籠る男
バタン、と乱暴な音がして、隣人が外に出ていたのだと気付く。その音は勿論うっとおしかったけれど、まだ生きていたのだな、などと不謹慎にも安堵した。なにせこの隣人はここ最近、いや、田町が隣になってからずっと、部屋を出る素振りがなかったからだ。外に出て光を浴びなければビタミンDの生成が出来ずに吐き気や眩暈に襲われてしまうのに、なんて、最初は勝手に心配していたものだったが、最近は生活音もほとんどしないために、事切れているのではないかと別の心配をしていたくらいだった。顔は知らない。表札には神田と読める殴り書きがあるだけで、本人は中から出てこないのだから、この隣人を隣人とする以外に認識する方法がなかった。けれどそれはさして田町にとって問題ではなかったし、なんなら無駄に関わらなくていいんだと思えばありがたくさえあった。
田町はとにかく煩わしいことが嫌いで、朝の通勤ラッシュや下校時間の学生の群れ、夕方のタイムセールや夜中の暴走族、賑やかに過ぎる幼稚園児の散歩の列、金曜夜のネオン街の五月蝿さなんかは本当に嫌いだった。そんな日常に嫌気がさして今の職業につき、この部屋に住んだくらいだった。
しかし職業、といって良いほど明確な仕事はない。けれど株取引というのは実に骨の折れる作業で、日中汗水垂らして体力を消耗するわけでもなく、頭を使って書類作成や会議に出るわけでもなく、その道を極め認められた者にしか出来ない技術を披露するわけでもないが、集中力はさることながら忍耐力、先見の明、研ぎ澄まされた嗅覚、様々な知識とそれらの応用力が必要になる。
日中そんな風に作業をしているせいか、田町は些細なことにも敏感になって、この高級マンションの上層部にあたるフロアの角部屋で、静かに暮らしていた。この部屋にいれば都会にいながらも喧騒とはほど遠い場所で暮らしができる。けれど先ほども言ったように、光を浴びなければビタミンDが生成されずに吐き気や眩暈に襲われてしまうのだ。
だから田町は時折外に出て、日光浴をする。おそらく隣人よりは頻繁に外に出ているけれど、手っ取り早くビタミンDを生成するにはこれが一番良かった。けれど今窓を開け外を見ても、もう太陽はどこかへいってしまって、月が朧気に浮かんでいた。遅すぎたか、と田町が外に背を向けると、この高さまで飛んでくるけたたましいサイレンが耳に襲いかかった。なにか事件があったのだろうか。
「…うっとおしい」
苛立ちを抑えながらぴしゃりと窓を閉める、去り際に見たテラテラと揺らめくパトカーの赤いランプが、妙に気持ち悪かった。