浮雲の気まぐれに狛犬を憐れむこと
さく、さく。
足の下で、踏み締められる草が微かな音を立てる。
夜露に濡れた山道を、青年が歩いていた。
青年はまだ若い。
少年と言っても良さそうなあどけなさを僅かに眉目に残しながら、しかし彼の身に纏う空気は妙に老成した静けさを湛えていた。
さくり。
草履を履いた足が、また一歩、草を踏む。
彼はその手に一本の扇子を携えているのみで、他には何も持ってはいなかった。
黒い着流し姿である。
それが、まだ夜も明けきらぬ山道を悠然と歩いてゆく。
「ひとつ」
「ふたつ」
どこからか、微かに声が聞こえた。
ほの暗い山に似合わぬ、子どもの声である。
「みっつ」
「よっつ」
二人、居るようだ。
青年は寸時思案げに立ち止まり、それから声のする方へ向かって行った。
「いつつ」
「むっつ」
なおも、声は響く。
「ななつ」
「やっつ」
段々とはっきりしてくる声の方へ足を進める青年の目に、朱塗りの鳥居が映った。
ごく小ぢんまりとした、恐らくは小さな神社の鳥居だ。人々に忘れ去られて久しいのか、その朱色は剥がれ、煤けた額束には蜘蛛の巣が張り巡らされて、もはや字も読めない。
「ここのつ」
「とお」
ずっと代わる代わる数を数えていた声が、止んだ。青年は鳥居を潜っていく。
「とお、の次は」
「知らない」
鳥居を過ぎると、すぐに打ち捨てられて崩れかけた破れ屋のようになってしまった本殿が目に入る。
その前に、二人の子どもがいた。
男の子と、女の子。
交互に石を積んで遊んでいたようで、しゃがんだ二人の間に石の塔がある。
「知らないから、数えられない」
「また、ひとつから」
立ち上がった男の子が、足で石塔を崩した。
「また、ひとつから」
ぽつり、と。
そう呟いて、再びしゃがむ。
「十の次は、十余りひとつだよ」
青年が、唐突に子どもたちの呟きに割り込む。
男の子が、さっと振り向いて身構えた。
「だれ」
女の子も立ち上がって、青年に鋭い目を向けた。
「ただの通りすがりなんだけどね」
青年は微笑を浮かべてそう言うと、彼らの足下に目をやった。
「君達はもうどのくらい、そうして石を積んでいるんだい」
積んでは壊し、また積んでは壊し。
まるで賽の河原の子ども達じゃないか。
そう言う青年に、女の子は眉ひとつ動かさずに答えた。
「ひとの世の時の流れなど知りません。永にここをまもるのが私たちの役目」
「ここにはもう神も居ないのに?」
畳み掛けるような問いにも、子ども達は動じなかった。
「ここに在り続ける以外に、私たちの価値などありません」
ただ、ここを護るために生を受けた。
他に行く場所など、無い。
そう主張した女の子は、青年に害意が無いのを見て取ったのか、再びしゃがんで石を手にした。男の子もそれに倣う。
「でもそうして姿を現して、手慰みに石なんか積んでいるということは、退屈で仕方がないんだろう?」
況してや十までしか数を知らないのではね、と言って、青年は二人の間に散らばる石を手に取った。
「ひとつ」
軽快な音を立てて、石が地面に置かれる。
「ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ」
次々に石を並べていく青年を、二人は呆気に取られたように見ている。
「ここのつ、とお」
石を十並べた青年は、もう一つ石を手に取り、十個の石の横に並べた。
「とおあまり、ひとつ」
「とお、あまり…?」
男の子が、小さな声で復唱する。
青年はにこりと笑って、扇子で十一個目の石を示した。
「とおの次は、とおあまりひとつだよ」
子ども達は、じっと石を見つめていた。
まるでそこに、特別な何かがあるかのように。
「君達が知っているのはこの世界のほんの一部。とおの次があるように、この神社の外にも世界はある」
青年はそう言うと、白々と明け始めた東の空を見遣って目を細めた。
つい、と扇子で麓の方角を指し示す。
「この先、山の入り口に俺は住んでいる。とおあまりひとつの次が知りたければ、訪ねておいで」
そう二人に告げると、青年はさっさと歩き出した。
朝日に照らされたその背後に子ども達の姿は無く、煤けた一対の狛犬が青年の背を見送っていた。
このお話の前日譚にあたるのが、童話として書いた短編「雪の降る日に」になります。http://ncode.syosetu.com/n1021bn/