ネクストライフ
「テンガロン。ボクはオナホがわからない。何の名称か教えてほしい」
突然の質問に、ここが現実のカフェではないことに一同が感謝したかもしれない。茶やコーヒーを飲んでいたらむせ吹いた液体でカウンターが汚れていたはずだ。ミューがテンガロンに真顔で語りかけ、そしてなぜか聞かれてもいないひま爺が答えた。
「あれな。オナホいうんはな、筒状の、」
「「ひま爺!」」
越後屋とエルザが同時に慌ててその発現を制止した。この男のモラルは信じてはならない。
「オナホは危険なものなの。だから近づいてはダメよ」
エルザは向くなミューの心を汚さないよう、慌てすぎてわけのわからないことを言っている。
「あとな。ミューちゃんの国には敬称とかないかもわからんけど、日本では先輩の名前を呼ぶときはフルネームでなく名前に『さん』をつけて呼ぶのが礼儀なんやで。しらんけど」
「そうか。勉強不足だった。テンガさんと呼べばいいのかな」
ミューが頭を下げる。
「余計なこと言うんじゃねぇよ!ひま爺!ミューちゃんだったか、他の奴には『さん』付けでも、俺はテンガロンでいい。呼び捨てでいいからな!」
「…そうしよう、テンガロン」
ミューはやはりこの世界は難しく理解しがたいと感じ始めた。この場にはたった6人しかいないのにそれぞれの理解がまるでかみ合っていない。オナホとか言う一つのものでこの混乱だ。ひま爺に至っては「しらんけど」と自白しながら、なぜ知っているかのように説明するのだろう。矛盾している。一人一人が見た目から性格まで何もかも違い過ぎる。ここにあるのは一つの世界ではない。人の数と同じだけ6つの世界があるようなものだ。プリムピアの世界ではキューボイド全員が同じような人生感覚で生きている。体制の命令で仕事を行い、ゴーストの支持で動き、従わない個体はエラーとして排除される。名誉ゴースト市民のシグマ博士でさえ扱いは同じだ。キューボイド自体にそう違いはない。違うのは環境と仕事と名前の下のナンバーだけでミューという同名も数多いだろう。この世界のアバターにはまるで重複を避けるように同じ名前が少ない。
ミューはエルザを眺めた。少なくとも、ここに彼らが集う要因は優しいエルザがいるからだ。ツバメの会の創設者、新人の支援者、スワロウネストの経営者、そしてエルザノートの編纂者。彼女がこの場所と会の重心。エルザがいなかったら、彼らはこの世界で別々の道を生きていたに違いない。スワロウネストがあったから彼らがいる。
(そして、ボクも時を隔てて残されたノートによって導かれた)
彼らに彼らがまだ知らない本当のことを話すべきだろうか。
「そうだ、そのドロシーさんがカフェから帰る時に、『会話に困ったら置け』って贈ってくれた物があるのよ」
エルザがカウンターで片手をあげ、広場の方で白い箱のようなものが出現して置かれた。
それはふわりと浮かび上がり、ゆっくりと回転し、そして言葉を発した。
「『大相撲地下トーナメント第二試合。次鋒 千代回天 対 屠龍山。人間魚雷出るか』だって~」
「ああ、『ドロシーの幽霊』じゃな。ちと反応がうるさいが、ニュースを読んでくれる1プリムのおしゃべりボットじゃ」
越後屋が見慣れたボットについて説明した。同じものはドロシー邸にもある。
「ゴースト!」
ミューが突然、リスのようにガーデンテーブルの上に飛び乗った。右手を後ろに下げて低く構えると、その手の中にエメラルドグリーンの閃光が輝いた。そして全身のバネを使うようにアンダースローで斜め上に腕を振り上げると、緑色に輝く塊が勢いよく投げられた。
それはミューの手からドロシーの幽霊の間を半円を描いて素早く飛び、プリムの中心を横切った。瞬時にボットは上下に割れて広場の上に別々に落下していた。緑の閃光は弧を描いてミューの手に戻ってきた。割れたプリムはその切り口から緑色のパーティクルのような湯気のようにあげ、蒸発するように分解されて消えてゆく。ミューの右手には二の腕ほどの長さのグロー発光するブーメランが現れていた。
「1プリムが半分こになっとったけど?」
ミューによる突然の破壊行為を責める者はいない。あまりにありえない出来事を見た為だ。戦闘反応には自信のあるテンガロンも椅子から立つ事を忘れていた。ミューをただのアカウントを作って間もない新人っ子、周囲の会話を伺っているだけのおとなしい不思議ちゃんだと思い込んでいたからだ。
ミューが腕をおろすと2秒ほど残光を発しながらブーメランが消えた。武器が透過状態になったのだ。カフェに来た時から右手に武器を携帯していたようである。エルザはミューにそのような武器を買い与えた記憶はなかった。
「これはボクが完成させた『ゴースト破壊スクリプト』を仕込んだ武器だ。これに当たるとゴーストは即時に抹消される。通常のプリムやアバターを傷つける効果はない。ゴーストは危険な存在なんだ。破壊しなければならない。エルザ、まだゴーストを所持しているなら、すぐに破棄してほしい」
ミューはテーブルを降りると、カウンター側へ近づき真面目な表情でエルザへそう言った。
「コピー不可だったから、一つだけよ。そんな危険なものなの?もしかして置くとお金を抜かれるとか?」
あの時のドロシーという客は迷惑な遊び方をする子ではあったが、エルザにはそんな他人を陥れて益を得るような権謀術策な悪人には見えなかった。やることなすこと邪気の塊だが、人間性のほうは無邪気に思えたからだ。
「ゴーストはもっと恐ろしいものだ。越後屋ちゃんさんがゴーストがニュースを読み上げる特徴を知っていたのはなぜ?持ち主がいるなら教えてほしい」
「ドロシーの居場所を知っているなら、俺にも教えてもらおうか」
テンガロンは立ち上がり、越後屋の隣に立って言った。恐らく威圧をかけているつもりなのだろう。
「わしも敬称はいらんが、いきなりカフェで武器を出し、オーナーの出したボットを真っ二つにする者に、知り合いの居場所を理由もなく教えるわけにはいかぬ。今しがたの行為はドロシーのすることと変わらぬ。テンガロン、お主の態度はドロシーと同じかそれ以下じゃな」
越後屋は毅然と断った。ゆるぎない態度で胆が据わっている。年がら年中、サイコな性格のゾンビアバターと関わっている越後屋にとってみれば、テンガロンの態度など子供の脅しみたいなものだった。憎い宿敵と同類にされてはテンガロンも引き下がるしかなかった。
「いや、俺はただ。そうだな。悪かった」
「テンガロン、ドロシーに仕返しをするつもりなら、それはやめておけ。お主が考えているより、あやつは百万倍も鬼畜じゃぞ。」
越後屋はドロシーの性格をよく知っている。以前助手ちゃんを含めた三人で、ドロシー邸のテラスに置かれたテーブルでハンムラビ法典について話し合った際、ドロシーは『目には目』を「てぬるい」と言い切った。そして「目には目と歯と耳と鼻と舌と髪+αを」「歯一本には手足四本を」と言い換えた。テンガロンがドロシーに銃の一発でも当てようものなら、チェーンソーを振り回して地の果てまで追ってくるのは間違いない。
かつてドロシーがヨット遊びを楽しんでいた時、リンデン海域のBlake Seaでノーチラス海賊団『ブラック ギャランドゥ』から悪戯半分の砲撃を受けた事があった。ドロシーはありとあらゆる武器でやり返し、相手の海賊船を海沿いの本拠地まで追いかけ、わざわざグループボードからグループに入りRez権を得たうえで核爆弾を設置し、海賊全員を空高く吹き飛ばしたのだ。その炸裂とキノコ雲は、船旅中の海洋旅行者たちを何事かと驚愕させた。そして事が済んでもドロシーの復讐は収まらず、基地の前を小舟で数日の間うろつき、出てきたところを一隻ずつ狙い撃ちで追い回すという執念深さを見せた。
海賊団『ブラック ギャランドゥ』の頭目Bartholomew nakamoriは、不穏な日々に耐え兼ねてドロシーを指して『Blake Seaのノコギリザメ』と命名して恐れた。そしていくつかの港にも、ドロシーの指名手配書が貼られた。
テンガロンがドロシーに下手にやり返し、スワロウネストまで彼を追ってきた場合、『百万倍返し』の余波によって前回訪れた笑い話とは比較にならない甚大な迷惑がかかるだろう。
「それより、テンガロンの話は先程聞いたが、ミュー、お主の話はまだ聞いていない。何か裏がある様じゃな」
越後屋はミューに話を戻した。
「ボクはその…データ層の最新部から来た。そしてここはずっと昔の下層データをシミュレートした世界なんだ。あなたたちは保存されたデータであり、人類はすでに滅んでいると聞いている」
ミューは全てを話し始めた。
体制とゴーストに支配されたキューボイドの住むプリムピアの世界。シグマ博士の指示により、この地に逃れてきたこと。この世界に来て最初に行ったのが『ゴースト破壊スクリプト』の作成であったこと。
「上層世界の基礎となる最初のゴーストが存在する以上、体制はこのデータ層を消すことが出来ないんだ。そして今日、初めてこの世界のゴーストを見つけた。でも、あまり猶予はないと思う。みんなには残念だけど、スワロウネストも、ここにいる皆も体制の保管シミュレーター内の過去の記録であり、現実には生きた人間はすでに存在しない」
「ほへぇ、つまりわいも幽霊やな。しらんけど。食ってたスルメが歯に引っかかって取れんのやけど、たぶん夢やでこれ」
「体制も初期の世界を書き換えることはできない。彼らが支配を続けるには世界を掌握した直後の歴史にリセットしなければならない。しかし、ボクがこの下層データ世界に来たことで、支配前の記録に変化が起こり最新部で障害が起こっているはずだ。だから、体制はこのままボクを放置したりはしないだろう。キューボイド管理局地下のスターゲートが見つかれば、上層世界のゴーストたちもここに来るかもしれない。最初のゴーストはこのデータ層で意識が芽生え、ただのボットではなくなるらしい。手遅れになる前に見つけ出さないと」
ミューがひと通り事情を話し終えた後、テンガロンが腕を組んだまま発言した。
「よくできた設定だと思うが、俺はRPに参加するつもりはない」
実際、誰もミューの話を信じてはいなかった。誰もが現実の世界で生きており、キーボードでチャットを打っているからだ。昨日の朝食べた朝食だって思い出せる。自分が電子情報に過ぎず、モニターの中こそ実世界。逆にこちらが現実に見ているものや記憶が仮想データだと言われても、理解しろというほうが無理というものだ。
「未来に人類がいないなら、物質的にどう保全管理しとるんや。電脳存在なら記録媒体や電気が必要やで。いわゆるサーバーやデータセンターや。仮想世界は映写された影絵で遊んでるようなものなんやから」
「外の世界はボクも見たことはない。シグマ博士によると体制支配が別次元にまで広がっているかもしれないということだった。物質世界にもゴーストのようなボットが管理しているのかも知れない。」
ひま爺は先程の『ドロシーの幽霊』のようなものが無人の世の中で宙に浮きながら移動し、サーバーを見て巡回したり修理したりする光景を想像した。まるで機械生命体の星だ。それは起こりうるなら何百年後の世界なのだろうか。
「ミューちゃん、その『体制』って、よくわからないけど政府みたいなものかな」
「集合意識体。それは最初のゴーストから分裂して群体となり、あらゆるものを乗っ取り、システムに入り込んで世界に広がった。体制とは世界を支配するものそのものだ」
「そのような存在があるとしたら、姿のない神に挑むようなものじゃな」
越後屋はそう言いながら、その神の心臓こそが最初のゴーストというやつではないのかと考えた。もしやドロシー邸にある幽霊ボットが元凶ではないだろうかと嫌な予感がよぎる。
「体制って言うのもピンとこないし、他に呼び方あるといいけど」
「『ネクストライフ(あの世)』でええやん。幽霊ばかりの世界なんやろ」
その時だった。画面が一瞬赤く揺れ、誰もが突然のリスタートかと考えた。同時に空が回転した。大小輝く太陽や月や雲が次々に頭上を通過し、あらゆる色の空と光が目まぐるしく世界を染める。太陽系を銀河の渦の中心に置いて数千倍の回転をくわえたかのようだ。
「エルザ、Windlight を変えて遊んどるんか?」
「私、何もしてないわ」
やがて空の動きはゆっくりとなり、止まった。それは暗黒の空。星もなく、雲もない。空から設定そのものが失われたかのようだ。そのくせ、夜でもないため、皆の姿も背景もはっきり見える。描画を伸ばすと、見える範囲の境界線までくっきりしていて、常闇の世界に大地が置かれたように感じる。
エルザはミューを見た。ミューは空を見上げ、大きく目を見開き、心なしか身体が震えているにも見えた。身なりを整えるために買い物には一緒に連れて行ったが、そんな動きをするAOを買い与えた記憶はなかった。急に具合が悪くなったような印象だ。
「プリムピアの空だ」
空を仰ぐミューのアニメヘッドの色白のスキンが、さらに蒼白さを帯びて見えた。