第二話
レン・マクベインは暗殺者だ。
そのように育てられた。命を救ってくれた人に。
十二歳で家族も親友も故郷も失って五年。暗殺衆『蝮』で生きるための術を学んだ。それが暗殺術だった。
「旅のお方、どうぞ楽になさってください」
聖殿の、玉座の御前。膝をついて傅くレンに、壇上から声が掛かった。
叙任の儀である。レンはこれから騎士の称号を得て、アルエット・オ・エテールネルの守護者となるのだ。
言葉に従い、顔を上げる。玉座は薄絹に隠され、見えない。だが、そこから響く声にレンはわずかに眉を動かした。また女の声だった。
神の血を引く神子、エテーリアの聖王は女王だったのか。
しかし、そんなことはどうでもいい。標的がどのような人間か、ましてやその家族など、知る必要はない。上から命じられた仕事をこなすだけ。標的を確実に仕留めるだけ。
レンは玉座のすぐ脇に目をやった。首元まで覆う窮屈そうなドレスに着替えたアルエットがそこに立っていた。彼女はレンの視線に気づくと、へらへら笑って手を振ってくる。それを、玉座を挟んで反対側に立っている老齢の侍女に「これっ」と小声でたしなめられ、首をすくめて舌を出した。侍女の隣には初めて見る顔の騎士がいて、眉をひそめて溜め息をつく。
これが標的か。なんとも毒気が抜かれる。
そんなレンの呆れた気持ちを察したように、薄絹の向こうから密やかな笑い声がした。
「驚いたでしょう。あのような催しで、王女の騎士を決めるなど。守護者はいらないと妹は常々言い張っていて、今までは自由にさせていたのだけれど、わたくしは心配で。そうしたら、『どうしてもと言うなら自分で選ぶ』と言い出したものだから、あんなことに。まさか当人が騎士に化けて相手をするとは、わたくしも考え及びませんでした」
「だって姉様、言ったら許してくれなかったでしょう?」
「それはそうです。危ないことはよして、アルエット」
薄絹越しに、姉妹らしい言葉を交わす女王と王女。それを遮るように、傍らに控える侍女が声を上げた。
「わたくしは今でも反対です」
彼女は不審げな眼差しをレンに向ける。
「マルセル・シクスといいましたね。生まれはどちらです。アルエット殿下の守護者に志願した理由は?」
「生まれはウィルトゥス。北にあるギールという村です。五年前に山崩れに遭い、今はもうありません。志願したのは、名誉と誇り高い仕事を求めていたからです」
用意していた答えをすらすらと答える。
ウィルトゥスは隣国だ。ギールという村もかつて実在したし、五年前に山崩れで壊滅したのも事実。
だが、レンはそこの生まれではない。エテーリアの最北部、森の中の小さな教会が故郷だ。――故郷だった。
事前に決めておいた偽名と偽りの出自。標的に合わせて変わるそれを、レンはもっともらしく答える。隣国の、しかも今はない村のことなど調べようがないだろう。もし仮に疑われたとしても、調べが進む間に仕事を終えたレンは姿を消す。そういう算段だ。
最初は下働きの者として聖殿に入り込むつもりだった。ところが王都に来てみれば、王女の守護者を選ぶ催しがあるといって街はお祭り騒ぎ。特別な力を持つという神子を王として戴き、他国からも信仰の対象として敬われる国のなんと平和なことか。
それでも、王族を――女王の妹を葬りたい者がいる。
レンは視線を前に向けたまま、周囲を窺った。
玉座の間には女王とその傍に侍るアルエットたちのほかに、いくらか人がいた。皆、叙任の儀の立会人だ。
玉座に向かって延びるように敷かれた赤い敷布。その脇に居並ぶのは、先ほどレンと戦って破れた騎士たち。進行役だった少女。アルエットの身代わりにされた小柄な男も着替えを済ませて参列している。甲冑姿だ。彼も騎士だったらしい。他にも聖王の臣下が並んでいる。
聖王を含むこの中の誰かがきっと、アルエット・オ・エテールネルの死を望んでいる。
それが誰か、レンは知らない。どうでもいい。組織から殺せと言われた人間を殺す。ただそれだけだ。
「生まれなどは些末なこと。アルエットもわたくしも、そのようなことは気にしておりませんのよ。わたくしの侍女が失礼をしました。どうか許してちょうだいね。母代わりのようなものだから、少し心配性なの」
薄絹の向こうから聖王に諭され、侍女は押し黙った。
「わたくしは神子であり、聖王です。約束は違えません。この者はアルエットが自ら選んだ。ならばそれを信ずるのみです。マルセル・シクス、そなたに騎士の称号と聖剣を授けましょう。――ニーナ、アルエット」
聖王の呼びかけに、ニーナと呼ばれた侍女とアルエットが薄絹の中へ入っていった。そして再び彼女たちが出てきた時、レンは思わず眼を瞠った。
アルエットと侍女、二人と共に姿を現した聖王。
若い女だ。アルエットの姉なのだからそれは当然だが、彼女はその両目を閉じている。
裾の長い、白い衣を引きずって聖王が一歩踏み出すと、蜂蜜色の長い髪が厳かな様子で揺れた。天窓から入る光を受け、彼女自身が仄かに光を帯びているように見える。思わずひれ伏したくなるような、圧倒的な美の権化。
房付きの、小さな枕のようなものを掲げ持つ聖王は両肘をニーナとアルエットに支えられ、騎士を従え壇上から降りてくる。目を閉じたまま、しかし迷いのない足取り。左右の二人をよほど信頼している様子だ。
そのままレンの眼前まで歩み寄った聖王は、ゆっくりと腰を落とす。腕の高さはさりげなくアルエットが誘導しているのがわかった。
盲目の女王。それがエテーリアの王なのだ。
「さぁ、お取りなさい」
レンの眼前に差し出されたのは、柔らかな布に包まれた腕輪だった。金属的な光沢があるが、焼けているように真っ赤だ。
「これはかつて、魔獣――雷槌のアーリックを封じたといわれている精霊フランムルージュの聖剣です。アーリックを倒した際、その力を奪い宿したとも言われています」
「聖剣……?」
思わず声が漏れた。どう見ても剣には見えない。すると聖王に寄り添うアルエットが可笑しそうに笑った。
「いいから、つけてみて」
悪戯っぽい笑みだった。訝ったが、ここは従うしかない。もしレンの正体がばれていて罰するならば、こんなまどろっこしい真似はしないはずだ。
赤い腕輪に手を伸ばす。その際、腕輪を掲げ持つ聖王の胸元――鎖骨の少し下あたりに、妙な痣があることに気がついた。
鳥の翼のような形。それには見覚えがあった。エテーリアの紋章だ。女神エテールネルを祀る教会で見たことがある。この聖殿にも旗が掲げられている。
だが、それとは別の既視感があった。これと似たものを以前どこかで見たような――
記憶を辿る一瞬の間。ちりっと焼け付くような殺気を感じて顔を上げた。
聖王の背後に控える騎士と視線がぶつかる。火花が散るような鋭さ。アルエットとは反対側で聖王を支えるニーナも、鋭さには欠けるものの厳しい目をレンに向けていた。
その視線の意味を悟って、わずかにたじろぐ。王とはいえ若い女だ。そのうえ当人は目が見えない。胸元あたりをじろじろ見れば、従者なら当然そういう反応になる。
しかしながら、そういうつもりで見たわけではないから、むっとしてしまった。ひったくるように腕輪を取って、手を通す。
手元が軽くなったのを察したのだろう。聖王は薄く微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。左右の二人もそれに従う。
「神子の名のもとに命じます。精霊フランムルージュの化身よ、アルエット・オ・エテールネルの守護者となれ」
「神子の名のもとに命じます。精霊フランムルージュの化身よ、アルエット・オ・エテールネルの守護者となれ」
先に聞こえたのは聖王の厳かな声。それをアルエットはどこか楽しそうに、一字一句違うことなく真似た。そんな子供っぽい言動を快く思っていないのか、またニーナが表情を歪めたが、レンの意識は別のところに向いていた。右手につけた腕輪に異変が起きたのだ。
鈍く仄かに輝く。なんだこれはと思った瞬間、きゅっと縮まってレンの腕ぴったりに締まった。さすがに驚いて隙間に指を入れ、はぎ取ろうと試みるが、びくともしない。
「これでその聖剣とあなたは一心同体。アルエットの守護者です。――さぁ、精霊の名を呼んでごらんなさい。フランムルージュ、と」
「……フランムルージュ」
わけがわからないと訝りつつ、精霊の名を口にする。しかし何も起きない。謀られたような気になって、つい聖王へ非難の視線を向けてしまったが、今度はそれを咎める者はいなかった。ニーナも、アルエットも、レンの腕をじっと見つめて目を丸くしている。聖王は彼女らの反応に戸惑っているのか、困ったように首を傾げていた。立会人たちもざわつき始める。
「なぜ武装化しないんだ?」
「さぁ……? まさか、エクラが極端に弱いとか?」
レンに負かされた騎士たちが顔を寄せ合ってひそひそ話す。何か馬鹿にされているような気になって、気分が悪い。
緊張感なく乱れた空気。それを再び引き締めた者がいた。聖王の傍に控えていた騎士だ。
二十代の中頃だろう、銀髪碧眼の青年。甲冑ではなく黒い礼服を纏っている。進み出た彼はレンのすぐ真横に立つと、右手を掲げた。その手首に光るのは、青い腕輪。
「グラキエース」
青年の声に呼応し、腕輪が輝きを放った。その光は飴細工か何かのように伸びて縮んで形を変え、やがて固着すると光が治まる。
腕輪は消えていた。代わりに、青年の手には青く透き通った硝子のような、弓が握られていた。
弓には弦が張られていない。しかし青年が弓を引く動作をすると、光の弦と矢が姿を現した。鏃がレンに向けられる。
「お手本ありがとう、ハインツ。下がっていいわ」
青年の行動を察したように聖王が告げると、彼が手にした弓は再び輝きを放ち、腕輪へと戻った。
「万物は等しくエクラを持つ。それは知っていますか?」
聖王がレンに語りかける。どこか気遣わし気に。
「存じています」
万物が等しく持つ、精霊と対話するための力。それがエクラだ。
エクラの力は個人によって大きく異なり、強いエクラを身に宿す者は導士となったり、常人より多少優れている者は町医者や薬師、占いなどを生業とする。
レンも、かつて暮らしていた教会にて、導士がエクラを使っていたのを見たことがある。火ではない灯りをともしたり、雨の降らない時期に水を湧かせたりしていた。
「聖剣は身につけた者のエクラに反応し、その者に最も適した武装へ変化します。武装化した後の能力はエクラの強さに比例しますが、武装化そのものはわずかなエクラさえあればできるはずなので、その……」
非常に言いづらそうに、聖王は言葉を濁す。すると堪えきれなくなったのか、失笑する者があった。アルエットの身代わりをさせられていた騎士だ。レンより少し年上と思しき顔を伏せ、肩を震わせている。
「エクラがほぼないってことか? そりゃお気の毒に」
「こら、やめんか」
小声での嘲笑。それを、レンが最初に手合わせした年嵩の騎士が咎める。
不快だ。別に聖剣なんてどうでもいいが、この空気が不快だ。
むっとして押し黙るレンに、聖王が優しく語りかけてきた。これも不快だ。
「どうか気になさらないで。聖剣はあくまで、王族の守護者であると示すための勲章です。この平和なエテーリアでそれを使うのは、今となっては祭事くらいですから。現在、聖剣を与えられているのはわたしくの守護者であるハインツと、アルエットの守護者であるあなただけです。優れた武人である証です。誇りを持ってください」
そう言うと、聖王は目を閉じたままの顔を上げ、浪々と告げた。
「セシリア・レジーヌ・オ・エテールネルが承認します。今これより、マルセル・シクスは我が妹アルエット・オ・エテールネルの守護者です」