呟く男
「幸せになれない」
大塚が呟くと嘲笑うようにカラスが鳴いた。耳障りなあの声でギャアギャアと喚いている。ふと顔を上げれば既に太陽が逃げ帰っていくところで、空の半分は深い藍色をしていた。
はしゃいで笑い合う女子高生達、手を繋いで帰路につく老夫婦、山盛りの袋を前カゴに詰めた自転車が側を通り過ぎていく。「ばいばぁい」後ろに座った女の子が人懐っこく手を振った。
「ばいばい」
そう微笑んで手を振りかえす。あぁ、こんな風に幸せはどんどん遠くなっていくのだな、と大塚が思う頃には、空は濃紺に身を染めていた。
いいなぁ、と喉元まで出る。輪状甲状筋の動きを疎かにさえしなければ、声になって出ていただろう。羨ましかった。あのくらい幼ければ夢は無限大だ。大塚が昔、そうであったように。その無限大の夢の中からひとつだけ選んだものに、たくさん延びてきた中からひとつだけ選んだはずの手に、見捨てられる、見放される。彼女はまだその絶望を知らない。口が震える、横隔膜が痙攣を起こして、小さくしゃっくりが出る。嗚咽を押し殺そうとして、口元を手で覆った。
「…幸せになりたい」
そう呟いたのは、随分久しぶりだった。