り立ったヒノカミヒメの右回し蹴りが、彼女の左首筋に襲い掛かったのだ。
「っっ!!」
足袋に包まれたヒノカミヒメの足の甲がボイドリアの身体にめり込み、純粋な打撃力でもってボイドリアの身体に大きなダメージを与えた。
どんな武術によるものか、叩き込まれた衝撃はボイドリアの外へと逃げず、そのまま体内を蹂躙し続けて、左の回し蹴りに呆気なく顎を蹴り抜かれる醜態に繋がった。流れるような左右の蹴りの連撃で終わりではない。
もげそうなほど首の揺れるボイドリアに、断頭台の刃を思わせる右の手刀が振り下ろされる。狙いはボイドリアの頭部。頭のてっぺんからそのまま真っ二つにしてくれると、ヒノカミヒメの殺意が滾っている。
「ソルグランドの同型機とは考え難い出力っ」
振り下ろされた手刀を横一文字に構えられた常夜が受け止めていた。魔法少女の肉体と内部の精神を別つ兵器は、本来の肉体の主が主導権を握るヒノカミヒメに対して、その凶悪な特性を発揮せずにいた。
その代わりに常夜は日本列島を真っ二つにする威力の手刀を、刃一つ欠けることなく、罅一つ入ることもなく、受け止めることに成功していた。
「お前がソルグランド様を語るな。汚らわしい」
ここまで冷たい眼差しを向けられるものかと、誰もがその視線の先に自分がいないことに安堵する眼差しで、ヒノカミヒメはボイドリアを罵った。ヒノカミヒメという名前とはあまりにかけ離れた冷淡さ。
身体を変形させて反撃の一手を打とうとするボイドリアの胸を、ヒノカミヒメの左拳が深々と貫いていた。今度は貫かせたのではなく、貫かれたのだと、ボイドリアの表情の強張りが証明する。
「お前の中にわずかに残るソルグランド様の神通力。それがなければもう少し、お前も抵抗が出来ただろう。お前達に行くべきあの世があるのなら、そこへ疾く行け」
ソルグランドがボイドリアへと残していた神通力がヒノカミヒメによって一気に活発化し、更には日本神話の真の精髄であるヒノカミヒメによる神罰がボイドリアの体内に解き放たれて、見る間にボイドリアの身体が内側から崩壊を始める。
ボイドリアの肉体は腐るばかりではなく焼け焦げ、凍り付き、雷によって焼かれ、あるいは多数の刃に内側から貫かれていった。
女神の肉体を人間ではなく、本来予定されていた通りの女神が表に出て、ようやく本来の性能が発揮された時、その力は消耗しているとはいえボイドリアさえ圧倒するレベルにあった。
もはやボイドリアは外見を取り繕う事も出来ず、見る間に前進に罅が走って行き、そのまま微細な粒子へと砕けて行く。
他の魔物達が駆逐されるよりも速く、ボイドリアを抹殺したヒノカミヒメだったが、その顔に復讐の暗い歓喜の色は浮かんではいなかった。
「仕損じた。壊せたのは器のみ。中身は回収されたか……。いいでしょう。今一度、私の手でお前に復讐の苦しみを与えよう。ボイドリア」
ヒノカミヒメは魔法少女がそうであるように、ボイドリアの精神というべきものが自分の手をすり抜けて、はるか遠方の地へと逃げ延びたのを確かに感じ取っていた。
それも悪くはない。今度こそ復讐を完遂する甘美なる瞬間を味わおうと、最も新しき女神は冷徹な意思を固めるのだった。




