ひま爺の眼
プリムピアを出た初日。ミューは青い天空の彼方から大地へ落ちて来た。
見るもの全てが意味不明な世界の中におかれた仮想生命体が頼るものは、過去の世界の道標とも言えるエルザノートだけだった。ミューはしばらく独学でエルザノートを調査してほんのちょっぴりセカンドライフを理解した。そして海で拾ったアバターに扮し、初心者支援カフェ『スワロウネスト』を訪れてエルザ本人と出会ったのだ。彼女はスワロウネストのカフェを放置してミューにつきっきりでたくさんの事を一から教えてくれたが、聞いてもまだ理解できないことも多かった。エルザによる教育はシグマ博士と異なり、課題を与えたりせず一つ一つを何でも一緒に行って見せた。エルザはミューの言葉や反応を楽しんでいるようだった。ミューはエルザノートを作った本人に触れて、仮想世界でアバターを別次元から操作する『人間』という生命体の精神性を信用することにした。教育が済むとエルザはミューを連れて様々なお店を一緒に巡った。ここはリンデンドルという数字を物と交換できる。数字の増やし方はミューにはよくわからないが、アバターはインベントリーに仕入れた物であらゆる姿に変化することができると教わった。ミューはエルザの選んだ品々によって見た目がすっかり生まれ変わった。この世界の『髪』や『頭』や『服』は色のついた立方体ではなかった。どこで見てもアバターとは皆ゴチャゴチャした何かを身に着けている不可思議な姿だった。
ミューの世界では正方形こそ真理。しかし、セカンドライフは何もかも複雑で、混沌としていて、有り余っていて、整然としない世界だった。シグマ博士ならこの世界をどう思っただろう。付属物の多い奇妙な身体である人間の心の化身。その姿を見たらやはり未熟な生命体だったと考えただろうか。
素晴らしいのは動作だ。この世界は軽い。空を飛べ、好きな場所にテレポートでき、素早く走ることが出来る。ミューは動作の『自由』を知り、もっとより良く動けるように練習した。
ミューは今、自分の手を空に掲げて指を一本一本曲げたり伸ばしたりしている。この自由に動く五本の突起が面白い。動きを見ているだけで楽しい。指の間から空のかなたに明るい光源が見える。あの光が世界の果てに消えた時、プリムピアのような黒い空がやって来た。空にはたくさんの小さな穴がいくつも開いていて、大きな穴の向こうには輝きが見えた。そして空には常に白や灰色のボヤっとした何かが横切って、動いたり消えていったりする。何もかもが不思議で満たされている世界だ。
ゴーストによる支配体制のないセカンドライフ。肝心なことは一つ。この仮想世界のどこかに原初のゴーストがいる。それを破壊すればキューボイドの未来は変わるはずだ。
皆への挨拶の後、ミューと呼ばれた新人はガーデンテーブルの椅子に座り、ふと自分の世界に入ったように、自らの両手の指を眺めて動かしていた。周囲の人間よりも自分自身のアバターに関心があるようだ。越後屋とひま爺はその様子をカウンターの方から観察し、最近のメッシュボディの指はずいぶんと繊細でなめらかに動くものだと感心した。さらさらと細かく揺れる薄青緑色の髪、その時々の表情や目の動きや瞬きは、アニメヘッドなのにまるで本物の人間がそこにいるようにみえる。かなり精度の優れたモーションキャプチャーのAOも装備しているようだ。アニメーション動作の繰り返しを感じられない。全体的に高性能すぎるアバターだ。セカンドライフも最初のアバターである『ruth』から飛躍的に進化している。エルザがアバターの他に、それら高度なアニメーションHUDを新人に買い与えたのなら、ずいぶんな大金を使ったのではないだろうか。
「ミューちゃん、ボクっ子でかわいいやん。女の子やろ?わい、大陸の面白いところ知ってるから、見にいこか?」
スタッフとしての初心者案内だと信じたいが、ひま爺のアバターで言うと、まるで公園で女児に声をかける変質者のようである。発言しながら両手を顔の横に持ってきて、シャッター音まで出しているのだから、なおさらだ。メニューとか一切いじらないタイプかもしれない。いろんな意味でナチュラル人生ライフを送り過ぎである。
「わからない。エルザノートの第一章4項には『男性アバター』や『女性アバター』って書いてあるけど。意味が解らない。何が違うのだろう。男とか女とかがわからない。性別ってなんだ?」
「ん?男と女いうんわ、おしべとめしべや。つまりおしべが男のアレやがな」
「おい、ひま爺!!」
「そのままの意味じゃないでしょう。きっと男女どちらかなんて詮索するものじゃないって、ミューちゃんは言いたいのよ。誠実な子なんだから変なこと言わないで、ミューちゃんは私の妹みたいなものなんだから」
エルザが擁護しミューの横に保護者のように座った。自分好みにアバターを整えただけあって、相当可愛がっているようだ。ミューは少し困惑した表情でエルザの横顔を眺める。眉と瞳の動き、本当に自然な動きのフェイスアニメだ。エルザのヘッドも発言中は口を動かし、AOによって両手も優雅にひらひらと動いてはいる。その動作はとても美しくはあるが、ミューのアバターの動作は次元が違った。まるでゲームのプレイ画面と別に作られたムービーシーンのようだ。
「ミューちゃん、私がこのカフェを開店したころに初心者向けに書いた、セカンドライフの手引き用ノートを持っているのよ。改装した時に無くしたとばかり思っていたのだけど。誰かがくれたのね。ノートの最後に位置を書いたから、それを見てここへ来てくれたみたい。ミューちゃんの役に立ったなら書いて良かったな」
ミューがエルザの横顔をじっと見たまま笑顔になる。だいぶなついているようだ。ミューならどこについて来てもエルザも許すだろう。ひま爺の一見ふざけたヒゲずらアバターの、その双眸の奥深くから、ミューを射貫くような視線が飛んでいることには誰も気づかない。先ほどまでハエのように踊り狂っていた視点がピタリと顔の上で止まっている。ひま爺の『人間診断』が完了したのだ。ミューはひま爺がスワロウネストのスタッフとして見てきた、どのタイプにも属さない新人だった。信用できるかどうかと言ったらミューは信用できる。アカウントの生まれ変わりではない。サブ垢でもない。流入者でもない。セカンドライフと言うより、このカフェに目的があるようだ。ここでは古株のひま爺ですら知らなかった、エルザ本人が無しくたという初心者の手引きノートなど一体どこで手に入れたのだろうか。恐らく日本人ではないが、会話の齟齬については翻訳機とも異なっている。不思議ちゃんというやつか。いや、受け答えはしっかりしている。ひま爺の眼を以てしてもミューの中身は得体が知れない。中身の年齢さえ読めない。
(マジもんな話でなにもんや?)
ひま爺はSL人生経験から鋭い観察眼を持っていた。ひま爺は相手のプロフィール、名前、入っているグループ、装備品、アバターの立ち位置、視点の動き、あらゆる要素から相手がどのような人間性を持っているかおおよそ正確に見抜くことができた。それでもこれまでに一つ、苦々しい出来事があった。
『地縛霊事件』である。だいぶ以前の話のことだ。それは、ひま爺がもっと早く、強く、きちんと警告していればと自らを悔いた出来事であり、そうできなかったのは、新人びいきで優しいエルザに、余計な忠告をして厭われたくなかった為だった。ある新人の男性アバターがスワロウネストに来た時、ただ黙って立っていただけだが、ひま爺は「こいつはよくない」と本能的に危険信号を感じた。コミュ力の高い者も低い者も、カフェではどちらも目にする。その男は一見、仮想世界でのコミュ力の低さを感じたが、現実的にも世慣れができていない大人だと感じた。そのタイプがエルザのような美しいアバターと優しさに惹かれればどうなるか。ひま爺が案じた通り、男はオーナーのエルザに対して、即日ご執心になってしまい、彼女への独占欲から周囲の古株を含め、男性客全てを敵視し始めた。場で優位に立とうとするあまり皮肉を言う、否定をする、会話を奪うでカフェ内の会話が徐々に殺伐。エルザが遊びへ行っても、買い物へ行ってもあとをついて回り、友人との間に割って入り、誰も寄せ付けない有様。エルザがログインする時間前にログインし、エルザが退席すればだれとも会話をしない。常に半径2mから離れない。そんな人間がやがて24時間フル稼働でカフェに常駐放置したものだからたまらない。『地縛霊』と称され、常連客まで嫌気がさし、目に見えてカフェの人数が激減した。今でもその影響を最後に戻ってこない人々もいる。恐らく彼は己が美しいオーナーの騎士、守護霊の如き傍にいる存在でいたのだろう。しかし、第三者の周囲から見れば憑いて回るやっかいな悪霊に過ぎなかった。しまいには現実世界のおおよその生活圏を見出し、エルザ自身の同意もなく現実で会いに行きかねない状況にまでなった。「人の心がわからない者」が自分の気持ちを拗らせた結果はどうなるか。『地縛霊』は優しいエルザがスワロウネストから追放した、最初で最後の男となった。
あとで分ったことだが、『地縛霊』はカフェに訪問センサーと盗聴器を仕掛けていた。仮想ストーカー、と言いたいところだが、現実との区別はすでになかったのだろう。彼は仮想世界にのみ生きていたのだ。
ひま爺が同じように心に熱いエルザ愛を持っていたとしても、その点、自分をわきまえていた。何より、スワロウネストのスタッフとしてエルザと長い付き合いであることから、仮想世界でのエルザの想い人の存在を知っていたのだ。
カウンターの奥には12枚ほどフォトを貼れるピクチャーフレームが飾られており、その片隅に、デフォルトアバターの男女が並んで座っている記念写真がある。背景からは、緑の植物や苔むした地面から熱帯地方をイメージしたシムだとわかるが、現実には存在しないような形の草花も咲いている。その向こうに大きな遺跡のような建造物があり、いくつかの黄色い尖塔が並んでそびえており、一番大きな中央の塔からはアーチで別の高台の建物に繋がっている。『Svarga』と呼ばれる2004年に制作された歴史的シムだ。今では知る者さえいないだろう。男女はデフォルトだがどちらも顔は整えられており、男性アバターはメガネをかけたハンチング帽の青年、女性アバターは細身で紅葉色のロングヘア―だ。その女性アバターこそがエルザの昔の姿だった。
ひま爺は写真の男性アバターについてエルザに聞いてみたことがあるが、そもそも普段から女アバターにしか関心がないため「ある日セカンドライフからいなくなり戻ってこなかった」程度のことしか記憶に残らなかった。名前も聞いた気がするがとっくに忘れてしまった。ただ、その男性アバターの存在が、エルザがどんな客の告白をも袖にし続ける理由なのだとは気づいていた。「罪なメガネ男やで」話を聞いた後でそう言ったのは覚えている。
越後屋については、ここ数年で一番いい常連客ができたと考えていた。言葉は時代劇のようだし、割とはっきりものを言うが、性根の良さは透けて見える。口調はどうあれ可愛いネコ耳娘だ。何よりこのカフェには関西圏の仲間が少ない。カフェのボケ役を自認しているひま爺にとっては、越後屋のようなツッコミができる者が特に必要なのだ。貝のように話さない忍者マンにはまるで期待できない。
(カイだけにな)
ひま爺は心の中で一人ボケをかました。
「実はミューさんは今日で三度目の来店なの。ひま爺がいなかった日でね。最初に来たときは箱みたいな姿で、広場に誰かの制作物が置いてあるのかと思ったのよ。それが突然、無言で歩き回って長城の上を移動して去っていったのよね。ビューワの不具合か何かで、その時はミニマップにも映っていなかったのよ」
「オバケみたいやん。ミューちゃん人間か?」
「人間じゃない。キューボイドだ。ボクは縮小状態でアバター内部に融合している。『中の人』が退席中なら内部からアバターを自由に動かせるとわかったんだ。このxx22022xxというアカウントは海の底に立っていて誰も使用していなかった。だから目的を果たすまで借りることにした。初めてここに来た時は発言の表示方法がわからなかったんだ。シグマ博士に転送された場所もものすごく高い空の上で、地上に降りるまで大変な時間がかかった」
越後屋がミューの服の中をカメラで覗くと、体内の中心に五色程のプリムを縦の重ねたものが埋まっていた。彼女が何かのシナリオでロールプレイングをしているとすれば設定がかなり複雑で手が込んでいる。だがそんな調子の演技をたった一人で数日も根気よく続けるものだろうか。
「そうそう、もう一人呼ばなきゃ。早くしてくれって催促のIMがきちゃった。『ツバメの会』の仲間が一人、この世界に戻ってきたのよ。みんなの知っている懐かしい人よ」
エルザが立ち上がり、つられてミューも立ち上がる。エルザはTP地点で迎え入れるため、ミューが現れた位置の近くへ再び移動した。今度はミューは少し離れて様子を見ている。
そして、意外な所から発言が飛んできた。
「来るのはたぶんテンガロンだ」
越後屋とひま爺が同時に反応した。
「「カイがしゃべった!」」