浮雲の上京に妖狐の恋に敗るること
からり、からり。
都の大路を牛車が進む。
からり、からり。
車の中から、白い手がついと伸びて、御簾をほんの少し持ち上げる。
「おまえさま…」
儚げな女の声が、牛車から大路の闇へ溶け出した。
「待っていてくださいませ、おまえさま。次に天気雨の降る日、おまえさまに嫁ぎましょう」
待っていてくださいませ。
小さな声を残して、牛車は何処へともなく消えていった。
外京の辺りを、旅法師がほろほろと歩いていた。
まだ若い。
二十歳は迎えていまいと思われる、痩せた風貌にどこかあどけなさを残した青年法師である。
しかしながら、妙に老成した風情を纏ってもいる。
それが、ほろほろと歩いて行く。
「もし、そこな法師様」
不意に、旅法師に声を掛けた者が居た。振り返ってみれば、どうやらどこぞのやんごとなき家の下男のようである。
「法師様のお力におすがりしたき事がございまして、何卒当家までご足労願えませんでしょうか」
旅法師は、くるりと辺りを見渡して、彼が確かに自分に話しかけている事を確認すると、困ったように微笑した。
「生憎、私は人にお貸しできるような法力は持ち合わせておりませんので」
そう言って丁寧に頭を下げ、再び歩き出す。
下男は慌てて後を追った。
「そのように仰らず、お願い致します。我が主は、もう三月も気分が優れぬと臥せっておるのです」
「それは気の毒に」
そう言いながらも、法師は足を止めない。追い縋った下男は、ついに地に膝をついて懇願した。
「どうかお願い致します!あなた様をお連れせねば、私が首をはねられます!」
「それはまた、お気の毒に」
似たような言葉を繰り返す法師には、同情した様子も無い。下男は泣きながら法師の衣の裾に取りすがった。
「手を離してください。ここは京の都。法師は他に幾らでもおられましょう」
「いいえ、あなた様でなければならないのです!」
文字通り必死に、離すものかと衣を掴む下男に、法師はついに根負けした。
「仕方ない」
一つ溜息を吐いて、但し期待はしないでください、と念を押す旅法師に、下男は涙まじりに深々と頭を下げた。
下男に案内されて辿りついたのは、立派な邸だった。どうやら貴族の別邸のようだ。
下男が法師を連れてきたことを告げると、家の者達がばたばたと動いて法師を出迎える。
やけに丁重に出迎えるものだ、と内心で疑問に思いながらも、法師はそれを顔に出すことなく案内に従って邸の主の寝所へ通された。
「おお、法師様。よくぞお越しくだされた」
病に伏せっているという主は、確かに青い顔をして痩せこけていた。
年の頃なら三十路前といったところか。
病の影さえなければ、それなりに涼やかな良い男であるに違いない。
そのように観察しながら、法師は落ち着いた所作で挨拶を述べた。
「もう三月も病の床におられるとか」
「はい。陰陽寮の方々や寺院の高僧にもお縋りしたものの、一向に癒えませぬ。ならばと占って頂いたところ、今日この日に、あの橋を通る旅法師様にお縋りせよとのことでございまして」
なるほど、と法師は心中で頷いた。
占いに出たということであれば、下男が必死に引きとめたのもおかしなことではない。
「それで」
法師は緩やかに微笑んで、本題に切り込んだ。
「何ぞ、病の本に御心当たりがございますか」
その問いに、邸の主は目を泳がせた。
次いで、部屋にいた侍女を下がらせ、人払いを命じる。
どうやら、表沙汰にしづらい話らしい。
「実は……」
法師を枕元に招き、声を潜めて彼が語ったのは、おおよそこういうことである。
四月ほど前のこと、彼は数人の供回りだけを連れて狩に出かけ、その帰りに天気雨に見舞われて近くにあった邸に雨宿りを乞うた。
その邸には、貴族より没落したのか、品の良い姫が侍女一人とともに暮らしていた。
既に夕刻で、雨に濡れた衣を乾かしたり弓の手入れをしたりしているうち、結局その邸に泊まることになった。
そうしてその晩、彼はその邸の姫と懇ろな仲になったのだという。
それ以来、彼は姫の元に足しげく通ったのだが、そのうち奇妙に思い始めた。
姫には親類も何も居る様子はなく、邸もがらんとしているのに、不思議と不自由が無い。
ふと酒が欲しいと思えば盃が揃えてあり、肴はと思えば上等な膳が用意されていたりする。
そして、ついに彼は見てしまった。
ある日竈の傍で転寝をしている侍女の尻から、ふっさりとした尻尾が生えているのを。
「私は狐に化かされていたのでございます」
それからすぐ、彼は恐ろしくなって邸へ逃げ帰ったのだという。
ところが、事はそれで終わらなかった。
姫の元へ通わなくなって暫く、夜中に塀の外から呼ばわる声がする。
「おまえさま、おまえさま」
それは紛れもなく、かの姫の声であったという。
「それから毎晩、そこの塀の外から、あの化け狐が呼ばわるのでございます」
ふむ、と話を聞き終えた法師は、困ったように笑った。
「しかしそれは、貴方に見捨てられた女子が未だ貴方をお慕いしているというだけのことではありませんか。妖狐とはいえ、そう邪剣になさらず一度話しあわれては」
「とんでもない。現に私は今、こうして病に伏せっているのですよ」
邸の主はただでさえ青い顔を更に青くして訴えた。
「ああ」
しかし、法師の方は落ち着いたものである。
「それなら、妖狐のしわざではありません」
「は?」
目を瞬く主の首元に、法師がすっと手を伸ばす。何かを小さく唱えながら手を握りこむと、その手の中に黒い蛇が現れた。
「ひっ」
邸の主は驚いて後ずさる。法師は片手に蛇を掴んだまま、にこりと笑った。
「これが病の正体です。もっとも、本来蛇ではなくて、わかりやすいよう私がこの形にしたのですが」
法師に胴を掴まれた蛇は、身をくねらせて法師の腕に食らいつく。
それでも法師は眉ひとつ動かさず、蛇を握る手に力を込めた。
「どなた様の怨みを買っておられるのか存じませんが、呪詛をお受けになっておられたのですよ」
「呪詛!?」
邸の主が目を見開き、忙しなく視線を彷徨わせる。心当たりを探っているのだろう。
「ごらんなさい」
法師は静かに言うと、蛇に食いつかれた方の腕を挙げ、袖を捲った。
「ひいっ」
邸の主が更に後ずさる。
蛇の牙を受けた法師の腕は、真っ黒に変色し壊死を始めていた。
「かように強烈な呪詛です。よほどの怨みを買っておられたようで」
冷静に話す法師を、邸の主は信じられないものを見るような目で見た。
無理も無い。
どう見ても、平静を保っていられるような傷ではないはずだった。
「御心当たりは?」
笑みすら浮かべて見せる法師は、いっそ呪詛より不気味である。
「そ、そういえば……」
邸の主には心当たりがあった。政争がらみのことである。それを話すと、法師は一つ頷いた。
「貴方がこれまで三月もの間生き延びられたのは、件の妖狐殿のおかげでしょう」
「え?」
思いもよらない言葉に、邸の主は目を見開く。法師は穏やかに笑った。
「毎夜、妖狐殿が貴方を呼ぶことで、呪詛を抑え、貴方をこの現世に引きとめていたのです。なんといじらしい事ではありませんか」
優しげな声でそう言いながら、法師は無事な片腕で腰に提げていた瓢を外し、その中に蛇を入れた。
「人を呪わば穴二つ、いずれかが死すのが呪詛の定めではございますが」
瓢に蓋をして、立ちあがる。その左腕は既に血の通わないものの如く、だらりと垂れ下がっていた。
「これも何かの縁、これは私が引き受けましょう。――どうか、件の妖狐殿と一度きちんとお話しください」
そのまま、去って行った。
邸の主は、それを茫然と見送るばかりだった。
それから数日後。
旅法師は、右京の辺りをほろほろと歩いていた。
左腕はだいぶ癒えて、動かすのに多少不自由な程度になっていた。
都見物も、そろそろ飽いてきたところである。
次はどこへ行こうか、と考えていた法師の目に、小路を駆けていく小さな影が映った。
「こら、待ちなさい」
とっさにその影を捕まえて、法師は人目につかない裏通りに引っ込んだ。腕の中で暴れる者を見て、溜息を吐く。
「白昼堂々とその恰好で都をうろつくのは命知らずと言うものだよ。ちゃんと化けられないのなら山で大人しくしていなさい」
それは、小さな子どもだった。但し、その頭に生えている耳は狐のそれである。着物の裾からは尻尾も覗いていた。
「放して!」
「だから、お前にはまだ危険だ。人間に見つかったら退治されてしまうよ」
完治していない左腕を強かに叩かれて顔を顰めながら、法師は子狐を窘めた。
「あたしは姉さんを探しに来たの!急いでるの!!」
「落ち着きなさい。俺の話を聞いてたか?」
強情な子狐に手を焼きつつも、法師は腕を緩めない。
「放して!姉さんが、姉さんが……!」
「だから落ち着け……っ!」
ついに腕に噛みつかれて、法師はびくりと肩を震わせた。同時に、目を見開く。
「馬鹿!」
子狐が噛みついたのは、つい数日前に呪詛に蝕まれた左腕だった。
まだ呪詛の邪気は消えていない。子狐に耐えられるような代物ではなかった。
法師は子狐を引きはがすと、口を押さえて痙攣している子狐を近くの破れ寺へ運び込んだ。
急いで結界を張り、子狐の周囲を浄化する。
「まったく……」
一連の処置を終えると、法師は深く溜息を吐いた。
「滅茶苦茶な奴だ。わかったよ、お前の姉さんは俺が探してきてやるから、ここでおとなしくしていなさい」
法師がそう言うと、子狐は目を丸くした。
「ほんとう……?」
「嘘を吐いて何になるのさ。お前、名は?それと、お前の姉さんの名も」
子狐はうって変わっておとなしく床に座り、小さな声で答えた。
「あたし、玉藤。姉さんの名前は、玉草」
「わかった。そこで待っていなさい」
立ち去ろうとする法師の背に、子狐――玉藤の声が追いすがった。
「あんたの、名前は?」
法師は少しだけ振り向いて、言った。
「朔夜」
それきり、向こうを向いて、足早に去って行ってしまう。
玉藤は破れ寺の床に座って膝を抱え、長い事山に戻ってこない姉の事に思いを馳せた。
破れ寺を後にして、朔夜は走り出した。
確かめるまでもない。
あの玉藤の姉、玉草が何者なのか、見当はついていた。
朔夜はまず、あの邸の主人に聞いた話から見当のつく、姫の住む邸へ向かった。
そこには、まだ年若い妖狐が虫の息で横たわっていた。
「しっかりしなさい。何があった」
警戒して唸る妖狐をものともせずに助け起こし、喉元にばっくりと開いた傷口に布を当てながら問う。
「俺は玉藤に頼まれて玉草を探しに来たんだ。彼女はどこへ行った」
二人の名前を出すと、瀕死の妖狐は警戒を緩め、口を開いた。
「殿方の……ところへ……どうか、玉草様を……」
「わかった。もう喋るな」
朔夜は必要な事だけ聞いて妖狐を制したが、妖狐は口を閉じなかった。
「早く……鬼に……玉草様が鬼に……!」
「胡蝶!」
朔夜が袖の中から一片の紙を取り出して中空に放ると、ふわりと女の姿が現れた。
「彼女を見ていてやってくれ。俺は玉草の方へ」
「かしこまりました」
胡蝶が朔夜に代わって妖狐の傷口を押さえるのを確認すると、朔夜は再び走り出した。
向かうは、先日の邸。
「法師様!」
邸に近づくだけで、異常が見て取れた。家人達が立ち騒ぎ、おろおろと寝所の周囲を徘徊している。
「失礼する」
朔夜は足を止めることなく、寝所の御簾を跳ねあげた。
朔夜の目に映ったのは、今にも男の喉を食い破ろうとしている女の姿だった。
「やめなさい」
朔夜が鋭く声をかけると、女は緩慢に顔を上げた。
その顔を見て、朔夜は顔を顰める。
儚げな風貌の女の額が割れ、血が流れていた。傷口から、袋角のようなものが見えている。
鬼に変じかけていた。
「やめなさい、玉草殿」
再度声をかけて、朔夜は寝所に踏み込んだ。邸の主は声も無く震えている。
「貴方は彼を害したいわけではない筈だ……ちゃんと、話し合ったのですか?」
後半は、男に問いかける。男は何度も頷いた。
「わかって、いるのです」
玉草が、ぽつり、と言う。
思いのほか、平静な声だった。
「この方のせいではございません。この方は、誠心誠意私に詫びてくださいました」
お前の事は確かに愛していたけれど、妖だと知ると恐ろしくて堪らないのだ、と。
「私も、それを理解致しました。けれども、ああ……」
玉草が男を見る。その眦から涙が零れた。
「妖の身で人間の殿方に焦がれた私が悪いのだと、何度も言い聞かせてなお、私はこの胸の内を抑えきれなかったのでございます」
哀しげに言って、玉草が男の頬を撫でる。
「恋焦がれる心の果て、私は鬼に堕ちました。かくなるうえは、おまえさまと共にあの世へ参りとうございます」
「た、玉草……私は……」
男が震えながら、言葉を綴る。
「私は、お前と一緒には逝ってやれないのだよ。私はまだ死にたくはないのだ」
「おまえさま……」
玉草の口元から、ぬっと牙が伸びた。
「ひっ」
「おまえさま、なぜです?私を愛して下されたのに…」
玉草が男に食いつこうとする。
そこへ、朔夜が左腕を差し入れた。
ぱっと、朱が散る。
「邪魔をしてくださいますな、法師、さ……」
激しく朔夜を咎めようとした声が、途切れた。
「このにおい……玉藤の……」
「わかってもらえて何よりだ」
左腕を二人の間に差しのべたまま、朔夜が淡々と言う。
「妹が探しに来ている。彼女と共に山へ帰りなさい。今ならまだ、引き返せるかもしれない」
完全に鬼に変じてしまえば、もう戻る事はできない。
「人の心は……いや、人と妖とを問わず、心を無理に変えることはできない。山へ帰って、このお方の事は忘れる努力をしなさい。貴方には家族がいる。まだ、やり直せるよ」
朔夜が玉草の額に右手を当て、懇懇と諭す。
玉草の瞳から、透明な雫が滂沱とあふれ出た。
額の角と口元の牙が、すうっと引っ込んでゆく。
「法師様……」
玉草が男にのしかかっていた体をどけ、涙を拭って頭を下げる。
男がほっと息を吐いた。
「本当に、すまないことをしたと思っているよ、玉草。どうか、幸せになっておくれ」
男が言うと、玉草は息を詰まらせながらも、再度頭を下げた。
朔夜も腕を引いて緊張を解く。
「本当に、人と妖とによらず、情とは時に恐ろしいものだな」
朔夜が呟いて、この一件は終わった。
かに見えた。
「ええい、化け狐が!成敗してくれる!」
突如寝所に踏み込んできた男が、玉草に向けて弓を引く。突然の出来事に、玉草は動けない。
「やめよ、玉草は悪いものではない!」
邸の主が制するも、間に合わない。
矢が、放たれた。
玉草に向けて真っすぐに飛んだ矢はしかし、玉草の身ではなく、墨染の衣に突き立った。
「法師様!」
響いた悲鳴は誰のものだったか。
胸に矢を受けた朔夜は、ゆっくりと崩れ落ちた。
その一件から、数百年。
右京の辺りを、山伏が歩いていた。
まだ若い。
二十歳は迎えていまいと思われる、痩せた風貌にどこかあどけなさを残した青年の山伏である。
しかしながら、妙に老成した風情を纏ってもいる。
それが、片手に錫杖をつきながら、ほろほろと歩いて行く。
「山伏様」
不意に、彼に声をかけた者がいた。振り向いて見ると、笠を被った艶やかな女である。
「何か」
「あら、お忘れかしら?」
くすりと笑った女は、さっと周囲を見渡すと笠を取った。
「おや」
青年が目を丸くする。
彼女の頭には、人間の丸い耳の代わりに、三角形の狐耳がついていた。
「ひさしぶりね」
女が言う。青年は頬を掻いた。
「……どなただったかな」
「忘れたっていうの!?」
語気荒く食ってかかる女は、彼の記憶にはなかった。首を傾げた青年は、やがてはたと思い当ったように顔を綻ばせる。
「ひょっとして、玉藤か?大きくなったなぁ」
「やっと思い出したわね」
女は満足げに言って、再び笠を被った。
「玉草は元気かい」
「ええ、どうやら新しい恋を見つけたようだわ」
二人は肩を並べて歩き出した。山伏と女が並んで談笑している光景はさぞかし奇妙だろうが、二人とも気にも留めない。
「それで、俺に何か用か?」
首を傾げる青年に、玉藤はにっと笑った。
「あたし、あんたについて行くわ」
「は?」
青年は目を瞬いた。玉藤はそんな青年の顔を覗き込んで目を細める。
「あたし、山を出たいの。あんたと一緒なら退屈しなさそうだわ。あんたの式にしてもなんでもいいから、連れてってよ」
「しかし……」
渋る朔夜に、玉藤はいつの間にか手にしていた扇をびしっと突きつけた。
「拒否は認めないわ。あたしみたいないい女がついて行くって言ってるのよ。二つ返事で快諾しなさいよ」
青年は暫く目をぱちくりさせていたが、やがてぷっと吹き出した。
「敵わないなあ、君には」
「決まりね!」
意気揚々と青年の手を取った玉藤は、にっこりと笑った。
「よろしくね、主」
「……ああ、よろしく」
苦笑交じりに、それでもどこか嬉しそうに、青年――朔夜は笑うのだった。