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浮雲の静夜に小さき願いの主の来たること

 ある少女は、途方に暮れていた。


 少女のよく知る老人が、このところの冷え込みで急激に体調を崩し、病床に伏せっている。

 老人には肉親がいないようで、常々交流のあった少女の家族が看病しているが、容体は思わしくない。

 年が年である。

 覚悟が必要かもしれないと、医者が言っていた。


 少女にとって、老人はよく面倒を見てくれる「近所のおばあちゃん」といった存在で、幼いころからしばしば菓子など貰って懐いていた。遠方に住んでいる血の繋がった祖父母より、或いは親しかったかもしれない。

 その老人が、今生死の境をさまよっている。


 彼女自身は自分の年齢を鑑みて十分満足しているようだが、ただ一つ、心残りがあるのだと、少女に打ち明けた。

「私が若い頃にねえ、そこの山に山菜摘みに行って、うっかり道に迷ってしまって……そしたら、山の神様がねえ、私を麓まで案内してくだすったのよ」

「山の神様?」

 少女は首を傾げた。

 合理的な現代教育を受けている少女にとって、耳慣れない言葉である。

「そうよ。麓に着いたんでお礼言おうとして振り向いたら居ないんだもの。足跡も無かったし、きっとあれは山の神様だったんだわあ」

 それから、老人は何度か山へ行って神様へお礼にと御供えをしたが、道に迷った折に出会った相手にはついに会えずじまいだったという。

「何しろ素敵な男の人の姿でねえ。もう一度会ってきちんとお礼を言いたかったのだけれど、そうそう神様に会えるわけもないしねえ。それが一つだけ、心残りなのよ」


 その話をした時、老人はまるで若い娘のように頬を染めていた。

 少女は内心すこし呆れたが、大好きな人にはせめて心残り無く穏やかに逝って欲しいと思うのは人の情である。



 そういうわけで、少女は今、件の山に居た。

 山の神様、なんて話を信じたわけではないが、手掛かりがこの場所で会ったという事しかないのだから、ともかく来てみたのである。


 きっと、老人が出会ったのは、この近くに住んでいた人なのだろう。

 当時青年だったというからもうかなりの高齢だろうし、ひょっとすると既に他界しているかもしれないが、何とか手掛かりを掴みたい。


 そう思って歩き回っているうちに、日が暮れてきた。

 そろそろ帰ろうとして、はたと気づく。


「あれ、どっちから来たっけ……?」

 情けないことに、往時の老人と同じく道に迷ってしまった事に、少女はようやく気がついた。

 但し、少女の場合、麓まで案内してくれる人は現れなさそうである。

「どうしよう……」

 縋る思いで取りだした携帯は、圏外。

 頭を抱えた少女は、とにもかくにも何とか抜け出すしかあるまいと歩き始めた。



 そうして、日がとっぷりと暮れて月明かりが足元を照らす頃。

 少女は一軒の屋敷を見つけた。


 古びた日本家屋だが、表に自転車が停めてあるところを見ると、人が住んでいるに違いない。人が住んでいるという事は、麓にも近いはずだ。

 住人に道を訊けば帰れる。

 ほっと胸を撫で下ろした少女は、屋敷の前に立ってインターホンを探した。が、どうやら備え付けていないようである。


「どうしよう……声かけるしかないか」

 呟いて息を吸った時。


「この家に何か用か?」

 背後から声をかけられて、少女は文字通り飛びあがった。

 振り向いて見ると、黒い短髪に墨染の衣を着た男が、酒瓶を下げて立っている。


「あ……このお家の方ですか?」

 驚きに跳ね上がった鼓動を宥めながら少女が訊くと、男は頷いた。

「わしは居候のようなもんじゃがな。して、お嬢のような若い女子がこの家に何用か」

 やけに爺くさい口調で話す男に内心苦笑しながら、少女は道に迷った事を話した。


「ほう、そりゃあ困っておろう。どれ、わしが家まで送って……」

「それはお勧めできませんね」

 不意に、男の言葉を遮るように別の声が割り込んだ。

 そちらに目をやって、男が顔を顰める。

「松影。またお前はわしの邪魔を……」


 少女が見てみると、屋敷の裏手から青年が歩いてくるところだった。何故かこちらも時代がかった服装をしていて、少女はちょっと首を傾げた。

「若い女性を甲玄に送らせるなんて危険すぎますよ。それに」

 にこり、と人の良さげな笑みを浮かべた青年――そういえば、今さっき松影と呼ばれていた――は、自然な動作で少女の傍へ歩み寄ると、木製の格子戸になっている門を開けた。

「道に迷ってここへ辿りついたということは、ここへ来る用のある方だったのでしょう。どうぞ、中へ」

「え……」

 少女は困惑した。

「いえ、私は別に道を教えてもらえればそれで……」

「おや」

 柔らかい笑みを浮かべたまま、松影は首を傾げた。


「何か、叶えたい願いがあるのではないのですか?」

 叶えたい、願い。

 否定を口にしかけた少女は、口を噤んだ。


 わざわざこの山をうろついていた理由。

 願いなら、ある。


「此処の主は、願いを叶えてくれますよ」

 ただし、対価は必要ですけどね、と言って、松影は開いた門を指し示した。

 いつの間にか、甲玄と呼ばれた男も門の傍に立って少女に目を向けている。


「叶えたいと願うなら、こちらへどうぞ」

「信じられないと言うならそれでもいい。道案内ならわしがしっかり務めよう」

「いえそれは白と黒にでも頼みますが」

 甲玄の言葉をばっさり切り捨てて、松影は目で少女を促す。


 選べ、と言っているのだ。

 信じるか、信じないか。


 少女はゆっくりと息を吐いた。それから、意を決して足を踏み出す。

 門の方へ。


「――いらっしゃい」


 どこかで、鈴の鳴る音がした。



 門を潜った少女は、松影と甲玄に案内されて、家の中ではなく庭の方へ向かう。

 先を歩く二人の姿を見るともなく見ていた少女は、何となく違和感を覚えた。しかしその正体が明らかになる前に、庭に辿りついてしまう。


 小さいが水の澄んだ池があり、その傍に立派な松の木が枝を伸ばしていた。一見無造作に草花が生えているが不思議と見苦しくない、そんな庭である。

 その庭に面した縁側に、白髪の老人が座っていた。暗色の着物を着て、手には扇子を持っている。


「お客さんかな」

「ええ」

 老人の問いに、松影が頷く。

 甲玄は老人の傍らに座り、懐から盃を取り出して酒を注いでいた。


「それで、貴方の願いは何かね?」

 老人が単刀直入に話題を切り出す。

 少女は少し躊躇ってから、例の「山の神様」の話を語った。

 更に、その人物を探し出して、引き合わせてあげたいのだという事も。


「ふむ」

 話を聞き終えた老人は一つ頷くと、何やら扇子をくるくると回し、それに付いている小さな珠をじっと見つめた。


「その願いを叶えるのは難しくない」

 やがて老人が言った言葉に、少女は目を見開いた。

「本当ですか!?」

「ふむ。しかし問題は、当のお婆さんはともかく、君がそれを信じられるか否か」

 少女は首を傾げた。自分が信じるか信じないか、何故そんな事が問題になるのか。


「私が、ですか?」

 老人は頷いた。

「当人は、その時の事を鮮明に覚えているのなら信じられるだろうがね。君のような若い人には信じにくいかも知れないからね」

 意味深長な言葉に、少女は眉を寄せる。


 まさか、本当に山の神様だったとでも言い出すつもりなのではなかろうか。いや、でも会わせてくれると言っているし。

 そもそも、願いを叶える、なんて言われてついてきたのだ。今更多少の不思議な事に動じてはいられない。


「私、信じます」

 少女ははっきりと言った。

「おばあちゃんがその人だと言うんなら、その人が正解ですから」


 老人はふむ、と頷くと、少女の後ろに目を向けた。

「だ、そうだがね。この依頼、受けるか、松影」


 急に松影に話を振る老人。

 少女は振り向いて松影を見た。


 松影は、月明かりを浴びて微笑している。

 その姿を目にして、再び少女は違和感を覚えた。そして今度は、その違和感の原因に思い当る。


 影だ。

 明るい月の光を浴びて、老人にも甲玄にも少女自身にも影ができているのに、松影の足元にはそれが無い。


 急に気味が悪くなって無意識に後ずさった少女を見て、松影は苦笑した。

「おや、気付きました?」

「なかなか鋭い観察眼じゃな、お嬢」

 甲玄が感心したように言う。少女は慌てて老人を顧みた。

「あの、松影さんって……」

「ああ、安心しなさい。別に幽霊ではないよ」

 さらっと言った老人は、庭の松の木を扇子で指した。

「あれが松影の本体。そこに居る人型は実体の無い松の精だから、影ができないのだよ」

 突然そんな事を言われても、目の前に居る青年は人間にしか見えない。


 目を白黒させる少女に、老人は駄目押しとばかりに続けた。

「因みに甲玄も……ほれ」

 隣で酒を呷っていた甲玄の頭を老人が扇子で軽く叩くと、瞬く間に甲玄の姿が消えた。

 よく見ると、縁側に黒い亀がいて恨めしげに老人を見上げている。

「女子の前で亀に戻すとはどういう了見じゃい!!」

「相変わらずの色惚けが」

 溜息を吐く老人を、少女は恐々と見遣った。


 松影も甲玄も人間ではなかった。

 では、この老人は?


「ああ、わしは人間だがね」

 老人が言うと、甲玄が何やら胡乱げに老人を見上げた。

「『わし』っておま……うぶっ!?」

 何か言おうとした甲玄の口を、老人が手でがっしりと掴んで黙らせる。


 亀の口を塞ぐ老人の図。

 なかなかにシュールだ。


「話がそれたね」

 老人が話を戻す。

「簡単に言うと、そのお婆さんが遭遇したのは松影なのだよ」

「え?」

 少女は目を見開いて松影を見た。松影はにこりと笑う。

「懐かしいですね。もう五十年以上前のことです」


 気まぐれに山を散歩中に、道に迷っている人を見つけて麓へ送ったのだという。

 なるほど、松の精だったのなら、忽然と姿を消したことも、足跡が無かったことも頷ける。

 だが一つ、気になる。


「松影さんって、幾つですか」

「樹齢七百年です」

 どう見ても二十代くらいにしか見えない姿で、松影は笑う。

 少女は何とも言えない気分になった。


「わしは三百と二十八歳じゃぞ」

 老人の手を漸く振りほどいた亀がぼそりと言った。


 結局、松影が件の老婆の夢枕に現れるという約束をして、少女の願いは叶えられることになった。


「さて、対価のことだが」

 老人が切り出した話に、少女は身を緊張させた。

 この不思議な空間での対価だ。何を要求されるのか、想像もつかない。


「何がいいか……うん?」

 自身も決めていなかったのか、対価を考えるような素振りを見せていた老人が、不意に顔を上げた。

 その膝もとに、どこからともなく二匹の犬が駆けよって来る。

「どうした?……うん?ああ、そうか」

 少女にはわからない会話をして、老人はにこやかな顔を少女に向けた。


「対価は、もう貰っているそうだよ。正確には君ではなく、そのお婆さんから」

「え?」

 少女が目を瞬くと、二匹の犬が並んで地面に座り、ちょこんと頭を下げた。

「山の神様へのお供え。裏の古い神社の所に供えてくれたそうだ。この子たちはあの神社の狛犬でね。感謝していたようだよ」

 少女はぽかんと犬達を見た。

 つくづく、ここは不思議なところだ。


「ちょうど良かった。ついでに白と黒に送って行かせよう。親御さんが心配しているだろうからね」

 老人がそう言うと、二匹の犬は少女の元へ駆け寄って来た。


「それじゃあ……あの、ありがとうございました」

 二匹の犬に裾を引かれ、少女は老人に頭を下げてから家路に就く。

 それを見送った老人は、少女の気配が遠ざかったのを確認して、大きく伸びをした。


「ああ、疲れた。老人のふりって長くしていると腰が痛くなるよ」

 そんな風にぼやきながら、何かを小さく呟く。

 瞬く間に、白髪は黒く染まり、老人の体躯は元の若い姿に戻った。

「今回はえらく老人のふりにこだわっておったようじゃが、何か理由でもあるのか」

 亀の姿のまま盃に首を突っ込みながら、甲玄が問う。

 青年は首を回して肩をほぐしながら苦笑した。

「いやあ、だってあれ知り合いだから」

「何い!?」

 甲玄が過剰に反応する。

「朔夜貴様、またわしの知らんところで女子と知り合いおって……!」

「学校に行けば半分は女の子だよ。いい加減枯れろよ色惚けミドリガメ」


 ぎゃあぎゃあと言い合いを始める二人を見て、松影はそっと笑った。


 人の命は儚い。

 あの時麓まで導いた人間は、もう死に瀕しているのだという。

 けれど、朔夜の傍には、永遠に似たものがある。

 だからこそ、人よりずっと長い時間を持つ自分達は、朔夜に引きつけられるのかもしれない。


 さて、では今夜のうちにでかけるか、と門に向かいかけた松影の耳に、障子が勢いよく開く音が届いた。

「ぎゃあぎゃあうるっさいのよ!夜くらい静かにしなさい、この駄亀!!」

 玉藤の威勢の良い声が聞こえる。

「何でわしだけなんじゃ玉藤!」

「主はいいのよ主なんだから!あんたはとっとと池に帰りなさい!」

「何じゃとこの年増ぁ!!」


 この二人の言い合いも、いつものことだ。

 小さく吹き出してから、松影はそっと姿を消した。




 数日後。


「ありえない……」

 少女は茫然と呟いていた。

 その視線の先では、わずか数日前に生死の境をさまよっていた筈の老婆が居る。


 テニスラケットを握って。


「何で、いや嬉しいけど!何でこんなに元気になってんのおばあちゃん!?」

「ほほほほほ。夢で初恋の人に会えたんだもの。元気になるわよ」

 老人とは思えない仕草でラケットを振りながら、彼女は笑った。

「山の神様じゃなくて木の精霊だったらしいけどね、会いに来てくれたのよ。これで私、百まで生きられるわ!」


 元気いっぱいの老人の様子に、少女は顔をひきつらせた。

 何とも複雑な気分である。


「あれ」

 後ろから自転車のブレーキの音が聞こえ、聞き覚えのある声が少女の耳を叩く。

 振り向いた少女は、ぱっと顔を輝かせた。

「神代君!あれ、いつもここ通るっけ?」

「いや、少し用事があってね。おばあさんと一緒なのかい?」

 にこやかに老人に向かって会釈する朔夜に、少女は嬉々として老人の驚異的な回復を語って聴かせた。

 但し、少女があの夜遭遇した不思議な出来事は省いて。


「へえ、それはすごい。まあ、元気なのはいいことだよ」

「まあね」

 ふふ、と笑った少女は、それじゃあ、と言って去って行く朔夜の背をじっと見送った。


 その自転車に、どこか見覚えがある気がしたけれど、思い出せなかった。


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