散歩する男
やたらと喧しく騒ぎ立てるカラスの声が、離れていく橙の空に反響する。特に具合が悪いわけでもないのに、その喧騒が妙に頭蓋に残った。それが死ぬほど煩わしくて、意味もないのに手で追い払う。音がまとわりつくような気色の悪い感覚を、歩きながらパッパッと振り払った。用も無いのに出歩くんじゃなかった。神田が自分に苛立つと車道を挟んだ向かいに黄昏に浮かぶ背中が見えた。背の高い男だった。項垂れ、落ち込んでいるようだったが、神田はそれをなんとなく観察してみることにした。なにか特別惹かれるものがあったわけではないが、なんとなく興味が湧いたのだ。
ばいばぁい、という幼い声が彼に向けられた。側を通り過ぎた子供が、母親のこぐ自転車の後部座席から手を振っている。ばいばい、と男は項垂れながらも僅かに手を振り微笑んで、オウムのように返した。
それがきっかけかはわからなかったけれど、それまで今にもこの橋の上から飛び降りて死んでしまいそうな憂鬱さであったのに、走り去る車の音の隙間から聴こえてきた声に、神田は興醒めしてしまった。
「…幸せになりたい」
なんて、なんて陳腐な台詞だろう。
そんなもの、幸せだったことがあるやつだけが言える台詞じゃないか。幸せを知っているからこそ、今の自分が幸せじゃないってわかるんだろ。
頭から足の先まで全ての空気を吐き出すように深いため息をつく。
諦めれば良いのに。それがあんたにとっての幸せなんだってことに、どうして気が付かないんだ。神田は妙に腹が立って、乱暴に地面を蹴った。帰って早く寝よう、こんな日はそれに限る。そうして明日を迎えれば、またリセットされるんだから。
やっぱり外になんか出るんじゃなかった。明日も俺は、同じことの繰り返し。寝て起きれば朝が来る。昨日と同じ明日が来る。同じことの繰り返しだから、明日が来ても、それはいつもと同じ"今日"なんだから。
神田は足早に橋を後にする。その姿を追いかけるように、空が黒く染まっていった。