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浮雲の徒然に海妖を鎮むること

 吹き渡る風に、僅かに潮の香りが混ざる。のんびりと歩いていた青年は、少し目を細めて傍らを顧みた。

「海が近いようだね」

「うむ」

 返事をしたのは、僧体の男である。青年の方も、墨染めの衣を着ていた。

「確かこの辺りには港があった筈だけど……覗いてみるかい」

 青年が問いかけると、男は寸時考えてから頷く。

「港なら珍しい物も多かろう。玉藤達への土産を探しやすい」

「そうだね」

 青年がくすりと笑う。


 今、この二人は旅装で街道を歩いてはいるが、旅暮らしでもなければさほど遠出してきたわけでもない。屋敷でじっとしているのが暇になったので、たまにはと出掛けてきたところなのである。屋敷に数人の仲間を留守居に残してきた二人は、彼らに土産を買っていかなければならないのだった。

「ついでに珍しい酒でもあればなお良い」

 そう言いながらふくべを傾ける男は、名を甲玄と言う。彼の言葉を聞いた青年は苦笑を浮かべた。

「程々にしなよ」

 彼の名は朔夜。線の細い、顔立ちにどこかあどけなさを残した青年である。


 港に出ると、さすがに人が多く集まり、人夫達が慌ただしく動いていた。そんな様子を眺めながら、二人は歩を進めていく。

「ほう、これは妙な魚じゃのう。玉藤の土産にどうじゃ」

「……気味悪がるんじゃないかな。それに、生魚は傷みが早いからよした方がいいよ」

 水揚げされた魚介や他の地方から運ばれてきたらしき品を物色していると、何やら騒がしさが伝わってきた。船が停泊している浜辺で、何か起こっているらしい。

「何の騒ぎじゃろうな」

 甲玄が首を傾げる。

 その時、ちょうど騒ぎの起こっている方から駆けてきた男が二人に目を止めた。

「あっ、お坊様!ちょうどいい。こちらへ来てくだせぇ!」

 急に声をかけられて、二人は顔を見合わせる。数瞬の間の後、朔夜が応対した。

「どうしました?」

「へぇ、実は……」

 男が語り出したのは、今まさに騒ぎになっているちょうどその事であった。


 ここ暫く、この付近の漁や海運は振るわない。というのも、海に化物が出て、通行する船を悉く沈めてしまうからである。近海の漁ならば問題ないが、ひと度沖へ漕ぎ出しある場所へ差し掛かると、決まって海の中から化物が現れ、船を沈めてしまうのだとか。

 不思議なことに今のところその海難で命を落とした者はおらず、皆無事に浜に流れ着くのだが、このまま海運が遮断されれば港で生活する者達にとっては死活問題である。


 そこで、船頭達は考えた。

 海の妖怪に妨害されるのは、きっと海の神様がご立腹だからに違いない。

 生け贄を捧げれば、きっと海神の怒りは収まるだろう、と。


「それで、身寄りも無く働き手にもならん娘を、生け贄として捧げることにしたんでさ」

 朔夜も甲玄も動かない。予想だにしなかった事の重大さに戸惑っているようでもあった。

「……生け贄を、ね……」

 低い声が、甲玄の耳に届く。視線を向けると、全ての表情を削ぎ落としたような朔夜の表情があった。

「人間はいつもこうだ」

 聞こえるか聞こえないかという微かな声で、朔夜は呟いた。その瞳は暗く、冷たい。

「朔夜……?」

 甲玄が思わず名を呼ぶと、朔夜は顔を上げ、普段と変わらぬ笑顔を見せた。そのさりげなさが、かえって甲玄の背筋を凍らせる。

 そんな二人の様子には気づかないのか、男は更に話を進めた。


「しかしわしらにも慈悲はありますからね。是非ともお坊様に、あの娘の為に念仏をあげてやって頂きたいんで」

 勝手な事を言う、と甲玄は不快に思った。自分達の都合で生け贄に仕立て上げておいて、何が慈悲か。

「引き受けました」

「朔夜!」

 了承の返事をした朔夜に、甲玄はぎょっと目を剥く。

 そもそも、朔夜も甲玄も真の僧侶ではない。経の真似事くらいなら雑作もないが、それではあまりにその娘が憐れというものではないか。しかし朔夜は眉一つ動かさずに続ける。

「とはいえ、生け贄を捧げたからといって海が鎮まるとも限りません。如何でしょう」

 すっと目を細めて、朔夜は提案した。

「我々をその船に乗せては頂けませんか。もしも件の蛟が私の手に負えるものならば、鎮めて差し上げよう。人死にを出すのは、それが敗れてからでも遅くはありますまい」

 甲玄は目を丸くして朔夜を見る。


 朔夜は物腰こそ柔らかいが、必要以上に人と関わることは好まない。それがわざわざこのような慈善事業じみた行為を自ら申し出るとは。

 朔夜の提案を受けた男は暫し逡巡しているようであったが、やがて二人にその場で待つように言って駆け戻って行った。恐らく、仲間と相談するつもりなのだろう。


 甲玄は朔夜に率直な疑問をぶつけた。

「珍しいのう、自ら面倒事に関わろうとは。どうした風の吹き回しじゃ」

 問いを受けた朔夜は、淡く微笑む。

「……少し、昔のことを思い出してね」

 それは本当に遠い、遠い昔。

 朔夜がまだ間違いなく「人間」だった頃のこと。

 朔夜は自分の掌に目を落とした。


 この手で、小さな手を引いて、旅をした。

 たった一人、彼の傍にいた少女。

 彼女もまた、大人達の勝手な都合で贄として差し出されかけた。

 彼女はあれから幸せに暮らせたのだろうか。

 今となっては、知る術も無い。


「……だから、今回のことは俺のわがままだ。無理について来なくてもいいよ」

 朔夜が言うと、甲玄はやや苛立たしげに頭を掻いた。

「そういうわけにもゆくまい。わしも行く。但し万一船が沈んだらお前がわしを担いで岸まで泳げ」

「……少し無理があるかな、体格的に。原型に戻ってくれるならわけはないけれど」

「冗談はよせ。原型に戻ると海水が肌にしみるじゃろうが」

 軽口を叩き合い、少し笑う。甲玄は内心ほっとした。いつもの朔夜だ。


 つい先程、何かを回想するように視線を落とした朔夜は、何だか遠く見えたのだ。

 甲玄達が踏み込めない過去の中に入り込んでしまった朔夜には手が届かない気がして、少し、恐ろしかった。


 そうこうするうちに、先程の男が戻ってくる。

 ひとわたり二人の姿を眺めてから、大きく頷いて体を引いた。

「どうぞ、こちらへ。船へご案内しましょう」

 先導する男の後ろに、朔夜も甲玄も続いた。船に乗り込む際、二人の目に少女の姿が映る。

「……これが『生け贄』か」

 甲玄が低く呟いた。少女は貧しいと見えて、摺りきれた着物を着、俯いて座っている。その膝の上に、海に沈めた後浮かび上がらない為であろう、大きめの石を抱かされていた。

 出航を促す声が響き、船員達が慌ただしく動き始める。

 そんな中で、朔夜がそっと屈んで少女の頭に手を載せた。

「大丈夫」

 見上げてくる少女に、微笑みかける。

「君はまだ、生きられるよ」

 生かしてみせる。

 そう囁いて少女の頭を撫でる朔夜を横目に見ながら、甲玄は瓢を傾けた。視線を前方に投げれば、灰色に立ち込めた雲が見える。

「……いやに生温い風じゃな」

 その雲へ向かって、船は漕ぎ出してゆく。



 出航より四半刻。

 沖合いへ出た船の上で様子を見ていた朔夜と甲玄は、急激に風が強まり波が荒れ始めたのを感じた。

「お出ましのようだね」

 呟いた朔夜が、舷側に立つ。にわかに降りだした雨がその顔や肩を容赦なく叩いた。海が大きく波打ち、船が木の葉のごとく揺れる。

「来るぞ!」

「ひいぃいい!!」

 船員達の悲鳴が響き、急速に盛り上がった波が弾けた。飛沫の中から、太さ一丈もあろうかという巨体が伸び上がる。船員の中には腰を抜かし、必死に念仏を唱える者も居た。

 そんな中にあって、朔夜は微動だにせずに巨体を見上げていた。その表情には一点の怖れもなく、口許には淡い笑みすら浮かんでいる。


 天に向かって伸び上がった巨体の頭部が、ゆっくりと船に近づく。

 それは、大きな蛟であった。

 青黒い鱗を光らせた顔が、船の真上にきた。船員達は真っ青になって震えるばかりで、もはや舵をとる者もいない。


「そ……そうだ、生け贄を……」

「蛟殿。一つお尋ねしたい」

 誰かが我に返って贄を差し出そうとするのを遮るように、朔夜が声をあげた。蛟の瞳が、ぎろりと彼に向けられる。

「あなたは何故船を沈め続けるんだい」

 まるで今夜の天気でも尋ねるかのように軽い調子で口にした朔夜に、船員達は一様に狂人でも見るかのような目を向けた。

「な、何を馬鹿なことを……答えるわけがない!食われるぞ!」

 叫んだ男は、蛟にねめつけられて沈黙した。がくがくと震えながら、近くに居た男の背に隠れる。

「情けないのう」

 背の持ち主は、甲玄であった。呆れたように呟きながら酒をあおる彼の表情にもまた、怖れなど無い。

 蛟はぐるりと船員達を見回し、最後に朔夜に目を戻すと、ふん、と息を吐いた。

「決まってるやろ」

 どこか得意気に、胸を張るように体を反らして、蛟は言い放った。


「嫁探しや!」


 船内に、痛いほどの沈黙が降りた。誰かが取り落とした短刀が、床にぶつかって小さく跳ねる。


「……は?」

 甲玄が漏らした一声こそ、船内の人間達の総意であった。


「……嫁探しで、何故船を沈める必要が?」

 腕組みをした朔夜が問う。蛟はゆっくりと顔を低い位置まで下げ、朔夜と向かい合った。

「やってどの船も女の子乗ってへんのやもん。早い話が腹いせやな。でも誰も死なせてへんで。死なすとまた東海宮がうるさいしな」

 誰もがぽかんと口を開いて蛟を見た。開いた口が塞がらないとはこの事である。

 寸時額を押さえた朔夜は、気を取り直して蛟に問うた。

「何故、人間の嫁を?人は君達妖怪とは寿命を異にする。長く連れ添えないことくらいわかっているだろう」

 況してやこの蛟はどう見ても低級の妖怪ではなさそうである。だとすれば、寿命は妖怪の中でも長いだろう。人間の一生など刹那にも等しい筈だった。

「わかってへんなぁ」

 蛟は首を振った。長い体がくねる度に、船は急流に浮かぶ木の葉のように揺れる。

「俺は恋多き男やねん。ずっと一人と連れ添おうなん、到底無理や。やったら、短い人間の一生、死ぬまで本気で大事にしたる方が実りのある恋やと思わへんか?」

 わかるような、わからないような。

 何とも独特な価値観である。

「……人はすぐに老いる。それでも?」

「美しい時だけ愛でてそれでポイやなんて、俺はそないな薄情者やない。それもまた人間の可愛げいうもんやろ」

 どうやら、この蛟にはこの蛟なりの価値観があるらしい。


 手段は褒められたものではないが、この価値観は嫌いではないな、というのが、朔夜の感想だった。

 自分の性情を理解した上で、最も適した形での恋愛を実行しようとしているのだ。己への理解が深い分、彼は宣言通り、短い人間の一生を彼なりに全力の愛情で包み込むに違いない。


「あの……っ」

 不意に会話に割り込んだのは、少女の細い声だった。

「あの、それ、おらではいけませんか」

「……うん?」

 蛟の視線が少女に向かう。その表情が、ぱっと輝いたように見えた。

「なんや、女の子乗せとるんやん。ふぅん」

 蛟が少女の顔を覗き込もうとするのを、朔夜が遮る。不満そうな蛟を無視して、諭すように少女に言った。

「わかっているのかい。蛟の言うことが真実とは限らない。それに相手は妖怪だ。人間の常識でははかれない」

「承知のうえです」

 少女はきっぱりと言った。

「それでも、愛して貰えるなら、今よりずっとましです」

 さすがの朔夜も、言葉に詰まった。少女は更に切々と訴える。

「そもそもおらは蛟さんを鎮める為の贄として連れてこられたんです。命が助かるどころか嫁にして貰えるなら、おらは喜んで行きます」

「……贄やと?」

 蛟が低く呟く。

 次の瞬間、朔夜は間一髪飛び退いた。一瞬前まで彼の居た場所を、蛟の牙が破壊している。

「どういうことや?お前ら女の子犠牲にして自分等は助かろうとしてこの子連れてきたんか」

 蛟が牙を剥く。朔夜は急展開に困ったように肩を竦めた。

 慌てたのは少女である。彼女は咄嗟に朔夜の前に走り出ると、叫んだ。

「やめてください!この人は、生け贄にされるおらを助けるために船に乗ってくれたんです!」

 震えながら腕を広げ朔夜を庇う少女を、蛟はじっと見据えた。朔夜は軽く苦笑する。

「さがっていなさい。危険だ」

「でも……」

 眉を下げる少女に、蛟がずいと顔を近づける。少女は思わずびくりと肩を跳ねさせた。

「怖がらんでええ。取って食ったりはせんから」

 そいつは腐った人間とはちゃうようやし、と呟くように続け、蛟は姿勢を低くした。背中を少女に差し出す。

「ほな行こうか、お嬢さん」

「あ……」

 少女は戸惑ったように蛟の背を見、朔夜を顧みた。朔夜は小さく溜息を吐く。

「少し待ちなよ」

 そう声を掛けて、前に出る。

「その姿のままこの子を娶るつもりかい。そもそも人間のなりをして嫁探しをすれば良かったんじゃないか。君の霊格ならできる筈だろう」

 朔夜の指摘に、蛟は表情を歪めた。人間のそれとは異なる顔立ちだが、不思議とよくわかる。

 痛いところを突かれた、という顔だった。

「いや、実は……できんのや。今は」

「『今は』?」

 怪訝そうに眉を上げる朔夜に、蛟は気まずげに事情を語った。

 曰く、暫く前に少しばかり悪さが過ぎて東海竜王を怒らせ、罰として姿を変えられなくされたのだとか。


「そんな大層なことしたわけやないんやで。こんな罰、あまりにも殺生や……」

 蛟はその長い体をくねらせて嘆く。朔夜はふむ、と思案した。

 少女にとっては蛟に嫁ぐのは悪い話ではないが、さすがに相手がこの姿のままでは抵抗もあろう。それに、今すぐ少女を蛟に引き渡すのは、絵面的にはまるっきり人身御供である。何だか気分が悪い。

「よし、こうしよう」

 朔夜は手を打って、懐から何やら紙を取り出した。

「お互い、七日ほど猶予を取ろうじゃないか」

 提案しながら小刀を取り出し、紙を器用に切り抜いていく。

「その七日間で、俺達は彼女の嫁入り支度を整える。嫁入り道具までは持たせてやれないけれど、綺麗な着物を着せて準備を整えてあげるくらいはできるよ。君もせっかくなら人並みに祝言を上げたいだろう」

 ちらりと少女に視線を流すと、彼女は戸惑いながらも頷いていた。

「そして、君の方は竜王に赦しを乞うて人型に化ける権利を取り戻す。大罪を犯したわけでないのなら赦してもらえるだろう」

「無茶言うやっちゃな。赦してもらえへんかったらどないすんねん」

 じとりと睨んでくる蛟に対し、朔夜は涼しい顔で小刀を懐に収める。

「多分大丈夫だと思う。何なら、俺の『貸し』を使ってもいい」

「貸し?」

 朔夜は頷いた。

「東海宮にはちょっとした貸しがあってね。本当に些細なものだけれど、君を赦す口実くらいにはなる」

 蛟は思わずぽかんと口を開けた。人間風情が、東海宮に貸しを作るとは。

「お前何者やねん……」

「大した者じゃないよ。あれはただの成り行きさ」

 そう言って、朔夜は掌を差し出した。


 そこに、蝶の形に切り抜かれた紙が載っている。朔夜がふっと息を吹きかけると、それは自力で羽ばたき始め、生きている蝶のように蛟の周りを飛んだ。

「七日後に、その胡蝶が君を俺の屋敷まで案内してくれる」

 蛟は顔の傍に舞う蝶を見詰めた。蝶はその視線を感じ取ったかのように、蛟の頭に止まる。

「……わかった。ほな、七日後に迎えに行く」

 蛟は海に戻る前に、もう一度少女の顔を覗き込んだ。

「俺の可愛い御嫁はん、名前を聴かせてくれへんか」

 少女は精一杯の勇気で真っ直ぐに蛟を見上げると、存外強い声で答えた。

「せん。おら、せんといいます」




 東海宮の役所に蛟が現れたのは、役人達が一日の仕事を終えて背伸びなどし始めた頃だった。

 長い体が歩いていた小役人を危うく轢きかけるのを気にもせずに奥へと進んだ蛟は、文机で何やら文書を作成している男に声を掛けた。

「おい、鰲秋(ごうしゅう)

 男が顔を上げる。

 小役人の中には顔が魚であったり鰓が付いていたり頭に提灯をぶら下げていたりする者もいるが、彼は完璧に人間の姿をしていた。

「蛟ですか。何の用でしょう」

 抑揚の無い声でそう言った男、鰲秋は、筆を置いて書き上がった文書を脇に避けた。蛟はその目の前まで進み出ると、単刀直入に言う。

「俺の罰を解いて欲しいんや」

「罰?」

 切れ長の目を瞬かせた鰲秋は、改めて蛟の姿を見ると納得したように頷いた。

「なるほど、道理で邪魔なばかりの巨体を引きずっているわけですね」

「喧嘩売っとんのか」

 いや、と鰲秋は首を振る。

 実際、彼には悪気など無いのだ。ただ悪気が無い分余計に性質が悪いということはある。

「罰の話でしたね。お前が公主にちょっかいをかけて竜王のお怒りを買った……」

「掘り起こすな!」

 蛟はくわっと口を開けて威嚇するが、鰲秋はというと欠片も動じる素振りを見せず、ただ二度ほど手を打った。

「解けました」

「は?」

 鰲秋の唐突な言葉に、蛟は唖然とする。一方鰲秋は顔色一つ変えず、墨の乾いた文書をくるくると丸め始めた。

「ちょい待ち。何でお前が俺の罰を解けんねん」

「私が法官だからですが」

「それは知っとるわ。せやかてこれは竜王の罰やぞ。何でお前の独断で」

 蛟が問い詰めると、鰲秋は丸めた書類を補佐官に手渡しながら言った。

「お前が反省を見せたら解いても良いと一任されていました。随分遅かったですね。危うく忘れるところでした」

 淡々と事実を明かされて、蛟はがっくりと項垂れた。とっくに刑期は明けていたというのか。


「あいつの貸しなんか全く使うことなかったな……」

「貸し?」

 蛟の呟きに、鰲秋が反応する。ついでだから、と蛟は気になっていた事を訊いてみることにした。

「ああ、何や人間が、東海宮にちょい貸しがある言うてたで。そんなことがあり得るんかいな」

「人間が?」

 鰲秋は記憶を探るように目を細めた。


「そういえば」

 心当たりに思い当ったらしく、小さく頷く。

「以前に牢獄の罪人が逃げ出したことがあったでしょう。その折、罪人の逮捕に一役買った人間がいました。確か亀が一緒でしたが」

「それやな」

 蛟は先程遭遇した船の上を思い浮かべた。朔夜は間違いなく人間だったが、その傍にいた僧衣の男は水の臭いがした。恐らく池かどこかに住まう亀が人間に化けていたのだろう。


「……ん?」

 そこで、蛟は重大な疑問点に思い当った。

「なあ、それってあの海蛇が逃げた時の話やんな?」

「そうです」

 鰲秋が頷く。直接携わっていない蛟でも事件のことを覚えているのは、単純に東海宮の牢から罪人が逃げるような事態はなかなか起こらないからである。件の海蛇事件以後は絶無であると言っていい。

 問題は。

「……あれって、結構前のことやなかったっけ?」

 記憶が曖昧だが、少なくとも昨年一昨年の出来事では無かった気がする。蛟が首をひねると、鰲秋も首を傾げた。

「記録官」

 鰲秋が部下に声を掛ける。

「海蛇が牢を破って逃げ出した事件は、いつでしたか」

 問いを受けた記録官は、手元の記録を大急ぎで捲った。目にもとまらぬ速さである。

 やがて手を止めた彼は、背筋をまっすぐに伸ばして答えた。

「壬辰の年であります」

「三年前ですか」

 そんなものだっただろうか、と首を傾げる二人に、記録官が訂正を入れる。

「いえ、その前の、前の壬辰であります」

「はぁ!?」

 蛟は思わず声を上げた。鰲秋が怪訝そうに見上げてくるが、自分は間違っていない。断言できる。

「おかしいやろ!干支が一廻りするのに六十年かかるんやで!」

 そう、壬辰の年から次の壬辰の年まで、六十年。それが二廻りということは、百二十年は経過している計算になる。

「何であいつは生きてんねん!」

 長命である高位の妖怪や神仙達は、総じて時間の感覚が鈍い。しかしそれでも、人間の寿命が長くもって百年と少しであることくらいは知っている。

「人間はあっちゅう間に老いてすぐに死んでまう、脆い生き物や。なのにあいつ、どう見てもまだ餓鬼やったで」

 あり得ないのだ。百二十年以上前に東海宮に手を貸した人間が、未だあんな若い姿で生きているなんて。

 蛟の言葉を受け、鰲秋も口元に手を当てて考え始めた。

「あれは確かに人間であったと記憶しています。子孫か何かでは?」

「……そう考えれば、まぁ辻褄は合うか」

 何となくすっきりしない気分を抱えながらも、蛟は自分を落ち着けた。


 ちょうどその時、蛟の背後から現れた者がいた。

「でかい図体のまま宮に入るな、邪魔だ」

 不機嫌な声でそう言ったのは、白い髪を揺らし白い衣を纏った、神であった。

「北斗神君」

 鰲秋が即座に椅子から立ち上がり、礼をする。

「何用で、こちらに?」

「冥府の下役人が間違いをして、まだ命数の残っている東海宮の者を冥界へ引き込んでしまったらしい。偶然近くに寄ったので報告書を届けに来た」

 ばさり、と書類を投げた北斗神君は、不意に蛟を顧みた。わけもわからず睨みつけられて、蛟は硬直する。

「あの……」

「気に食わん気配がするな、貴様から」

 ちっ、と舌打ちまでされるが、蛟には全く身に覚えが無い。だらだらと冷や汗を流す蛟に、北斗神君は言った。

「あまり深入りするな」

 何にだ、という蛟の心の声が聞こえたわけではあるまいが、北斗神君は片手を持ちあげ、蛟の首元に止まっている蝶を指差す。

「その式の使い手に、だ」

「あの人間を御存じで?」

 蛇に睨まれた蛙よろしく動けなくなっている蛟に代わり、鰲秋が問う。北斗神君はふん、と鼻を鳴らした。

「知っている」

 踵を返しながら、吐き捨てるように言った。

「あれは『死』の権利を永遠に奪われた、大罪人だ」




 七日が経った。

 縁側に座って寛いでいた朔夜と甲玄は、玉藤の呼び声を聞いて腰を上げた。

「準備できたようだね」

「やれやれ、ようやくか」

 欠伸をしながら、甲玄が障子を開ける。そこに、まるで別人のようになったせんがいた。

「おお、こうして見ると綺麗じゃな」

 甲玄が目を細める。その額に、飛んできた扇が直撃した。

「何をするんじゃ玉藤!」

「目つきが気に入らなかったのよ!この子は花嫁なんだからね!手出ししたら承知しないよ!」

「誰が他人のもんに手なんぞ出すか!」

 あっという間に言い合いを始めた二人に苦笑しつつ、朔夜はせんに歩み寄る。緊張しているのか俯きがちの彼女の肩に手を置いて、にっこりと笑った。

「うん、どこから見ても綺麗な花嫁だ」

「ありがとうございます。ほんに、おら、朔夜さんにはお礼の言葉もありません」

 せんが深々と頭を下げる。それに微笑み返した朔夜の耳に、鈴の鳴る音が届いた。

「さあ、新郎のお出ましだ」


 屋敷の上空に、雲が立ち込める。その中から、一つの人影が姿を現した。

「迎えに来たで、せん」

 ふわりと着地したその人影は、漆黒の髪を持つ青年であった。赤い祝い装束を着たその男は、優しくせんの手を握る。

「え、……蛟さん、ですか」

「そうやで。この通り、ちゃんと化けられるようになっとる」

 ほな行こか、と軽い調子で言って、蛟はせんを抱きあげた。見送る面々に視線を向け、にやりと笑う。

「世話になったなあ。この借りはいつか返すさかい」

「別にいいよ。但し、その子を幸せにしてやることだ」

 朔夜が釘をさすと、蛟は言われるまでもない、という風に笑った。そのまま、再び雲へ向かって駆け戻って行く。


「当たり前ではあるけれど」

 朔夜は小さく呟いた。

「誰かの願いが叶う瞬間というのは、いいね」

 ゆっくりと目を伏せ、遠ざかってゆく雲に背を向ける。


 朔夜には叶えるべき願いも、その権利も無い。

 ただ、終わりを奪われた長い長い時間を生き続けるだけ。


「行ってしまったのう」

 また暇になる、とぼやきながら、甲玄が徳利を傾ける。朔夜はふと足を止めた。

「暇つぶしに仕事でもしようか」

「うん?」

 唐突な朔夜の言葉に、同居人達の視線が集まる。

 朔夜は袂から出した扇子をくるりと回して、言った。


「そうだね、例えば――誰かの願いを叶える、とか」


 雲が去り、綺麗に晴れ渡った空から降り注ぐ温かな日差しが、朔夜の笑顔を照らしていた。


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