浮雲、庵を定むること
朔夜は早足に山の方へと向かった。
出来るだけ、今村で起こっている「何か」に巻き込まれずにこの地を去りたかったからである。
しかし、そうは問屋が卸さないようであった。
「あっ、お坊様!」
何処からか朔夜の姿を認めた村人が駆け寄ってくる。
玉藤はさっと朔夜の背中に掛けられた包みの中に隠れた。
多少小さく化けるくらいはわけないことである。
「……どうなさいました?」
朔夜が問い掛けると、息を切らした村人はすがるように朔夜の前に膝をついた。
「ここのところ、質の悪い化物に悩まされているんです。どうか、お坊様のお力で何とか……!」
朔夜は内心溜息を吐いた。
出来れば、関わり合いになりたくないところである。
この時ばかりは、旅に便利だからと雲水姿を選択したことを後悔したくなった。
「生憎ですが……」
朔夜は断わりの言葉を口にしたが、村人は引き下がらない。
「どうかお願いします……!これでもう四人目だ!若い娘っこばかり……早いとこあの亀を退治しねえと!!」
朔夜はぴたりと動きを止めた。
「亀……?」
「はい」
反応を示した朔夜に希望を見たのか、村人は勢いこんで頷く。
「向こうの破れ寺に、以前から化け亀が棲みついてるんでさあ。そいつが村の娘達を攫って喰ってやがるに違いありません」
朔夜は首を傾げた。
村人が言っているのは、明らかに甲玄のことである。
しかし朔夜の見るところ、甲玄は人を襲うような妖ではなかった。
「おうい、与吉!!」
遠くから村人の姿を認めた別の村人が、大きな声で呼ばわる。
「ついに今夜、男衆を集めて乗り込むことになったぜ!もう我慢ならねえからな!」
「そいつはいいや」
顔を輝かせる村人に、朔夜は問いかけた。
「乗り込むというと、寺に?」
「はい、もう放っておけませんや」
村人は気が逸るのか、朔夜に縋っていたのも忘れた様子で挨拶もそこそこに走って行った。
朔夜は難しい顔をして、その背を見送る。
「どうするの」
こそりと荷包みから顔を出した玉藤が問う。
「あのままだと、村人に袋叩きにされるわよ、あの亀」
朔夜はそれには答えず、暫く村の方を見ていたが、やがて踵を返して歩き出した。
「ちょっと主!」
「――関係無いさ」
温度の無い声で、朔夜は言った。
「勘違いしてはいけないよ、玉藤。俺達はただの通りすがり。甲玄がどうなろうと、俺には関わりの無いことなんだ」
玉藤は言葉を失った。
時折、ほんの時折、朔夜はこうして酷く冷たい一面を見せることがある。
それは他者との関わりを望まない彼の一つの自衛策なのだろうとわかってはいても、そういう一面を垣間見るたび、玉藤はどうしても薄ら寒さを覚えてしまうのだった。
誰か、彼に人の心――人に限らず、情けあるものの心を、思い出させてやれればいいのに。
密かに願いながら、玉藤は朔夜の背に寄り添った。
朔夜が向かった先は、山の麓にある松の木の元だった。
この松の木の精と朔夜はかねてから懇意にしていて、今でも近くを通る際はこうして立ち寄る。
ところが。
「……おや」
緩やかな山道を登って来た朔夜は眉を寄せた。
以前、そこには件の松の木が生えているだけであった。
それなのに、今、朔夜の目に映っているのは、堂々とした家屋の土塀である。
どうやら、松の木はその塀の中に囲い込まれてしまっているようだった。
「あら、家が建ってるじゃない」
「玉藤」
荷包みから這い出そうとした玉藤を、朔夜が鋭く呼ぶ。
「出て来ては駄目だ。そこにいなさい」
真剣な面持ちで言う朔夜に気圧される形で、玉藤は荷包みの中に戻った。
理由を訊こうと口を開いた時、空気が揺らめいて一人の青年が姿を現す。
「朔夜!待っていましたよ」
それは例の松の木の精だった。
名を松影と言い、玉藤とも面識がある。彼の姿を認めた玉藤は目を見開いた。
「松影!あんた随分憔悴してるじゃない」
朔夜の注意を思い出して小声で呼びかけると、松影は苦笑を浮かべた。
「それは憔悴しもしますよ。あんな強烈な邪気に晒されっぱなしなんですから」
玉藤は目を見開いて、そっと屋敷の様子を窺った。
見た所何も変わったところはないように見えるが、朔夜は何か感じ取っているらしく、緊張を解かない。
「いつからだ」
「もう、三月になります」
朔夜の問いに、松影が答える。朔夜はじっと屋敷を見据えた。
「村の娘達を喰っているのは」
「あれです。私に止める力があればよかったのですが……」
悔しげに言って、松影は目を伏せた。
松影は人と積極的に関わる質ではないが、基本的には人間に対して友好的である。目の前で村人が妖に喰われるのを見ていなければならなかった心情はいかほどのものか、察するに余りある。
「君が心を痛める必要は無いよ、松影」
朔夜は静かに言った。
「かなり性質が悪そうだ。不用意に手出しするのは危険だよ」
干渉を控えた松影の判断が間違っていなかったことを示唆して、懐から扇子を取り出す。
「もっとも、もう無関係とはいかないようだけれど。――どうやら、気付かれたようだ」
松影と玉藤は、はっと屋敷に目を向けた。
土塀の向こうから、じわじわと寒気を誘う禍々しい空気がしみだしてくるように感じられる。
「玉藤、決して俺から離れてはいけないよ。松影も、喰われることはないだろうけれど、本体に戻っていなさい」
「……わかりました」
松影がふっと姿を消す。
朔夜は何食わぬ顔で、屋敷の門へ歩み寄った。
「ごめんください」
声を掛けると、するすると木戸が開く。顔を出したのは、まだあどけない童子だった。
「何の御用でしょう」
礼儀正しく応対する童子に、朔夜もまた物腰柔らかに話しかける。
「実は旅の途次に食料を切らしてしまいまして。何か恵んでいただければ助かるのですが」
童子は暫しじっと朔夜を観察していたが、やがて屋敷の奥へ向かって声を掛けた。
「主様、托鉢の御坊様がおいでなのですが」
屋敷の内部は暗く、外からは様子がうかがえない。
ややあって、若い男の声が童子の呼びかけに答えた。
「お通ししなさい。ここで何か召しあがっていただくのがよい」
どこかねっとりとした、男にしてはやや高めの声である。童子はその声の指示に従って戸を大きく開き、朔夜を迎え入れた。
「中へどうぞ。お食事をご用意致します」
「いえ、糒か何か恵んでいただければ」
朔夜は涼しい顔で思ってもいない事を言う。童子は笑って、半ば強引に朔夜を中へ入れた。
「生憎、すぐにお渡しできるようなものを切らしておりまして。どうぞ中で召しあがって行ってください」
土間へ踏み込んだ朔夜の背後で、童子がぱたりと戸を閉める。
どこからか、濃い水の臭いがした。
――なるほど、この水の臭いが、犯人を甲玄と誤解させた一因か。
内心で頷きながら、童子の案内に従って奥の座敷へと進む。
そこに、商家の若旦那風の男が居た。朔夜の姿を見ると、にこりと笑って手招きする。
「やあ、このような田舎で食料を切らされたとあってはお困りでしょう。どうぞ、こちらへ」
「助かります」
朔夜も笑顔を返し、男の向かいへ腰を下ろす。
「それで」
男がゆるりと目を細める。
爬虫類じみた顔だな、と朔夜は思った。
「村人にでも頼まれたか」
唐突にがらりと口調を変え、男は朔夜をねめつけた。朔夜は涼しい顔をしている。
「何のことでしょう」
微笑を保ったままとぼける朔夜に、背後から先程の童子が飛びかかった。
朔夜は振り返りもせず、体を横にずらしてその突進をかわすと、勢い余ってつんのめった童子の襟首を掴んで床に押し付ける。
「行儀の悪い童子ですね」
朔夜が飄々と皮肉を言うが、男は動じずに笑った。
「腹が減っているのだよ」
ちろり、と長い舌が唇を舐める。その先は二股に割れていた。
「今朝方の獲物は小柄だったので、私が全部喰ってしまったからね」
見る見るうちに、男の口が左右に裂けていく。
朔夜は慌てる様子は見せずに、押さえつけられてもがいている童子の首に扇子を当て、小さく気合いを込めた。途端、童子の姿が崩れ、一尾の大きな魚へと変わる。
「なるほど」
一つ頷いた朔夜は、既に人間の顔ではなくなった男に目を向けた。
「ということは、そちらはさしずめ海蛇の類か。何故陸にあがってきたのかは知らないが」
「それがわかって何になる」
裂けた口で、男は笑った。
「自ら我が屋敷に飛び込んでくるとは愚かなものだ。男は娘ほど旨くはないが、まあいい。私の血肉となるがいい」
かっと口を開いた男の体が伸び、朔夜に襲いかかる。
朔夜はぱんと扇子を開いた。
「乱」
小さく呟くと同時に、扇子から無数の花弁が散り出、風に吹き乱されるかのように不規則に渦を巻く。
畳や文机を切り裂きながら、鋭利な花弁が男を取り囲んだ。
一斉に全身を包み込む花弁に、男の姿は埋没し、為す術無く切り裂かれるかに見えた。
しかし。
「笑止!」
男が叫ぶと同時、花弁が吹き払われ、逆しまに渦巻いて朔夜の皮膚を切り裂く。
一瞬息を飲んだ朔夜だったが、瞬きの間に動揺を収めて扇子を閉じた。
花弁が消える。
「性質の悪いものだとは思っていたけれど……どうもただの妖怪ではなさそうだね」
頬に滲む血を手の甲で拭いながら、朔夜は言った。男が笑う。
「私をそこらの有象無象と一緒にされては困る。しかし私の素性など知ってもどうにもなるまい」
お前は今、ここで私の胃袋に入るのだから。
あざ笑うように言った男が、朔夜に向かって身を伸びあがらせる。
朔夜が扇子を構えた時。
「そこまでじゃ外道がっ!!」
不意に第三者の声が割り込み、半ば蛇の姿を顕していた男のこめかみに草鞋がめりこんだ。
「……おや」
全くの不意を衝かれた蛇の体が、見事な飛び蹴りを受けた反動で大きく横滑りし、柱に強かに頭を打ち付ける。朔夜は半ば呆れ顔でその様を見ていた。
「な、何奴……」
脳震盪でも起こしかけたのか、ふらふらしながら蛇が誰何する。その目の前に仁王立ちしたのは、墨染の衣を纏った男だった。
「何奴はわしの台詞じゃ。酒を買いに久々に村に出てみれば、わしが村娘をかどわかして喰っとることになっとるし。冗談ではないぞ」
憤慨した様子で、男は言う。朔夜はやれやれと衣の裾を叩いた。
「腹が立ったのはわかるけれど、こんな相手に素手で殴りこむ奴があるか。命知らずもほどほどにした方が身のためだよ」
「おう、朔夜ではないか」
そう言って目を瞬かせる甲玄は、どうやら朔夜が居ることに気づいていなかったようである。小さく溜息を吐いて、朔夜は蛇に扇子を突きつけた。
「さて、どうするかな」
蛇はまだ動けないらしく目立った抵抗は見せないが、尊大な態度は崩さずにふんと鼻を鳴らした。
「お前達に何ができる。私を殺すか?その鈍らな扇子で?」
「そうだね、それもできるけれど、それではつまらない」
朔夜の酷薄な物言いに、甲玄が眉を上げる。
蛇はちろりと舌を出した。
「ならばどうする?人間風情が」
「そうだね、例えば」
朔夜はにっこりと笑った。
「ちょうど外に来ている、東海宮の役人に引き渡すとか」
それまで余裕を崩さなかった蛇に、目に見えて動揺が走った。同時に、空気が揺らめいて中華の官人風の衣裳を纏った男が姿を現す。
「私の気配が読めるとは、大した人間がいたものです」
そう言って朔夜に目礼した男は、半ば人間の姿をとどめたままなので明らかに顔面蒼白になっていることが見て取れる蛇に目を向けた。
「さて、お前は罪を得て東海宮に囚われていたところ、牢を破って逃げ出し、今またこの地で罪を重ねました。――わかっていますね?」
男が冷やかに言うと、どこからか下役人風の男たちがわらわらと現れて、暴れる蛇に縄を掛けて引きずって行ってしまった。
官人風の男は最後に朔夜と甲玄に向き直り、深々と礼をする。
「協力に感謝いたします」
感謝の言葉を述べながらも、冷淡な態度を崩さないのは性格か、役人としての性なのか。
ふっと姿を消した男を見送ってから、朔夜は肩をすくめた。
「何だか、割を食った感じだね。まあ、東海宮に貸し一つ作れたのなら、よしとするか」
「朔夜」
甲玄が声をかけ、朔夜の袖を掴む。
「わしは良いが、お前は怪我をした分完全に損じゃろうが」
「ああ、心配ないよ」
朔夜は軽く笑うと、傷口を手で拭って見せた。
甲玄は目を見開く。
衣が切り裂かれ、確かに血がにじんでいるのに、そこにはもう、傷など跡形も無かった。
「お前……」
「さて、これからだけど」
何か言いたげな甲玄の言葉を敢えて遮って、朔夜が話題を変える。
「ああ、そうだ。松影、玉藤。もう大丈夫だよ」
朔夜の呼びかけに応じて、松影が姿を現し、玉藤も荷包みから這い出して朔夜の肩に乗る。
「妖が居なくなったのは何よりだけど、ここの空気はかなり淀んでしまっているね。これでは松影も過ごしにくいだろう」
屋敷の中を見渡して、朔夜が言う。強力な邪気を持つ妖怪が棲みついていた場所にはその気配が染みつき、容易には除けそうになかった。
「ええ、正直つらいですね」
松影が苦笑を浮かべる。彼の本体は松の木である。どんなにこの場が棲みにくかろうと、本体がこの屋敷の庭にある以上、遠くへは離れられないのだった。
「よし」
障子を開けて庭と屋敷を見まわしていた朔夜が、何やら決意したように手を叩く。三組の視線を集めて、にこりと笑った。
「俺がここに住もう。すぐにとはいかないけれど、一月もすれば元に戻せるだろう」
「え?」
玉藤が声をあげ、松影も目を見開く。朔夜は肩に乗っている玉藤の背を撫でながら言った。
「いい加減、この狭い島国を渡り歩くのも飽きてきたところだしね。玉藤は嫌か?」
玉藤はふさりと尻尾を揺らした。
「別に、嫌じゃないわ。驚いただけよ」
「じゃあ、決まりだ」
朔夜は結論を出すと、懐から矢立と紙を出して何やら書き始める。
どうやら札の類らしい。書けた端からふっと息を吹きかけると、ふわりと飛んでそれぞれ柱や天井に張り付いた。
「つくづく変わった奴じゃな」
それまで黙っていた甲玄が口を開いた。
「朔夜。わしをここの池に住まわせてくれんか」
開け放たれた障子の向こうの庭を眺めながら、甲玄は言う。庭には、大きくはないがそこそこの深さのありそうな池があった。
「どの道、わしはもうあの寺には戻れん」
人を喰っていた張本人である妖怪は捕らえられたが、村人達は甲玄が犯人であると誤解したままである。今更弁解したところで、生じてしまった軋轢が消しされるとも思えなかった。
「……いいよ」
朔夜はふわりと笑んだ。
「よろしく、甲玄」
「おう」
甲玄はほんの少し、眩しそうな顔で笑った。
その日、村では雨が降った。
作物に実りを促す、柔らかな雨である。
「東海竜王は律儀な質のようだね」
しとしとと降りしきる雨を眺めながら、朔夜は目を細めた。
「これは多分、詫びなんだろうさ。東海宮の罪人が、村人に被害を出したことへの」
庭では亀が一匹、首を伸ばして心地よさげに雨を享受している。玉藤は座敷の奥で丸まっていた。
「朔夜」
朔夜の隣で共に雨を眺めていた松影が、不意に声を上げる。朔夜が振り返ると、松影は微笑みながら座敷の隅を示した。
「この屋敷にも、居たようですよ」
彼が指し示す先に居たのは、柱の陰から恐々とこちらを窺う小さな少女だった。
「座敷童子か」
呟いた朔夜は、身を屈めて少女を手招いた。
「もう怖い妖はいない。俺は朔夜というんだ。よろしく」
少女は恐る恐るといった様子で朔夜に近寄り、そろそろと彼の顔を見上げた。
「……綾音」
小さく名乗ったかと思うと、急に身を翻してとたとたと駆けていく。座敷の隅で、その姿がふっと消えた。
「どうやら、恥ずかしがりのようですね」
苦笑交じりに、松影が言う。朔夜は立ち上がりながら頷いた。
「でも、我々が住むことは許してくれたようだ」
玉藤のふさふさした尻尾がふぁさりと動き、また畳の上に落ちた。
「おい、朔夜」
庭から、甲玄の呼ばわる声が聞こえた。
「見てみぃ。悪くない眺めじゃぞ」
いつの間にか、雨はやんでいた。障子から外を覗いた朔夜と松影は、空を見上げて笑みを浮かべた。
「なるほどね」
「確かに、悪くない眺めです」
雨雲の切れた空には、色鮮やかな虹がかかっているのだった。