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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

真昼の月

作者: 城田なお

太陽の光はからだを元気にする、月の光はこころを元気にする・・・・・・

トモが言った言葉が妙に胸元にひっかかった。月なんてそんなに気持ちを入れて見たことがなかったよ・・・


いつまでこうしているんだろう。

ひじの内側を流れる黒い赤を見つめて思う。

なにがあたしをこうさせているのかわからない。ただ、自分を失いそうになるたび、こうして痛みで、自分をこちらがわに引き寄せてきた。

 切っているうちは、痛みを感じない。

それに気がつくのは、海の引き潮がこちらがわに戻ってくるみたいにだんだん自分が現実に引き戻される瞬間だ。

 赤く錆びた古い釘の塩辛い匂いが部屋にたちこめてくる。その匂いで、ああ、またやったんだな。と気がつく。血を止めて、床を拭きとることさえ考え付かない。

暗く閉ざした遮光カーテンの隙間から、午後の陽射しが漏れてくる。

どろりとしたガーネットいろの液体が光を吸収する。

突然思い立って、机の上のPCに接続されたままのデジタルカメラを取り上げる。フラッシュが焚かれて暗い赤が浮かび上がる。

なんだか、恍惚としてしまう。これがあたしの血。自分の生きている証。何度もフラッシュを焚くたびに、流れ落ちる血液の量が増えていく。 床の絨毯に沁みき、次第に盛り上がる。

汚れを気にして、生理の血液を漂白する洗剤をブラシにつけて叩けば問題ないかなぁなどと、主婦みたいな考えをめぐらしていると、携帯が鳴った。出ないでいると 伝言メッセージに聞き覚えのある声がする。

「……はい」

「ああ……聖羅……げんき?」

声の主は言った。

「今、手首切ったところ」あたしは応えた。

「ふうん……やっぱり、死ぬ気? 」

「うん」

「そう……止めないけど。手首を切ったくらいでは死なないからね。僕としてはまだ、心中して欲しいと言う考えが消えてないから」

「ふふふ……」

あたしは笑った。

「なぜ、笑う? 」

相手は乾いた声で訊ねた。

「わかんない。笑いたいから笑ったのよ」

「聖羅? 」

「なに?」

「ぼくのこと、好き? 」

「わかんない」

本当にわからなかった。あたしは今までだれかを好きになったことなんてない。だれかに好かれた事もないと思う。

 もし、それがあたしの思い違いでなければ、親だってあたしを好きだとは思っていないに違いない。もしも、母親があたしを好きなら、あたしを置いて若い男と出ていくなんてことはしなかった。母は本当にあたしを憎んでいた。あたしができの悪い子どもだったから。

 父親の暴力から守ってあげる事ができなかったから。でも、わかって欲しい。本当はママを助けたかったんだよ。でも、あのときは小さすぎてどうしたらお巡りさんを家に呼べるかなんてわからなかったの。

嘘。 言い訳だ……ともうひとりのあたしが思った。

あのとき 寒い冬の夕方、母は父に寝室に閉じ込められて、殴られていた。

人を殴る鈍い音が聞こえていた。不思議な事に母は声を出さなかった。不気味な沈黙のなか、それは延々と続いた。すごく長い時間だったような気もするし、ほんの小一時間くらいだったのかもしれない。

 あたしはそのとき、小学校6年生だったからちゃんと近所に助けも呼べたし、警察への電話の掛け方だって知っていたんだから、父親を警察に引き渡すくらい簡単にできたはずだ。

それができなかったのは、怖かったからだ。

家族から引き離されてしまう怖さが先に立って動けなかった。小学生が家族を失ったら生きていく場所なんてどこにもない。

 ずっと家の台所の隅で丸くなっていた。

包丁を新聞紙で包んでセーターの中に隠した。

それから、自分の部屋に行き、部屋の天井裏に新聞紙に包んだままの包丁を隠した。

 ヒーターもつけないで、ベッドにもぐったままひっそりと息を殺し、そのまま眠ってしまった。

翌日、学校から家に帰ると母の荷物は既になかった。

 父は目を血走らせて母親の行方を探したが遂に徒労に終わり、行方が判明するかわりに数ヶ月経って離婚届が郵送されてきた。

そのまま 母親は二度と、自分がかつて存在したこと家族に知らせるようなことはしなかった。

 

 沈黙が続いた。トモの息遣いだけが聞こえた。

「止血……したのか?」

彼はそういった。

「いいえ」

切った腕を下に向けていたので、だらだらと血が流れつづけていた。

「今、切った写真を撮ったの。また、ホムぺにアップするから見て頂戴ね」

あたしはそう言った。

彼は沈黙したまま電話を切った。 

「…… 痛い」

そう呟いてあたしは傷口をしっかり押さえた。

痛いよう……寒いよう……木枯らしみたいにかすれた声がする。自分の声のようでもあり、 誰か知らない人の声が遠くから響いているようでもある。

窓の外は暮れかかっていた。オレンジいろの陽がカーテンの隙間を染めていた。止血のために左手を上げて傷を包帯できつく縛った。

ピルケースを探し出し鎮痛剤と眠剤を取り出しす。5錠ずつ口に入れてごくごくとお水を飲んだ。頭の中に靄がかかって、胸の中に隙間ができる感じ。次第に眠気に襲われる。意識のプラグがコンセントを外れる。

服を着たままずるずると床に倒れこみ、深い底なしの闇にあたしは放り込まれた。


白い日差しが目に染み込んだ。目やにで開かない瞳に目薬をさしたみたいだった。


朝を迎えたということはわかった。でも何時なのかわからなかった。壁の時計は止まったままだ。電池が切れてからずっとそのまま入れ替えていない。携帯の時計で時間を見ようとしたら、どこを探しても見当たらない。

時間から置き去りにされるというのは奇妙な気分だ。昨日の夕方から意識がなかったのだからおおよそ十時間以上は眠っているはずだ。深い眠りを貪った額の辺りはさえて、後頭部に鈍痛が残る。

床に転がったまま眠ってしまったのでからだのふしぶしが痛む。首を曲げるとぐきっと音がした。

はぁ……ため息が出た。

期せずして携帯が鳴った。探しているうちに着信音は止まってしまった。そのとき、床と絨毯の間に挟まっているのが見つかった。

誰からだったんだろう……

拾い上げて着信を見ると真理子さんからだった。着信時間は11時23分。17時間も眠ったらしい。

おなかがすいた。

立ち上がるのも面倒なのでそのままいざって、キッチンに行った。冷蔵庫を開けると空腹を満たすようなものは何も入っていない。缶ビールが二本、やわらかくなったトマト、しおれたセロリ。

トマトを取り出して洗いもせずにかぶりつく。汁が飛び出して頬についた。

手の甲で拭いて、またかぶりつく。トマトは甘くてよく冷えていたので、渇いたのどが一気に潤った。丸ごと食べてしまうと、セロリが欲しくなった。しなびれかけていてそのままでは筋が堅そうだったので、流しに立ち、包丁で筋を剥き、立ったままセロリをかじった。

 流しに落としたセロリの筋をゴミ箱に移し、シンクをあらって、手も洗った。

真理子さん、何の用事だったのかな。

折り返しかけようとしたが、面倒くさいのでそのままにした。用があればまたかかってくると思った。真理子さんは父の再婚相手だ。2週間に1遍くらいの割合で電話をしてくる。繋がれば出るけど、あたしのほうからは掛けない。髪が長くてきれいで22歳と18歳の男の子のお母さんだった。とても48歳になるとは思えない若々しさで、父と一緒に保険の代理店を営んでいる。


父が真理子さんを家に連れてきたとき、あたしは高校1年だった。出来が悪いにしてはがんばって市内の進学校に入ってまもなくの5月、葉桜と八重桜が入れ替えになる季節の十六夜の月がきれいな晩のことだった。

真理子さんは父が趣味で習っているソシアル・ダンスのパートナーだった。

父は母と別れてから何を思ったのか突然、ソシアル・ダンスのスクールに通い始めた。

「なに、それ?『Shall we dance?』の真似事? 」

「まあ、そんなもんだね。」

「ふうん……」

父は熱心にスクールに通い、パーティとか大会とかに出るようになった。

かなり出席率は良かったとおもう。おかげで あたしはいつも一人で留守番させられていた。

一人でいるのは別に寂しくはなかった。

小学校6年のとき母が出て行ってからあたしは大人に何も期待しないようにすることにしていた。

だから、参観日のお知らせとか、親子で参加する学年行事も父には知らせていない。そういう時は、隣町にすんでいる父方の祖母に電話でこっそり頼んだ。

「お父さんお仕事忙しいから、お願い。」

ただ、この祖母もあたしはあまり好きじゃなった。頼みごとをすると決まっていなくなった母親の悪口を聞かされるから。

「瑞希さんが出て行かなければ聖羅にこんなかわいそうな思いをさせずにすんだのに。

あの女は自分の子供すらまともに育てられないだらしない女だよ。こどもを生むなんて事はまぐわえば誰でもできるさ。母親になるってことは育てる覚悟がなきゃいけないね。

まあ結婚前にあんたを身ごもったようなだらしない女だから、若い男と駆け落ちするなんていうのは朝飯前だったんだろうね。浩二もかわいそうだよ。暴力を振るわれたって散々言いふらされて。あの女は近所中に浩二に暴力を振るわれているって言いふらしてたんだ。あんたの父さんはね、暴力を振るいたくて振るってたんじゃないのよ。あの女がそうさせたんだからね。父さんを恨むのは筋違いだからね。」

「恨んでないよ」

父親を恨んでも母が戻ってくるわけではない。母親が戻ってきても愛情を掛けてもらえる希は薄い。

ただ、がんばっていい成績を取ったり、4年生のころ作文コンクールで県知事賞なんかを貰ったときは喜んでくれて外でご飯を食べさせてもらったりした。もちろん父親は同席していなかったけど。

それでも母とお出かけできるときはうれしかった。もっと小さい、3歳くらいのときは遊園地に連れて行ってもらった。メリーゴーラウンドが好きで、1度乗ると何度もせがんで5回くらいは乗せてもらっていた。よく晴れた晩秋の候で空がぬけるように青く、どこからか金木犀のいい匂いが漂っていた。

母は美しかったし、笑っていた。まだ23歳だった。

母が変わってしまったのはいつからだろう。覚えていない。4歳で幼稚園に入ってからとかそんなころだったかもしれない。

幼稚園はいつもお弁当だったけど作ってもらったのは最初の一月くらいだけ。

あとはいつでもコンビニのおにぎりとかサンドイッチだった。母はいつも具合が悪そうだったし、お迎えのときは一番早く来て、他のお母さんや先生に挨拶するのもそこそこに、痛いくらい手を引っ張られて歩いて帰った。

 それよりも幼稚園のころ一番つらかったのは遠足の準備をしてもらえなかったときだ。

ある日一人で歩いて幼稚園に行くと何かが違う。他のお友達はキティちゃんやアニメ主人公の描いてあるリュックサックを背負って水筒を持っているのに、あたしはいつもの通園バッグだけ。

「聖羅ちゃん今日は園外保育だったけどお母さんにお手紙渡したのかな?」

先生に言われてあたしは泣き出した。

……覚えてない。お手紙があったなんて覚えていない……

それをママに渡したことなんて覚えてないよ……そう言いたかったのだけれど、言う術も見つからない。ただ泣くだけしかなかった。すぐに先生が家に電話してくれたけれど母親は外出して留守だった。

「大丈夫よ、聖羅ちゃん、先生のお弁当上げようね。一緒に食べよう」

先生はやさしく言って、わたしは通園バッグを持ったまま、園のバスで市内のはずれの牧場に行った。

「聖羅ちゃん遠足のお支度してないの?」

お友達にそういわれるのがつらくてずっと下をむいていた。

「聖羅ちゃんのお母さんはご病気なのよ。だから先生のお弁当を上げてくださいっていわれてるのよ」

先生は必死にフォローしてくれたけど、あたしは母が本当に病気になってしまっているような気がしてしてきて、辛くて泣き出してしまった。そんなあたしを先生は困った顔で見おろした。そのときあたしはこんなふうに母親から見捨てられている自分は本当に悪い子だと思ったのだ。

あたしが 悪い子だから、ママは病気になった。以来ずっとあたしの中には自分を罰してしまいたいという思いが、雑草のようにはびこって消えることがなかった。


ドアのチャイムがなり、インターホンから「こんばんは」という女の人の声がした。

「はい」と父は返事をして玄関に出た。

「遅くなりまして、ごめんなさい」

ストレートの髪を長くたらした、背の高いすらりとした女の人が、ドアの向こう側にたたずんでいる。

あたしはその姿に一瞬息を呑んだ。それほど綺麗な人だった。それが真理子さんだ。

1度、父と真理子さんが踊っているシーンをビデオで見たことがある。

カナリヤ色のドレスを着て髪をアップに結い、人魚のようにドレスのすそを翻しておどる彼女は同性のあたしから見ても、惚れ惚れするくらい美しかった。

「綺麗な人」

そう呟くあたしに、父は満更でもないように

「そうだろう」といった。

「鼻の下伸ばしちゃって、パパったらおやじだね」

あたしは そういって部屋に篭った。

なんともいえない変な気分だ。

女の人が綺麗なのはいいけど、あれが父の恋人なんてピンと来なかったから。

その人が今目の前にいる。あたしはどぎまぎして、「いらっしゃい」もいえなかった。

食事は近所のすし屋から取った特上のおすしだった。

「聖羅の進学祝もかねて」父はそういって乾杯の音頭をとった。

父と真理子さんは白ワイン、あたしはウーロン茶。「おめでとう」何がめでたいんだか。この二人結婚でもするのか……

と思ったとき、「実は…」と父が言いにくそうに切り出した。

「お父さん、真理子さんと結婚しようと思っているんだ」

「へえ……」

あたしは驚いた。寝耳に水ってこのことだ。

となりの真理子さんを見ると神妙な顔つきになっている。だけど美人は神妙な顔も魅力的だな。

この人があたしの義理のお母さん……

「随分急だね」

「急じゃないよ」と父は言った。

あたしにとっては急なんだよ。大人はいつも自分たちの都合だけで物事を決める。

あたしが受験でうんうん唸ってたとき父はよろしくやっていたわけだ。

「おめでとう」

あたしは無愛想にそう言った。

あたしがいやと言ったってどうすることもできやしない。物事はいつもあたし抜きで運んでいく。あたしの気持ちはいつも宙に浮かぶ。宙ぶらりんでどうしようもない気持ちを誰に吐き出していいのかわからない。

父には真理子さんという伴侶がいる。でもあたしに父はいない。父の気持ちは真理子さんで埋められているから。

じゃああたしの存在ってなんなのだろう。あたしはいらない子かもしれない。本当に。

あたし抜きで物事が運んでいくなら、もうあたしをだしに使って、偽善めいたことをするのはやめて欲しい。

「今すぐ結婚するわけじゃないのよ聖羅ちゃんが高校生活が落ち着いて受け入れられる気持ちになってからでいいから」

真理子さんはそう付け足した。

「いえ、いつでもいいですよ」

あたしはそういって満面に笑みを浮かべた。

こういうの、大人はお好きだからな……

「おめでとうございます」偽善の笑顔。

茶番だ。あまりにも茶番なので付き合っていられない。

「それじゃあお邪魔虫は消えますんでラブラブモードはその後で」

食卓を立ち自室に戻った。どこがどうというわけでもないのだが、むしゃくしゃした気分が抜けない。あたしはペン立てからカッターナイフを取り出した。

左利きなので右手の手首に歯を当て、すっと

刃を滑らせる。感情のやり場を自傷に求めてしまったので勢いがついて思いのほか深く切ってしまった。

止血しようとして包帯を探したけれど、

居間の戸棚に薬箱があるのを思い出して暗い気分になった。

今とりに行く気になんかなれない……どうしよう。

あたしは利き手で切った手首を強く握った。

あたしが手首を切るのは今に始まったことではない。一番最初に切ったのは中学2年のとき。父には内緒にしていたけどいじめにあっていた。二学期に同級生のある男の子と席が隣同士になったせいで、ひそかに彼と交換日記をして付き合っていた隣のクラスの女の子から目をつけられ、その女の子と中が良かったクラスのリーダー格の女の子から無視されるようになった。

最初はおはようと声をかけても、返事をされなくなり、次に体育の授業でペアになるときにあぶれるようになり、靴を隠され、戻ってきたときはカッターナイフで切られていたり、最後にはカツアゲに近いことまでされていた。

もっともあたしも下手な脅迫には乗らなかった。お金を強要されても無視できたし、リンチにあいそうになっても同級生のほかの男の子をボディガードにつけるくらいのことはできたから危険を何とか回避できたのだ。

どういうわけかあたしは男の友達には恵まれた。オヤジというあだ名のガタイの大きな男の子と仲が良かったので力ずくの暴力にあいそうになるとすぐ助けを求めることができた。オヤジは先生方にも、女の子たちにも一目置かれる存在で、もし彼がいなかったら、あたしはもっと早い段階で自殺を断行していただろう。彼には感謝するが、友達以上の感情はこれっぽっちもなかった。もっとも、オヤジのほうでもそうで、彼は困っている女の子がいたらあたしでなくても助けるという義侠心に満ちた、本当にいいやつだったのだ。

 それでもあたしは辛かった。無視されたことがある人はわかると思うけど、あれはある人間の存在を抹消することだ。精神的な殺人に近いといってもいい。

あたしはみんなに殺されていた。たくさんの人間の念いがあたしを刺し殺していた。

お前なんか死んじゃえ……

授業中にそんなメモが回って来たこともある。悔しくて唇の端が震えた。涙がほほを伝いそうになるのを奥歯を噛み締めてじっとこらえた。噛み締めすぎてこめかみが痛くなる。授業中にもかかわらず、あたしは席を立った。受け持ちの担任の英語の時間だった。行き成り立ち上がったあたしに「どうした、高幡?」

と担任が声をかけた。

「質問でもあるのか?」

「気分が悪いので早退します」

教室内はシーンと静まり返った。

「気分が悪いなら保健室……」と担任が言いかけている途中で机の中の教科書をかばんに入れ終え、教室を後にした。

たしか、担任が追いかけてきたかと思うのだがあたしは陸上部からスカウトが来るくらい足が速かったので、そのまま走って家に逃げ帰った。

家に帰って部屋に飛び込むなりあたしは机からカッターナイフを取り出して一気に手首を切った。かなり深く刺さったと見えて、血がぶくッと溢れ出してきた。

痛みはなかった。ただぞっとするような快感が電流になって走った。まだ生きている。

そうなのだ。あたしは生きている。こんなに血が流れているもの。奇妙な安心感があった。どくどく流れ落ちるあたしの血。あたしは生きている。誰がなんと言っても生きているんだよ。これをクラスの女子全員に見せてやりたいと思った。

「あたしの血。あんたたちが殺しかけてるあたしの血!! あたしはここにいる。あたしはここにいる」涙が横溢する。

「あたしはここにいる。誰がなんと言おうがあたしは存在(いる)んだ」絶叫に近い声であたしは叫ぶ。息が上がる。

次第に興奮が高まって過喚起の発作を起こしその場に倒れこんでしまった。

意識が遠のく。発作だけでなく、失血も入っているかもしれない。あたしは死ぬのかな。

このまま死ぬのだろうか……死ぬのなら死んでもいいよ、あたしはいらない子なんだから。あと数時間父が帰ってくるのが遅かったらあたしは本当に失血死していたらしい。

気がつくと病院の処置室にいた。

心配そうな顔で父があたしを見ている。

「どうしたんだ聖羅、お父さんが書類を忘れて出先から家に戻ったら、お前が風呂場で倒れていた」

風呂場?あたしが倒れたのは自分の部屋だったのに何で風呂場にいたんだろう?

記憶が飛んでいた。手首を切ったことだけはわかる。後のことは思い出せない。

しかし、もしあたしが風呂場で倒れていなかったら父はあたしの部屋を覗いたりしないだろうし、結果的には良かったのだろう。

でも死んでもかまわなかったんだけどね。

あたしは何も望まないしもうだれにも期待することはしないから。

それからあたしはひたすら勉強に打ち込んだ。

勉強していると余計なことを考えないですむ。クラスの女子を見返したい気持ちでいっぱいだった。どうせ無視されているんだからこっちもそのほうが無駄な時間を作らないで都合がいい。

だけど辛かった。精神的他殺にあいながら一人で立っているのは。


携帯の着信音が響く。11時47分

シャワーを浴びるために長袖Tシャツを脱ぎかけていたときだった。そのままシャツを脱ぎ捨ててブラジャー一枚の姿で電話に出た。

「聖羅」

「あ、トモ」

「悪いけど今シャワー浴びるとこ。用件は?」

「別に用はない。ただ生きているか心配だった。傷は?」

「鎮痛剤飲んだけど、痛い。切るときは痛くないけど、気がつくと疼くよ。傷が」

「そうか」

「うん」

「今日メッセ上がる?」

「いいよ」

「何時ころオンできる?」

「23時ころ」

「わかった。じゃあそのとき会おう」

トモは電話を切った。腕の傷の包帯を取り、あたしは裸のまま部屋を横切ってバスルームに駆け込んだ。早くシャワーを浴びないと風邪を引きそうだった。

栓をひねるとまだ温まっていない水が出てきた。お湯の温度を40度に設定ししばらく出しっぱなしにして、水が温まるまで待った。

そうしている間も傷は疼いた。水がお湯に変わると、傷に触れないように注意深く腕を上げて、お湯を浴びた。

頭皮が汗で汚れていたので、左手で洗い、片手でシャンプーをつける。

シャワーをフックにかけたままお湯を出して片腕に水がからないように洗うのはちょっと至難の業だった。

何とか髪を洗い上げるとバスタブのふたの上にあらかじめ載せておいたバスタオルでまとめてもう一枚で体を覆う。熱と湿気に刺激された傷がまた疼いた。メトロノームで拍子を刻むみたいに痛みが訪れて痛みがあたしかあたしが痛みかわからなくなってきた。

「いたぁ」泣きそうだ。自分でやっといたくせに不可効力でできた傷を嘆くときみたいに情けない気分に襲われた。洗濯かごの中のTシャツとジーンズを洗濯機にほおりこむと部屋に戻ってピルケースの中の鎮痛剤を取り出し、台所で冷蔵庫に残った二本のビールのうちのひとつを開け、3錠ほどビールで飲み下した。

テレビをつけた。黒眼鏡の司会者が登場するお昼の番組をやっている。うるさいのでまた消して、バスタオルを巻いたまま、ソファの上で横になった。足元の絨毯に黒っぽいしみが点々とついていた。それを眺めながら素手で傷をぎゅうっと圧迫した。

薬を飲むと痛みの濃度が拡散される。ぼんやりした霧に包まれた痛みに変わる。

時間が引き延ばされた飴のように伸びて自分がどこにいるのかさだかでない。

ここにいる自分は本当の自分なのだろうか。

深い霧の中に迷い込んでいるような気がする。あたし以外のものはすべて幻なのかもしれない。テレビの中の黒眼鏡の司会者みたいにスィッチを切るとぶうんと消えてしまうのかもしれない。部屋の空気とあたしの内側は切り離されている。あたしだけ別の世界にいる。脳内カメラは部屋の中を魚眼レンズを覗いたみたい映し出す。かと思うと視点がぐーっと引き離されて望遠鏡を逆さに覗いたみたいにも見せてくる。210度の双眸が二次元のざらざらしたスクリーンの中に納まって半裸のままのあたしがぐったりとソファに寝そべっているのが見えると、そのままで停止する。

「遠いなあ……ものすごく遠い。こんなに遠くまで来ちゃったよ」

今年の11月で22になる。高校を卒業して地元の短大を出て、銀行に就職したけど

半年でやめてしまった。銀行に就職したのは父の損保の代理店のお客さんに支店長さんがいたからだ。

その人の紹介。退職した原因?毎日残業ばかりでついていけなったのと、シビアな人間関係についていけなかったのと同じくらいの割合です。働いているときは傷を隠すのがけっこう大変だった。テニスで傷めたといっていつも手首にバンテージを貼っていた。テニスなんて一度もしたこともないのに、だ。

銀行を辞めてからずっと引きこもっている。

何かをするのがひどく億劫なのだ。外に行くのも、誰かに逢うのも、電話をするのも……

何もすることがないのでパソコンに向かって日がなチャットばかりしていた。それと自分のホームページを作って詩を書いたり、自傷の写真を載せたり。ネットに載せた自傷の跡はあたしが生きている唯一の証だ。誰かに見せたい。あたしが持っている傷を眺めて欲しい。

あたしの心の痛みは誰もわからないけど、傷の痛みは想像してもらえる気がする。わからなくてもいい。傷はあたしの存在証明だ。あたしの痛みと、誰かの痛みがリンクすればいい。あたしがいる、そのことを見知らぬ誰かが知ってさえくれればそれだけでいい。

あたしは誰も愛せない。誰とも手を繋げない。ネットは見えない手だ。あたしが亡くした心の触手。あたしと見えない相手を痛みで繋ぐ唯一の手段。だけどあたしは相手の痛みには関心がない。誰かと痛みを分かち合うなんてそこまでお人よしじゃない。

痛みはあたしに固有ものだ。相手の痛みは相手の痛みであって、同じような理由で同じような心の傷を持ってる同士がいたとしてそれがお互い同じように痛いかといったら決してそうじゃない。あたしみたいにリスカする子なんて五万といる。それぞれがそれぞれの理由で自傷する。中にはファッションで切る子だっている。

前にあるサイトのチャットに入ったら、カメラを出して自己採血を中継している女の子がいた。注射針かなんかで少しばかり刺して蚊に刺されたほどの血を流して喜んでいる。

「ばかじゃないか?切るときは思い切ってぐさっとやりなよ」そう書き込んですぐに落ちてやった。不愉快な気分。切らない人がそういうのを見て不快に思うのとは反対のベクトルで抱える不快感が押し寄せてくる。

「切るって言うのはね、こうやるんだよ!」極道映画の女主人公が自分の息子から日本刀を取り上げて自分の足の甲に突き立てるシーンで吐く台詞。まさに今あたしはそういう気分。で、また切る。その3日前に切っていたところ、重なって切れちゃった。

「遊びで切るなら切らないほうがいい」あたしもカメラ繋いで切るところ見せてその子にそういってやりたい。

ばかなのはあたしのほうだ……切らないで生きられたらそのほうがずっといい。どうしてこんなアンビバレンツに翻弄されているんだろう?自分の体、ずたずたにして心も石になって誰にも愛されなくて誰からも必要とされなくて……

「こんなあたし、生きていていいんですか?」もし神様がいるとしたらあたしはこういって抗議すると思う。

死にたい……でも死なない……神様にも嫌われている、あたし。こんな自分が……嫌い。


すっかり湯冷めしてしまったあたしはテーブルの上に残ったビールを飲んで、くしゃみをした。

ショックで傷が開いたみたい、物凄く痛い。傷の少し上を握ってじっとしたまま痛みをやり過ごす。

はぁ……一日に何度もつくため息がまた出る。

クロゼットから下着とトレーナーとコットンパンツをとりだして身に着けた。

包帯を巻きなおし髪を包んだバスタオルをはずして洗面所でドライヤーをかける。

しばらくヘアサロンにも行っていない髪は伸び放題でなんだかみすぼらしく所帯じみている感じがする。

くるくると髪をねじってバレッタで止める。鏡の中の自分は他人のようによそよそしい。青白くてほほがこけていて死人のようだ。

「あたし、もう死んでるね」

「そうみたいね」

「それならいっそ本当に死ぬ?」

「それもいいんじゃない?」

「どうやって死ぬ?」

「わかんない。でも死に方なら、トモが探してくれるよ」

「凍死? 練炭?」

「笑っちゃう。そんなに簡単に死ねるならとっくに一人でやってるわ」

死ぬときは絶対ひとりがいい。青く澄んだ空の下で仰向きになって死ぬんだ。意識がなくなる最後まで空を見つめていたい。3つのときママが連れて行ってくれた遊園地で見たあの空に似たよく晴れた日に。あの日、誰かの手をすり抜けたミルク色の風船が雲ひとつない空に浮かんでいた。心もとなく風に揺れる風船がすうっと空に吸い上げられていくのを幼いあたしは母親と二人で目を凝らしていつまでも見続けていた。見上げすぎて首が痛くなるくらい。人はどうして空を飛べないんだろうねえ。お空を飛べたら空の上からあの人を探すのに。……あの人? あの人って誰?

あの人はあの人よ。あたしを最後まで笑ってみていてくれる人。あたしのすべてを許して、飲み込んで、抱きしめてくれる人。大きくて暖かくて、あたしをくつろがせてくれる人。……そんな人いないよ。

そうだねえいないね。そう。あたしには誰もいない。でも死んだら誰かが泣いてくれるかもしれない。

あたしが生きていたことを思い出してくれるかもしれない。笑止。それは都合のいい思い違い。みんなすぐに忘れるよ。あたしがいたことなんか誰も思い出さない。誰の記憶にも残らない。いつだって隠れるようにして生きてきたんだもの、いまさら死んで誰かの目に触れてそれでだれかが泣いてくれたとしても、それは単なる飾りの涙にすぎないんだよ。

「そうかなあ」

「そうだよ」

「……きっとそうだね。せいらのいうとおりだ」

鏡の中のあたしは微かに笑った。

切ない。壮絶に切ない。誰かにいてほしい。でも誰もいない。いても心が繋がらない。現実から切り離された孤児。この世から隔絶された心。自分から望んだわけじゃない。でも気がつくと独りになっている。

みんなあたしから離れていく。あたしも自分を離れていく。あたしはもう自分すら見放している。見放さないように切って痛みでここにつなげてきたけれど、痛みすらもう自分を繋ぎとめる手段じゃないような気がしている。生きていちゃいけないのかもしれない。この世に生きるにはあわなすぎるのかもしれない。

肉体と精神がきちんとリンクしていない。心が苦しいって。お空を飛びたいって叫んでるよ。

あたしは泣く。声を殺して泣く。まだ泣ける。泣く気力がある。

顔をぐしょぐしょにして泣いているとだれかがドアチャイムを鳴らした。間を空けて3回なった。

出ないことに決めているのでそのまま無視していると今度は携帯がなった。

真理子さんからだった。今度は間に合った。


「聖羅ちゃん」

「はい」

「元気?」

「……じゃないです」

「そう?ちゃんと食べてる?」

「食べてない」

「だめよ、おなかすかせてちゃ」

真理子さんは優しい。さすが二児(といってももう大きいけど)を育て上げた母親だ。

「はい」

「近くまで来たからよって見たんだけど、ドア開けてくれる?」

「いいけど、散らかってます」

「気にしないわよ」

「はい」

あたしは素直にドアを開けた。

しばらく会わないうちに真理子さんの綺麗さに磨きがかかっている。ちょっと後光が射す感じで気後れがした。

「聖羅ちゃんのお部屋来るの久しぶりね」

「そうですね」

「ごめんなさい、今何もないの。コーヒーも切らしてるし。買い物行かないから」

「いいのよ、そう思って買い物してきたから」真理子さんは足元のスーパーの袋を掲げて見せた。重そうだ。

「そんな……いいのに」

「わたしね、お昼まだなの。よかったら聖羅ちゃんわたし何か作るけど、食べてくれる?」

「いいんですか?」

「もちろん」真理子さんは微笑んだ。笑うと綺麗な歯が覗いてかわいらしいハムスターみたいになった。

「キッチン綺麗にしてるのね」

「何もしないですから……そのまま」

彼女は買ってきた薄切りパンの袋を開けて、パンにバターとマスタードを塗った。

レタスとトマトを綺麗に流水で洗い、きちんとキッチンペーパーでぬぐった。包丁とまな板の上でリズミカルにトマトを切る。レタスを敷き冷蔵庫にいったんしまった、ソーセージ屋で買ってきたきちんとしたベーコンを取り出しレタスの上に乗せ、トマトを載せるとBLTサンドが出来上がった。パンは綺麗に半分に切られて皿に盛られた。買ってきたばかりの濃い牛乳をレンジで温めてマグカップに注ぐ。

「できたわよ、さあいただきましょう」

なんだか泣けてくる。

誰かにご飯を作ってもらうなんて何年ぶりだろう……

「どうしたの?」

「いえ。ちょっと感動してる」あたしは正直に答えた。

「こんなことくらいで?」

「いいえ、ぜんぜんこんな事くらいじゃないです。すごいです」

「そう?」

「うん」

「ねえ聖羅ちゃん、うちに帰って来ない?」

真理子さんはあたしの包帯に視線を落とした。

「今はちょっと」

「もともとは聖羅ちゃんのお家なんだし。あたしたちが入ってきて居場所を取り上げてしまったみたいで心苦しいのよ」

「そんなことないです」

「わたしの連れ子たちに遠慮してるのならそれは違うわよ。上の順一は社会人になってもう家を出たし、下の拡も東京の大学に行ったから家にはいないし。聖羅ちゃんの居場所はあるし、ちゃんと部屋はそのままにしてあるから」

「ありがとう」

でも……いいんです。あたしはいなくなりますから。死ぬんです。あたしは自分の中で答えた。

「聖羅ちゃん病院行ってる?」

「いえ」

「わたしのね、お友達がカウンセラーやってる病院を紹介するけど、行かない?」

「……」

あたしは黙り込んだ。

「無理にとは言わないわ。もちろん。だけど聖羅ちゃんが苦しかったらやっぱりいったほうがいいと思うの。夜はちゃんと眠れてる?」

「いえ」

「不眠のお薬貰うだけでも違うと思うんだけど、どうかしら?」

「今はまだ行きたくない。行く元気ないです」

「そっか。それなら行けるようになったときは電話をくれるかしら?メールでもいいけど」

「わかりました」

「お父さんね、聖羅ちゃんのこと心配してた」

「父が心配……ですか」

「ええ」

何かの間違いだ。そうでなければ真理子さんの単なるおせっかいだ。

「あの自分のことしか考えられない人が心配ですって?どうせ心配するなら3歳のときに戻って心配してください。あたしはもう大人です。人の心配とか同情は結構です。生活費振り込んでもらっているだけでいいです。ちゃんと自立できてなくてごめんなさいって言っといて下さい」

真理子さんは沈黙した。

「余計なこといってごめんなさいね」

いいえ、あやまるのはあたしのほうです。余計者のせいでお二人の生活乱してごめんなさい。そういうことを口に出して言うと、真理子さんをまた傷つけそうだったので、あたしは自分の中でひとりごちた。

あたしはやっぱりいらない子だ。誰かに迷惑ばかりかけている。小さいころはママに。そして今度は父と真理子さんに……

「ごめんなさい辛くなってきたんで横になっていいですか」

サンドイッチを一切れ食べてあたしはソファに横になった。

真理子さんはすまなそうな顔をした。

「いいえ、真理子さんのせいじゃないです。夕べ眠剤飲みすぎで寝すぎて頭が痛いんです」

「そうなの。じゃあ少し休むといいわ。わたしは帰るわね」食器を洗って真理子さんは帰った。

 寒い。足が深々と冷える。ソファから起き上がってベッドに向かう。

毛布を引っ張りあげて、えびのように丸くなってあたしは目を閉じる。眠ってしまえば何もわからなくなる。辛いことも苦しいことも、痛いこともない。ずっと眠っていたい。何も感じないでいたい。

心なんてなくなればいい。心をなくしたら傷つくこともない。単調な毎日も、平凡な他人との付き合いも何の苦もなく、やり遂げられる。淡々と生活して淡々と仕事をする。その簡単そうなことがあたしにはひどく難しい。そんなことができるくらい強かったら切ったりしない。もう何も考えたくない。誰のことも思いだしたくない。自分の存在すら忘れたい……眠りの中に埋没し、冬眠中のかえるみたいに昏々と眠り続けよう。誰にも傷つけられないあたしだけのサンクチュアリの中にいて。


セーラ『こんばんは』

(ピンク色のMSゴシック10ポイントのフォントで書き込む)

トモからの反応は遅い。

ト モ『こん』

(11ポイントMS明朝体太字、赤)

トモが入った。

セーラ『心配して電話してきてくれてありがとう』

ト モ『うん』

セーラ『あたしなら大丈夫』

ト モ『そう』

セーラ『うん』

ト モ『そうか……』

ト モ『僕は死にたい』

セーラ『……』

セーラ『どうして死にたいの?』

ト モ『聖羅は生きていたいのか』

セーラ『死にたい』

ト モ『一緒に死のう』

セーラ『どうやって?』

ト モ『それを一緒に考えてくれないか?』

セーラ『なにも考えたくないよ。疲れた』

ト モ『疲れた……そうだね』

セーラ『ただ眠っていたい』

ト モ『そうだね。僕と一緒に眠ろう』

セーラ『ひとりでいいよ』

ト モ『ひとりじゃ寂しい』

セーラ『いまさら誰に寂しいって言ったところでどうにもならない』

セーラ『3歳のときからずっと一人だったのよ』

ト モ『僕もずっと一人だった』

セーラ『物理的にもね。母はいたけどいないとおんなじだったしね』

ト モ『僕もだ』

ト モ『小さいころ、僕は貰われてきた子かと思ったことがある。僕には姉と弟が二人いてね。母は歯科医、父は商社に勤めていた。小さいころから医者になれって言われて育ってきた。姉は今都内の病院で麻酔科の医者になっている。姉は小学校から私立でエスカレーター式に高校までいって私立の医大に行ったけど、僕は大学までずっと公立で勉強ばかりさせられてきた。なんで勉強しなくちゃならないのって聞いたら、小さいころに勉強すれば大人になってから勉強しなくても良いからだって言うんだ。でもそれは嘘だ。僕は大人になって今26歳だけどまだ勉強し続けている。去年医師の国家試験に落ちてからずっとぷー太郎で親掛かりで、医者にならなかったら死ぬしかないんだ。』

セーラ『そう』

セーラ『何でそんなに思いつめるの?』

ト モ『選択肢がひとつしかないから』

セーラ『オールオアナッシング』

ト モ『そういうこと。でももう疲れた。試験を受ける気力もないよ……』

セーラ『疲れたね』

ト モ『うん』

ト モ『聖羅』

セーラ『なあに』

ト モ『今度逢って欲しい』

セーラ『……』

指が止まった。

逢いたい気持ちと躊躇する気持ちがいっぺんに交錯する。どうしていいかわからなかったのでしばらくロム状態に入った。

逢って欲しいという赤い文字を見ていると呼吸が乱れ、過呼吸の発作が始まりそうだった。。

携帯が鳴った。

息が上がって脈拍が速くなる。心臓が激しく波打っている。得体の知れない恐怖心に襲われてあたしはすがりつくように電話に出た。

「聖羅」トモからだ。

「こ、呼吸ができない……」

あとは激しい息遣いだけ。

言葉が出てこない。

頭がぼうっとして指先が痺れる。その痺れが腕まで上がってくる。波打つ痺れに忘れていた傷跡の痛みが便乗してくる。

「落ち着いて」

「過喚起?」

「う……う……」

「そばにスーパーの袋かなんかないか?」

「な……い……」

「そうか。それじゃ口元を手で覆って。」

トモは冷静な口調で指示した。

あたしは言うとおりにした。

「ゆっくり息を吐いて、吐いた息をゆっくり吸い込んで。二酸化炭素を取り込むと治まるんだ」

薄れそうな意識の片隅にトモの声が響いた。

鋭い痺れが次第に緩慢になってくる。

見慣れた部屋の光景がぼんやりと膨らんで次第に白くなっていく……

ホワイトアウト。


気を失っていたのは何分くらいだったか思い出せない。

電話はすでに切れていた。

ゆっくり起き上がってパソコンの前に座った。メッセンジャーを開くとトモはオフラインになっていた。

静寂が耳鳴りになってぶぅんと響いた。眠ろうにも眠れない。闇の中に取り残された切り離された心に、冷たい風が吹き渡った。寂しさがあたしを飲み込んだ。どうにもやりきれない思いが怒涛のように押し寄せてあたしは机の引き出しからカッターナイフを取り出し、傷の数センチ上に浅いラインを引いた。すっと赤い糸がにじんできた。

誰もいない。あたしにはだれもいない……涙がとめどなく零れる。

だれかあたしを抱きしめて。そして安らかな眠りに引き込んで。

ト モ『聖羅いる?』

トモがオンした。

ト モ『だいじょうぶか?』

セーラ『何とか』

ト モ『気がついた?』

セーラ『うん』

ト モ『落ち着いた?』

セーラ『少しはね』

ト モ『過呼吸で死ぬ人はいないからね』

セーラ『うん』

ト モ『PDだな』

セーラ『PDってなに?』

ト モ『パニックディスオーダー、「パニック」は日本語で「恐慌」。極度に混乱した状態だ。自力で解決できない程のひどい状況に陥った際に「パニック」になったというわけ。パニック発作は、予期せずに、さまざまな身体症状が生じ、現実喪失感、発狂恐怖、死の恐怖等の精神症状も伴う強い不安発作なんだよ』

セーラ『そうなんだ……』

ト モ『病院、行ってる?』

セーラ『行ってない』

ト モ『行ったほうがいいかもしれない』

セーラ『真理子さんにも行きなさいって言われている』

ト モ『真理子さんって誰?』

セーラ『父の再婚相手。あたしの義理の母親』

ト モ『その人についていってもらって、早めに行ったほうがいい。メッセだけでは詳しい状態はわからないよ』

セーラ『死にたい人が病院に行けって言うの、おかしいね』

ト モ『確かにそうだね(笑)』

セーラ『(笑)』

チャットだと素直に感情表現できるのはなぜだろう。顔が見えないから余計な衒いがない。もともと、あたしは人の目を見ながら話すのが苦手だった。小学校の低学年の頃、授業中教師が語りかけるようにあたしの顔に視線を落とすと必ず目をそらしていた。教師はあたしを呼んで、なぜ目をそらすのか問いただした。そんなことあたしにもよくわからない。ただ「見ると飲み込まれるから……」とだけ答えた。教師は家庭訪問でそれを母親に告げた。病院に行ったほうがいいとまで言われていたらしい。学習困難なこどものように見られていたんだろう。母は、余計なお世話。と相手にしなかったみたいだけど……

銀行の窓口にいたときもそうだった。お客さんの顔を見て話ができないので、何度も叱られた。頭ではわかっているんだけど、からだが言うことを聞かない。何度も指摘されているうちについに窓口をはずされてしまった。

それくらい人が苦手なのだ。

誰もいないと寂しい。誰かがいると緊張する。あたしはどうしたらいいんだろう。

誰か教えて欲しい。あたしはどうやって生きていったらいいの?誰も何も答えてくれない。あたしはどうして生きているの?あたしが生きている意味って何?答えてよ。誰でもいい、あたしに答えを頂戴。そうやっていつまであたしはここにいるんだろう。いつまで自分の中に引きこもっているんだろう。ここからどこかに行きたい。でもどこに行けばいいのかわからない。砂漠で迷える行く当てのない旅人みたい。

揺れる蜃気楼の向こうで見知らぬ誰かがあたしに手を振っている。ここにおいでと手招きする。あたしを導いてくれる誰か。もしくはあたしを冷たい暗闇に引きずり込もうとする死神。どちらかわからない。でもその人はあたしを必要としているみたいだった。

ト モ『聖羅』

セーラ『なあに?』

ト モ『ごめん。唐突過ぎた』

セーラ『いいよ』

ト モ『逢って見たかったんだ』

セーラ『死ぬ相談したかったの?』

ト モ『それもある』

セーラ『死にたいんだ』

『そうだね。聖羅は?』

セーラ『あのね、死神が来る』

『死神?』

セーラ『死神が黒いマントであたしを包んでいる。冷たい風が入ってくる、そういう感じ』

ト モ『大丈夫だよ。僕が包んでいてあげる。眠剤飲んで。聖羅が眠りにつくまで見守っていて上げる』

セーラ『眠剤もうない』

ト モ『分けてあげようか。薬貯めてたから。イソミタールっていうんだけど。

(バルビツール酸誘導体系中間型催眠鎮静剤

分類   催眠鎮静剤,抗不安剤

系統   バルピツール酸系,チオバルビツール酸系

適応 内服:不眠症、不安緊張状態の鎮静

注射:不眠症、不安緊張状態の鎮静。麻酔面接,昏迷の軽減。けいれん状態の抑制。麻酔前投薬。

作用  催眠・鎮静作用。

与薬  内服:不眠症には一日0.1~0.3g就寝前、不安緊張状態の鎮静には一日0.1~0.2gを2~3回に分服。(増減)

注射:一回0.25~0.5g静脈注射または筋肉注射(増減)。5~10%注射液を一分間に1ml以下の速度で静脈注射するが、不適当な場合は筋肉注射。

剤型:錠(劇薬)、散(劇薬)、注射(劇薬))』

ト モ『死ぬのは怖くないんだよ。聖羅』

セーラ『そうね』

ト モ『僕がいるから聖羅のためにいるから』

セーラ『うん』

セーラ『あたし少し休む。疲れた』

ト モ『わかった。ゆっくり休んで。おやすみ』

セーラ『おやすみなさい』

ラインを切ると深々とした夜が押し寄せてくる。眠ろうと思っても眠れない。これから明け方までが一番辛い時間帯だ。からだは憔悴しきっているのに頭だけが冴えて錐のような覚醒が襲う。もう切る気力もない。虚脱感が押し寄せる。壁に寄りかかって手をだらりと下げてそのままでいる。涙も出ない。ただ乾いている。ひびの入った心が微かにきしむ。隙間がだんだん広がっていく。この隙間はなにをもって充填できるのだろう。あたしは空っぽだ。もう何もない…… 生きる希望も、命にすがる力も、もう尽き果てている。

トモが死にたいなら付き合ってもいい。あたしには何もない。最後にあたしができることはトモの望みをかなえてあげることなのかもしれない。それでトモが救われるなら、あたしも救われるのかもしれない。何もできなかった女の子が最期にできることといったら死にたい人に寄り添って最期の時間を共有することでしかないのかもしれない。

「トモ……あたし死んでもいいよ。もうねえ疲れちゃった。あたしはいらない子なのに、最期にあたしを永遠に招待してくれてありがとうね。あなたがあたしを必要としてくれるなら、あたしにはそれが一番いいこのような気がするよ。トモ……一緒に死のうねえ。あたしも病院に行くよ。病院に行って薬を貯める。だってトモの薬だけじゃ致死量に足らないかもしれないものね……」

目尻を一筋の露がたどる。あたしは目を閉じて、まだ見たことのない彼の面影を作り出してみる。顔がわからないけど、痩躯で繊細な感じがする。指が長くて掌が大きい。その指で彼はあたしの髪をなでる。

抱きしめて乳呑児をあやす母親のようにいとおしげに愛撫する。それだけしてくれたらもう、何もいらない。一緒に行けるよ。永遠という場所まで。


「それじゃあほんとに診察受ける気になったのね」

電話の真理子さんの声はうれしそうだった。

「はい」聞き取れるか取れないかの小さな声であたしは答えた。

「よかった」

でもそれは病気を治すためじゃなくて、薬を貯めるためなんです……あたしはちょっと後ろめたい気持ちになる。真理子さんを騙すことになるからだ。

「それで……お願いがあるんです。真理子さん一緒に行ってくれますか?ひとりじゃ心細いんです」

「もちろんよ。じゃあわたしのほうから病院に連絡しておくから。聖羅ちゃんはいつが都合がいいの?」

「わたしはいつでもいいです。真理子さんの仕事の空き具合に任せます」

「わかったわ」

「お父さんも一緒のほうがいいかしら」

「父は……いいです。余計な心配掛けたくない」

父が来たらおそらく厄介なことになる。病院に通うことになったらあたしはうちに帰されて、監視の目を向けられるだろう。父は放任主義の癖に、子供に対しては世間体を押し付ける人だから。

「真理子さんのほうが頼みやすいから」

「もし聖羅ちゃんさえよければ明日でもいい?」

「ええ。いいです。こんなお願いしてしまってごめんなさい」

「そんなことはないわよ。ねえ聖羅ちゃん生きているうちにはいろんなことがあるわよ。あなたまだ若いんだし、気を使うことなんてないのよ」

「はい」

素直な子供みたいに殊勝げに返事をした。

「じゃあ明日の午前中そちらに迎えに行くわね」

「はい。お願いします」

午前中か。起きられるかな……急に心配になる。あたしに朝はない。午前中はからだが痺れて頭がぼうっとする。頭が鉛のように重くて起きていられない。目が覚めてもまた眠ってしまう。早くて午後1時くらいに目覚める。ひどいときは午後の4時か5時頃になる。朝日が射しているかと思ったら夕暮れだったことはしょっちゅうだ。夕方から夜にかけては割りと調子が良い。鬱病の日内運動というらしい。常に憂鬱な気分で心が支配されていて、朝が一番苦しくて夕方が楽になる。そうトモに説明されたことがある。あたしは鬱なのかな。いつも気持ちを押さえ込んでいる。気持ちが解放されることのほうが少ない。今に始まったことじゃない。中学の頃からずっとそうだった。抑圧。何に対して押さえ込まれているのか自分でもよくわからない。それを知るためにも病院に行くのはいいことなのかもしれない。ただ、原因がわかったところで死にたいという気持ちに変わりはない。ああでもあたしは本当に死にたいのだろうか。死にたくて切っているわけじゃない。死にたくて切るときもあるけれど、どちらかというと、生きていることの確認をしたいから切っているのだと思う。切ると気分がわずかだが晴れたような気持ちになる。あたしの中のもやもやが血と一緒に出て行く感じ。溢れる血を見ているとこれでいいんだという気持ちになれる。あたしは罰せられなければならない。痛みでいのちに引き寄せられなければならない。それでいのちが掌からすり抜けてしまうならそれでもいい。生きる事も死ぬこともあたしの中では等しいものだから。現実の風景はあまりにも遠い蜃気楼だから。

日差しがまぶしい。遮光カーテンが開けっ放しになっている。ドアチャイムが遠い場所から響いてくる。

遠くから歩いてくる人の足音が近づいてくるみたいに音が次第に大きくなってくる。携帯もなりだしてあたしは目を覚まさないわけにはいかなくなった。

携帯に出ると「聖羅ちゃん、起きて。迎えに来たのよ」と真理子さんのかなりあせった声が響いてきた。

「はい……」低い声で返事をする。朝は声帯もうまく反応しない。

また、ベッドに入らないでそのまま床に転がっていたので起き上がるのが辛い。

だるくて痺れるからだを持ち上げて、あたしはドアをあけた。

「嘘!」しわがれた声で思わず叫んだ。そこにいたのは真理子さんだけではなかった。1年近く顔をあわせることがなかった父親が並んで佇んでいたのだ。

あたしは絶句した。

……真理子さんの嘘つき。父は呼ばないって言ったくせに、どうして一緒にいるの? ……あなたを信じたあたしが悪かったわ。少しくらい親切にしてもらったからってあなたのことを信じたあたしが馬鹿だった……誰に逢いたくないって、父には一番逢いたくなかった。ただでさえ親がかりで情けない思いをしているって言うのに、これ以上みっともないあたしを見られて情けないやつだと思われて、また怒鳴られるの……会社辞めた時だって、顧客のコネで入れてもらえたのに、恥ずかしいことをしやがってって散々ののしられたのに……父はあなたと一緒にいてもちっとも変わっていない。あたしは三行半突きつけられた女の娘だってことだけで疎まれて憎まれて恥知らずだと思われているんだよ……あなたの前の父と、あたしの中の父は全然違うの。あなたには優しいかもしれないけど、あたしと別れた母親に対してはひどかった。

そういうことあなたは何一つ知らないでしょう?聞かされていないはずだから。

父は自分を気に入っている人の前では物凄い善人になる……


あたしの中で記憶が散弾銃みたいにはじける。


あの冬の日、あたしがママを助けられなかったときの光景があたしを包み込む。

赤いフィルターを通した、画像が早回しされる。父親が寝ているあたしの布団を引き剥がす。

「おきろ!! 聖羅。お前の母親は気が触れている。一日中何もしないで寝てばかりいやがる。俺が仕事で忙しくてかまってくれないのが不満だって抜かしやがって。いいか聖羅、お前とこの女が生きていられるのはなあ、俺が稼いでいるからだぞ。自分で事故ってにっちもさっちも行かなくなってるやつの面倒見てやっておれは24時間働いてるんだ。事故があればすぐ呼び出される。いつ呼び出されるかびくびくしながら酒を飲む。飲まなきゃやっていられないからな。それも気に食わないという。外で飲んでばかりいるのが気に入らない、それが原因でこいつは俺に嫌がらせをする。朝飯は作らない。寝てばかりいる。掃除も洗濯もしない。何にもやる気がない。ワイシャツなんてなあ、洗ってアイロンかければ済む話なのに、いちいちクリーニングに出す。それもとりに行くのを三日に一度は忘れる。こんなやつの面倒誰が見るんだ?俺だぞ。しかもな俺が仕事で忙しいのをいいことに男作りやがった。定期的にかかってくる間違い電話はなんなんだ。俺が出ると一回は、『サノですが、瑞希さんおりますか?』と抜かしやがった。覚えてるぞ。サノと確かに名乗ったからな。同じ声で違うときは『ナカムラですが瑞希さんお願いします……』ときやがった。よくもまあぬけぬけと人の女房捕まえて名指しできるもんだ。最低の男だな。俺は人さま相手の商売してるんだ。いったん聞いた人間の声は声色変えたってそう変わりゃしない。そういうこともわからん馬鹿な男にこいつは現を抜かしやがってるんだ。いいか、聖羅、お前もこんな馬鹿な母親の血が流れているんだぞ。覚えて置けよ、こういうのをな、売女っていうんだぞ。お前も将来必ずこいつみたいに気違いになるからな。結婚もできんぞ。俺がこの女の血が流れてるお前の性根を治してやるから、こっちを向け」

父の掌があたしの頬と耳を同時に打ちつけた。爪があたって耳たぶの付け根が切れた。血を見た父は逆上して何度もあたしの頭を叩いた。凶器となった掌はあたしの唇を切り、鼻血を出させた。あたしは何度も頭をひっぱたかれて脳震盪を起こした。


「止めて、パパ。あたしを叩かないで。ママを叩かないで。あたしは何も悪いことしてないよ。あたしが悪いことしてるなら、それはあたしが今ここで生きて息をしてることだよ。ごめんなさい。ごめんなさい。生きていてごめんなさい……」あたしは手を上げられた子供がとっさに腕で頭をかばうようなしぐさをした。

泣きじゃくりながら「……ごめんなさい。ごめんなさい。あやまるから。せいらが悪かったよう。だからいい子にするから、もう叩かないでえ…」と許しを請う。

「なぁにおぉいぃっているんだああああ?」

父の声が再生速度を落としたCDみたいにぐぉぉんと響いた。

「まぁりぃこぉさんにきいぃて、びょおぉぉいぃんまでおくろぉおおうとおもってきたんだあぁぁあああ・・・・・・」

ぐぉおおおおん……

父の顔がSF映画に出てくるCG画像のロボットのようにうねりながらあたしに迫ってくる。

ロボットの顔面の合金が溶け出してあたしの足元に流れ出してくる。

いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!

絶叫して部屋のドアを閉めた。そのまま走って机の前に行きカッターナイフをふり上げ、右肘の内側、昨日切った傷の包帯の上にぐさりと突き刺した。

かなり深い。見る間に包帯が朱に染まっていく。あたしは白い包帯が赤くにじんでくるのを見届けて、フェードアウトするバラードを聴くようにゆっくりと気を失っていった。

   

あたしの居るところは、真っ白い壁と天井、窓には柵がしてある。

床に敷かれたマットレス、部屋の隅にはトイレがひとつ。ここはどこだろう。あまりに現実感が薄いので夢の中なのだと思う。夢ならもう1度目を瞑って二度寝すればまた醒める。あたしは目を瞑った。ゆっくりと目を開ける。

情景は何も変わらない。

音もしない。シーンとする静寂の音さえも。なんだか平坦な空気が流れる。音も吸い込む部屋らしい。

ぼんやり天井を見上げて虚ろになっていると、どこからか人の気配がしてドアが開かれた。

「気がついたかな?」白衣を着た若い医師と中年の太った女性の看護士が入ってきた。

「君の名前は?」医師が尋ねた。

「たかはた、せいら・・・・・・です」

「年齢を教えてください」

「21です」

「気がついたみたいだね。ここに運ばれたときのこと覚えてる?」

「病院みたいだけど、ここどこですか?」

 彼はここが市内の総合病院の精神科であることを告げた。ここは保護室で、あたしは手首を切って保護入院の措置を受けたことも、そのとき初めて知った。

「今日がいつかわかる?」

「10月21日」

「23日だよ。まる2日間意識がなかったんだ」

「2日・・・・・・」

「そう。しばらく入院してもらうことになるよ」医師は言った。

「しばらくって・・・・・・どれくらい?」

「まずはここで、ゆっくり休んでもらう。それからだね。体力も落ちているみたいだし。ふらつかない?」

「ふらふらする」

「ここに来る前に、夜は眠れていましたか?」

「いいえ」

「そう。眠剤出しておくからね。きちんと飲んでください。それと心を落ち着かせる点滴を打つからね」

医師は看護士に処置を命じた。

看護士は無言でうなずくと、あたしの腕に血圧計のベルトを巻いて血圧を測った。次に腕をしごいて血管を浮かせ

「ちょっとチクっとしますよ」といって点滴の針を左腕の静脈に差し込んだ。ぜんぜん痛みを感じない。

あたしはもう人間じゃないのかな・・・・・・こんなところに入れられて、独房みたいな殺風景な部屋で。まるで犯罪者みたい。あたしが生きていることって 犯罪なのかもしれない。あたしに関わる人はみんな迷惑をこうむっている。

ぼんやりとして輸液が落ちるのを眺めている。

ひとーつ、ふたーつ、みーっつ・・・・・・点滴の雫が落ちるのを数えていると眠くなってきた。何も考えなくてもいい。ここは保護してくれる場所らしい。あたしは眠りの中に落ちていく。すとんと落ちて何も感じなくなれればいい。

暗い闇がうごめきだしてあたしを無意識の深淵に誘う。死ぬときってこんな感じなのだろうか。トモはどうしているだろう。こういう風に保護されたまま逝けるならトモと一緒に逝ってもいいと思う。

手を繋いで。どこにも行かないで。あたしのそばにいて。それがトモのことなのかどうかわからないまま、あたしは眠りに身を委ねる。

保護室に入れられて一週間くらいが過ぎた。くらいというのは、ここにはカレンダーがないので、看護士が点滴に来るたびにきょうは何日の何曜日か聞いていたからだ。

看護士は一日に5回部屋に訪れた。3度の食事、点滴、傷の消毒をし、薬を飲ませるときの5回だ。

今日は傷の処置の時間にいつもくる中年の女性看護士(入院したときにはじめてみたあの人)のほかに

外科の主治医が現れた。40代くらいの小太りでオタクっぽい感じの男性医師だ。

傷は7針縫われていた。裁縫の好きな外科医だったらしくて、綺麗に繕われた傷を見て

「コレは僕の作品だ。綺麗だろう」と言った。あたしは作品の素材を提供したらしい。

「素材が良かったからでしょ」

「素材は自分で切るところから始めないと意味ないね」外科医は言った。さらに、

「自分で自分を切ってどうするの? 君、車運転できる?」

いきなりそう聞かれてあたしは面食らった。

「はい、運転ぐらいはできますけど」

「君のやっていることはさ、自分の車を自分で壊してるようなものだよ。車はみんな大切に乗るだろう?ちょっとぶつけてへこむとすぐ修理に出す。自分からわざとどこかにぶつかって車を壊す人間は、まあたまにはいるかもしれないけど、そうはいない。車と人間は違うというかもしれないけどね、物質という観点からすればそう変わっているとは言えない。人間も物質だからね。違うのはその入れ物に心って言う得体の知れないものを積んでいるというだけだよ」外科医はそういった。

「傷の具合はだいぶいいね。若いからくっつくのが早い。抜糸と行きたいが最近の糸は溶けるんでね、その必要もないでしょう。おしまい」

入れ替わりに主治医の精神科医が入ってきた。

「具合はどう?夕べは良く眠れた?」

よく眠れるどころかここに入ってから眠ってばかりいるような気がする。点滴を打って薬を飲んでご飯を食べてそれの繰り返し。最もご飯はあまり食べられなかったけど。白い米粒と言うものがのどに引っかかってだめなのだ。一口食べるともうおなかがいっぱいになる。看護士が下げに来るたびに「若いんだから食べなきゃだめよ」と言われていた。若かろうが年をとっていようが食欲がないのには変わりない。中年のおばさんってこと食べることに関しては、どうして無理強いするんだろう。自分が作っているわけじゃないのに。謎だ。

 今日はアナフラ二-ル5パーセント200ミリリットル点滴することになる。抗鬱剤だ。

雨が降ってきた。雨が窓を叩く音で気がついた。かなり激しい。雨が降る日は嫌いではない。鬱な気分は変わらないけれど、リズムを感じるからだ。血が流れる音と雨が落ちる音は似ている。あたしはまだ生きている。雨のリズムを聞いているとまだ生きていることを思い出させてくれる。ただ生きている。息をしている。血が流れている。あたしが感じるのはただそれだけだ。あとは何も感じない。喜びも悲しみも怒りもおよそ感情というものが沸いてこない。下等動物みたいにして生きている最低の人間、それが今のあたしだ。

アナフラの雫が静脈に送り込まれている。雨の雫が落ちる音と重なっている。気持ちが穏やかになってふわーっとしてくる。虚ろに眠い。あたしは薬が効きやすい体質らしい。ドグマチールを打たれたときはひどかった。腰が立たなくなって部屋のトイレにしゃがむのもやっとだった。

トイレは部屋にあるからそう歩かなくても済むのに、それでも足のふらつきが収まらなくて腰をかがめながらようやく用を足す場所にたどり着いたのが屈辱だった。どうしてこんなに強い薬を出すんだろう。薬漬けでもう一生ここから出さないつもりでいるのかとさえ思った。

 ここに入ってから父も真理子さんも一度も面接に現れなかった。やっぱりいらない子だからだ。あたしはそう思っている。来て欲しいのか欲しくないのかそれすらも自分ではよく把握できていないのだけど、一日中何もしないで誰にも逢わないでいると、誰でもいいから話がしたいという欲求にかられてしまう。ここは身内しか面接のこられない場所らしい。あたしの身内といったら父と真理子さんしかいない。父のことは恐れたり憎んだりしながらも微かに来て欲しいという欲求は見え隠れしているのが自分でもわかる。血がそうさせるのかもしれない。憎しみを持ちながら求めてしまう切ない気持ちがあたしを支配する。どうしていいかわからない。逢えばまた極端な行動に走るのは目に見えている。それを分かっていて病院側はあわせようとしないのかもしれない。静かで落ち着いた状況を作ろうとさせているのかもしれない。あたしには分からないことだけど。そういえば、トモはどうしているだろう。携帯を持っていないので連絡が取れない。1週間も連絡を取らないということは今までなかったので彼はあたしが自殺したかもしれないと思っているかもしれない。あたしが死んだのであとを追うことを考えているのかもしれない。トモに1度だけ会ってみたい。でも逢えない。このままの状況では。本当に誰もいなくなるって言うことがこんなに辛いものだとは思わなかった。辛いというよりもかなり退屈だ。それにここはあまりにも拘束がきつすぎる。自傷を懸念して鏡とか紐とかベッドの柵とかそういうものは一切置いていない。退屈だから切ってしまいたいと思うこともないわけではなかった。でも道具がない。寝逃げするしかなかった。幸い薬漬けでいつもだるい状況だったので眠りだけはたっぷり貪れた。まさに貪るようにあたしは眠った。もう起きたくない。ずっと眠っていたいと思う。眠りたい、ただそれだけのために薬だけはまじめに飲んだ。ここでは薬を貯めることさえ許されなかった。薬の時間にはちゃんと薬を口に入れたかどうかチェックまでされていた。あたしはあきらめた。

模範囚みたいにちゃんと精神病患者の役をやってのけることにしよう。いい子の振りをすれば早く出られる。ただそれだけの悲しい打算をあたしは働かせた。

しかし、打算は見事に覆された。

保護室に入れられて10日目、そろそろ退院できそうだ、と思ったら主治医がこう言った。

「よかったねー。今度は開放病棟に移るからねー。今までよりも自由が利くし、外泊もできるよ」

「え?退院じゃないんですか?」

「君が保護室に入っている間、お父さんと面接してね、切ったのが初めてじゃないことを伺った。お父さんに伺わなくても、君の腕を見ればかなり切っていることくらいは分かる」

「・・・・・・そうですか」

「切っていいことは何もないよ」

「はい」

わかっていても切っちゃうから辛いんだけど、医者ってそこのところよくわかってない。

「でも、先生は普通の人だから切る人の気持ちわからないと思います」

「うん。わからないね」

かなりきっぱりと言われて寒い気持ちになる。

「それは病気だからだよ。健康な人に病気の人の気持ちはわからないけど、わかろうとして苦しみを取り除いてあげようという気持ちは起こるだろう?同苦というんだっけ?仏教用語でね。同じ苦しみを感じようとする心はあるよ。でも気持ちはやっぱりわからないね」

「そうですか」やっぱり何もわかっていない。精神科医なんてそんな感じだ。いかがわしい。何もわからないから薬漬けにしておとなしくさせているだけのような気がする。それにいろいろなテストをされたけどそれがあたしの回復にどう繋がっていくんだろう。だいたいテストであたしはどうだったら正常だって証明されるんだろう。あたしの心なんてあたしでもわからないのに、他人があなたはこうですよってどうして決められるの?不信感しか残らない。誰も信じられない。


「こんにちは あたし(うらら)。あなただれ?」

開放病棟に移されてまもなくあたしは二人の女の子に囲まれた。

ひとりはあどけない顔をした中学生くらいの女の子、もうひとりは高校生くらいの細面の髪の長い少女だった。

中学生の子は杏奈、細面の方は麗と言うらしかった。

「こら 杏奈、麗、ベッドに戻りなさい。元気なら談話室にでも行ってなさい」

「紹介するよ、この人は高幡聖羅さん。みんな仲良くやってください」

主治医が同室の患者にあたしを紹介したけど、6つあるベッドにいたのは3人で、杏奈と麗のほかは俯いたまま、石のように固まってじっと壁に向かっている50代くらいの小太りのおばさんがいるだけだった。

「ここは比較的症状の軽い患者さんの入る部屋だよ」

主治医はそういって看護士にあとはよろしく、とそそくさと外来に行ってしまった。

あたしは開放病棟の決まりを簡単に説明されて、ここの住人になった。

「いつ、外泊できますか?」そうたずねてみた。

「先生とお家の方が面談できてからですねー」

看護士はそういった。

「うちに連絡できますか?」

「できますよ。ナースステーションに電話があるからそれを使っていいわよ」

簡単に言われて気が抜けてしまった。へえ、今までとぜんぜん違うんだ。これなら早いところ出られそうだ。あたしは久しぶりに真理子さんの携帯に電話を入れようと思った。しかし真理子さんの番号にかけたはずなのに、なぜかトモのところに電話してしまった。5回コールして出た相手が男の人の声だったせいであたしはかなりあせった。

「はい」

「あ・・・・・・わたし聖羅」

「・・・・・・いまどこにいる?心配してたよ」

「あのね、わたし今病院にいる。切って入院させられた」

「そうなんだ」

「うん…・・・」

「逢えるかな、病院に行けば」

「だめみたい。面会は家族だけだって」

「そうか。どれくらいで退院できそう?」

「それが・・・・・・外泊はできるけど退院はまだ先みたい」

「そこ、携帯繋がらないね」

「もってこれなかったし、使えないって言われた」

「じゃあ、外泊したら連絡欲しいな・・・・・・それと」

「なに?」

「夜、窓開けられる?」

「夜はカーテン閉める」

「じゃあちょっとだけ、廊下かなんかに出て」

「廊下に出てどうするの?」

窓の外を見て欲しい。とトモは言った。

「月が出ているかどうか確かめて欲しい」

「そんなことしてどうするの?明日の天気でも占うの?」

「太陽の光はからだを元気にする。月の光はこころを元気にする。聖羅に早く退院して欲しいから」

あの・・・・・・あたしは言いよどんだ。「勉強はかどってる?」

ぜんぜんだめだね、とトモは言い、「一応やれることはやっているけどね」と付け足した。

トモはまだ死にたいんだろうか?今それを聞いてもいいものだろうか・・・・・・

躊躇しているうちに電話が途切れた。

話の途中で切れることはしょっちゅうだったので気にも留めず、そのまま受話器を置いた。

太陽の光はからだを元気にする、月の光はこころを元気にする・・・・・・

トモが言った言葉が妙に胸元にひっかかった。月なんてそんなに気持ちを入れて見たことがなかったよ。

あたしには光なんて必要ないと思っていたからいつも部屋の窓は閉めっぱなしだった。

夜だって外なんか見たことない。

月の光はこころを元気にするのか・・・・・・じゃあ探すよ。今夜から。

あたしは自分に誓った。

トモも同じ月を見ているはずだ。月の光でこころが繋がるのなら昼間でも月を探そう。

トモに逢いたい。あたしの中に切実な何かが萌芽した。それが何かはわからなかったけど。


「聖羅ちゃーん談話室いこー」

点滴が終わって針を抜いているときに杏奈がそういった。

「うん」

あたしは頷いて杏奈に連れられて談話室に向かう。杏奈は自販機で缶入りのカフェオレを二つ買い、

ひとつをあたしにくれた。やさしい子だなと思う。

カフェオレを飲みながらあたしたちはぽつりぽつり話し始めた。

「聖羅ちゃんなんの病気?あたしは解離」

「かいり?」

「解離性人格障害って言うんだって」

「なあに?難しそうな名前」

「解離性人格障害というのはね、簡単に言うと多重人格のことなんだって。あたしの部屋には

いろんな人がいて次々に出ようとするの。ある人が外に出るともうひとりの人は出てこれなくて

その間、記憶がなくなっちゃうんだって」

多重人格は聞いたことがあるけれど、実際その病気にかかっている人を見るのは初めてだった。

「いろんな人が出てくると混乱しない?」あたしはそう聞いてみた。

「混乱って言うよりもね、物凄く寂しい気持ちになるの。はじめはみんな杏奈みたいに部屋にいろんな人を抱えて生きているんだって思ってたんだけど、先生にそれを言ったら,え?っていう顔されて、いっぱいいるんだね?って聞き返されたの。そのとき自分の中にいろんな人がいるのは自分だけなんだんなあってわかって、すごく心細くなったの。そういう気持ち、聖羅ちゃんわかる?」

「わかる」あたしはそう言った。「あたしは解離なんとかって言う病気ではないけれど、誰にも理解されないという辛さみたいなものはなんとなくだけどわかっているつもり」

「ほんと?」杏奈は無邪気に顔をほころばせた。

「うん」

「そっかあ。よかった」

「うん」わたしは微笑んだ。

「聖羅ちゃん笑うとかわいいね」

「えー?」

「聖羅ちゃんは多分杏奈よりお姉さんだと思うけど、笑うとかわいい」

「ほんと?」

お世辞なんか言わないよ、と杏奈は口を尖らせた。

「ありがとう」

あたしはなごんだ気持ちになった。こういう気持ちになったのは何年ぶりだろう。

ここにあたしを傷つける人間は誰もいない。そのことがわかって少しだけ楽になれたような気がする。

「もうひとり女の子いたでしょ。自己紹介した子。あの子は麗ちゃんっていうの。摂食障害でここにいるの」

摂食障害というのは過食症とか拒食症という病気の総称だ。

「麗ちゃん、食べ吐きするんだよね。麗ちゃんのお母さんが完璧主義者で、麗ちゃん高校で主席だったんだけど、ご飯食べられなくなってここに来たって言ってた。学校は一年留年するんだって」

「そういえば麗ちゃんどこにいるんだろう」あたしは杏奈に尋ねた。

「OT室と思う。今日手芸の先生が来てるから」

「OT室ってなあに?」

「うーんとね、手芸とかかごを編んだり手作業みたいなことするの。麗ちゃん手先が器用だから作るのうまいよ。こないだ籐のかご編んで、ひとつ貰ったの」

「そうなんだ。よかったね」

「うん。仲がいいんだよ。お友達同士だから」

談話室に秋の日差しが差し込んできた。ソファに落ちた陽だまりの上であたしと杏奈はいろんな話をした。

他愛のない話。趣味はなに?とか、好きな歌手の歌の話とか・・・・・・

こうして構えないで人と話したのは何年ぶりだったろう。あたしは人懐こい杏奈がすぐ好きになった。

「ただいま」

麗がOT室から戻ってきた。手にはペーパーフラワーの束があった。

ピンクと白と薄紫のミニバラの束だった。ピンキング鋏で切り取られた紙片が葉の替わりだった。

「綺麗ね」

あたしは麗に話しかけた。

「ありがとう。聖羅さん」

「さん付けで呼ばなくても平気よ。杏奈ちゃんともお友達になったから」

「じゃあ聖羅ちゃんって呼んでいい?」

もちろん。あたしは微笑んだ。

麗は色が白くて白磁の人形のようだった。異様に細くて大きい瞳に黒々としたまつげが影を落としていた。

髪は黒くて長く、前髪を切りそろえていた。綺麗な子だ。

「この前あげたかごに、このお花入れるといいと思う」

はい、と麗は杏奈に花を差し出した。

「ありがとう」杏奈は笑って両手で大事そうに花を受け取った。

「色がかわいくて素敵」

「あたしの好きな色。ピンクと白とうすい紫」

「麗ちゃんそういう色の服に合いそうだねー」と杏奈。

「うん、いっぱい持ってる」

「聖羅ちゃんはどういう服が好き?」麗が尋ねた。

「うーーんあたしはいつも黒と白とチャコールグレイ。たまにベージュを着るよ」

「それって色じゃないよね」麗が言った。

「色じゃなくて明度。明るさの違い。白は一番明るい。次がグレイ、黒は一番暗い」

「自分に合う色ってわからないのよ」あたしは言った。

「聖羅ちゃん目を見せて?」麗があたしの瞳を覗き込んだ。あまりにまじまじと見るので

同性なのにどきどきしてきた。

「うーんと、瞳は暗いけど真っ黒じゃない。ちょっとやわらかいね。白目は青白くなくて乳白色。優しそうな眼だね。そうだなあー、聖羅ちゃんは何でも似合うと思うけど、たとえばピンクなら青っぽいペールピンクとかじゃなくてもう少し色味を混ぜた暖かい色、サーモンピンクみたいなのが似合うと思うよ」

「そうなんだ」

「逆に止めといたほうがいいのは秋色の服。カーキとか、濃茶とか、黄土色とか、もみじ色はまりすぎてイメージ堅くなっちゃう」

「色、詳しいね」

「うん。絵を描くから。あとカラーアナリストにあこがれているの」

「カラーアナリストってなに?」あたしは尋ねた。

「色をね、たとえばこの人にはこういう色が似合うとかこういう生活シーンにはこういう色が適切だとか現実に沿って色の提案をしていく人のことファッションやメイク、インテリアなんかに重要な働きかけをする仕事なの」

「すごいねーちゃんと将来のことを考えてるんだ」

あたしが高校生の頃ってこんな風に自分の将来を考えたことなんてなかった。流されるままに短大に行き、親の言うままに銀行に勤めて、いやになってやめた。自分は何がすきか、何を求めているかなんて考えたことがなかった。

自分に自信もなくただ、毎日をやり過ごすことで汲々としていたのだ。

「いいなあ麗ちゃんは目標があって」

「でもお母さんはそういう仕事認めてくれない」

「美大受けたいって言ったらひどく怒られた。美大でて仕事についた人なんかいないって言う。お母さんはあたしを公務員にしたいみたい。大学でて行政職の上級受けなさいって言う。そうでなければ先生になりなさいって。

わたし、教師は好きじゃない。人を成績とか制服とか外見で評価するから」

「そうだよね」

杏奈が同意した。あたしも頷いた。

家族の話で盛り上がっていた話題が消沈した。

思い出したくない人たち、それがあたしたちにとっての家族らしかった。

「外、天気いいよ」

麗が言った。「少しお散歩しようよ」

「さんせーい」杏奈が手を上げた。

「いちど病室戻ってお花置いてこよう」

あたしたちは腰を上げた。

「今度ペーパーフラワー作ったら聖羅ちゃんにも上げるね」と麗が言ってくれた。

あたしはうれしくなって「ありがとう、楽しみにしてるね」と笑った。


毎日が淡々と過ぎていく。

開放病棟に来て7日目、真理子さんが訪ねてきてくれた。

「ごめんね。もっと早く来たかったんだけど、先生が面会させてくれなくて。お父さんが何度か病院に足を運んで

カウンセリング受けていたの」

「そうだったんですか」

「聖羅ちゃん、ごめんなさいね」

「え、何で真理子さんがあやまるんですか?」

「浩二のこと、あなたのお父さんのこと許して欲しいの」

「意味がわからない」

「ごめんなさい。今の言葉忘れて」

「はい」

多分真理子さんは父の暴力のことを知ってしまったんだと思った。カウンセリングを受けているときに同席していたんだろうか。あたしはそのことを尋ねてみた。

「違うの。あたしは同席しなかったけど、お父さんのほうから昔の話をしてくれたの。お父さんも暴力を振るう自分が許せなかったんだって。あなたのお母さんはうつ病で何度か病院に行っていたらしいの。でもうつ病ということをお父さんは理解できなくて、辛く当たったって言ってた。ちょうどその頃お父さんは独立しようとしてて、

仕事が忙しくてお母さんの病気を理解する心の余裕がなかったの。お母さんは寂しくて仕方なかったのね。昔勤めていた会社の同僚の年下の男の人と駆け落ちしてしまったんだって。お父さんは仕事とお母さんの病気の板ばさみになってストレスが溜まってお母さんに暴力を振るってしまったって言ってた」

ちょっと綺麗事はいっているような気がしたけど、あたしは了解した。過去のことを言われてもあたしにはどうすることもできない。あたしは父の行動を許すとか許さないとかそういうことではなくて、もっと直に自分を理解して欲しかったんだと思う。

「真理子さん・・・・・・」

真理子さんは泣いていた。「あなたをひとりにしてごめんなさいね」

「もっとあたしがあなたの気持ちに敏感になっていればこんなところに入れさせなかった。聖羅ちゃんはしっかりしたいい子だと思っていたから」

「そんなことないです。あたしはしっかりなんかしていません。自分が何者かもよくわかってないし、何が好きで何が嫌いかもわからないんです」

父が怖かった。だから父の言うとおりに生きてきた。だけど心の中ではいつも父のぬくもりを求めていた。

母はわずかなぬくもりを教えてくれていた。3歳のあの日、遊園地に連れて行ってもらって、ミルク色の風船が空に逃げていくのを二人して見つめていた。そのことだけであたしは母を忘れなかった。小さくても母が辛いのは充分承知していたから、何も求めなかった。母は居るだけでよかった。居てくれるだけで。

あたしは真理子さんにそのことを話した。

真理子さんは白目を赤くして頷いた。

「真理子さん、そんなに泣くとウサギになっちゃいますよ」

真理子さんは笑った。そして「聖羅ちゃんはいい子ね」と言ってくれた。

真理子さんが来てくれたおかげであたしは、週末に二日間外泊できることになった。

今日は水曜日だ。あと二日で外に出られる。そう思うとうれしい。自分の部屋に戻りたかった。

トモに連絡しないといけないから。そういえば月を見ていない。今は昼だけど月は出ているかしら?

外に出てみた。浅黄色のやさしげな空に薄く雲がひとはけ掃いていた。そのあとを眼でたどると、あった。

白く生気のない月が抜け殻みたいに空に写っていた。

光はないけど、うれしかった。そこに見たことのないトモが笑っているような気がした。

しばらく眺めていたけど、寒くなってきたので中に入った。

もう11月だ。誕生日が近い。誰にも祝ってもらったことがなかったし、自分の誕生日なんて意識したこともなかったけれど、そのとき一瞬、ああもう22年も生きてきたんだなあと感慨深い気持ちになった。人生を語るには早すぎるのかもしれないけど、22年は長いと思った。いろんなことがありすぎた。ありすぎた出来事ばかりを追っていったら普通の人の2倍の速さで生きているんじゃないかと思う。あたしは固まったままなのに、状況だけが早回しで進んでいく。そんな感じ。これでいいのかな?でもこのままじゃいけない。いけないと思うのだけど、からだが言うことを聞かない。ここにきてやっと外に出られるようになった。外に出ると言うことが刺激になるくらい、ここの生活は単調だった。そして誰かと話すと言うことを覚えた。今までは自分の思ったことなんかぜんぜん話せていなかったのに、杏奈と麗のおかげで、人と交わることを学習したみたいだった。

ちょっとは進んでいるのかな。あたしは自分に微笑した。


 その夜の夕食の時間に出来事は起こった。

ここは6時半に夕食が出る。重篤な人以外は、ワゴンの上に乗っているご飯を自分で取りに行く決まりだ。

一緒に行こう、と言って3人でワゴンのところに行った。

あたしたちはめいめいのお盆を持って部屋に戻った。

相変わらずあたしは食欲がなかった。ご飯はカレーライスだったけど二口くらい食べてすぐに下げる用意をした。

すると麗が「聖羅ちゃん食べないの?」と聞いた。うん、もし良かったら食べてと、言い終わらないうちに

麗はつかつかとあたしのベッドに来てさっとカレー皿を取り上げると物凄い勢いでたちまちお皿を平らげた。それから6人居る人のうち、食欲がなさそうな人のところに行っては皿の中のものを貰ってがつがつと食べ、自分のを入れると4人分のカレーを平らげた。それから麗はいそいでワゴンに皿を下げ、談話室に向かった。

「ウーロン茶500ミリリットル2本飲んでると思う」

と杏奈はいった。

「もうちょっとしたらトイレ行ってみてごらん。麗ちゃん居るから」

15分位してからあたしと杏奈はトイレに行った。すると動物の唸り声のような声がして何度も水を流している音が響いた。杏奈は動じることもなく、

「麗ちゃん全部吐いたあ?」と聞いている。

うぇっ、ぐぇっ・・・・・・

「ま・・・・・だ・・・・・・」

「じゃあ部屋戻ってるよ」

「リョ・・・・・・了解・・・・・・」

部屋に戻って30分位すると麗が何事もなかったように戻ってきた。

「しばらく拒食だったけど、今夜は食べたくてたまらなくなってきて、やっちゃった・・・・・・」

と麗は杏奈に耳打ちしていた。

それってあたしに似ている。切るのをずっと我慢していて我慢しきれなくなると行き成りスパッとやっちゃう。

もしかして切るのと食べるのと形は違っても、心の奥底に眠っている苛立ちや憤りは同じなのかもしれない。

じゃあ杏奈は、多重人格はどうなんだろう。ああ・・・・・・でも、杏奈はこういっていた。

「混乱って言うよりもね、物凄く寂しい気持ちになるの。はじめはみんな杏奈みたいに部屋にいろんな人を抱えて生きているんだって思ってたんだけど、先生にそれを言ったら,え?っていう顔されて、いっぱいいるんだね?って聞き返されたの。そのとき自分の中にいろんな人がいるのは自分だけなんだんなあってわかって、すごく心細くなったの・・・・・・」

心細い思い。満たされぬ感情。あたしだけ辛いんじゃない。みんなそれぞれいろんなことを抱えているんだ。

あたしは泣きたくなった。それで杏奈に「ちょっと談話室行ってくる」と告げて病室をあとにした。

談話室には誰も居なかった。あたしは泣いた。泣いて泣いて鼻が真っ赤になるくらい泣いた。鏡を見ると涙と洟水がごっちゃになって物凄くかっこ悪い顔をしている。それでもかまわなかった。あたしは泣きながら談話室の窓に近寄った。冬空が近い。透明な闇にかりっとした真っ白い月が出ていた。月は微妙な加減で笑っている。泣き顔で笑っているような憂いを含んだ表情だった。ああ、これをトモはあたしに見せたかったんだと思った。光は銀の粉を振りまいたように白々と輝いていてやさしげにあたしのこころを包んだ。

「そんなに泣くとウサギになっちゃうよ」

あたしは自分に言った。「そうよウサギよ。だから、月がこんなに恋しいの」

その瞬間あたしは気がついた。月じゃない。あたしはトモが恋しい。トモはいつも多くを語らないけど、あたしが欲しいものを差し出してくれる。言葉を選んで真っ白いハンカチに包んで大事そうにあたえてくれる感じがする。気まぐれなところがあっていつもそうとは限らないけど、肝心なときにこころを差し出してくれている。

トモの沈黙はためらいがちな愛情表現だったんだと気がついたとき、あたしはまた泣けた。トモに逢いたい。逢いたい。逢いたい・・・・・・瞬間世界が揺れた。

「ここに居るじゃないか」

後ろを振り返った。でも誰も居なかった。

「居るよ。からだは居ないけど。心で聖羅に話しかけているよ」

耳に、というより思考に直接声が届いた。

背中から抱きしめられて時のような安堵感が身体の奥底に染み渡ってくる。

「僕はいるよ。聖羅の心の中に」あたしは思わず自分を抱きしめた。自分を抱きしめたというより、見えないトモを抱きしめたというほうが正しかった。不思議な暖かさがそこに広がった。そこだけ銀の光に包まれて柔らかく輝いているみたいだった。

「月の光は心を元気にする」

静寂な心の部屋の中でトモの声が響いた。


「トモ、あたし」

あたしはうちに帰って二階の自分の部屋の子機からトモに電話している。

想像していたとおり、うちはあまり居心地が良くなかった。

父はあたしとどうやって接したらいいかまるで掴めてない感じで、食事の時間、真理子さんが台所に立つたびに気まずい沈黙が流れる。あたしはなるべく居間にはいないようにして、自分の部屋で寝ているようにしていた。

パソコンもテレビも、CDのコンポもみんなアパートに持っていってしまったので、退屈なこと極まりない。

「あたしね、今実家にいるよ」

「そうか」

「トモは調子、どう?」

「良くも悪くもない。それよりいつまでそこに居られるの?」

「明日の夕方には病院にもどる」

「明日か・・・・・・」

「うん」

「じゃあ、あした逢えないか?」

「外には出られると思うけど、トモ、東京に居るんでしょ」

「車でそっちに行く」

「ここってF県のK市だよ」

「高速で飛ばせば3時間でつくだろう」

「最寄のインターは?」

「K南インターチェンジだけど、今あたし車つかえないから」

「そうか・・・・・・」

「どうしよう?」

「じゃあ聖羅はうちに居て。そっちについたら電話するよ。携帯は持ってる?」

「アパートに置きっぱなしだよ」

「とって来られない?」

「着替え取りに行くって言って携帯もって来る」

「オーケイ。じゃあ明日パーキングにつくたびに電話するよ」

「わかった」

「僕ね、どうしても聖羅に逢いたいんだ。聖羅に逢えば何かが見えてくるような気がするんだ」

「どうして?」

「それはわからない」と言ってトモは電話を切った。

あたしは真理子さんに車を出してもらって部屋に帰り、着替えと携帯と充電のプラグを持ってきた。

部屋のコンセントにプラグを差込み、携帯を繋いだ。

それだけすると、あたしは眠剤を飲んだ。

ご飯は?と聞いてくる真理子さんに「ごめんなさい、欲しくない」と断って、ベッドに潜り込んだ。


深く眠った。目覚めたとき、眠剤から醒めた時のぼんやりした感じがないのが不思議だった。

まだ普通に眠っていた頃のようにすっきりした熟睡感が静かに身体を包んでいた。

部屋の時計を見ると午前7時20分だった。

当たり前の時間に自然に目覚められたのは驚きだった。

言いようのない期待感が胸の内側から膨らんでくる。

今日、トモに逢うんだと思うと不思議な気がした。

トモはいつもパソコンの中に居た。辛いときパソコンを開けるといつもあたしに話しかけてきてくれた。

トモの差し出す言葉は良くも悪くもあたしの心を揺らし続けた。トモと話していると一人でいてもかろうじて

生永らえていけるような気がした。あたしを見ていてくれる人、それがトモだった。

死にたい気持ちを分け合っていた。倒れそうな心を預けてきた。居るだけでよかった。居てくれるだけで。

あたしがトモに逢うのを躊躇していたのは、逢うことが別れることの第一歩に繋がると言う予期不安からだ。

あたしに必要な人はいつもあたしから離れていく。そういう思考に付きまとわれて、近づかれるのが怖かった。

だから逢いたいといわれたとき発作を起こしてしまったのだ。

でも今は違う。トモはどこにも行かない。あたしはそう確信している。あたしに逢いたがっていてくれる。

あたしを必要としていてくれる。今までそういう気持ちをくれた人はいない。そしてその気持ちをあたしが受け取ろうと思ったこともない。これはどういう感情なんだろう。あたしにはよくわからない。もしかしたら恋愛と呼べるものかもしれない、でもそう決め付けてしまうにはあまりにも繊細な感情で恋愛という太い縄みたいなものよりももっとか細い赤い絹糸とよんだほうがいいかも知れないほどたよりない絆のような気もする。

午前中ずっと電話を待っていたけれど繋がらなかった。

あたしはお昼も食べないで自分の部屋でずっとトモの電話を待ち続けていた。

午後1時23分、トモから発信がきた。

出るとトモが息を切らしたような声で「着いたよ」とだけ言った。

「もう着いたの?」

「飛ばしたからね」

「それからどこに行けばいいかな」

ナビをつけてるから最寄のコンビニあたりで逢えると言う。

あたしは家から徒歩で5分のコンビニを指定した。

真理子さんには友達に会いに行くとだけ告げて。

「外なんか行ってだいじょうぶなの?」と真理子さんは難色を示したが、あたしはかまわず、気分転換したいから、とだけ言って外に出た。

以前聞いていたパールグレイのセダンタイプの車を見つけ、ナンバーを確認すると、それはトモの車だった。

あたしが車に近づくと、本人が出てきた。

「こんにちは」

想像通りの痩躯で背の高い、ナイーブそうな人だった。


飛び切りハンサムと言うわけでもないが切れ長の一重まぶたでそれが少し冷たい印象を与えている。

少し伸ばした髪は癖があり、ウェーブがかっている。手足が長い。「やあ」と挙げた左の掌が大きい。

あたしはちょっと恥らった。

なんていっていいかわからなかった。

「遠いところきてくれてありがとう」

「そうだねー遠かったねー。でも3時間できたよ。途中、飛ばしたから」

「そんなに飛ばさなくてもゆっくりで良かったのに」

「聖羅に逢いたくて飛ばしたんだ」

「あたしこんな人だよ」あたしははにかんで笑った。

「笑うとかわいい」

トモはそういった。「そうかな」

「そうだよ。もっと自分に自信もっていいよ」

そんな風に言われたのは初めてだったのでどきどきする。

「どこにいく?」

聞かれてあたしは戸惑った。

「もし行けるなら行ってほしいところがあるの」あたしはトモにプラネタリウムが見たいとねだった。

「プラネタリウムかあ、いいね」

「二人で同じ場所で月を見たいから」

いいよ、とトモはいい、あたしたちは駅前の科学博物館にプラネタリウムを見に行くことにした。

ところがプラネタリウムの開始時間は最終しか残っていない。午後5時からだった。

「病院に戻るんだろう?時間ないよね」

科学博物館の窓口で、トモは戸惑っていた。

「でも見る」珍しくあたしは断固として言い切った。

「開始時間まであと3時間あるけど、歩き回っていたら疲れるだろう?」

あたしは頷いた。

「もし、聖羅がいやじゃなければ、の話だけど、そのう・・・・・・ゆっくり休めるところに行く?」

「うん」確かに身体が言うことを聞かなくなってきた。わずかに震えが来ている。

「少し横になったほうがいいね」

「そうさせてほしいな」

トモはあたしを科学博物館の外で待たせ、駐車場から車を出してきた。

あたしは車に乗った。リクライニングシートに体を埋めた。

トモはインター近くのホテル街に車を乗り入れた。そして地味でシックなつくりの建物の中に車を乗り入れた。


あたしたちは裸でベッドの中に居る。お互いの体温を確かめ合っている。

胸と胸をぴったりくっつけて、頬と頬を重ね合わせて。あたしたちはただそうしている。

石のように固まったまま動こうとしない。トモがあたしの右手首をつかんだ。むき出しになったあたしの傷を見て

そっと唇を這わせる。「辛かったね」トモはそういってあたしの髪をなでる。大きな掌で、器用そうな指であたしの髪の毛を優しげにすいていく。こういう風に髪をなでられたのは何年ぶりだろう。誰もあたしに触れてはくれなかった。求めていたぬくもりがこんなに近くにあることにあたしは喜びと驚きを隠せないでいる。あたしはトモにされるがままになっている。トモはただあたしの髪をなでている。その指先が背中に下がる。

あたしはいつも肩がこっていた。撫でられるとそのぬくもりで血流が良くなってくる。温められた血は眠りを誘う。

「このまま、眠ってもいい?」あたしは甘えていった。

「もちろん眠っていいよ。もしよければ眠剤あるから少し飲む?僕は聖羅とこうしていられるだけで幸せだ。今まで誰にも愛されてきた感じがしなかった。だけど今は違う。聖羅がいる。聖羅のぬくもりを感じることができる。それだけで僕は幸せだ」

あたしたちはためらいがちにキスをした。トモのキスはぎこちなかったけれど、唇が柔らかくてとても気持ちが良かった。それからトモはあたしに眠剤を薦めた。それがどんな薬かわからなかったけれど、トモの言うままに3錠飲んだ。それがイソミタールであることも知らずに。

月が出ている。真昼の月だ。あたしは服を着せられてトモに抱かれたまま車に乗せられた。

薄く開けた瞳の端に水色の空にかかる血の気もなく光もない顔をした白い半月が引っかかっていた。

トモは車を出して、高速に乗り上げた。意識が薄らいでくるけれど車に乗せられていることだけはわかる。

時々車体が揺れるのも。でももう意識をはっきりさせているのは困難だ。

白い月、白い月・・・・・・半月はあたしの心・・・・・・「月は心を元気にする・・・・・・」

助手席のシートを倒してにあたしは眠りこんだ。


何が起こったのかわからなかった。救急車の音だけが響いていた。

大型トラックと乗用車が正面衝突している。

乗用車が反対車線から飛び出したのが原因だった。乗車していた運転手と同乗者は即死。


あれは・・・・・あたし・・・・・・後頭部がひしゃげているのに顔だけは綺麗だ。

良かった・・・綺麗なまま死ねる・・・・・・でも どうしてだろう? よくわからない。頭が痛い。そばにいるのは

トモだ。手を繋いでいる。良かった。これで離れないね。あたしたち・・・・・・

闇は生き物のようにみずみずしく凄惨な現場をおし包んでいた。

死人のようだった昼間の月がブルーブラックの闇にいっそう白くプラチナの輝きを増した。

                                        

 完







































真 昼 の 月







渡部 沙羅

 


                38,324字   原稿用紙換算 118ページ

                              


人間には光の部分と闇の部分がある。この物語は心の闇に飲み込まれざるを得なかった女性の、逆説的な生への願望が描かれている。彼女は生きたかった。しかし、生きるスキルを獲得することに失敗した。現在、心を病む方は増えている。うつ病が一般的な病気となり、先行き不安な世間の中で必死にもがく人々は多いと思う。作者自身が心の病を持っているので、彼女にはかなり感情移入した。いわば、そうであったかもしれない自分、について書いたものである。

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[良い点] 面白かった [気になる点] リアル感がありすぎてガチなのかと思うところ
[一言] ラスト死んだと思いきや救急車で運ばれて病院で目を覚まして、真理子さんと父、そして捨てた母が出て来て関与して欲しい。 トモの親も現れて、「セーラがトモを殺した」とか被害妄想して責任を追求され…
2011/01/07 18:23 退会済み
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