紫陽花酒の歌姫
酒を愛するあの方々へ
紫陽花が溶けた酒を知っているかい?
正面で盃を傾ける男が言った
この男とは偶然に
ここで相席しただけだ
随分といける口らしく
次から次へと盃を干す
それなら瓶で頼めばいいのに
知らぬ男に言えはしないが
だいたい紫陽花は毒ではないのか
それもあえては口に出さずに
いいえ、それは知りませんねえ。
答えてやれば得意気に
にやにや笑いを始めやがった
語り出す陽気な酒飲みならば
こちらも楽しく呑めると言うのに
聞いて欲しそうに盃をゆする
そんな見知らぬ男など捨て置いて
不思議な花の漬物を摘む
花漬けと言う名前に惹かれ
試しに頼んでみたそれは
酸味と苦味が素晴らしい
江戸切子のごろんとした盃には
丸い氷が転がっている
気のいいおじさんみたいなその氷は
悪戯そうにテーブルを見ていた
また飲み干した向かいの男は
盃を掲げて店員を呼ぶ
お姉さん、紫陽花酒をお銚子で!
お猪口は二つね!
店員は
慣れた様子で徳利とお猪口を二つ
ことんと置いて去ってゆく
注がれる酒に香りはない
変な酒もあったものだ
色も透明
どこが紫陽花なのだろう
恐る恐るに口をつければ
たちまち山の中にいた
見上げる崖には紫陽花が
斜面に藪を作っている
しとしと落ちる絹の雨
花の手毬は大小に
誇らしげに咲いている
どこからか
歌が聞こえる
見渡せば
瓢箪を抱えた女性がいる
陽気に歌を歌いながら
紫陽花の藪をすり抜けて
傘もささずに歌っている
くるり くるり
する する するり
音も立てずにすり抜けて
軽やかに歌っている
時に栓をぽんと抜き
一口二口喇叭飲み
あたり憚ることもなく
呑んでは歌い
歌っては飲み
あれは紫陽花の記憶だよ
気づけば再び席にいて
にやにや笑いの見知らぬ男が
訳知り顔に語り出す
酒に浸した紫陽花の
楽しい夢が見えるのさ
その紫陽花は毒もなく
幻の山に生えている
夢のそぼ降る崖の上
陽気に歌う仙女とともに
しばし明るい天気雨
ひとり店出る宵の口
見知らぬ男は呑み続け
干しては盃を取り替える
お読みくださりありがとうございました