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短編集

渦潮

作者: 瀬川雅峰

 

 1


 ――ごおおう、と音が聞こえた。

 後から思えば、音など聞こえるはずもない。

 私は、配られたばかりの教科書を開いた十五歳の高校生だった。勉強も決して得意でなく、テストの度に気の重い日々を過ごしていた私にとって、美術の時間は特別だった。


 ルール通りに、しっかり、が苦手な子どもだった。小学生で行った遠足の途中で、タンポポの綿毛の仕組みが気になって、しゃがんでじっと観察した。気がつくと列からはぐれていた。「ちゃんと周りを見なさい」……先生をずいぶんと疲れさせたと思う。


 公式通りに解きなさい、と言われた数学の方程式は全然頭に入ってこなかった。英文法を補習で習っても覚えられなかった。きっと、根本的に興味がそちらに向いていなかったのだろう。


 でも、白くて広いところに、自分で何かを描く、となると、手が生き生きと動いた。真っ白な紙やキャンバスはいつも私を歓迎していた。描く前の白は、ほんのり輝いて、私の鉛筆や筆を待っているようだった。


 描ける場所と、鉛筆か絵の具があれば十分……そんな感覚のちょっとズレた女の子が、そのまま美術の道に進もう、と早々に決めたのは、とにかく好きだから半分、他では上手くやれそうにないから半分、の必然だった。



 高校に入ったばかりの春。初めての美術の授業の日、教科書が配られた。

 真新しい教科書の、コーティングのにおい。ほんの少し、鼻につんとするそれを嗅ぎながら、教科書をめくっていった。

 数学や物理、英語の教科書を開いても「これ全部勉強させられるのか……」と暗い気持ちになるだけだった。でも、名画や名作の写真が満載の美術の教科書は別だった。

 まだ家庭にインターネットもなかった頃だ。学校で自分用に配られた美術の教科書は、さまざまな時代、さまざまな様式の美が並んで、キラキラした自分だけの美術館だった。

 画材も、描き方も、知識なんて何もなかった。ただ作品を眺めて、理屈抜きでわくわくしていただけ。西洋画の鮮やかさと黒の深さが好きだった。モネの色彩と光、ピカソの大胆な筆、ゴッホの厚く盛り上がるほどの濃厚な色と色のハーモニー……あの頃の私のお気に入りは、大胆で鮮やかな西洋美術に偏っていた、と思う。


 でもその日は違った。教科書の最終ページにあった一枚の絵。



 渦潮(うずしお)


 ――日本画の傑作として、教科書に大きく載せられていた。


 見た瞬間、音が消えた。いや、正確にいえば、渦潮のたてる音が私を取り込み、他の音を遮断してしまった。

 蒼にも、碧にも見える海面の一点に巻き込まれる渦。まわりに立ちこめる水の(もや)、平面にのっぺり描かれた――印刷で、一冊400円の教科書の一ページとして、工場で刷られた絵。

 そこから、私は確かに水音を聞き、渦が起こす空気の流れを感じたのだ。

 ――絵って、こんなことができるんだ。




 2


 目覚まし時計のアラームを手探りで止めた。重さの残る身体をくたりと持ち上げて布団に座る。時計の時刻表示に目をやった。


  6:00AM


 ふう、と一息ついて立ち上がる。すっかり張りが抜けたパジャマと、カップ付きのアンダーシャツを脱ぎ捨てる。脇に重ねた樹脂製ケースの引き出しから、適当にブラを取り出した。ショーツと合わせる、なんて面倒なことは、もうしなくなった。

 下着姿で洗面所に入って顔を洗って、化粧水で顔をたたく。部屋へ戻っていつもと同じ動きでブラウスを羽織り、スカートを穿く。冬眠明けの熊みたいに、薄暗い家の中を動き回る。毎朝同じ動きを何千回も繰り返す熊……朝食代わりに野菜ジュースを一杯流し込んで、さっさと家を出た。


 電車は最寄り駅から午前6時23分に発車する。このまま学校に向かうと7時半には着く。定時の一時間前には出勤する癖がついていた。

 出勤したら、早速今日の仕事の準備……ホームルームに授業、会議に部活の準備……に取りかかる。合間に担任同士、打ち合わせをしたり、学級日誌にチェックを入れたりしながら、始業のベルまでの時間が慌ただしく過ぎる。一日は目まぐるしく過ぎ、放課後は出来るだけ部活――美術部に顔を出す。


 生徒を帰した後で、自分の教材準備や生徒たちの課題の採点をする。部活の生徒を午後6時に下校させて、その後に自分の仕事をして……なぜ定時が午後5時なのか。苦笑するしかない……残業代も出ないのに。

 でも、それでも生徒達には出来るだけのことをしてやりたい、と思う自分がいる。二十代の頃の自分、あの頃と比べたら、いくぶん熱量は小さくなったかもしれない。でも、まだ私の中に熱はある。



「今日も遅くまでお疲れ様です」

 職員室に来ていた校長が後ろを通りしなに声をかけてきた。いつの間にか夜8時を回っている。

「校長先生も……おつかれさまです」

 他学年の生徒が校外で問題を起こした、と生徒指導部の先生方を交えて話し合いをしていた。明日の朝一でその生徒と、保護者を交えた面談をセッティングした、と。

「次から次へと……ほんと、いろいろ起こしてくれるよねぇ。先生もあんまり疲れると身体に出るから、ほどほどにね」

 そう言って苦笑しながら少し疲れの見える歩き方で、職員室を出て行った。幸か不幸か、夜の9時や10時まで仕事をして帰っても、誰かが心配するわけでもない。


 両親は二人とも鬼籍に入った。私自身が一人っ子で、両親にとってはずいぶん遅い子だった。私が教員になるより早く、父は仕事を退いた。

 教師を始めて四年後、母が病であっけなく逝った。残された父も、一緒に住もう、と申し出た私の誘いを断り続けたまま、早々に母を追うように逝ってしまった。それがきっと父が望んだ形だったのだ。


 ――課題を採点して、手帳にずらりとならんだ評価の数字をパソコンでカタカタと打ち込んでいると、片手間にいろんなことを考えてしまう。最近、昔のことを思い出すことが増えた。



 夜9時前になっていた。

 職員室に残っている先生もあと二人。そろそろ……とPCの電源を落とす。


 輸入食品の充実したスーパーに寄り道して赤ワインのハーフボトルとおつまみを買った。

 ……できるだけナンセンスな、肩の凝らないドラマを流しながら、ワインを一口飲む。買ってきた鹿肉のパテは半分に切って皿に載せた。濃厚な赤ワインと、コクのある肉の香りが溶け合う。

 この後は、半身浴でぬるま湯にゆっくり浸かる。明日も早い。ほどほどに温まって寝よう。


 決して、何かに困っているわけではない。

 でも、満足しているかと問われると……頷く自信がない。




 3


「三十六歳は、まだ手前な気がするな。なんかね、三十七歳ぐらいに、大きな『断層』があるっていうか」

「うわぁ……わかる。わかりたくないけど、めっちゃわかる。そうなんだよね。その手前と向こうで扱いが違うっていうか」

 あるある、と笑いながら『断層論』にうなずいてくれて、こうしてディナーに付き合ってくれる人はすっかり減った。彼女は私より一つ年上、一人暮らしを続ける英語の先生だ。

「断層の手前までは若い先生たちともご飯を食べに行けたんだけどなぁ」

「あきらめろ、というご神託だと思えば楽だよ。こっちにおいで」

 彼女はワイン片手にふふふふふ、と怪しく笑う。


 『断層』の手前までは、職場の男性の先生もどこかで、守備範囲に入れてくれていたように思う。

 有り体に言ってしまえば、女扱いされていた。


 でも、この五年間――断層からの五年間は、ずっと違和感という座布団に載せられている。半年ほど前、若手の先生方の飲み会に誘われて参加したとき、一回り以上下の先生にずいぶん気を遣われた。グラスが空けばすぐ注いでくれて、料理の好みにも気を遣ってくれて。

 いそいそと立ち回る若い男の先生に、申し訳ない気持ちになった。

 私以外のみんなは気さくに話しているのに、私は御座所の上。お客様――悪気がないのは、十二分にわかっている。

 だから、逆に困る。


 年を取り過ぎたら楽園にいられなくなるおとぎ話……あれだ。


 私は、自身を周囲から放逐して、一人になった。

 そして、今さら私自身の「あの頃」を思い出す。



 彼との出会い、彼との生活、彼との別れ。

 知り合ったのは、もう二十年も前になる。

 美術大学の学生同士。私は絵画、彼は写真。

 才能があるほど、普通は失われていく、というのは芸術家に囲まれていると納得させられてしまうものだ。両親のことも心配で、卒業後はとりあえず「食いっぱぐれない」仕事に就こうとした私と、どこまでも自由で、普通になれない彼……今から思えば、八年も続いたことが不思議だったのかもしれない。


「渦潮って知ってる?」

「鳴門海峡の?」

「うん。あれを描いた絵に、高校時代すっごく感動してね……美術に進むきっかけ、というか引き金というか……でも、本物見たことないの。おかしいでしょ」

「いいね。俺も一度撮ってみたいな」

「一度、両親と四国に旅行したんだけどね。大学が決まったとき、お祝いにって。見たい景色があるって連れてってもらって。でも、天気が……結局ダメだった」

 両親と三人で行った最後の旅行だった。


 彼の腕に頭を預けて、うとうとしかけていたら

「……一緒に行こうよ。そのうちにさ」

 彼の声が聞こえた。



 そのうち、は結局訪れなかった。 

 教師になって、二年目、三年目……と過ぎるほどに仕事も増え、始めての卒業生を送り出した日、自分がやっと一人前になれた気がした。嬉しかった。芸術家としての自分の才能に絶望したわけではないけど、こういう居場所も、人生もありかな、と思えた。


 彼は二十代も後半になっていたが、安定した仕事も収入もなく、それでもひたすら写真にこだわった。

 いつしか、二人の間で話がかみ合わなくなった。彼に気を遣い、彼の分までお金を払いながら歩く日常に慣れてしまっていた。


 結局、別れは私から切り出した。お互いのために、それが一番良いと思ったから。

 彼はその後十年かけて、写真家として成功を掴んだ。今では一般の人にもそこそこ知られている。昔のことを知る女友達には「ああなるなら、別れなくてもよかったって思わない?」と無神経に聞いてくるのもいる。


「……別れなかったら、ああならなかったと思うよ」

 私はいつもそう答える。



 ◇



「資料棚に来年の教科書サンプル置きました。選定報告を、二週間後までにお願いします」

 教務部の先生に話しかけられている。夏恒例、来年の教科書の選定作業だ。職員室にこもって仕事するのにも飽きたので、サンプルを自宅に持ち帰ることにした。

 今日のワインは、各社の教科書をあらためて眺め直して、比較しながら、なんてのもいい。どうせ不格好なほど大きなカバンを持ち歩いている美術の先生だ。教科書だって、たっぷり入る。


 自宅でテーブルの前に座り、ワインをクイクイと飲みながら教科書を床に並べた。チラシのようにカラフルだ。

 それぞれの教科書に載せられた名作たち。私も素敵な絵が描きたくて美術の道に進んだ。私が自分用の教科書を眺めてワクワクしていたあの日、私の目に映った世界は今より鮮烈だった。


 並べた教科書をパラパラと眺めて、採録作品、ずいぶん教科書によって違うなぁ、なんて言いながら四冊目に入った時、手が止まった。



 ――渦潮。


 あの十五歳の私が音を聞いた、流れる空気を感じた一枚。

 涙が出てきた。

 なんで泣いたのか分からなくて、戸惑う。


 あの時にこの絵を見た私と、今この絵を見てる私――何かが違った。

 理由のわからない涙がボロボロと溢れた。ワインのグラスを置いて、私は十五歳の少女のように泣いた。




 4


 観光船は柔らかな日差しの中をゆっくりと進んでいく。

 デッキで手すりにつかまり、上半身を乗り出した。

 緩やかに、大きく流れを生む瀬戸内の海。

 私のカバンの中には、小さめのスケッチブックと、透明感のある水彩絵の具。そして、使い慣れた筆。本物の渦潮を見たら、画材を持ってこなかったことを後悔してしまうかも知れない、と思って放り込んでいた。


 船は進む。

 乗り合わせた年配の女性の方と話をした。彼女は何度もここに来ているそうで、今日もきっとよく見えますよ、と請け合ってくれた。


 渦のすぐ間近に臨み、船が停まった。

 全てが大きかった。

 教科書で見たあの絵はこの景色の、極々一部を切り取ったものだったと気づいた。

 海の全体がうねりとなって一点に引き込まれているように見える。周囲に舞う小さな水滴が煙り、ごうごうと鳴る水音が響いている。

 海の底に穴があって、栓を抜いたような。海の全部が一点に集まろうとして、海面が凹んだような。



 画材を手にもった私は描くことも忘れ、ただ見入っていた。

 この音と空気にただ浸りたい――十五歳の私ならきっとそう思った。今の私と同じように。



 世界をただ受け止めろ。私のアンテナから埃を払い落とせ。



 ――まだ、私の心には、あの頃と同じ感性が、輝きが残っている。


 私は眼前の景色を、ただ見つめた。               (了)

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i360194
― 新着の感想 ―
[良い点] 最初は『渦潮』と聞いてもピーンと来なかったですが、大人になって、瀬戸内海の本物の渦潮を見た彼女の感性の表現の仕方が丁寧だと思いました。 言葉にするのがちょっと難しいけれど、大人になって感性…
[良い点]  学生時代、美術の授業が一番好きでした。もちろん一番好きな教科書も美術。なんの絵がどこに書いてあるのか、もう覚えているのに何度も何度も眺めておりました。  あの頃の私の世界は今よりも狭く…
[良い点] 一枚の絵に引き込まれる事って、ありますよね。 昔、地下鉄の通路に展示されていた私の慎重と同じ大きさのキャンパスに描かれた絵画に、どうしようもなく惹かれた事があります。 一生懸命バイトして買…
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