1章(推敲してません)
────あ、なんだかあの山の向こうの方からすごく強い光を感じる。
やっぱり。今、太陽が山の頂上から少し顔を出した。
その瞬間、なんだか周りの温度が少し上がった気がした。
みるみるうちに周りが光に照らされていく。朝が来たんだ。しかし反対に、さっきまでそこにはっきりと存在していた夜がどこかへ行ってしまった。
そうか、また夜が明けたんだ。嫌だな。
今まさに登ってきたばかりの太陽に背を向け、家路に着く。
太陽が出た途端に家に帰るなんて…なんだか僕はヴァンパイアみたいだ。トマトジュース好きだし、にんにくは嫌いだし。これで僕の主食が人の血ならよかったのに……。
きっと僕もヴァンパイアなら幸せに過ごせるはずだ。
ご飯に困ることは無いし、死のうと思えばいつでも死ねる。なにより、人とあまり関わる必要が無いというところが最高だ。
確かヴァンパイアに血を吸われると吸われた人もヴァンパイアになってしまうんだっけ。
あぁヴァンパイアよ、もし君が存在しているのならば僕の血を吸ってくれ。そして僕をヴァンパイアにしておくれ。
そんな風にありえない妄想をしているうちに家に着いた。
家のドアを開け、壁にかかっている時計を見ると針は午前6時過ぎを示していた。そういえばさっき時計の鳩が鳴く声がしてたっけ。
あれ?そういえば少し前まで鳩は僕が家に帰って少ししてから鳴いていた気がする。
あぁ、そっか。なるほどね。
鳩のなくタイミングから日の出の時間が少し遅くなっていることに気づき、秋の訪れを感じた。
秋は一年の中で最も好きな季節だ。
『食欲の秋』や、『読書の秋』。他には『スポーツの秋』だなんて世間一般には言われているけれど、僕はそんな理由で秋が好きなわけでは無い。
ただ単に、常に暑くも寒くもなくいいぐらいの温度が保たれているため、過ごしやすいから好きなのだ。
他には長期休暇がない、というのも理由の一つだ。
それは世間一般の学生からしたらマイナスポイントかもしれないが、僕にとっては超絶プラスポイントだ。
そう、僕にとっては。
手を洗った後、部屋の隅っこの方にポツンと置いてある仏壇の前に座り、手を合わせる。もちろん線香に火をつけて。
拝み終わって顔を上にあげると、ちょうど仏壇に立てかけてある遺影と目が合った。
遺影の数は2つ。写っているのは二人の男女の眩しい笑顔。
──僕の父と母の顔だ。
この仏壇には二人の骨がまるまる入っている。いわゆる自宅供養というやつだ。
僕の両親が亡くなったのは、ほんの少し前。まだ亡くなってから1年もたっていないほどだ。
両親はかなりのおしどり夫婦で、休日に二人で出かけるのも日常茶飯事だった。
亡くなった日、両親は車で近くの県に新しく出来た水族館に行く予定だった。母がイルカが大好きだったのだ。
前の日から母はとても楽しみにしており、見ていてとても微笑ましかった。両親が家を出る時、満面の笑みで「楽しんでくるね!」と言っていたのを覚えている。
しかし悲劇は、水族館に着く直前に起こった。父の運転する車が信号を待っているとき、横から大型トラックが突っ込んできたのだった。飲酒運転だった。
我が家の車は可愛い小さな軽だったためひとたまりもなく、僕が現場についた時には車は原型をとどめていなかった。車がとてももろいように思えた。そして反対に、その横に堂々と立っている大型トラックはなにかの兵器のように思えた。
裁判を見に行ったりはしなかったけれど、弁護士によると相手は懲役刑を受けたらしい。当たり前だ。
事件の後、加害者の遺族から「謝りたいから仏壇を拝ませてほしい」という電話が何度かあったが全て無視した。殺人犯の遺族の顔なんて見たくもなかったし両親にも見せたくなかった。
そして現在、僕は事件の後ここに引っ越してきて、わずかな両親の遺産と加害者から振り込まれたお金で生活している。正直そんなお金使いたくもないが、自分が生活するためにはしょうがない。
引越しの際、遺骨をお墓に埋めるかどうか悩んだが、結局自分の手元に持っておくことにした。少しでも大好きだった両親に近くにいて欲しかったから。
少し前までは、仏壇を見るだけで涙が止まらなくなっていたのだが、最近はもうそんなことはなくなった。嫌な慣れ、というやつだろうか。
両親の遺影に小さく「おやすみなさい」と声をかけて立ち上がり、仏壇の前をあとにした。
その後、床の上に脱ぎ捨てられているパジャマを探してそれに着替えた。
最近は普通の服のまま寝ていたからパジャマで寝るのは久しぶりだ。
着替え終わったらすぐにベッドに潜り込み、眠りにつこうとしたのだけれど、目を閉じた途端にガタンゴトン、ガタンゴトンと、家のすぐ近くにある線路を電車が通り過ぎていく音が聞こえた。始発の電車だ。
今となっては聞き慣れたこの音に親近感、愛着、そして安心感を感じる。いつまでも聞いていられそうだ。
電車の通る時間は季節によって早くなったり遅くなったりしないから好きだ。
少しでも時間の流れを感じなくて済むから。
時間の流れは誰にとってもそんなにいいものではない。そう思うのは僕だけだろうか。
聞こえる時間が決まっているこの始発の電車の音は寝る時間のいい目安になる。そしていいBGMにも。まぁ、聞こえる時間はとても短いけれど。
この音のおかげで僕はこの半年位の間、ほぼ毎日同じくらいの時間に寝ることが出来ている。
最初の方は音が気になってなかなか寝付けなかったのが懐かしく思える。
聞こえてくる電車の音の中でも特に、自分との最短地点から段々と遠ざかっていく時の音が好きだ。あの聞こえると思えばはっきりと聞こえるし、聞こえないと思えば何も聞こえないくら位の距離の時の。
まぁ大体本当は聞こえていなくて、頭の中で作られた幻聴が聞こえているだけだけど。
電車の音が聞こえなくなった。やはり少し寂しい。この辺りは県の中でもそんなに都会な方ではないから電車の通るペースがかなり遅いのだ。次通るのはおそらく30分後ぐらいだろう。
一体さっきの電車にはどんな人が乗っていたのだろうか。始発だからあんまり人は乗っていないのかもしれない。
いや、人が少ないということは、もしかしたらそういう状況を好む指名手配犯とか、はたまたアイドルとかが乗ってたりするのかもしれないな………。
なんてことを考えていると、思い出したかのように一気に強烈な眠気が僕を襲ってきた。
どうやら僕の体はもう寝ないとまずいみたいだ。そう覚った僕は、先程電車が走り去った方に体を向けた。
「今の電車に乗ってこれからどこかへ行く人、行ってらっしゃい。頑張ってね。悪いけど僕は今から寝るよ、おやすみなさい」
もはや習慣化したその言葉を呟き、目を閉じる。
1人で暮らしている僕にとって声を出す数少ない時だ。
眠気がピークに達し、ほとんど何も考えることが出来なくなる。しかしそんな中でも僕は一つだけ、あることを願う。
次寝たら最後、二度と目が覚めなければ良いのに──────。
頭の中にその文が浮かぶと同時に意識が飛び、今日も世界からログアウトする。
───ガタンゴトン、ガタンゴトン。
僕はその音で目を覚まし、残念なことにまた世界にログインしてしまった。
そんな最悪な心内環境に対して体の調子、つまり目覚めは最高だった。
電車の音は時間の目安だけではなく、体にとって良い目覚ましにもなる。
うるさいと思うほど大きな音ではないため、ちょうど眠りが浅い時──気持ち良く起きることが出来る時に目を覚まさせてくれるからだ。
そのおかげで僕は、今住んでいる家に越してきてからあまり目覚めが悪かったことが無い。
引っ越してくる前までは、電車が近くを通るなんて…絶対うるさいよな……。なんて思っていた。
確かに最初の方は気になって仕方がなかったが、2、3日経ったら全く気にならなくなり、むしろ間接的に体調管理(生活リズムが整うようになった)をしてくれることに気づいた。本当に住めば都とはこのことだ。
今では心の底から近くに線路が通っていて良かったと思える。
身体を起こしてすぐにスマホの電源をつけ、時間を確認するとぴったり18:00と表示されており、画面を見た瞬間思わずにやけてしまった。
特にその時間に起きたいと思っていたわけではないのだが、スマホの画面に綺麗に「18:00」と表示されているのを見るとなんだか少しいい気持ちになる。
整っているものを見ると、自分自身も整う気がするし。
時間を確認したらすぐ、そのまま立ち上がりキッチンに立ち寄って冷蔵庫の中身を確認した後、風呂場へと向かう。
起きたあとに風呂に入り、ご飯を作るのが最近の習慣になっている。ご飯を作ってくれる人なんて誰もいないのだ。
一時期はご飯を作ってから風呂に入っていたのだが、寝ぼけながら料理をした結果、火傷してしまうという大失態を犯した。
それ以来、風呂に入って完全に目を覚ましてから料理をすることにしている。あの痛みは忘れない、もう味わいたくない。
シャワーを浴びながら、冷蔵庫に入っていたものを思い浮かべて何を作るか考える。
特に食べたいものは無いため、そんなに材料やレシピには拘らずに余っている食材を使いきれるようなものを考えよう。
そうだ、そろそろナスが傷み始めそうだったから今日は麻婆茄子を作ろう。
でも豆板醤はあったっけ……?後で確認しておこう。
風呂から上がり、体を拭き終わったところで着替えを持ってくるのを忘れたことに気づいた。やってしまった、絶対時間を見て浮かれていたせいだ。
今度からは絶対忘れないようにしようと心に決めながら、しょうがなく裸のまま脱衣所を出て着替えを取りに行くことにした。
窓を開けっぱなしにしている部屋に裸で入っても全く寒くなく、むしろ暑いぐらいだった。
あぁ、やっぱりまだ完全に秋になったわけではなく、夏はまだ少し残っているんだな。と、夏の小さな抵抗を感じた。感じることが出来たのは裸のおかげだ。ありがとう、僕の裸。大好きだよ、僕の裸。
自分の裸に感謝しつつ、着替えを取り出すためにクローゼットを開けると僕が本来なら通っているはずの高校の制服の姿が目に入ってしまった。最悪だ。いつもはなるべく見ないようにしているのに。
青いネクタイに、校章が胸元にプリントされているカッターシャツ二枚。そして黒い縦縞の入ったグレーの夏ズボン。僕はこれだけしか持っていない。
なぜ夏服ばかりで冬服がないかと言うと、単純にまだ買ってないからだ。もちろんこれから買うつもりは一切ない。学校関連のものは限界まで少なくしたいからだ。
そういえば、どこにでもありそうなありふれ夏服に反して冬服の方は確か他校に比べて圧倒的にかっこいい、ということで生徒達から大人気だったはずだ。制服のために入学してくる生徒もいるとどこかで聞いた気もする。
今となってはもうどんなデザインだったのか忘れてしまったけれど。
僕はこんなもの今すぐにでも捨てたいのに何故か捨てられないでいる。
「高校」というものにまだ未練があるからだろうか。
そのようなことを一瞬考えてしまったため、先程までいつもと比べれば少し高かった僕のテンションも一気に下がってしまった。嫌な気分だ。
そしてさらに僕のテンションを下げたのは、着替えて台所に向かう途中に聞こえたカタンッという、郵便受けに何かが投函された音だった。
音が聞こえた瞬間、ハッとしてカレンダーを確認する。
あぁ、そっか、そうか、そうなのか……。
「今日は月曜日なんだ……」
思わず声が漏れてしまう。
それくらい嫌な事実だった。
大体何が入っているのかは予想できるが一応、念の為郵便受けから先程投函されたものを取り出すために玄関へと向かう。
玄関に着き、郵便受けを開けた僕の目に入ったのは予想通り「雨城無空君へ」と、僕の名前が表に大きな字で書かれているA4サイズぐらいの封筒。
切手は貼られていない。貼る必要が無いからだろう。
これは、僕のクラスの人が学校からのプリントなどを入れて学校のある日は毎日律儀に家まで持ってくる封筒。
ほとんど毎日(学校のある日にしか届かない)活動を開始してすぐに届くため、僕はこれをこっそり「負のログインボーナス」と呼んでいる。
世界にログインした後、あまり時間を開けずに届けられるから。
僕は封筒を手に取って少し歩くと、その中身を見たりすることなく近くのゴミ箱に突っ込んだ。一刻も早くこんなもののことを忘れたかった。目の前から消し去りたかった。
本当は燃やしたいのだが、僕が住んでいるのは一軒家ではなくアパートで尚且つ火気厳禁なため燃やすことは出来ない。
最初の方はきちんと見ていたのだが、その中身はちっとも感情のこもっていない文字で「早くクラスのみんなに顔を見せに来てね!」というような内容が入った紙が1枚と、あとはただの業務連絡だったためすぐに見るのをやめて捨てるようにした。
学校のことなど考えたくなかったし。
封筒のことなどさっさと忘れてキッチンに行き、料理をして気を取り直そうと思ったのだがどうにもやる気が出ない。
先程不覚にも学生服を見てしまったせいだろうか……。
『やる気が出ない時には何をしても無駄』というのが僕のポリシーだ。
1時間程寝てから料理を作ろう。
そう決めた僕はすぐにベットに潜り込み、夢の世界にログインすることにした。
一旦さようなら、現実世界。
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
───ラノベの主人公みたいな高校生活を送りたかった。
心を許せてなんでも話し合える友達がいて。
とっても可愛い素敵な彼女がいて。
毎日ちょっとした事件が身の回りで起きたりして。
学校めんどくさいね、なんていいながら仲良しグループで学校に通い、なんだかんだで真面目に授業を受けて。
昼休みにはパシリを決めるじゃんけんをして、みんなで笑い会いながらご飯を食べる。
体育の時間には女子を覗きに行こうとして先生に怒られたり。
放課後は部活で汗を流す。いや、文化部に入ってゆっくりするのも楽しいかもしれないな。
帰り道も友達と一緒に。
「家帰ったら速攻寝たい…」
「いやいや、課題出されたじゃんかwやれよw」
「そんなのいいからお前ら、カラオケいこうぜ!」
なんて会話を繰り広げて夜遅くまで遊んだ結果、家に帰ったら親に軽く怒られる。
テスト前には学校帰りのファミレスによってみんなで試験勉強をする。
でも勉強するのはいつもファミレスってわけではなくて。
たまに女友達の部屋におじゃまして少しドキドキしながら勉強したり。
休日に図書館でするのもいいかもしれない。
他にも、色々、色々、色々………。
そんなことありえるわけが無い、ということを悟ったのはいつの事だったっけ。
ラノベやアニメにハマったのは確か中学校2年生の頃。当時仲の良かった友達の影響だった。
最初の頃は僕も興味本位だったのだが、多くの作品を知るうちにどんどん深みにはまっていった。使い古された表現だけど僕にとってそっちの世界は「底なし沼」だった。
もっとも、僕はアニメはあまり好きになれずにラノベを読み続ける生活だったけれど。
大量にラノベを読んだ結果、僕は中学三年生になる頃には既に立派なオタクとなっていた。
僕はラノベの中でも言わゆる「異世界転生俺TUEEEE系」よりも少し落ち着いた、現実にも有り得なくはなさそうな「学園ラブコメ系」を溺愛していた。
そのせいか当時の僕の高校生への憧れはとても強いものだった。きっと高校生になればラノベの主人公みたいな生活が送れる、そう思い込んでいた。信じ込んでいた。
しかしそんな淡い期待に反し、頑張って勉強をして入った第1志望の高校で僕は現実というものを知らされた。現実というものを突き付けられた。
僕の頭の中を埋めつくしていた「高校像」はどこにもなかった。
いや、「どこにも」というのは少し語弊があるかもしれない。
確かにラノベみたいなところもあった。
でもそれは、僕が「これはラノベの中だけであって欲しい」と思っていた類のものだった。
クラス内のカースト制度、ヒエラルキー。いわゆる「スクールカースト」というやつだ。
僕が見てきた学園系ラノベの中にも半分ぐらいは存在していたものだ。そのラノベの中でも大半、いや、ほとんど100%の確率でクラスのカースト上位を「リア充グループ」が占め、下位に位置づけされ迫害されるのは「オタクグループ」だった。
でもやはりラノベと現実は少し違った。
僕が入っていたのは当然「オタクグループ」だったのだが、特に迫害されたりすることはなく、平穏な学校生活を送ることが出来ていた。
感覚的なグループ分けは最初の2週間ぐらいで終わっていた。オタクグループの他のメンバーはみんな違う中学校出身で、高校で知り合った奴らだった。やはり共通の趣味があるということは大きく、すぐに打ち解けることが出来た。
僕達オタクグループはもちろん、リア充グループも特にこちらに干渉してくることはなく、対立したりすることなんて有り得なかった。
しかし問題は僕がちょうど「理想とは違うけど三年間楽しくやっていけそうだな」と思い始めていた頃に起こった。
問題の引き金となったのはあるラノベ作品だった。
そのラノベ作品は僕が高校に入ったくらいからいい意味でも悪い意味でもかなりの頻度で話題になっており、注目を集めていた。
注目を集めていた原因はその内容だった。
大まかに説明すると、「いじめられっ子がいじめっ子に復讐していく」という内容。
ただ単にいじめられっ子がいじめっ子に復讐するというだけの作品なら世の中に星粒ほど散らばっているし、そんなに話題になることは無かっただろう。しかしその作品は同じような内容の作品と比べて圧倒的に違う点が二点あった。
一点目は、いじめの描写がとてもリアルだという点。
普通、一般的に認識されているいじめと言えば机への落書き、一斉無視、靴を隠されるなどだが、その作品に描かれているいじめはそれらとは全く違ったものだった。
自分だけが入っていないクラスのチャットグループで自分の悪口が言われる、自分の根も葉もない悪評を流される、学校行事の打ち上げの時には自分だけが違う集合場所を伝えられ、一日中待ちぼうけをくらう、等々。
見ているこっちが胸糞悪くなるようなものばかりだった。読んでいるだけで自分がまるでじめの標的になってしまったような気すらした。
また、書かれているいじめの方法を模倣したいじめが全国のいくつかの中学、高校で行われたために出版停止を求める声が上がったりもした。
結局出版停止にはならなかったけど。
二点目は、復讐の方法が非人道的すぎるという点。
一般的にそういう内容のラノベではいじめられっ子が人助けをすることでどんどん仲間を増やしていき、最終的にいじめっ子を見返すというのが常道だ。
だが、その作品の主人公は人助けをして仲間を作るなんて生温いことなんて決してしなかった。人を助けるという行為を知らないのかと思ってしまう程に、一人で復讐をし続けた。
ある時にはいじめっ子のペットを殺して生首を家に送り付けたり。あるときはいじめっ子の携帯を軽く乗っ取ってチャットグループに入り、いじめっ子同士の関係をめちゃくちゃに壊したり。
正直少しいじめっ子に同情してしまうぐらいひどい内容だったが、見ていてとても気持ちよかったのも事実だった。謎の中毒性があった。
この作品はシリーズ作品だったため、新刊が出る度に常にネットニュースに載っていたのはとても印象に残っている。(全五巻で完結した)
他に特別的だったのは、内容が内容であるためにその作品のファンとアンチの戦いは凄かったということ。
聞いた話だけれど、その作品が完結する頃には幾つもの大学のオタサーがファン派とアンチ派で二分割してしまっていたらしい。
でもらその事実を他人事として笑い飛ばすことが当時の僕には出来なかった。する余裕がなかった。
そう、僕のクラスのオタクグループも二つに別れてしまったのだ。これはある程度予想通りだった。それぐらい賛否が別れる内容だった。
しかし一つだけ予想できていなかったことがあった。
それは、僕達オタクグループの中でファン派は僕だけだったということ。
ファン、というだけだったのに僕は…………
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
「ああああああああああ!!!」
大きな叫び声とともに、体にかけていたシーツを吹き飛ばして上半身を起こした。
そのまましばらくの間──おそらく十分程度、頭の中を整理することに必死だった。
結論からいえば、僕はただ単に夢を見ていただけ。まぁ、夢と言っても中身は昔の記憶の回想だけど。
嫌な、夢だった。本当に嫌な夢。
僕が見ていたのは比較的最近の僕の記憶。ちょうど両親が事故で死んでしまう少し前ぐらいまでの記憶。
今にも鮮明に思い浮かべることが出来る、あの情景。
あの後僕は──────××××××××××××××××××××・・・・・・・・。
嫌だ、もうこれ以上さっき見た夢について考えたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
僕の理性が、本能が、必死に頭の中で喚く。喚く。喚く。
一種の自己防衛だ。
でも、頭の中にあるのは理性や本能だけではない。他に、理性や本能より圧倒的な影響力を持つ「なにか」が存在している。
きっとその「なにか」は、おそらく人間にとって害しかないものだ。
きっと「なにか」に明確な名前なんてない。誰もつけようとも思わないだろう。
でも確実に、「なにか」は世界中の全人類の頭の中に住み着いている。
「なにか」はいつも頭の中に姿を表しているわけでは無い。「なにか」がその害悪な目を覗かせるのは、脳の中身が、人間の考えていることがマイナスな方向に向かっている時だけ。誰もが体験したような例で言うならそう、ちょっとしたことをきっかけに頭の中に黒歴史がフラッシュバックしてきた時。
理性が、本能が、叫ぶ。もうやめろ、と。ここで止めろ、と。これ以上それについて考えるな、思い返すな、と。
しかし、そんな理性や本能の悲痛な叫びは僕らに届く前に「なにか」によって無残にも消される。潰される。かろうじで届くのは、本当に1部分。美味しいスープの上に漂っているいい匂いをさらに薄めたようなものだけ。あるような、ないような、そんなもの。
そうなってしまえば理性や本能の叫びは僕らにとって苦痛でしかない。
だって、頭の中には「これ以上は嫌だ、ダメだ」という感覚があるのに無理やり思い出させられるのだから。そしてそれは止まらないのだから。
そうして「なにか」は人間に黒歴史を完全に思い出させ、精神的に大きなダメージを与えると満足したかのように消えていく。
そのあとに残るのは、錠剤を噛み砕いてしまった時のような、長引く苦さ、辛さ。すぐに忘れてしまおうと思えば思うほど忘れられなくなり、逆に気になってしまう。そんないやらしいマイナスの感覚。
『なぁ「なにか」、今回ばかりは取引をしないか?』
頭の中で「なにか」に話しかけてみる。
しかし「なにか」は、断ると言わんばかりに頭の中に僕の記憶を流し込もうとしてきた。
瞬間、僕は本能的にその辺にあったカッターナイフを手に取り、刃を出して自分の首元に突きつけた。
そのあとにやっと思考が追いつき、再び「なにか」に話しかける。
『なぁ、今取引をしないんだったら僕は死ぬよ、君ごとね』
おそらく「なにか」にも自己防衛本能はあるのだろう。宿主である僕が消えてしまったら困るのだろう。予想通り記憶を流し込むのを止めてくれた。
『ありがとう』
一呼吸置き、言葉を続ける。
『もう少ししたら僕は高校の制服を持って線路の先にある川まで行くよ。そこで制服を処分する。その後になら僕の頭に記憶を流し込むのを許可しよう』
すると、分かった、と返事をする代わりにすんなりと「なにか」は消えていった。交渉成立だ。
一見すると僕はただ単に記憶を思い起こすのを先延ばしにしたように思える。でもそれは間違っている。
僕は高校の制服に短かった高校生活の全ての記憶詰め込んで処分する。そうすればきっと、大丈夫なはず。
それが、僕があの一瞬で弾き出した答えだ。
寝る直前まで「高校への未練が〜」などと抜かしていたが、今となっては未練なんてものは嫌な記憶の下に埋もれてしまっている。きっとさっき見た夢の中で埋もれてしまった。
立ち上がって数回深呼吸すると、不思議と心が落ち着いた。
そして落ち着くとやはり、現実が見えてくる。
先程まで僕が寝ていたところに手を当てると、ぐっしょりと濡れていた。どうやら僕はかなりの汗をかいていたようだ。今の気温は全く暑くないことから、かなりうなされていたことが伺える。
ベッドが濡れるほどの量の汗をかいていたなら、僕の体も汗まみれで濡れているはずだ。
そう思って背中に手を当ててみたのだが、全く濡れていない。おそらく先程の短い間に乾いたのだろう。心無しか空気も乾燥しているようだし。
それでも少し気持ち悪い気がしたので、風呂に入ろうかどうか考えていると、「グゥー」と、お腹のなる音が聞こえた。そういえば確かにまだご飯を食べていなかった。
何よりも優先させるべきは摂食だな。そう思って台所に行き、冷蔵庫を開けてナスを取り出した。
まだ食べられるのを確認した後、慣れた手つきでサイコロ状に切っていく。
そして三十分後には、なんとも美味しそうな麻婆茄子が完成した。
自分で作っておいて言うのもなんだが、その辺のファミレスで出てきてもおかしくないぐらいのクオリティーだ。
麻婆茄子のピリッとした辛さが僕の意識を完全に目覚めさせる。頭の中のスイッチが切り替わる。
食事は、ただ食べるだけで、「生」を確認できるからとても嬉しく、尊い行為であり、同時に切ないものだ。
ご飯を食べ終わると、食器を洗って乾燥機の中に入れてから台所の棚を開けて大きめのプラスチック袋を探した。少し前にコンビニで貰ったのを覚えていたからだ。
あの時は「小さいプラスチック袋が切れている」という理由で大きい袋を持たされて恥ずかしい思いをし、心の底から大きい袋を恨んだものだが、今となればその出来事がとてもありがたい。人間とは本当に身勝手なものだな、と思う。
自分にとって都合の悪い時は対象を酷く嫌悪するのに、いざ自分にとって有益だと分かると、さも昔から好んでいたかのように振る舞う。本当に自分勝手だ。
袋を折りたたみ直してポケットに突っ込んだ後、仏壇のところからマッチを回収した。制服をある程度燃やしてから川に流すつもりだからだ。きっと、燃やせば僕の嫌な記憶も遠いところへ行ってくれる、そんな気もしたし。
制服が入っているクローゼットの前に着いたらすぐに袋を開き、覚悟を決める。
大丈夫、ほんの一瞬の辛抱だ。ほんの一瞬だけ我慢して服を袋に詰め込むだけで僕は過去の記憶とおさらばできる。それに、多分「なにか」は出てきたりしない。さっき取引したもの。
そう自分に言い聞かせ、クローゼットを開けて光のような速さで服を袋に突っ込んだ。
「ふぅ……やっと、出来た。案外簡単だったな……」
安堵のあまり、思わず小さく声が漏れてしまう。額に手を当てると、少し汗ばんでいた。
クローゼットにしまわれている服を取り出し、プラスチック袋に詰める。たったそれだけの事に緊張して汗が出てしまう自分が情けなく思えたが、それ以上の達成感を感じられた。
やる前はとても難しく大変だと思っていたものもやってみると案外簡単、なんてのはよくある事だ。一度勇気を出しさえすれば、あとは何とかなる。
袋の口を閉じ、玄関の辺りに投げつけるとすぐに自分の部屋に戻った。できる限り袋を自分から遠ざけたかった。
すぐにでも燃やしに行くことは可能だったけど、時計を確認するとまだ十時前だったから行かなかった。人に見られると色々厄介だし、そもそも僕も人を見たくない。十時に家に帰る、なんてのも今のご時世どの年代でも別に変わったことでは無いから、きっと外はまだまだ人で溢れているだろう。
部屋に帰るとすぐ、机の前に座ってパソコンを起動した。
机は小学生の頃からずっと同じものを使っている。使い慣れているし、両親との思い出の品でもあるからだ。
本来「学習机」という名前であるそれは、最近では本来の役割を果たしていない。いや、僕が果たさせてあげていない。勉強しなくてごめんよ、机。
パソコンが立ち上がったのを確認するとすぐにとあるSNSサイトを開き、自分の参加しているコミュニティーのトーク履歴を確認する。このコミュニティは僕が昔作ったもので、コミュニティ名は「黒いアクアリウム」だ。自分で言うのもなんだが、ネットの中ではかなり有名な方のコミュニティだ。メンバーもその辺の低脳無能ではなく、僕が直接スカウトした人がほとんどだ。
主な活動内容は、あまり堂々といえたことではないのだけど、炎上したりした人などの住所特定等。自分でもつくづく最低なことを率先してやっていると思うのだけど、楽しいからやめられない。麻薬みたいなものだ。しかも特定は自己満足では留まらず、大多数の人間に賞賛される。こんなことが正義となされるネットの世界は、つくづく狂っていると思うけど、やはり褒められると嬉しい。それが僕を助長させる。
そんなこのコミュニティだが、どうやら僕が寝ている間に少し動きがあったようで、通知の数は五百を超えていた。
一日で百ぐらいなら最近は普通にあって珍しくもないけど、五百を超えることはあまりない。そんなに話をす内容がないからだ。
今回の通知の原因はおそらく誰かと誰かの喧嘩だろう。昨日の時点で空気が少しピリピリしてたからそう予想出来る。
──やっぱり、暴言が沢山羅列されている。喧嘩なんてネットの中ではよくある事だ。ネットの世界ならお互いのことをよく知らなくても好きなことを、思ったことを直接ぶつけられる。例えそれがどんな──他人を傷つけるような、または既についている傷をえぐるような内容だったとしても。
ログをパラパラっと流し読みすると、今回もその典型的な形だということが伺えた。
大まかな内容は、現役でバリバリ働いている人がニートの人を馬鹿にしていた──社会のクズ、などと言って。
人には、すぐに他人を見下す嫌な癖がある。現実世界であまり、というかほとんど他人と関わらない僕ですらネットを見るだけでそう思うのだ。間違いない。
いや、もしかしたらネットを見るからこそそう感じるのかもしれないな……。ネットほど本音が飛び交っているところはないわけだし。匿名は、人を強くする。もちろん、いい意味なんてひとつもなく、悪い意味で。
そして他人を見下す反面、人にはもう一つの嫌な性がある。
それは、無駄な自尊心を持っているということ。いわゆる「プライドが高い」というやつだ。
プライドが高いのに他人を見下し、他人に見下される。
そんなわけだから喧嘩が起こるのは避けようのないことだ。もはや自然の摂理と言ってもいいほどに。
でもやっぱり、喧嘩を嫌う人は存在する。いや、むしろ好む人の方が少ないだろう。
僕は喧嘩は嫌いではない。他人がお互いを潰し、汚し、貶め合うのをただただ傍観し続けるのが好きなのだ。
でもやっぱり傍観するのが好きだといっても、自分が深く係わっているコミュニティ──自分のテリトリーで喧嘩をされるのは嫌いだ。
自分の仲間の言ってもいいほどの人達が互いを潰し合うのは見たくないし、自分も巻き込まれそうだからだ。だからもし喧嘩が始まったなら、僕は止めるようにしている。
軽く深呼吸し、キーボードに手をかけ、静かに文字を打つ。
『喧嘩はやめてよ。これ以上喧嘩を続けるならコミュニティから排除し、それぞれの個人情報を特定してネットに晒すよ?』
そんなメッセージを送信してからわずか一分も経たないうちに画面上に二つ、『喧嘩してすみませんでした』という短い文が新しく表示された。
これできっと、大丈夫。しばらくは喧嘩は起きないだろう。
何故こんなにも彼らが僕に特定されるのを恐れているのかというと、彼らは特定された人達の末路を誰よりもよく知っているからだ。
毎日届く高額な着払いの荷物。リア凸してくるアンチのせいで近隣住民から受けるヘイト。『死ね』『はやくどっか行け』なんて書かれた紙が家にはられるのなんて当たり前だ。学校や会社に行けば退学になったり、クビになるのも当然のこと。もちろん被害を受けるのは自分だけではなく、その被害は家族にも及ぶ。しかも一度ネットに流れてしまった個人情報は絶対に消えないから、最悪それらの被害は何年も続く。聞いた話だと、自殺する人と引っ越したりする人がほとんどらしい。
これを知ってしまった人間は、間違えても特定されたいとは思わないだろう。もちろんあいつら──『黒いアクアリウム』に属している人間はそのほとんどが特定する技術を持っている分、特定対策はバッチリにしているから、ほとんど特定されることは無い。
でも僕にとってはそんな特定対策はなんの意味もなさない……なんてことはない。でもあいつらは僕にとっては自分達がしている特定対策など無駄、だと信じ込んでいる。
なぜ馬鹿みたいに信じ込んでいるのかというと、その理由は至極単純で簡単だ。
このコミュニティを作って少したった頃、僕は自分のサブのアカウントをコミュニティの中に潜入させていた。そしてある日、そのサブアカウントと自分のメインのアカウントを喧嘩させた。自演、というやつだ。
そしてその喧嘩を止める手段として、僕はメインアカウントでサブアカウントの個人情報を特定したとしてネットに晒した。もちろん、その時に晒した情報は全く関係ない人のものだ。今でも少し、罪悪感がある。
その情報がある程度ばらまかれた所で僕はサブアカウントを消し、あいつらに「僕は誰の個人情報でも特定出来る」という風に思い込ませた。
もちろん、ただのアカウントの個人情報を特定しただけではそう思ってもらえない。完全にそう信じてもらうためには、かなりの──あいつらと同じぐらいのレベルで特定対策をしているアカウント、つまり僕のサブアカウントの個人情報を特定した、という事実が大切だった。
そういう経緯を経て、僕は現在あいつらに一目置かれている。
だから誰も僕に歯向かおうとは思わない。別に僕はただの一般平和主義者だから、暴走したりもしない。僕はある種の平和維持装置だ。
彼らからの謝罪を確認した後、今炎上している人の住所を特定するよう、喧嘩したペナルティとして彼らに指示した。すると彼らはうって変わったかのように仲良く会話を始めた。その光景を見て、これでいいんだと満足する。人間はどれほど仲が悪くなっても、一つの「共通の敵」が現れたらすぐに仲が良くなるものだ。誰かを潰す時には、それ以外の人間にはなんの敵意も抱かなくなる。
本名と住んでいる都道府県名が特定されたところまで見届けるとそのサイトのタブを閉じ、ネット上のニュースを一通り確認したあとにパソコンの電源を落とした。
今日は月曜日のため、ただただ計画もなくネットサーフィンをするだけだった。火曜日、木曜日、土曜日には僕は必ずとあるサイト、というよりはブログに近いものを見るようにしている。
そのサイトのことを、僕はつい先日知った。たまたまネットサーフィン中に訪れて出会ったのだ。書かれている内容を見たら、その出会いは偶然ではなく、もはや運命なのではないかと疑えた。
サイト名は、「悪の小説」。名前の通り、小説が書かれているサイトだ。でもそれはその辺にあるような老若男女問わず誰でも参加できる小説投稿サイトではなく、たった一人の人間が書いた小説が、決まった曜日に更新されるサイトだった。
しかし、作者名は書かれていない。最初はただの自己満足小説かと思ったが、話の内容や書かれている感想からするに、僕の知っているとある作品の作者、僕の人生を変えたと言ってもいいあの人だった。
話の内容は、昔とあまり変わらず、いじめられている女の子がいじめっ子に立ち向かう……、というようなものだった。登場人物の名前が全く変わっていなかったことから、あの作品の最終巻のアフターストーリーだということも理解出来た。
あれ、そういえばあの作品、最後はどうなったんだっけ……。
アフターストーリーだからか、ただ一点、たった一点だけ、大きく変わっているところがあった。
それは、いじめられている子が復讐する手段や内容を考えるだけで、全く実行に移さないというところ。それを知って僕は少しの寂しさ、そして安心感を覚えた。良かった、いじめられていた子はきちんと成長出来たんだ、って。
いじめられている子がいじめている子に対して仕返しをしたら、その時点でその子はいじめっ子と同じレベルになってしまう。同じ土俵に立つことになってしまう。
いじめというものを図式化するときっと、いじめっ子の頭上にある鉄格子の上にいじめられっ子が立っている、という状態になると思う。いじめっ子達は長い棒を持っていて、鉄格子の間からその棒を差し込み、いじめられっ子を叩く、というように。もちろんいじめられっ子は武器なんて持っていないから、反撃することなんでできない。ただ攻撃され続けるだけ。
もし反撃したいのなら、鉄格子を蹴落として、いじめっ子に殴りかかるしかない。でもそうしたら、いじめられっ子の負けなのだ。同じ高さのところに立ってしまったらもう、その時点で終わりなのだ。自分はいじめをする人間のクズたちと同じレベルの人間ですよ、と、周りにアピールしているようなものなのだから。
それゆえ、いじめられっ子はただただじっと鉄格子の上に居座ることしか出来ない。でも、それでいい。幸せは、鉄格子よりもさらに上にある。だから、別に大丈夫。
それをこの子は理解出来たんだと思えた。
やっぱりアフターストーリーといえども話の内容はとても面白く、何回も何回も読み直した。何回も読んだせいで僕はとあることに気づいた。話の流れは、大体学校でいじめを受けてから家で復讐方法を考える、というものだったのだけど、それが二話に分けられていたのだ。しかも、気になったのはその更新時間。
学校生活についての内容は、夜の八時〜九時など、比較的普通の時間に更新されているのだけれど、復習を考える話の時は、朝の四時〜五時など、僕のように昼夜逆転している人でもない限り投稿するのは無理なような時間だった。
予約投稿でもしているのかと思ったのだけど、所々誤字脱字があったり、とてもじっくり作られた末に投稿されたものではなく、書き上がった瞬間に更新したような感じだった。
1度は何故なのか考えようとしたのだけど、途中でやめた。無駄なことに頭を使うのは本当に無駄なことだと知っているからだ。更新時間の事情を知ったところでなんにもならない。
そういえば、確か最後に更新されていたのは学校生活についての話だから、次更新されるのは復習の方のはずだ。そして今日は月曜日だから……ッ!!
次外に出て家に帰ってきたら更新されているじゃないか!!
そう考えると、なんだか突然やる気が全身に漲ってきた。おそらく目の前に人参がぶらさげられた時の馬の気持ちはきっとこんな感じなのだろう。
早速本日のミッション《制服の処分》を行おうと思って時計を見ると、短針は既に十一の文字をとっくに超え、十二の文字のところで長針と重なろうとしていた。
ネットの世界は、時間を本当に忘れさせる。ネットの世界はある意味現実ではないから、現実とは違った時間の流れ方をしているのかもしれない。いや、もしかしたら現実での一時間がネットの世界の二十分に満たないのかも……。ネットの世界は一応現実世界のことを凝縮して作られているわけだから、時間も凝縮されるのは至極当然のことなのかもしれない……。
なんて、何意味の分からないことを考えてるんだ僕は。
さぁ、さっさと処分しに行こう。
外に出た途端、頬を少し冷たい風が切った。
本当にもう、夏が終わって秋が始まっているのだな、と、以前と比べてはるかに暗くなった空を見上げてそう思った。
そんな真っ暗な世界の中、一つだけ輝いている月はこの世の汚い部分や醜いところ、穢れなんて、全く知らないようだった。また、その純粋無垢な輝きは、小さな子供の瞳を彷彿とさせた。無知ゆえに、何も恐れない、何でも信じてしまう、そんな美しくもどこか儚い瞳。
『月が綺麗ですね』、という言葉は『あなたが好き』という意味を持っているのだと、どこかで聞いたことがある。聞いた時はさっぱり意味が分からなかったけど、今なら少しだけ、その真髄に近づけた気がした。
純粋な恋心は、さながらガラスのようで。それは、恋人──月と等しいぐらい輝いているように思える人と向かい合ってこそ照らされ、姿を現す。月が綺麗、というのは、自分が相手から受けている光、同時に、それを反射して相手に返す光が綺麗なものだと言うことを表しているんじゃないだろうか。月が綺麗だからこそ、自分も輝ける。恋心が美しくなる。もし月が欠けていたりしたならそれは、不完全で未完成だ。そんなものなら、すぐに消えてしまう。消されてしまう。
もっとも、そんなことをいくら考えたって恋愛とは縁もゆかりも無い僕にとっては無駄でしかないけれど。
ゆっくりと歩みを進めると、すぐに線路が見えてきた。時間にすると、おそらく2分もかかっていないはすだ。
今の時間なら、もうとっくに終電が過ぎ去っているから電車が通ることはめったにない。たまに貨物車輌が通るぐらいだ。
だからほら、安心して線路の上を歩くことが出来る。本当はしてはいけない事なのだろうけど。ばれなければいい、ばれなければなんでも許される、そんな考え方はおかしいだろうか。別にいいんだ、おかしくても。自分がおかしいことは、とうの昔から自分が一番知っている。
線路に沿って北の方に行くと、かなり大きめの川が線路の下を流れている。その周りはコンクリートで囲まれているから、そこで燃やしてから川に流すつもりだ。
いくら制服だろうと、燃やして消し炭にしてしまえばどこの高校のものか分からないはずだ。もっとも、どこの高校かばれても別にいいのだけど。
自分の今までの負の象徴と言っても過言ではない制服を燃やす。それを考えるだけで、なんだか幸せな、ふわふわした気分になれた。今まで持っていた重い荷物を下ろすような、全身につけられていた鎖を断ち切るような、そんな開放されるような気分。
街頭に照らされているため比較的明確に先が見える線路の上といえども、この暗闇の中で歩くのは容易ではなかった。いくら街頭に照らされていると言っても、初戦は街頭レベルの光。線路に敷きつめられている大きめの石が完全に見える訳では無いから、躓いて危うく転けそうになることも多々あった。また、制服の入った袋が歩く時にかなり邪魔になったのは言うまでもない。
川に近づくにつれ、水の流れる音が聞こえるようになり、虫の奏でる音も大きくなっていった。やはり虫は水辺に生息するのだろうか。それとも、もしかしたら水の流れる音が新たに聴覚に入ってきたことで、虫のメロディがさらに美しくなり、耳に入りやすくなったから音が大きくなったように思えるのかもしれない。
線路が川の上にさしかかった時、線路の横を通っている道から川辺へ降りる道を発見したけど、あえて見過ごした。線路の上から川の景色をゆっくりと眺めながら歩きたかったからだ。美しい景色は、いかなる時でも心に安らぎをもたらしてくれる。
線路の上から──川の真上から見る川の景色は信じられないぐらい美しかった。月がいつも以上に輝いていたこともあり、川の水面は鏡のように夜空の月を映し出していた。まるで、川の水面下にはもう一つ世界があるように思えた。僕の今いる世界を、まんまひっくり返したような逆転世界が。きっとそこでは僕は今の僕と真逆なんだろう。性格は明るく、昼に活動して夜は寝て。現実世界に友達もたくさんいる。そこまで考えてふと、自殺願望が芽生えてしまうような考えに至った。
もしかしたら、この『僕』は、本来の『僕』のミラーコピーなのかもしれない
……いやいや、いつからそんな空想癖野郎になったんだ、僕は。空想なんて、現実逃避した奴らの逃げ場だ、人間のゴミ捨て場だ。そこに僕が入り浸る?嫌だね、断固として嫌だ。
大体、真逆な自分なんて想像もつかない。真逆ってことは、あれだろう?僕が「美しい」と感じるものは、みんな「汚い」と感じてしまうんだろう?そんなのおかしい。美しいものを美しいと思えない、そんなのばかげてる。自分の悪い面があっちの世界で良くなっているのなら、それはつまり自分の数少ない誇れる、良いと思える部分がみんな悪くなっているということだ。それは、今の『僕』という存在の否定に等しい。自分がそんな人間だなんて、思わないし、思いたくもない。頭の中──理性の中では、だけど。
……自分はダメなやつ?
……自分は生きる価値がない?
『もう、我慢できない』
あぁ、やっぱり。「なにか」と、取引をするなんて無理だったんだ。今、僕は自分を自分で肯定してしまった。それは、今までずっと気付かないふりをしていたもの。自分は「死にたいのだ」と、自分は「ダメなやつなんだ」と、思い込ませてきた。それが今、全て、水の泡となる。僕が自分から死ぬなんてこと、ありえないということがはっきりとした。それに「なにか」は気づいた。気づかないわけがない、いつだって奴は僕の頭の中にひっそりといるのだから。
「なにか」は、自分が思う通りにできるとわかったら最後、手を緩めるということをしない。そういう奴だ。
だから、ほら。
『無価値、ゴミ、クズ』
やめろよ。
『死ねよ、早く死ねよ。学校来んなよクソ陰キャ』
やめてくれよ。
『早く引っ越してくれねーかな』
なんでだよ。
『あーあ、なんであんなやつと同じクラスなんだろうな』
なんでなんだよ!!!
違う、僕は、僕はただ………………………。
あぁ……なんだか水に溺れているみたいだ。
多分きっと、僕は過去の記憶の沼にいる。「なにか」に連れてこられたんだ。僕は、そこで見る。自分の暗い過去を。二度と思い出したくもない、考えたくもない、負の記憶を。
最初は小さな、ほんの小さなものだった。
高校に入ってからの、長いとはとても言い難い時間だっけど、ずっと一緒にいた仲良しグループ。そこでたまに無視されたり、自分の知らないところで聖地巡りなどの計画が立てられていたり。
ねぇ、なんで?って。いったいどうしたんだよ?って。誰にも届かない、拾ってもらえない、僕の小さな言葉。拾ってもらえないなら、無理やり拾わせればいい。僕のグループの中でも最も非力な、喧嘩したら僕でも勝てそうな奴。そいつに、無理やり答えさせた。
「なんで僕を省くんだよ」
って。
そしたらあいつは淡々と、僕を軽蔑したように言い放った。
「だって君、『あの作品』が好きなんだろ?」
そっか、そうだったんだ。うん。
グループの中で、『あの作品』のファンは僕だけで、他はみんなアンチだった。確かに、そうだった。
「うん、確かにそうだよ。でも、それだけで?たった、それだけで僕はこんな扱いを受けるの?」
「僕も申し訳ないとは思うよ。でも、僕も自分の身が大切なんだ。元はと言えば、『あの作品、』のファンだった君が悪いんだよ!」
「あっ、おい!」
あいつはそこまで言うと足早に逃げていった。残された僕の頭の中で一つの言葉が反芻されていた。
『僕も自分の身が大切なんだ』
僕が読んできたラノベの中では、この言葉をかけられた人間は大体その後からひどい扱いを受けるようになる。でもここはラノベの世界ではない。そうは分かっているのだけど、やはり嫌な予感しかしなかった。
翌日、学校に来た僕は嫌な予感が的中したことを理解せずにはいられなかった。
まず、自分の上履きの中にマスタードが塗りたくってあった。おそらく、食堂にあるものを持ってきて昨日の放課後、あるいは今日の朝上履きの中に塗ったのだろう。
仕方ないから、靴下のまま教室まで歩いた。上履きがない分、質量的に足はいつもより軽いはずなのだけど、なぜだかとでも重かった。
教室の前までつくと、そこにはいつもと変わらない喧騒が居座っていた。それに少し、安心感を覚える。
しかし、いつも通りだったのはその瞬間──教室のドアを開け、中に入るまでだった。
僕が教室に入った途端感じたのは、この通り。
耳を突き刺す突然の静けさ。
目に入る、リア充達の下僕のようになっている、僕が位置づけられていたグループのメンバー。
鼻腔にするりとはいってくる、嫌な、卵が腐ったような匂い。
普通の水道水のはずなのに、アルカリ性の液体のように僕の肌を溶かしているように感じる、全身にかけられた液体。
その液体のせいか、口に広がる気持ち悪い苦味。
──あぁ、僕はたった今をもっていじめられっ子になったんだな……。
僕の五感が、瞬時に脳にそう伝えた。訴えかけた。
そして次に僕の感覚を貫いたのは、名前も分からない、ある一人のリア充の下卑た声。
「なあ、雨城、だっけ?お前『あの作品』好きなんだろ?だったらさ、『あの作品』の主人公みたいになってみろよ、俺達がいくらでも、いじめてやるからさぁ」
それは、あまりにも筋が通っていなかった。意味が分からなかった。
でもきっと、意味なんてものはいらなかったんだろう。たとえどれだけ歪んでいても、筋が通っていなくても、少しでもいじめの理由になりそうならそれは正当化されるのだ。
社会において、マジョリティは絶対となる。
そうして始まった、僕へのいじめ。自分の席からロッカーに荷物を取りに行く度に足を引っ掛けられて転ばされた。体育の時には着替えを隠されたり、女子更衣室に投げ入れられたりした。弁当も、偶然を装ってひっくり返されたりした。それらはほんの1部だ。でも、こんな風に一部を思い出しただけであの時の気持ちが浮かぶ程には、どれも強烈だった。
僕はそんな状態に、三週間も耐えた。日々日々家で泣いて、あまりのつらさに吐いたりもした。
いっそ、本当に『あの作品』の主人公みたいになろうとしたけど、すぐに諦めた。諦めさせられた。僕にそんな勇気はなかった、気概はなかった、ただただ無力だった。
学校で、僕の周りには、助けてくれる人なんかもいなかった。友達なんていなかった。いや、少しはいたけどいじめの開始を境に僕から綺麗に離れていった。きっと飛び火を恐れたんだろう。
また、教師達は僕へのいじめを黙認していた。表では「何か困ったら先生に相談しなさい」なんて言っているくせに、いざ僕が相談したら「あまり生徒間の問題には口を出すべきではないと思うから、自分たちで解決しなさい」なんて言われた。大人も結局、めんどくさいことに首を突っ込んだりはしたくないのだ。
そんな感じだったから結局、僕は自身の悩みを、SOSを、誰にも打ち明けられなかった、発信できなかった。
きっとあの時、親にいじめのことを言っていたらなにか解決していたはずだ。転向させてもらったりして。
でも僕は、それをしなかった。親に余計な心配をかけたくなかったのだ。だから、親の前では常ににこにこしていた。いや、親の前だからにこにこしていれた。親といる空間だけが、僕のくつろぎの場所だった。
でもそんな空間は、ある日突然消失した。
親が死んだからだ。
親が死んだ日、僕は無表情無感情になっていた。それこそ死体のように。
そして、葬式に出てから分かった。もう、僕には居場所がないってことを。生きる糧がないってことを。
葬式が終わったあと、自殺を決意した。生きる価値がないのに、生きる気持ちがないのに、生きているなんてなんだか申し訳ない気がした。誰に対してかはわからないけど。
首を吊って死のう。そう決めて、ホームセンターによってから家に帰ろうとした時、父方の祖父から一通の封筒を渡された。封筒の表面を見ると、あまりにも、堂々としすぎている字で、【遺書】と書かれていた。
その筆跡から、すぐに自分の父が書いたものだと推測することが出来た。封筒を開け、中から出てきたのは、丁寧に三つ折りされた綺麗な、ほんのり青い1枚の便箋。
あぁ、本当に遺書なんだな。両親は死んでしまったのだな。それを見て、そう、実感した。
書かれているものを見たくないと思う反面、読まなければいけないという謎の責任感が生まれた。僕は、両親の死に向かい合わなければいけない。逃げてはいけない。たとえもうすぐ僕が死ぬのだとしても、両親からの最後のプレゼントを読まないのは両親への冒涜だ。両親が生きていた証が、ここにある。僕の、昔と比べればかなり大きい、でも、まだまだ小さい掌の上に。
内容は、至ってシンプル。遺産の相続の話と、僕がこれからどうすればいいのか、などについて。その内容はとても詳しく、もしかしたら両親は自分達の死を予知していたのかもしれないな、と、不謹慎にも思ってしまった。
しかし、僕の心をかき乱したのは、最後に書かれていた、たった三文だった。
『周りからの圧迫に負けず、強く生きろよ。父さんたちは、無空にはずっと生きていてほしい。上手に人生を楽しみなさい。』
何回も読んだ。何回も声に出した。
二十回は読んだんじゃないかという頃、忘れていたかのように嗚咽が、涙が、声にならない声が体内から溢れ出してきた。
体の中が、とてつもなく熱い。まるでマグマを体の中で生成しているかのようだ。泣き叫んでいるせいか、はたまた体内の熱のせいで蒸発しているせいか、水分が失われていく。周りを見ると、自分のことを案じて周囲からくれたのか、ほとんど人がいなくなっていた。
これは、好都合でもあるし、不都合でもある。足が、腕が、動かない。動かせない。鉛のようだ。自分が遠くに──天界にいかないように、両親が付けた重りなのかもしれない。
もちろん、僕の中に『自殺』という考えはもうなかった。代わりに、ただ一つ、あったのは、『上手く生きよう』それだけ。
両親から残されたように、上手に生きよう。他人に嫌われないように──いじめられたりしないように。
楽しめ、とも言われた。でも、それは無理なように思えた。僕には楽しむ権利がない、なんの根拠もないのに、そんな気がした。
その日、ぼくは家に帰ってすぐに眠りに落ちた。何も考えたくなかった。何も考えたくなかった。
次の日、昨日遺書を渡してくれた叔父さんから連絡があった。
遺産については全て弁護士に頼んであるから心配しなくてもきちんと手に入る。住むところについては、今住んでいる家のローンはまだ払い終わってないから、おじさんが経営しているアパートに住むのはどうか?ということだった。
遺産については、とてもありがたかった。所詮僕は高校生、そういう方については何も知らない。住むところについては、断る理由がなかった。誘いが嬉しすぎて、その日のうちに引越しの準備をあらかた終わらせるほど嬉しかった。
──これでいじめから逃れられる。次の学校ではどんなふうに過ごせるかな。
荷物をまとめている間、ずっとその事を考えていた。すぐそこにある、手を伸ばせば届く所にある自身の未来へ儚い期待を、希望を抱いていた。いや、抱けていた。
荷物の整理が終わり、部屋の片付けを終えたあとに叔父さんに引っ越す旨を伝えると、快く了承してくれた。引越しは、明日にでも行おうとまで言ってくれた。人の温かさに、久しぶりに触れた気がした。
引越しは順当に終わり、これから通う高校を決めることになった。僕はそんなに頭が悪い方ではなかったから、アパートの近くの高校ならほとんどどこでも選ぶことが出来た。
一日中考え抜いた結果、僕はアパートから一駅ほどの高校に行くことにした。本当は同じレベルの偏差値の高校が徒歩五分ほどで着くところにもあったけど、そこにはしなかった。なんとなく、電車を使って登校するに憧れがあったからだ。
高校にこれから通う旨を叔父さんを通して伝えてもらうと、すぐに制服が家に届いた。それは新品の服の匂いがするのはもちろんのこと、まだ初夏なのに、仄かに春の香りもした。僕の二度目の高校生活の始まりを告げるようだった。
そしてついに僕が高校に初登校する日が来た。
朝七時、目を覚まして簡単な朝食を作り、食す。作る度、母さんの作る朝食は美味しかったなぁ……と、思い出に浸りながら軽くシャワーを浴びる。気持ちがいい。体を乾かした後、ゆっくり歯磨きをしてから制服に着替える。届いた後、飾っていただけで一回も試着していなかったから、もしかしたらサイズが合わないかもしれないと思ったけど、それは杞憂だった。大きすぎず、小さすぎず、ぴったりと、まるで僕の体に合わせて作られたかのように着ることが出来た。少し、またさらに学校への期待が高まった。
昨日のうちに準備しておいたリュックを背負い、戸締りを確認してから家を出た。
駅までは、歩いて五分もかからない。近くて本当に助かる。
テンションが高くなってしまっていたせいだろうか、僕は柄にもなく電車が来る10分も前に駅に着いてしまった。
電車が来るまで、どうやって待とうか。今日は生憎、外出する時にはいつも持ち歩いている文庫本を持ってきていない。
そう悩んでいると、視界の端に三人ぐらいしか座ることの出来なさそうなぐらい小さなベンチが映った。そこに座ってゆっくりと物思いにふけろう、そう決めた時にはもう、僕の足は動きだしていて、気づいたらベンチに座っていた。
さて、僕は果たしてこれからどんなふうに生きていけるのだろうか。そんな高校生とは思えない程壮大なテーマを一つ、脳内に掲げ、意識を深層部分に落とそうとした。その時だった。
「君、うちの学校の生徒?何年生なの?」
僕が最も苦手な、『リア充』の部類にいかにも属していそうな女子に声をかけられたのは。
「あ!ごめんね、初対面なのに質問ばっかりしちゃって。まずは、私から自己紹介させてもらうね」
僕がなにか声を発する前に、その女子は言葉を続けた。
あぁ、本当に苦手だ、厄介だ、この手のタイプの人間は。自分の都合を押し付けてくるから。
自己紹介?何ふざけたことを抜かしているんだ、こいつは。一方的に自分のことを語ったかと思えば、今度は全く同じことをこっちにも要求してくる。こっちの気持ちも考えないで。それで断ったら何故か怒り出すのだ。本当に僕の理解の及ばない思考をしている。まるで動物だ。
「私は、××××高校の一年生、昼野 夜!みんなには、「ヒル」って呼ばれてるんだ!よろしくね!」
そう言い終えると、「ヒル」は何かを求めるかのように僕の方を見つめてきた。
これは、無視するより、何か少しでも言っておくのが得策だろう。
「僕は、今日から君と同じ×××高校に通うことになった。学年は一年。名前は、山城無空。特に名前の呼び方なんて決まっていなかった。一応よろしく」
これで充分だろう。満足してくれただろう。だからもう、お願いだから僕にかかわらないでくれ。
「へー、なそら君、っていうんだ!いい名前……!ねぇ、漢字は?漢字はどんなのを書くの?」
「何も無い空」
「なんか、かっこいいね!」
「あぁ、うん、そうだね」
「むー……なんでそんなに塩対応なの!」
「や、だって」
「だってじゃない!きちんと、はっきりと答えなさい!」
もう、やけくそだ。今さえ乗りこえればいい話だ。金輪際関わることは無いだろうし。
「り、了解!!」
思いっきり、何年ぶりだうかと言うぐらい大きな声で答えてやった。きっとこれでこいつも勘弁してくれるだろう。
しかし、僕の予想は大いに外れることになった。
「よしよし、よく出来ました!」
そう言うと彼女は突然僕の頭を撫でてきたのだ。一瞬、思考が止まる。
──コイツハイマ、ボクニナニヲシタ?
僕の記憶が正しければ、僕は今こいつに頭を撫でられた。撫でるというのは、確か親が子供に、もしくは恋人同士がするものだったはずだ。もしかしたら、僕の常識が間違っているのか?それとも、これが『リア充』にとっては日常行為なのだろうか。
おそらく、後者だ。
『リア充』は、常人とは異なる文化を持つ。
普段なら、そんな文化を見せつけられたら、ましてや自分も巻き込まれたら、吐きそうなほど嫌な気持ちになっていただろう。でも、なぜだか今はそんな気がしなかった。むしろ謎の安心感さえ感じられた。嬉しい、という表現が最も適しているような。
そういえば、話していたけど全く顔を見ていなかったなと思い、彼女の顔をじっと見てみる。
透き通るように真っ白な肌、整った目鼻立ち。艶のある、綺麗な黒髪。顔の感じからするに、化粧はほとんどしていないだろう。そして、小さな風に乗って僕の鼻孔をくすぐりにやってくる甘い、女の子特有の香り。
人生で初めてかもしれない、こんなに美しい異性を見たのは。
なるほど、と、納得した。
こんなに美しい女の子に、頭を撫でられていい気持ちにならない男がいるわけがない。
あまりにも長い間──といっても、10秒ほどだけど、顔を見つめすぎたせいか、彼女は「え、顔に何かついてるかな??」と、鏡を慌てて取り出し始めた。その仕草はまるで小動物のようで、とても可愛かった。目を逸らしたくなかった。
彼女がずっと鏡を見ているのでなんだか気まずくなり、自分も物思いにふけろうとした。でも、だ。頭の中に浮かばないのだ、彼女のこと以外。そこで実感した。
──あぁ、これが『一目惚れ』ってやつなんだな、って。
僕は今、彼女に恋をしたんだ。
記憶の限り、これが初恋だ。
そう思うと、なんだか飛び跳ねて大声をあげたい衝動に駆られた。「芸術は爆発だ」なんて言っている芸術家たちが爆発させているのは、きっと、今僕の胸の中にあるような気持ちなんだろう。
じゃあ僕は、どうやってこの気持ちを爆発させたらいいんだろうか。それについて考えようとしたのだけど、「まもなく、一番ホームに列車が参ります」というアナウンスが聞こえたから断念することとなった。
隣を見ると、さっきまでいたはずの彼女はどこかに行ってしまったようで、影も形もなかった。それを認識した途端、言葉に表しようのない虚無感が襲ってきた。それはすぐには消えてくれず、ずっと僕の心の中に居座り続けた。
そのため、あの時にもっと熱心に対応していればよかったと、昔の僕を理不尽に攻めながら電車に揺られることになってしまった。
そして電車から降りる頃には結局、同じ高校なんだからいつか会えるだろう、という至ってシンプルな、かつ現実的な結論に落ち着いた。
学校の最寄り駅に着き、電車から降りるとさっきの、彼女と目が合った。声をかけようと思ったのだけど、彼女は軽く会釈すると学校に向かって早歩きで行ってしまった。なんだか少し、自分が避けられているような気がして惨めに感じた。
彼女が一人で行ってしまったため、僕は一人で学校まで歩くことになった。幸い、学校の姿を駅から捉えることが出来たから苦労はしなかった。
学校に着き、校門をくぐるとすぐに先生に呼び止められた。どうやらぼくが登校してくるのをずっと待っていてくれたようで、僕が何組の下駄箱のところに行けばいいのかを教えてくれた。
言われた通り、一組の下駄箱に向かう。この学校はあまり生徒数が多くないため、一学年四組、一クラス四十人で構成されている。
下駄箱に辿り着き、土足を入れてカバンの中から新品のスリッパを取り出す。本当は今まで使っていたものを使うことも出来たのだけど、使いたくなかった。
スリッパを履き終え、顔を上げるととんでもないものが目に入ってきた。ある一つの下駄箱の中に、大量の土が突っ込まれていたのだ。その土の上には小さなローファーが置かれていたことから、下駄箱の主はもう既に学校についていることが伺えた。誰なのか気になり、名前を見た途端、僕の背中に ひとすじの嫌な汗が流れた。
その下駄箱の主は、昼野 夜──朝、駅で出会った彼女だった。
嫌な予感が、僕の脳裏をよぎる。
(もしかしたら、彼女は…………)
これ以上はダメだ。嫌だ。そう本能が告げ、僕は考えるのを無理やり中断した。そして気を取り直して教室へと向かうことにした。僕の教室がどこにあるのかは全く把握していないけど、それぞれの教室の前にそこが何年何組の教室であるのか表示されているから、きっと見つけられるはずだ。
この学校は特別教室で構成される特別棟と、クラスとして存在している普通の教室で構成されている本校舎に別れている。クラスは全学年合わせて十二クラスだから、本校舎は三階しかない。だから自分の教室ぐらいすぐに探し出すことはそんなに難しいことではない。
思った通り、二階に上がるとそこには一年生の教室が四つ、手前から順に一組、二組、三組、四組というふうに並んでいた。
僕は一組だから、一番手前の教室だ。これから登校する時、階段を上がったらすぐに自分の教室があるというのは、気持ち楽な気がする。
教室のドアの前に立つと、中から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。仲の良い、明るいクラスのようでほっとした。しかひ同時に、果たして自分は上手く馴染むことができるのだろうか、という不安感も感じた。そんな自分に、自分で「お前は変わるんだろ!」と、喝を入れてドアのに右手をかけた。
ドアは立て付けが悪くなっているのだろうか、軽くスライドさせようとしただけでは開かず、両手を使う羽目となった。両手をかけようとした時、何故か心臓の鼓動が早まった。緊張したからだろうか、それとも、両手をかけることになけなしの勇気を要したからだろうか。
そんなドアは、僕の心を暗に表している気がした。開こうと思っても一発で開くことが出来ず、二度手間を取って開けるしかない心。でもその二回目の手間をかけるのには壮絶な勇気がいる、そんな心。
ドアを開けると、そこには予期していた通りの光景が広がっていた。
かつて僕が幾度となく見た光景、見せられた光景。そして二度と、見たくないと転向する時に願った光景。
正確には、僕は今いるこの『第三者目線』では見たことは無かったのだけれど。
クスクスクス……
「お願い……やめてよ……」
クスクスクス………
と、目の前に広がる空間から昼野夜のいたいけな声が聞こえてきた。脳がその声を、音を拒否しているのをひしひしと感じる。頭が狂いそうだ、耳が張り裂けそうだ。
しかし、声は止まらない。それどころか、ますます激しくなっていく。
たまらず、僕は逃げ出した。逃げてしまった。電車に乗ることも忘れ、リュックも教室の目の前に放置して。靴を履き替えるのも忘れていたからスリッパだった。家に着いた時には、スリッパの裏は今日の朝下ろした新品のものだとは到底思えないほどずたずたになっていた。電車に乗ることもせず、ひたすら走り続けたからだ。
自分の部屋に倒れ込むように入り、そのままベッドの上に頭から肌掛け布団を被って蹲った。
真っ暗な視界、真っ暗な空間で僕の頭を延々と回り続けるのは、先程教室に広がっていた光景。
頭を抱えてしゃがむ昼野夜。
そして容赦なく、その高校生にしては小さな頭に向かって振りかけられ続ける、皮肉な程にカラフルで美しいチョークの粉。
そんな昼野夜の右横に見えるのは、水をかけられたのであろう、濡れたせいで色が朝見た時よりかなりくすんでしまっていた、彼女の女の子らしい白とピンクのリュック。
その更に横には、まだ水が充分────人一人をびしゃびしゃに濡らすことぐらい容易に出来そうな位入っているバケツがあった。
きっとその水は、ゆくゆく昼野夜に向かってかけられるのだろう。
そして何より、彼女を取り巻くギャラリー達の姿。パッと見ただけとはいえ、大体の数すらで数えることも出来ないくらいいた。おそらく、一クラス分以上はいただろう。きっと、僕の、彼女のクラスメイトは全員近くギャラリーの中にいたのだろう。もしかしたら、彼女にチョークの粉を振りかけていた連中は全員クラスメイトなのかもしれない。
その全てが、見るに絶えなかった。
あの瞬間、五感を消し去りたかった。いっそ世界から全てが消えて欲しかった。消えたかった。
それは、以前の学校でも毎日抱いていた気持ち。
転校すれば、二度と味わうことは無いと思っていた気持ち。
転校すれば、全てが変わってくれると思っていたのに、実際変わったのは僕の立場がいじめられる側から傍観者側になっただけだった。でもそれも転校初日の話だから、もしかしたら僕もまたいじめられるようになっていたかもしれない。まぁ、学校生活でうまく立ち回れば傍観者側にい続けることも出来たかもしれないけど、生憎僕はいじめを傍観できるほど人間が出来ていない。
なぜ傍観できないのかというと、それは『いじめは許せない!』なんて吐きそうなぐらい気持ち悪い自己陶酔偽善的理由なんてものではなく、ただただ『自分がいじめられていた時の記憶を思い出したくない』という至って利己的な理由。
畢竟、僕はどこまでも自分のことしか考えられないのだ。
そこで、頭の中の映像──「なにか」によって流されていた僕の黒い記憶が流れなくなった。
先程僕が見ていた光景が、僕の「黒い記憶」の全て。あの後、僕は泣き叫びまくった挙句に一日中眠り続けた。一週間位の間、学校に行くか行かないかで悩み続けていたけど、そんなこともだんだんなくなり、僕は二度と学校に行こうと思わなくなった。それと同時期に生活も昼夜逆転して、深夜に線路のところに来るようになった。何故かはわからないけどとても落ち着くから。
昔のことを考えてしまったら死にたくなってしまうかと思ったけど、不思議とそんなことは無かった。今僕の内側にあるのは、空白だ。何も無い。僕の貧弱なボキャブラリーでこの状態を表すなら、ぼぅっとしている、というのが最適だろう。
取り敢えず今日は制服を燃やして家に帰ろう。
そう、ろくに回っていない頭で決め、線路の上からコンクリートで形成されている橋の下へと移動することにした。
でも、橋の下にあったのはコンクリートだけではなかった。
青白い、恐らくその大きさからノートパソコンの画面から発されているであろう見慣れた光。そしてそれを膝の上に乗せて、熱心にキーボードを叩いている中学生、あるいは高校生ぐらいであろう少女。
近づくにつれ、光に照らされるその少女の顔がだんだんとはっきり見えてくる。少女との距離が3メートルぐらいになった時、僕はそれが自分の見た事のある少女の顔であることを認識した。
深夜、橋の下でノートパソコンに必死に何かを打ち込んでいたその少女は、紛れもなく昼野夜、その人だった。






