外を見る男
この窓から見える橋は、どうやら人の心を乱すらしい。それは上野がいつ見ても、その橋に亡霊のように留まってただぼうっとしている人々がいるからだ。朝昼晩関係無く、いつ見ても誰かしらいて、そしていつも一人だった。誰かがその橋の上に留まると、その人の為だけの橋になる。上野はその姿形を覚えておく。そうして気が付くと、また違う人に変わっている。
今日は昼過ぎからずっと、同じ人が橋の外の世界を見てる。
「先生、ちゃんと寝てますか?」
後ろからそう声をかけられて、ここが302号室であったことを思い出す。
「勿論。私が皆さんの手本にならなくてはね」
「私は、元気になれるでしょうか」
笑顔だった彼女の顔の皺が悲しそうに歪んでいた。毎日彼女のご主人が顔を見せる前に必ずこうやって上野に確認してくる。
「勿論。その為の治療です」
手の甲に繋がれた点滴を見た。ポツン、ポツン。ゆっくりと雫が落ちている。
「…そう、ですよね」
嫌だわ私ったら、と照れ臭そうにはにかむ。
「さぁ、もうすぐ旦那さんもいらっしゃるんですから」
大丈夫ですよ、と笑って見せる。つられるように彼女も微笑んだので、上野は安堵してその場を去った。そうして当たり前のように、当たり前の顔をして、次の白い扉を開ける。
「あぁ、先生。見てください」
部屋に入るなりそう声をかけられた。
「僕のサリーが死んでしまったんです」
手に抱えたサボテンのトゲが腕や掌に刺さって、真白なベッドや病衣の所々に血がついている。
「可哀想に…穏やかに寝かせてあげましょう」
ね?と上野はその両腕の中からまるで赤ん坊を抱えるかのように丁寧にサボテンを受け取った。
「あぁ、サリー、サリー」
項垂れて泣きじゃくる彼のベッドのサイドデスクには、愛らしい毛の長い猫を抱えて微笑む彼がフレームに納まっている。今よりも幾らか若い。毛並みの綺麗な猫の首には、金色の細やかな装飾を施されたプレートに、Sallyと記してあった。
「サリー、サリー」
譫言を背に上野は窓の外を見る。昼過ぎからいる彼はまだ動かない。まるであの橋に囚われているみたいだな、と思う。その姿を自分と重ねて笑ってしまいそうになったので、彼に向き直って微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
そうして部屋を出て、自分の部屋に帰る。真っ白に揃えられたこの小さな部屋からもまた、あの橋が見える。そしてその入り口には、"305号室 上野様"と記されている。
隔離されたこの白い巨塔で、上野は真実を隠している。