ミューの世界
四角い建物、四角い車、四角い樹、四角い人々、四角い雲、そして空を飛ぶ四角い…何か。何もかも、全てが四角い。ここはプリムピア。920番目の都市。
四角い構造物の建物が立ち並ぶ歩道を、色分けされた箱をきれいに縦積みしたような物体が、いくつもいくつもゆっくりと静かに往来している。それは、じっと見ていないと動いているのかわからないほど遅い。仮想生命体。都市の住民たちである。その姿はまるで床下から磁石で動かしている積み木だ。生命体とは言っても、内部に複雑なスクリプトが組み込まれた自我のあるボットに過ぎない。
正方形の巨大な都市は高い壁で覆われているが、不思議なことにどの方角の壁も日光を遮る影を投げかけてはいない。まるで影を書き忘れた抽象画のような世界だった。空には太陽も月も星もない。ただ暗黒だけが無限の彼方まで広がっていた。夜でもなく昼でもない、全体的には明るく暗がりのない闇の世界。そこはコンピューター内のデータ空間、仮想現実なのだ。この世界にはかつて名前があったが、今は失われている。世界をディスプレイ画面で覗く者、『人間』は遥か昔に滅亡していた。仮想世界の外の次元、物質世界とそこに生きた人間の存在、それを知るキューボイドは一基とていない。
都市内を道行く色取り取りの直方体の中で、薄青緑と灰色と白の三色が基調の直方体が一基、皆と同じ速度で移動していた。ミューという名前の個体だ。それはこの世界に製造されてからまだ半年の仮想生命体だった。
彼ら仮想生命体はキューボイドと呼ばれており、それはそのまま『直方体』を意味するとともに、『四角いロボット』としての意味も併せ持っている。キューボイドたちはだいたい上から5つか6つに分割カラーリングされていて、主に上からそれぞれの部分が髪、頭、服、脚、靴などと呼ばれている。
それらの単語の意味をミューは知らない。『髪』とは何だろう。『服』とは何だろうか。きっとここで歩いている人々の誰もが意味を知らないのだ。ただそれぞれの段の色が違うだけしか。
ワンワン!
道の反対側から一個の茶色い六面体が、地面の上を滑るように移動しながら音を鳴らして行った。それはイヌと呼ばれている。キューボイドほどには思考システムにリソースがないらしい。他にもニャーと音を出すネコという立方体もよく見る。壁の上に置いてあることが多い。いったいあれらは体制からどのような役割を与えられて製造されているのだろう。
ミューは周囲よりひときわ巨大な立方体の建造物の正面玄関に到着した。キューボイド管理局と呼ばれる建物だ。到着までの移動時間はわからないが、遅れたことは一度もない。ここでの時間に深い意味はなく行動の目安でしかない。もっともそれが何時であろうと、常に空は真っ黒で、そのくせ都市景観はとても明るく24時間変化はしない。この世界はすべてそのように光源設定されているからだ。
管理局の内部から、二基の立方体が空中に浮いた状態でスーッと入り口まで出張ってきた。
「キューボイド。個体名称と識別番号を名乗れ」
一基が回転しながら命令した。この空中を浮く六面体は『ゴースト』と呼ばれ、都市全体を取り締まっている。その数は一都市に数千数万とも言われ、ゴーストの力に逆らえるキューボイドはいない。そういうシステムで世界が成り立っている。逆らうものなら六面体のどこからでも強力無比な破壊的ビームを放ち、キューボイドを木っ端みじんにできるのだ。
「ミュー170NR」
ミューは己の識別番号を名乗った。数字とアルファベットを組み合わせた数だけの個体がこれまでも数多く製造され、今も他のプリムピアのどこかに存在するのだろう。
「……照会完了。シグマ博士の教室で体制教育を受けろ」
ミューがゴーストたちの間を通り過ぎると、背後でもう一基が突然ニュースを読み上げた。
「『プリムピア075外部未整理地域Phobosシムで瓦礫の崩落。労働キューボイド34基が落下などの衝撃で分解。管理ゴースト3基が倒壊物の下敷きになり行動不能。』だって~」
ゴーストがニュースを突然読み上げるのはいつものことだ。これは全てのゴーストに共通する仕様であり、それについて不思議がる者は誰もいない。ゴーストは対話の途中だろうといきなりニュースを読み上げる。これはイヌがワンワンと音を立てるのと同じか、空に四角い雲があるのと同じくらい、誰も疑問を持たない現象だ。ニュースで読み上げられた瓦礫事故。これもいつもの事である。多い時は数百の犠牲が出ている作業だ。プリムピア市民のキューボイドは外に出ることを禁じられているために確認してきたという実例は聞かないが、各都市の外部はあらゆる形状の瓦礫で満たされているという話だ。毎日多くの労働キューボイドが都市の外で眠ることも休むこともなく、瓦礫を押したり引いたりして事故を繰り返している。何のためか。その理由をゴーストが読み上げたことは一度もない。ニュースは簡単な上っ面の出来事ばかり読み上げる。
キューボイドには寿命が無い。そのため労働者は壊れるまで働き続ける運命に違いない。今までどれだけの数の労働キューボイドが瓦礫事故で失われたのだろうか。犠牲になった個体の中にはミューと番号違いの同名もいたかもしれない。だが幸運にもミュー170NRが体制から与えられた役割は、労働力ではなく技術能力だった。
ミューは四角いロビーとダクト内のような廊下を通り抜け、シグマ博士の教室に入った。教室と言ってもキューボイドが10基も入ったら狭いくらいの部屋だ。何も置かれていない白壁の空間である。椅子や机などない。キューボイドには足も無ければ腕もない。立ったり座ったりもしない積み木の柱のようなボットなのだ。部屋の奥にシグマ博士がぽつんと置いてあった。
シグマ博士は灰色と白と黒で構成された直方体でミューと同じくキューボイドだが、製造間もない者の自我に都市の支配体制へ従属する教育指導を行っている。いつもはミューの他に2基ほど教育を受ける者がいるのだが、今日は誰もいない。
「ベータ120BPとガンマ207PNは?」
ミューが発言した。ゴーストにしてもキューボイドにしても言葉を発する口はない。相手にはデータ表示として認識されている。教室の生徒と言ってもキューボイド同士は友達という認識そのものを持っていない。ベータとガンマが普段何を考えているのかも知らない。ベータ120BPについてはキューボイドの中でもかなり優秀な個体で、シグマ博士と量子論で語り合う仲だと博士自身から聞いている。二基がこの場におらず、ミュー一基だけで教育を受けるのは今までで初めてだった。
「二基についてはわからない。体制から別の役割を与えられたのかも知れない。エラーでも起きない限りはキューボイドに遅刻はあり得ない」
博士が淡々と答えた。シグマ博士の個体識別番号はシグマ008AZだと聞いている。博士がいつ頃製造されたのかは知らないが、番号の早さからかなり遠い昔だと推測できる。半年前に製造されたミューとは、蓄積されたデータの量が比較にならないほど多いだろう。与えられた技能もスクリプトやプリム製造など一通り備えているようだ。もしやゴーストのようにビームだって放てるかもしれない。
ミューが割り振られた役割は技術者だが、与えられた技能はまだとても少ない。技能を増やすには体制から技能データを追加される必要があり、それを得るにはこのプリムピアに対して貢献を重ね、体制からの段階的な信用値を高めなければならない。生まれて間もないミューは体制からすればまだまだ不確定要素なのだ。
そしてシグマ博士はプリムピアで時たま生まれる『エラー』についての研究者でもあり、体制の協力体である名誉ゴースト市民だ。管理ボットであるゴーストに近い特権を持っている特別なキューボイドである。
エラーとは何か。それは思考回路に反体制思想が生まれてしまったキューボイドの事だ。エラーによる反乱は数年に一度発生する。前回、シグマ博士から教えられたのは『イオタ077WSの乱』というものだ。ミューが製造される何年か前、イオタ077WSを中心とするキューボイド100基が一斉蜂起し、このプリムピア920の中枢機関に侵攻しようと試みたのだ。しかし、どこからともなく湧き出した無数のゴーストによって10分もかからず鎮圧された。エラー達は全基、ゴーストが放つビームで分解消滅したそうだ。体制がキューボイドたちにある程度自由な思考を許しているのも、エラーがどんなに多く発生しようが、強力無比なビームを備えたゴーストをひとたび招集すればいとも簡単に全滅できるからであった。
ミューは無残にバラバラに散らばったキューボイドの上を、ニュースを読み上げながら飛行するゴーストたちの光景を想像した。なぜ某イオタはそのような無謀な行為に及んだのだろう。キューボイドがゴーストに勝てないのは、1+1より簡単な答えだ。キューボイドは武器を持っていないばかりか、世界そのもののリソースを抑えるために動作も緩慢に抑えられていると聞く。戦うにしてもゴーストのビームなど一閃だってかわせないばかりか、物理的にはゆっくり体当たりして地面に転がるしか能がないではないか。動く的が何をしようと勝ち目はゼロだ。
ミューが彼らが無駄な蜂起に至った理由をシグマ博士に問うと「エラーだからだ」と身もふたもない答えが返ってきた。もっとも、シグマ博士が得心を行く答えをくれたことなんか一度もない。体制に逆らうとどうなるかを教育の合間に教えてくれるだけだ。
この日は『不審なキューボイドの通報手順』についての講義が行われた。
「体制教育に終わりはない。明日までに『エラーキューボイドの識別方法』に関するレポートをディスク内にまとめておけ」
シグマ博士の立方体の真ん中あたりの白い部分から、四角い板状の物がゆっくりと突出された。ノートカードを封入するディスクだ。キューボイドは『服』と呼ばれる部分にいくつかの物をしまっておく機能がある。シグマ博士の服から出たディスクは宙をそのまま平行移動して、ミューの服に取り込まれると内部に保存された。家に帰ってからの宿題のテキストデータを渡されてしまった。
帰路。変わらない景色と、自分とあまり区別のつかないキューボイドたちを眺めながら思考する。道行く彼らは製造されて何十年何百年経っているのだろう。
ミューが技術者として、体制側から最初に与えられた技能。それはキューボイドたちを効率的に破壊するための新しい武器スクリプト製造だった。破壊するものとされるもの、世界の仕組みはこれからも変わらないらしい。体制教育が終わったら武器作成を命じられるだろう。すでにその設計は進めてしまっていた。
(だが、どうも拒否反応が出てしょうがない)
(ボクがいつか作るであろう武器が、ボクの仲間を破壊する)
(逆にゴーストを破壊する武器を作って、キューボイドたちに与えられたらいいのだが)
ミューは急いでその考えを振り払った。こんな危険思想が体制に悟られたら大変だ。シグマ博士の教育を受けるたびに、自分の思考回路はどうしてか、逆にゴーストの支配に甘んじているこの世界が間違っているような答えばかり導き出してしまうのだ。だから『エラーキューボイド識別方法』のレポート提出なんて、正直こんな簡単な宿題はない。今こうして答えが出ているのだから。
(おそらく、ボクがエラーなんだ)
体制に割りあてられた集合住宅に戻れば、ミューの自室は先程いたシグマ博士の教室の数倍は広い。技術キューボイドは各人が簡単な実験行えるように、ある程度広い部屋を与えられている。もちろん床と壁と天井以外には何も置いていない空間があるだけだが。
あとは「エラーはボクでした」と最後の宿題をテキストに書いてシグマ博士に提出すれば、通報によってゴーストがすっ飛んできてビームで分解されて即終了だ。仕方がない。疑いようのない事実なのだから。体制としては平和維持ためにエラーの処分が必要だろう。ボクなど大した脅威でもないが。でもこれで、同類のキューボイドたちを破壊する武器なんて製造させられずに済んだじゃないか。自分が消滅することで数多くのキューボイドが救われる。
(消されるのがボク一基で済むなら悪い宿題じゃないな)
自己解答を得たのでミューは納得できた。さっそく立方体の『服』部からディスクを排出する。内部を覗いてみると別のタイトル名が書きこまれた一件のノートカードが封入されていた。ディスク内部の消去忘れだろうか。
ノートの名称は、Elsa noteと書かれていた。