第三話
聖剣は神子によって所有者が定められたら、本人の意思では外すことができない。
外す方法は三つ。神子によって解除されるか、所有者が死ぬか、守護対象が死ぬか、らしい。
つまりアルエットの暗殺が済めば外せる。仕事が終わればその場に捨てていけばいい。
持ち去るなんてことは考えていない。それは強盗のすることだ。レンはあくまで暗殺者。今まで金満家や貴族なども始末してきたが、その財に手を付けたことは一度もない。
それに、これは聖剣といえど神子――セシリアによって新たに契約させられなければ何の役にも立たないがらくただ。興味はないし、なんなら薄気味悪いとさえ思う。
だから早く隙を見つけてアルエットを始末したい――のだが。
「マルセル! 今日は施療院で朗読会があるんだ! 一緒に行こう!」
この女、じっとしている時がない。常に明るい場所、人のいるところへ出向いて動き回り、死角というものがまるでない。
アルエット・オ・エテールネル。十六歳。聖王国エテーリアの姫。聖殿の奥深くで静かに暮らす淑女……なんてことはなく、とんだじゃじゃ馬娘だ。
とはいえさすがに夜は眠るわけで。守護者としてレンに与えられたのはアルエットの部屋の隣という好立地だったが、彼女の部屋には傍仕えの侍女が一人、常駐している。そのうえで扉の前にも見張りがあり、近づくのは困難だった。身分の高い者は誰でもそうだが、夜のほうが周囲も警戒を強める。やるなら、やはり昼間だ。
「ほらほら、早く!」
レンの外套をアルエットが引っ張る。騎士の制服は用意されたが、畏まったのは好きじゃないというアルエットの一言で私服のままだ。
正直、これはありがたい。隠し持った武器が扱いやすいから。
建物は白に統一され、洗練されたエテールネルの聖都シャリテ。その市街を、アルエットは自らの足で闊歩する。連れているのはレンと、侍女が一人だけだ。
「諦めてください。その人、言い出したら聞かないんで」
気怠げな様子でレンに言ったのは、栗色の髪を団子のように結った少女。髪に挿した簪の、小さな緑色の宝石がきらりと光る。
騎士たちとの試合で、進行役を務めていたのが彼女だ。名をデジレ・クララックという。
アルエットよりひとつ年下のデジレは、主人の身の回りの世話を任されている。とはいえ、ここ数日見ている限り、アルエットがデジレを小間使いとして扱っている様子はない。どちらかといえば友人のような気安さだ。常に気怠げで動作の遅いデジレがアルエットに置いていかれることもあり、互いにそれを容認し合っている節がある。
自由すぎて行動が読めないという点でも、アルエットは難儀な標的だった。
今日はデジレもついてくるようだ。尚のこと狙いにくい。
無関係な者は傷つけない。それがレンの信条だ。
かつてレンが家族だと思っていた者たちは、どこかの貴族のくだらない相続争いに巻き込まれて殺された。ひとり残らずだ。母代わりだった導士。妹のようだった四人の少女たち。そして兄弟であり親友だった――
「マルセル、ねぇ、聞いてる?」
市街の往来のど真ん中。横から覗き込むように、小柄なアルエットが顔を近づけてきた。黄金色の瞳が瞬く。その近さに、思わず仰け反ってしまった。
遠慮がない。距離が近い。まるで長年の友人に取るような態度に、あいつを思い出した。親友だった少年――ファルコを。
エテーリアの北部にある、田舎の村はずれの森の中。
そこに小さな教会があり、女導士が孤児たちの世話をしていた。そのうちのひとりがレンだった。
他にいたのは年下の女の子が四人。男が自分だけで肩身の狭かったレンにとって、新たに家族に加わったファルコは親友そのものだった。
ファルコが現れたのはレンが九歳の時。ひとつ年下だったのに、レンよりわずかに背が高かった。一緒に森の中を駆け回ったり、拾った棒きれで武術の真似事をしたりして遊んだものだ。レンが一度も勝てたことがないくらい、ファルコは強かった。
あいつはどんな顔をしていたっけ。錆色の短い髪に、鷹のような金色の目。
さらに顔を近づけてくるアルエットから視線を逸らす。あぁ、そうだ。目の色が似ている。だから思い出したんだ。
「……なんでしょう、殿下」
アルエットが何か言っていたのはわかっているが、てっきりデジレと話しているものと思っていた。なにせ彼女はレンより頭ひとつぶん小さい。注視して見下ろさないと目が合うこともない。くだらないことをぺちゃくちゃ話すアルエットの言葉は無駄にしか思えず、ほとんど聞いていなかった。これはまずいことをした。
機嫌を損ねたかと冷や汗を垂らすレンに、アルエットは「やっぱ聞いてなかったんだ」と頬を膨らませた。しかしすぐ、にっと口の端を笑みの形に歪ませる。
「まぁいいや。――あとでわかるから」
襟足で緩く結んだ緋色の長髪を翻し、アルエットはレンに背を向け歩き出した。一体なんだと思って隣のデジレに目を向けてみるが、彼女は結った髪から零れる後れ毛を弄りつつ、気怠そうな無表情でアルエットについていく。仕方なくレンもそれに続いた。
道々、アルエットは町人たちからよく声を掛けられた。アルエット様、姫様、と敬称ではあるものの、まるでパン屋の娘でも呼ぶみたいな気安さで。
「姫様、その子が守護者なのかい?」
「あの試合、俺見てたぜ! この坊主、すげぇ強ぇんだ! アルエット様をこう、投げ飛ばしちまってさ!」
「へぇ、そりゃすごい!」
アルエットを下して守護者となったレンにも、人々は関心を向ける。民にまでその強さが知れ渡っているとは、今までこの姫はどんな暮らしをしてきたのか。
「人気者だね」
先を歩きながら、肩越しに振り返ったアルエットがレンに向かって笑いかけた。
「それは俺でなく殿下でしょう」
馴れ馴れしい人々の視線にうんざりしつつ答えたが、本音でもあった。アルエットは民に愛されている。通りを少し歩くだけで、嫌と言うほどわかった。
王立の施療院は立派な施設だった。中庭付きの豪邸のような建物。けれど決して華美ではなく、清潔で設備の管理が行き届いている。看護が職業として成立しており、それを担う者たちには教養と誇りを感じた。他国では、知識もない貧しい女たちが汚れ仕事としてやっていることが多い。寝台が足りないからと廊下に重病人が寝かされているなんてこともざらだが、ここでは一人一人に寝床が用意され、栄養のある食事も出るという。
芝生を敷いた中庭には入院患者たちが集まっていた。老人から子供までいる。皆、病人とは思えないほど穏やかな顔をしていた。
「えー、それでは朗読会を始めます」
人々の輪の中心。そこに座ったのはデジレだった。慣れた様子からして定期的にこういった催しを行っているのだろう。
デジレが読み上げたのは古い時代の英雄譚。この国の始祖であるエテールネルと、かの女神とともに魔獣と戦ったという精霊たちの物語。長い長い物語の一節だった。
淡々とした語りではあるが、デジレの声はよく通って聞き取りやすい。最前列に座った子供たちは目を輝かせて聞き入っていた。大人や老人たちは、そんな子供らを微笑ましく見守っている。その中にアルエットも加わり、レンは少し離れて様子を窺っていた。ここでは到底、彼女を殺せそうにない。
「――そして、炎の精霊フランムルージュは、とうとう雷槌のアーリックを追い詰めたのです」
わっと子供たちが沸く。すると、そんな子供らの頭上を飛び越えて緋色の影が輪の中心に躍り出た。
「ぐわー! このアーリック様がこんなところでやられるものかー!」
アルエットだった。どこから出したか作り物の動物の耳までつけて、迫真の演技で魔獣になりきっている。
「よっ! 待ってました!」
「アルエット様おもしろーい!」
大人たちはやんややんやと歓声を上げ、子供たちは道化のようなアルエットの動きに笑い転げる。
まったく、どこまでも姫君らしくない。呆れて溜め息をついたが、次の瞬間、思いがけないことが起こった。
「俺の本気を見せてやるぅ! 最後の勝負だフランムルージュ!」
魔獣っぽく低い声を出しながら、アルエットが指差したのは――レン。
「え」
思わず周囲に視線を巡らす。左右にも背後にも誰もいない。間違いなく自分が指名されている。
「え、いや、その」
人々の視線が集まり、顔が引き攣る。後退る。だがアルエットはそれを許さない。
「どうした、かかってこーい!」
ぴょんぴょん飛び跳ね、手を振ってくる。あの魔獣はうさぎか何かか。
「そしてー、炎の精霊フランムルージュはー、とうとう雷槌のアーリックをー、追い詰めたのですぅー」
躊躇うレンをせかすように、デジレが無表情で同じ箇所を繰り返す。
「お、今日は新入りの兄ちゃんも参加か?」
「やれやれー!」
観客からも野次が飛ぶ。病人のくせに元気だ。思わず舌打ちをする。
仕方なく、レンは進み出た。人々の輪を突っ切り、アルエットの前に立つ。
「それで、俺はどうすればいいんですか」
小声で問う。するとアルエットも声を潜めて指示をしてきた。
「えいやー、って言って、しゅばー! ばさー! って感じだよ」
擬音で話すな、わからん。
額に青筋を立てそうになるのを堪え、言われた通りにやってみる。隠し持った武器はもちろん出せないが、剣のようなものを持っている素振りで、アルエットに斬りかかる真似をした。
「え、えいやー」
暗殺する時、こんな妙な掛け声は言ったことがない。どのくらいの声量を出せばいいのかもわからないから、間延びした感じになってしまった。しかしアルエットはぎゃああと悲鳴を上げ、芝生の上にばったり倒れる。
「うわー! やーらーれーたー!」
ひっくり返った虫みたいにじたばた暴れ、手足を投げ出して動かなくなるアルエット。
「こうして、雷槌のアーリックはフランムル―ジュによって倒され、地の底に封印されたのです。フランムルージュの聖剣は、アーリックから奪い取った雷電の力を宿していると言われています。――おしまい」
デジレが本を閉じると、ぱらぱらと拍手が起こった。むっくり起き上がったアルエットは満足そうな顔でその声援に応える。とんだ三文芝居に付き合わされたレンには「兄ちゃん、大根役者だなぁ」と野次。やかましい。
「来る途中で打ち合わせしたはずだけど。聞いてないマルセルが悪いんだよ」
レンが不機嫌になっているのを見て取ったらしく、アルエットがにやにや笑いながら肘で小突いてくる。殴りたい。近々殺すけど。
小芝居付きの朗読会が終わると、大人や老人はほとんどが解散していった。病室に戻ったり、院に併設されている図書館や談話室へ行くようだ。実に設備が充実している。
一方、子供たちは多くが中庭に残ってアルエットと遊んでいた。遊ぶといっても施療院に入院している子供たちだから走り回ったりはせず、アルエットにあれやこれやと話して聞かせている。苦い薬を我慢して飲んだとか、看護師にまだばれていない悪戯とか。
懐かしい、と思った。やんちゃ坊主だったファルコが、年下の子の面倒を見るのが上手かったのを思い出す。彼もこんなふうに、ぺちゃくちゃ喋る女の子たちのつまらない話を根気よく聞いていた。
病気の子供たちに囲まれ、にこやかに話を聞くアルエットは慈愛に満ちた姫君そのものだ。あの神々しいセシリアと本当に姉妹なのかと思っていたけれど、黙って座っていればそう見えなくもない。
畏まらなくていいと言ってレンに制服の着用を強要しなかった割に、アルエット自身は軽装ながら高貴な装いをしていた。フリルのついた立ち襟が華奢な首を彩り、丈の長いスカートはふんわりと円のように広がっている。窮屈で動きにくそうなのに、着崩すことは決してない。長く伸ばした緋色の髪も、今は白いリボンで束ねている。
天真爛漫。明朗快活。親しみやすい人気者。
だが、はたしてそれは本当だろうか。
今までレンが暗殺してきた者たちの中には、高貴で臣民からの信頼が篤い者も少なくない。下男や給仕として屋敷に入り込み、一人になったわずかな隙をついて暗殺する。それがレンのやり方で、自然、標的の裏の顔を知る機会も多かった。
ある地方の女領主を思い出す。若く、美しく、慈悲深い。領内の孤児を育てる施設を作り、教育者としての顔も持つ。清廉潔白で皆に慕われる主。そう、まるでアルエットのように。
けれどその女は、孤児院に集めた子供たちを遠く離れた国へ売っていた。力強く丈夫に育てた男児は奴隷のように働かせる鉱山へ、従順かつ男に好まれる振る舞いを学ばせた女児は娼館へ。容姿の優れた者は上流階級への供物。そうして財を成していた。
そんな人間ばかり見てきた。飽きるほどに。
アルエットはどうだろう。彼女は何を隠しているだろう。別に知りたくないけれど、殺すために傍に寄れば知ってしまう。命を狙われているというならそれなりの理由があるはずだ。
「あの」
アルエットを見守るふりをしながら思考を巡らせていると、横合いから声が掛かった。
中庭の木陰で、レンと並んで座っているデジレだ。アルエットよりさらに小柄で、座っているとちんまり感が増す。相変わらず、後れ毛を弄りながら気怠そうだ。
「暇でしたら、席を外してもいいですよ。すぐ近くに談話室があるんで。そこで無料のお茶も貰えるんで」
視線はアルエットのほうに向けたまま、にこりともせずデジレが言う。他人に無関心そうだが、気遣いはできるらしい。
「それなら君が行ってくるといい。殿下のことは俺が見ているから」
別に茶が飲みたい気分でもないし、何より標的の観察をしたい。しかしそれをデジレは許さなかった。チッ、と品のない舌打ちをする。
「じゃなくて、お茶取ってきてって言ってんですよ。察してくださいよ。わたし一応、先輩ですし。動くのだるいんですよね」
ふーっと溜め息をつくデジレ。
前言撤回。むかつくチビだ。
しかしここで突っぱねると、それはそれで不自然だ。デジレはアルエットの一番近くにいる人間で、夜間、主の部屋に傍仕えしているのも彼女。たまに離れることはあっても、それはアルエットが人目の多いところに行く時だけだ。
デジレに警戒されてはいけない。仕方なくレンは立ち上がる。
離れる際、ちらと窺い見たアルエットは一番小さな子をおんぶして笑っていた。
そんな姿もファルコと被った。