マレインジェニィ
サトリ大陸最北端にはノーチラスの海に面するいくつかの私設巨大空港があった。運営ではなくSLユーザーのエアポートグループが大陸各地に建設した空港の一つである。その内で最も大きな空港施設ではシム面積の半分を占めるほど広い滑走路が広がっている。海へと伸びる滑走路の両側には飛行機の格納設備がレンタルBOXとして用意され、航空機旅行者や大陸周遊イベントなどにも活用されている。
昼でもないが夜でもない太陽も月も星も雲も奪い去られた暗黒の空の下、滑走路の縁にノーチラスの海を眺める二人の人物があった。二人を覗いては空港設備はほぼ無人状態であり、滑走路上ではゴーストたちが獲物を探しているように彷徨っている。佇む二体のアバターに攻撃を加える様子はない。一人は頭の代わりに目のないサイコロが乗っているような姿、もう一人はヘビーメタルな服装の赤いモヒカンの狼男だった。それは言うに及ばすだがネクストライフ小隊の最後の二人であるベータとダークだった。
見えているかは描画距離にもよるが、二人の視界の先には人工島のような島があり古代遺跡の石柱や石畳の散在する西の岬がある。島の名はノーチラスシティ。大規模な火山運動と地殻変動によって海底から浮上したと言われている大きな島だ。東から西に12シム、北から南に5シムの広さがある。島の中央部分は高く巨大な壁で円形に区切られており「城塞」と呼ばれている。東の端からはクリップで挟むような水路が中心まで伸びている。島のコンセプトは仮想世界においてのアトランティス大陸のようなものと言えるだろう。そのような特別な背景環境のためか、通常の二倍の土地負荷を許可されているので土地価格は高騰する傾向にある。
「ノーチラスシティからゴーストを引き上げろ」
ダークは隣に立つビジネススーツのプリム頭に命令口調で言った。
「残っている味方は俺だけだ。ドロシーたちを捕らえて目的を果たした後は抜けたやつらの分を合わせて130万L$を支払ってもらう」
ベータは相手の要求を聞いても微動だにせず驚く様子もない。
「人間とはかくも欲深いものですね。いいでしょう。ただの数字です。わかっているとは思いますが、この世界はいずれネクストライフの手に落ちるのですよ。ノーチラスシティがアバターの聖域となったとしてもそれはつかの間の平和にすぎないと申し上げます」
ダークがノーチラスシティに固執する様子については、ベータは何も質問をしなかった。関心を持つ理由さえないのだ。
「ドロシー邸に集めたメンバーだけがネクストライフの作戦要員ではありませんよ。ソロモンのガープさん。あなたの代わりの駒も幾人かいますので、プリム寺院までは頑張って残ってください」
「やっぱ信用できねぇなお前は」
「『各大陸のゴースト部隊がノーチラスへ向けて集結中』だって~」
ダークは突然読み上げられたニュースによって自分たちの背後に十基ほどの銀色のゴーストが浮いているのに気づいた。咄嗟に小銃を抜くHUDを押そうとしたが、銀色のゴーストたちはただそこに浮かんでいるだけである。
「ようやく到達しましたか。この十基のゴーストはラムダ型と言いまして、アバターではなくオブジェクトと融合するタイプです。この半数にはドロシー様の拿捕を命じます」
「なら俺たちはどうするんだ」
「メタポリスを破壊します。ツバメの会を今度こそ殲滅しなければなりません」
サトリ大陸の滑走路から海を越えた先にあるノーチラス大陸へ向けてベータは指を差した。さらにその先のノーチラス大陸内丘陵地帯には自由都市メタポリスがある。ダークは少しばかり心が乱れた。飛空艇アナバシスで別れたばかりのテリー将軍やブーブーたちと、はやくも敵として相まみえる事になるのだ。
2009年頃。ノーチラスシティ西岬の北の灯台付近。
穏やかな青空から降り注ぐ陽光を受けて波が輝く大海原。そんな素晴らしい背景の広がっている岬の一等地に建設中のカフェテラスがあった。外観はプリムの教会建築でガラス面が多い。内部には数多くの本棚といくつもの丸テーブルとイスが各所に配置されている。ブックカフェを意識しているようだ。ヴォールト式で支えられた天井の先には大きな薔薇窓があり、そのステンドグラスの模様や絵柄は精密にプリムで組まれていた。薔薇窓だけでもかなりの高負荷がある。ダブルプリムの土地許容でなければ建築不可能な建物だろう。だがその教会風カフェはいまだ素プリムの柱だらけだった。入り口にはアーチ状に飾り文字でMare Ingeniiと書かれていた。『マレインジェニィ』月面の海と呼ばれる部分の名前の一つで『賢者の海』を意味する。オーナーの文化的素養を感じさせる名前と建物。完成すれば訪れる客を選びそうな印象さえある。
その教会の外には建設に勤しんでいる一匹の羊アバターの姿があった。大きなぬいぐるみのような姿で二足歩行、メイドの服を着ている可愛らしい羊の姿だ。名前のタグにはnanami ugajinと表示されている。メイド羊のナナミは初心者支援施設スワロウネストから独立した人物であった。読書好きのオーナーのエルザを姉のように慕っていたナナミだが、いつしか自分のブックカフェを持ちたいと思うようになっていた。偶然にもノーチラスシティの知人から格安で土地を購入する機会があり、ようやく建設にこぎつけたのだ。彼女にとってもノーチラスシティの一角から海を臨む立地は理想的な景観だった。こんなカフェが現実にあったら海を眺めてゆっくり読書したいと思えるような風景。夢のような場所。賢者の集うカフェ。それがナナミの夢見るマレインジェニィであった。
「けっこう形になってきたじゃないか」
いつの間にか建設中の教会の傍に一体のアバターが宙に浮いていた。プリムの黒いパーカーを着た黒い毛の狼男。その頭頂部だけチャボのように赤いトサカが生えている。
「ガープ君。また少し手伝ってほしいんだけど。建築って男の子のほうが得意なんでしょ?」
「壊す方が得意なんだけどな」
狼男のガープは教会近くへ着地した。呼ばれた名とは異なりアカウント名はDark6Hero Metallと表記されている。ナナミとガープ。二人が出会ったのはSDF連合とソロモンが企業シムで激しい小競り合いをした後だった。SDF連合が全員ホームへ吹き飛ばされた後にたまたまメイド姿の羊がシムを訪問した。彼女はガープに対して戦場記者のように様々な質問を行った。なぜテロ活動を行うのか。どのようなメンバーがグループに在籍しているのか。資金はどこから得ているのかなど。そしてナナミは言った。自分はテロリストをグループから脱退させる活動を行っているのだと。
「君は、テロリストがしたくてセカンドライフを始めたの?違うでしょ。せっかくの仮想世界なんだから別の方向に進んだほうが良いよ。この世界でなりたかったものを思い出してさ」
「また説教か。俺のは仕事なんだよ。金が動くんだ。お前もテロ脱退運動なんてやってるとソロモンに目をつけられるぞ」
ガープは一大商業テロ組織『ソロモン』の幹部であることを自慢げに語っていた。ナナミもまた組織の内情を知りたかったがために積極的にガープの語る話題に耳を傾けた。ナナミは基本的にポジティブで恐れ知らず。その行動には吉凶問わない結果を招く危うさがあった。ダークは強がりではあるものの、嫌なことや辛いことがあるとペシミスティックになって自暴自棄になりやすい性格だった。彼らは互いの中にどこか放っておけない要素を感じていた。ダークはナナミの明るさと勇気に惹かれていった。それは心の闇を照らす光だったのだ。
商業テロ組織『ソロモン』の拠点はフルリージョンのプライベートアイランドにあった。つまりは一つのシムを丸ごとテロ組織が保有していたのだ。兵器テストで使用される荒涼とした礫砂漠の先にはリーダーのドン・アスタロスが所有する黒い居城がそびえ立っていた。
ある日のこと、玉座の間から見下ろす階段下の広間にガープが一人立っていた。普段ならば、招集された幹部たちが階段上から延びる深紅の敷物の左右にずらりと並んでいる風景である。だが呼ばれたのはガープ一人だけだった。魔王の姿を模して玉座に鎮座するドン・アスタロスがガープに声をかけた。
「我々の組織の情報がSDF連合に流れている。出どころはノーチラスシティのカフェだ。建設中らしいがな」
ガープはぎくりとした。そんなカフェはナナミの建てているマレインジェニィ以外には想像できない。ナナミにはSDF連合の知り合いも多い。自分から聞いた情報をうっかり話してしまったのかも知れない。
「そのカフェなら知っていますが、あそこの子羊一匹、大した脅威ではありませんよ」
ガープは丁寧な口調で大したことのない話として話題を流そうとした。だが、話題を変えられるはずもない。その件でガープ一人だけが呼ばれているのだ。
「脅威なのだよ。ベリアルの報告では反テロリスト活動の教会に関与している幹部がいるようだ。目の前に裏切者はいないはずだな?我がソロモンの重鎮であるガープよ」
幹部の一人であるベリアルはドン・アスタロスに忠実な名うてのテロリストである。ソロモンの幹部同士は競争相手でもある為、あまりつるむことも無いが、ガープは普段からベリアルに対して虫の好かない印象を持っていた。そう思う以上、恐らく相手も同じだったのかもしれない。
「まて、俺は裏切っちゃいねぇよ。たまたま立ち寄っただけで」
ガープは素で慌てた。ナナミと仲良くなってカフェの建設の手伝いはしているが組織を裏切ったつもりはなかった。
「そうか。ならぶっ壊してこい」
突然、ドン・アスタロスの威厳のある発言が下賤な無頼者のように変わった。魔王もまた中身の人間の素を現したのだ。
「……壊す?」
「これまでお前を厚く信頼してきた。だからこそ裏切りは一層許せねぇ。だからこそお前が裏切り者じゃないと証明してもらいたいんだよ。仮想世界のテロ組織に必要なのはどんな振る舞いも仮想世界だからと割り切れる者。人の情を捨てたような、人にできないことをやってのける人材だけだ。俺たちのテロ行為には主張や理念なんて御大層なものはねぇ。迷惑行為そのものが金に変わるからやってんだよ。お前が今まで血も涙もなくやってきたことを考えりゃ朝飯前だろ、ガープ!」
ガープは答えられなかった。確かにそれまでの自分はテロ行為を楽しんできたのだ。ドン・アスタロスからの命令をこなすたびに少なからずの賃金も与えられた。武器や兵器に関してはいくらでも必要経費が貰えたのだ。その為に多くのシムで人々を泣かせてきたことは間違いない。だが、ナナミのマレインジェニィは別だ。出会ってからずっと二人でカフェを建設してきた。もう少しで完成するはずなのだ。ガープは自分のような存在でも屈託なく話してくれるナナミと出会ったことで、彼女の人柄を想像し、画面の向こうにも人の存在があると認め始めてきていた。
「ガープ。ソロモンの活動でどれだけの資金が動いているか忘れたか?平和活動なんていい迷惑なんだよ。ただでさえ企業撤退が増えて依頼が減ってきている大変な時によ。セカンドライフに争いが無けりゃ商売もおしまいだろうが。お前が購入したワーロック製をはじめとする兵器は高価なものだよな。優秀な幹部には相当な額をつぎ込んでるんだぜ。それだけに自分が貰ってきた合計金額を想像するの怖くないか?ガープ。そのカフェはSDF連合の密会場所の一つになるはずだ。破壊できないなら今までの武器代を返還してもらうぜ」
ガープは一人、ノーチラスシティの北の灯台を望む完成間近のマレインジェニィ教会上空にいた。環境は夜中。暗闇の中にも美しい薔薇窓のステンドガラスが光っていた。ナナミが精魂込めて作ったものだ。ガープは片手を伸ばした。マレインジェニィ教会全体を編集画面で一掴みにするとすべてのリンクを外す。教会がぐらぐらと揺れて一部が傾いた。現実のヴォールト工法などを取り入れている為に倒壊はしなかった。
ガープは生き物の有機体と無機物のチューブで造られたような不気味なキャノン砲を出現させるとわきに抱えた。チェーンを巻くような音とともにゆっくりと瞼を開くが如く砲口が上下に割れる。そこにはまさしく巨大な赤い瞳があった。
「俺は最低だ」
赤い球電の弾が砲口から勢いよく飛び出した。反動でガープのアバターが隣のシムまで跳ね飛んだ。その弾丸は仮想世界の核爆弾のようによくある拡散プッシュ型だった。アバターだけでなく物理オブジェクトに対してもその威力を如何なく発揮する。それは『バロールガン』と呼ばれる破壊力の強い武器だった。
ガープは二人で建ててきた教会風ブックカフェがノーチラスの海へバラバラにばら撒かれる光景を目にした。ナナミの作った薔薇窓がガラス細工らしい細やかな煌めきの雨と化した。その時、恐ろしいほどの後悔がガープの胸中を襲った。自分の行為がもたらす結末に初めて恐怖を覚えたのだ。強者などではなかったのだ。残ったのは臆病者の罪。ガープはカフェを破壊し、同時にもっとずっと貴重で目では見えない大切なものを壊したのだ。
ガープは数日間ログインせず、様々な恐れから己のアカウントを消した。それからすぐに商業テロ組織『ソロモン』は経営難に陥った。ドン・アスタロスはプールしていた資金を握って仮想世界から逃亡した。数か月後、ガープはDark7Heroとしてセカンドライフへ再び足を踏み入れた。遠くから覗いてみたノーチラスシティの岬にマレインジェニィの痕跡は欠片もなかった。土地はレンタルグループの所有になっており、その後も何度か転売されるうちに景観の良さから価格はどんどん釣り上がって行った。ガープをやめても元テロリストのダークは罪悪感から逃れることが出来なかった。土地を買い戻してマレインジェニィを再建したらナナミは許してくれるだろうか。あの時に戻れるだろうか。ダークはそんな卑小な望みを持ちながらノーチラス大陸に近づくこともせずに日々を過ごした。ナナミに遭遇するのが怖かったのだ。やり直したくてもやり直せない。一歩踏み出すにはすでに手遅れに違いない。ダークはネガティブの海へ沈んでいった。マレインジェニィの建設を手伝う資格など初めから無かったのだ。なぜなら自分は賢者ではなく、とてつもない愚者なのだから。気づけばノーチラスシティの思い出の場所の土地価格は100万L$に達していた。手持ちの資金ではとても手の届く価格ではない。ダークは何もかも諦めはじめた。サンドボックスに行っては会ったばかりの言葉の通じない外人と迷惑行為の応酬。腐れのない相手と殴り合って飛ばしあって遊ぶだけの砂場で嫌われ者のファーリー狼。そんな日々を過ごしていた時、一通のノートがダークの元へ届いた。送り主は知らない名前のアカウントだった。
「 突然のご連絡、失礼いたします。
私はネクストライフ・プロデューサーの Box Botha と申します。
当社は仮想世界内での特務を行っており、現在テロ活動経験をお持ちの方を求めております。
当チームの主力メンバーとして、テロ活動の経験をいかんなく発揮いただきたいと考えております。報酬は10万L$とさせていただきます。特務完了時にはさらに40万L$のボーナスをお支払いいたします。
ご興味を持っていただけましたら、ぜひ面接にてお話しさせていただきたいと思っております。
集合場所は泥氏八幡宮先のキャンプ広場とさせていただきます。
参加者が現地に揃い次第、説明後にミッション開始となります。
Box Botha 」
ダークはノートを何度も何度も読み返した。特に報酬の部分には摩擦で表記が焦げそうなほどに視線を走らせた。これは与えられた最後のチャンスだ。ダークは急ぎ、気づけばドロシー邸のキャンプ場広場に到着していた。