溺愛する妹と優秀な執事を結婚させようとする女伯爵
「あー……、疲れたー……」
凝り固まった疲れを解すべく、リネットは両腕を上げて後方へと伸ばした。
背中が伸びていく様が気持ちいい。
昔は体が凝ることなんてなかったのに、最近はあちこち凝るし疲れも早いし年かなと思う。
体が後ろへと反っていき、座っている椅子がギシギシと軋む音を立てながら、あー……と声を伸ばしていた、そのとき。
「リネット様」
「っ」
突然聞こえた声に、驚きのあまり危うく椅子からひっくり返りそうになった。
何とかひっくりかえらずにすんだが、慌てて体勢を戻したせいで机にぶつかってしまい、積み重なっていた書類がバサバサっと音を立てて崩れる。
やばい、と思いながら顔を上げれば、目の前にはリネットを見下ろす冷めた表情があった。
「いくら自室とはいえ、そのようなだらしない格好は慎まれてください」
「いやぁ、肩が凝ってねぇ。もう年かな」
「まだ二十八歳でございましょう」
「私みたいな女は世間ではもう二十八と言うんだよ」
リネットは笑った。
理不尽なことに、世間では女性の二十八歳は若いとは言わない。
ましてやリネットのように結婚していない二十八歳の女性に向ける視線は、さらに厳しい。
リネットはそんな評価を特に気にしていないが、目の前の人物は眉間に深い皺を刻み込んでいる。
なかなかの男前なのにもったいないとリネットは思った。
「しかし私も二十八か。十八で父の爵位を継いだから、ちょうど十年か」
「左様でございますね」
リネットは十年前のことを思い出した。
伯爵であった父が急逝したのが十年前、リネットが十八歳のときだ。
リネットは結婚目前だった婚約を解消して、父の跡を継いで伯爵家の女当主となることを決意した。
そうしなければ、残された母と幼い妹が、援助という名の下で近づいてきた親戚縁者に良いように言いくるめられて苦労することが見えていたからだ。
リネットの婚約相手は貴族の嫡男だったため婿に来てもらうことは叶わず婚約解消という結果になったが、リネットの家の事情を汲んでくれて、さらには若き女伯爵となったリネットを支援し、今でも友好的に関係を続けてくれているよき理解者だ。
そしてもう一人、リネットを女伯爵として支えてくれたのが、目の前にいる執事のニコラスだ。
伯爵家に代々仕える執事の家に生まれたニコラスは、リネットが当主となったときはもう一人前の執事として、彼の父親である執事長と共に伯爵家を陰から支えていた。
ニコラスのことは昔からよく知っており、同年代ということもあって主従としてだけでなく友人としても助けてくれた。
昔から優秀だったニコラスが根気強く教えてくれたおかげで、領地経営のこと、ときにはどこから仕入れたのか貴族の裏情報まで知ることができ、リネットは若き女伯爵として渡り歩く術を身につけることができた。
数年前に彼の父親が執事の職を引退してからは、優秀なニコラスはまさに伯爵家にとって欠けてはならない右腕だ。
例えその手に大量の仕事の山を持っていようと、冷静沈着すぎて誰一人笑顔を見たことがないため氷の執事と呼ばれていようとも。
無表情のまま机の上にさらなる仕事の山を乗せようとするニコラスに、リネットはぐっとため息を飲み込んだ。
そのとき、控えめなノックの音が聞こえた。
「――お姉様。お仕事中にごめんなさい。もしきりが良ければ、少し休憩してお茶にしませんか?」
扉を開けて顔を覗かせたのは、十歳年下の妹、キャロルだ。
金色の柔らかな巻き毛が揺れ、伺うように見上げてくる大きな瞳が可愛らしい、リネットにとって天使のような妹だ。
「クッキーを焼いたの。今日は暖かいから、お母様も一緒にお庭でどうかと思って」
「キャロル! もちろん! キャロルのクッキーは私の大好物だから、すぐに行く……よ……」
反射的に頷いたリネットだったが、冷たい視線を感じて語尾を濁らせた。
ニコラスが仕事の山を抱えたまま冷ややかに見ている。
しかしキャロルの焼いたクッキーは食べたい。
お互いに譲れない戦いの始まりだ。
そんな二人を見ていたキャロルが、鈴を転がすような愛らしい声で笑う。
「良かったらニコラスも一緒にお茶にしない? たくさんクッキーを焼いてしまったから、食べてくれると助かるわ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、私はお母様とお茶の用意をしてくるわね。お姉様とニコラスも早く来てね」
可愛い笑顔を振りまいて部屋を出て行くキャロルに、リネットは溶けそうな笑顔で手を振る。
ちらりと隣を伺えば、ニコラスも表情は変わっていないが手に持っていた書類を机の端に片付けており、休憩の許可が下りたということにリネットは内心で大喜びした。
厳しい執事のニコラスだが、天使のように可愛いキャロルには甘かった。
そして、幼くして父を亡くしたキャロルも、年上の男性として頼りがいのあるニコラスのことを慕っている。
キャロルが話しかけるときはニコラスの雰囲気も少し柔らかくなり、二人が良い雰囲気なことをリネットは気づいていた。
ニコラスになら可愛い妹を託しても良いと、リネットは思った。
身分の違いはあるが、長年執事として仕えているニコラスの忠誠心はよく知っているし、彼ならば伯爵家も可愛いキャロルのことも任せきれる。
「ニコラス。どうかキャロルのことを頼む」
姉として、ときに父親代わりとして成長を見守ってきたからか、どうしても嫁に出す気分になる。
違う、ニコラスが婿入りしてくれれば嫁に出さなくていいんだ。
自分は引退して離れにでも住み、二人の子どもの子守りをして余生を送りたいなと、未来への想像が弾む。
しかしニコラスの方は怪訝そうな表情でリネットを見た。
「何のことでしょうか?」
「大丈夫だ。ニコラスならばこの伯爵家の婿として大歓迎だ。身分やら何やらで余計なことを言ってくる連中がいれば、私が言い負かすから安心しろ」
女伯爵となった時点で数多の嫌味妬みを受けてきたリネットは、この十年で鉄の心臓を得ることができた。
可愛い妹のためならばさらに強くなってみせる。
「あなた様の婿ですか?」
「はは、ニコラスでも冗談を言うんだな! キャロルの婿に決まっているじゃないか。二人の仲を隠さなくてもいいんだよ!」
腹黒い貴族連中との言い合いで鍛えてきたせいか、若干親父くさくもなってしまったリネットは、ニコラスの脇腹を肘でつついた。
「私が愛しているのはあなた様です、リネット様」
「……は?」
しかし、表情一つ変えないニコラスから返ってきた言葉に、リネットは肘を突き出したまま固まった。
妙な体勢のリネットを見てもニコラスは全く表情が揺るがない。
彼のこの冷静沈着さは、リネットを女伯爵と侮って失礼な物言いをしてくる来客たちに、その無表情さで淡々と真面目な返しをしてくれるのでとても助かっていた。
そうか、あの客たちはこんな風にどうすれば良いか分からない気分を味わっていたんだなと、リネットはその気持ちを理解した。
この無表情で見つめられるのはなかなか辛い。
リネットは考えるに考えて、一つの結論にたどり着いた。
「あ、ああ! 主人として敬愛ということか! 嬉しいよ、ニコラス!」
ニコラスの肩を思いきり叩いてその忠誠心を受け入れる。
「リネット様を一人の女性として愛しております」
だが残念ながら違ったらしい。
まっすぐに向けられるニコラスからの愛の告白に、リネットは自分の顔がどんどん熱くなるのを感じた。
「貴族令嬢でありながら誰にでも分け隔てなく接するあなた様をお慕いしていましたが、伯爵家に代々仕える家に生まれた私はその想いを告げられる立場ではありませんでした。相応しい家柄に嫁ぐ準備をしていたあなた様を、せめて心から幸せを祈ろうと、そう思っていました」
リネットが結婚する予定だったのは、もう十年も前の話だ。
その頃から愛していたというニコラスの言葉に、リネットは胸の奥まで熱くなる。
「しかし、前の旦那様が亡くなり、婚約を解消してまで跡を継いで必死に伯爵家を守ろうとしたあなた様に、私は執事として誠心誠意お仕えしようと誓いました。それが、許されない想いの伝え方だと思っていました」
「ニコラス……」
ニコラスがそんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。
「まさか、あなた様からキャロル様との結婚を勧められるとは思ってもおりませんでしたが」
「いや……キャロルが話しかけるときはいつも優しかったから……」
「お仕えするお嬢様ですから当然ではありませんか」
「私にはあんなに厳しいのに!?」
「リネット様は昔からお嬢様という雰囲気でもありませんでしたから」
「ニコラス、本当に私のことを想ってくれているんだよね!?」
リネットが思わず突っ込めば、ニコラスは顔色一つ変えずに「もちろんです」と言った。
「キャロル様の婿に認めようとおっしゃるくらいなら、あなた様の婿でもよろしいですよね?」
「え、いや、それとこれとは……」
リネットは溺愛する可愛い妹をニコラスなら任せられると思ったのだ。
そもそも、リネットは爵位を継ぐために婚約を解消したあの日から、自分の結婚は考えたこともなかった。
女伯爵だからと侮られないために堂々とする癖をつけていたら、いつの間にか言葉も態度も男っぽくなってしまった。
半分は元々の性格だが、世間一般の淑女らしさとは程遠い。
解消した前の婚約者とも幼少時に親が決めた婚約だったし、仲は良好だったけれどお互いに恋愛感情ではなく家族になろうよという意識だったので、愛していると言われたことはなかった。
ニコラスだけだ。
リネットに愛していると言ったのは。
その事実に、改めて胸の奥が熱くなる。
あまりにも突然のことで混乱するリネットに、更なる衝撃が告げられる。
「そもそも、キャロル様は三軒隣に住む幼馴染のトミーと恋仲ですよ」
「え! いつの間に!?」
三軒隣に住む幼馴染のトミーのことはリネットもよく知っている。
近所のガキ大将というタイプの男の子だが、キャロルにだけは照れくさそうに目を反らしていて、さすが可愛いうちの妹最強と微笑ましく思っていたものだ。
恋仲になっていたなんて知らなかった。
生半可な気持ちじゃ許さないぞトミー、と歯を食いしばる。
「身分違いでもあなた様の力で言い負かしていただけるんですよね? 期待しております」
しかし、人の恋路を考えている場合ではない。
十年もの間、恋愛事は無関係だと思っていた自分がまさに今その状況なのだ。
「もう我慢はしません。覚悟していてください」
ニコラスがそう言って、リネットの手をゆっくりと持ち上げ、手の甲に口づけるのを、リネットは瞬きも忘れて呆然と見ていた。
ほんの一瞬、触れた温もり。
静かに離れていく涼し気な容貌を、呆然としたまま見つめた。
ニコラスが視線を上げ、リネットと目が合った瞬間、切れ長な瞳が微かに細められ、薄い唇がゆっくりと弧を描いた。
初めて見る笑顔は、いつもの厳しい氷の執事という二つ名からは想像もできないほど優しくて、リネットは急速に上がった熱が破裂してしまいそうだった。
そのあとに食べたキャロルの手作りクッキーも、残念ながら味わう余裕もなかった。
その後、どうなったかと言えば――。
キャロルはトミーと結婚して三軒隣に引っ越し、子どもを連れてよく実家へ遊びにきた。
そして、伯爵家は長く女当主が家を守り、その側にはいつも優秀な執事が並んでいたという。
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