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浮雲の閑日に不実なる客を迎えしこと

 一人の男が、木々に囲まれた緩やかな登り坂を、汗を拭いながら歩いていた。

 やがてその目に、一軒の屋敷が映る。

 今時珍しい、古びた日本家屋。塀に囲まれた家屋の裏手には、それなりに広い庭がありそうだ。

「ここが……本当に?」

 男はごくりと喉を鳴らす。


 男はとある知り合いに教えられて、この場所を訪れた。その知り合いも、誰か知り合いのそのまた知り合い辺りから情報を得たらしい。

 曰く、山道を少し入ったところにある屋敷には、仙人が住んでいる。その仙人は何らかの対価と引き換えに願いを叶えてくれるが、叶えて欲しい願いを持たない者、或いは仙人には叶えられない願いを持って訪れた者は、その屋敷を見つけることはできない。

 そういう、にわかには信じがたい話である。


 だが、男はこの際、どんなに怪しい話でも、そこに希望があるならばすがりたかった。そこで、こうして訪れたのである。仙人が願いを叶えてくれるのは夜だという話だったので、わざわざ夜分に暗い道を踏破してきたのだ。

「……ごめんください」

 声をかけてみるが、返事はない。少し待ってから、男はそっと塀の内と外を隔てる木戸に手をかける。引いてみると、存外簡単に、カラカラと音を立てて開いた。

「……ごめんください、誰かいませんか」

 少し声を大きくしながら、格子戸の中へと踏み込む。何処かで、鈴の音がしたような気がした。


「この家に御用ですか」

 不意に背後から声をかけられて、男は飛び上がった。早鐘を打つ胸を押さえながら振り向くと、いつの間にか、格子戸の脇に青年が立っている。いかにも温和そうな青年だが、その身に纏っている衣服はいやに古風だ。確か、あれは水干というのではなかったか。

「その……この家に、願いを、叶えてくれる、仙人がいると聞いて……」

 男はとにかく用件を口にしてみたが、その声は後に行くにつれて萎み、最後は口の中で呟くような有り様になってしまった。何しろ荒唐無稽な話である。笑われるのではないか、と気が気ではない。

 青年は笑った。しかしその笑いは、男の恐れたような嘲笑ではなかった。

「仙人、というわけではありません。でも、この家の主が客の願いを叶えることは事実です」

 そう言って、するりと男の脇を抜け、前に立つ。

「こちらへどうぞ。ご案内しましょう」


 案内された先は、屋敷の庭だった。小さめの池の畔に松が繁り、水面に影を落としている。それに差し向かうように、縁側に座す人影があった。

「お客さんかな」

 月光を受けて銀色に輝く長い白髪に、同色の髭。着流し姿の老人である。これはまさに「仙人」だと、男は内心感心した。

「願いがおありのようですよ」

 男を案内してきた青年が答えて、ついと身を引く。何の気なしに彼の行方を追って振り向いた男は、青年の姿が既にどこにも無いことに気付いて狼狽えた。

 なんとも、摩訶不思議だ。多少気味が悪くなってきたが、願いが叶うならば我慢しなければなるまい。


「それで」

 老人が、手にした扇子を弄びながら問う。

「あなたの願いは、何かな?」

 男は己の願いについてかい摘まんで語った。


 男には、まだ幼い息子がいる。その息子が、先日ちょっとした事故で意識を失ってから、目覚めないのだ。病院で思い付く限りの検査を受けさせたが、原因がわからない。医者に言わせれば、体は間違いなく治っているのに、なぜか昏昏と眠り続けているのだという。原因がわからない以上手の施しようがなく、藁にもすがる気持ちでやって来たのだ。


「なるほど」

 話を聞き終えた老人は、何やら考えるような素振りを見せた。

「息子さんがそのようになってから、何日経ちましたかな」

「もう、一月あまり……四十日近くなります」

「それは、それは」

 老人は腕を組んだ。

「これは、急いだ方が良さそうですね」

「何か、まずいことでも……」

 急き込んで問う男に、老人は事も無げに言った。

「身体からあくがれ出でた魂魄が現世に留まれるのは、四十九日までですから」



 狼狽する男に老人は、必ず探し当てるから三日後にもう一度ここへ来るように、と言い含めた。金は幾らでも出すから、お願いします、と這いつくばらんばかりに懇願する男を、宥めすかして一旦帰らせる。再び静寂を取り戻した庭先で、老人はふぅ、と息を吐いた。

「探し当てる当てはあるのですか、朔夜」

 背後からの問いに振り向けば、水干姿の青年が立っている。老人は微笑して、手にした扇子をぱん、と広げた。そしてそれを、己の顔の前に翳す。低く何か呟く声が聞こえたかと思うと、その容貌が変化を始めた。

 白い髪は黒く、髭は消え失せ、肌には若い艶と張りが戻る。曲がっていた腰は伸びて、扇子を下ろした時には、その姿は十代半ばほどの青年になっていた。

「難しいことではないさ。要は迷子探しだ」

 そう断言して、朔夜と呼ばれた青年は再び縁側に腰かける。水干姿の青年が隣に並んだ。

「しかし、迷子になっている魂を探し出して身体に帰らせるには、それなりに手間がかかりますよ」

「そうだね。皆に手伝って貰わないと」

 朔夜が扇子を閉じ、その要に提げた珠を手慰みに揺らす。

「対価の話をしなかったようですが」

「当人の状況によって、事の厄介さが変わるだろう。それを見極めてからにしようと思って」

 説明してから、朔夜はふと視線を青年に向けた。

「珍しいな、松影がその手の事を気にするのは」

 訝しげな視線を受けて、水干姿の青年、松影はにっこりと笑った。

「無論、気にしているのは私ではありませんよ」

「ばらしてんじゃないわよ!」

 怒鳴り声とともに、彼らの背にしていた障子が音を立てて開いた。そこから顔を出したのは、夜目にもくっきりと見える銀灰色の髪をした妙齢の女性である。但し、彼女には、人とは違う部分が一ヶ所あった。

 ぴんと立った、髪と同色の三角の耳。狐の耳である。

「玉藤」

 朔夜が、ほんの少し呆れたように彼女の名を呼ぶ。玉藤はむくれた。

「だって主、そろそろ蓄えが無くなるのよ。誰だってひもじいのは嫌じゃない」

「すまないね」

 朔夜は苦笑した。

「何しろ俺には食事の必要が無いものだから」

「別に主は悪くないわ。でも稼げるときに稼いでおきたいじゃない」

 普段ろくな対価を取らないんだから、とぼやく玉藤だが、彼女も、そして他の住人達も、誰一人として、対価を払えない者から搾り取れなどとは決して言わない。ただ、取れる者からは取ろうとするしたたかさは持ち合わせていた。

「私も食事の必要は無いので特には困りませんが……」

 にこにこと微笑みながら言う松影には、よく見ると影が無い。月光は彼を素通りして縁側に落ちている。

「あんたみたいに実体が無いのは楽でいいかもしれないけど、あたしたちは食べないと生きていけないんだからね」

 玉藤が腰に手を当てて松影を睨む。


「わしも、そろそろ酒代が欲しい」

 不意に、男の声が割り込んできた。一同が目を向けると、いつの間にやら、柱に一人の男が背をもたせかけていた。墨染の衣を纏っているが、剃髪はしていない。手にした瓢を振って、酒が残り少ないことを知らせている。

「酒は飲まなくても生きていけるでしょ」

「いや、わしは酒が無いと駄目じゃ。間違いなく死ぬ」

 男は大真面目に言った。玉藤が懐から扇を取り出し、男の頭を叩く。

「真顔で馬鹿言ってんじゃないわよ!」

「いたっ!なにも殴ることはなかろうが、この暴力年増が!」

「何ですってぇ!?」

 あっという間に、二人は喧しい口論に突入する。朔夜と松影は、やれやれと肩を竦めた。

 そこへ、庭先から二匹の犬が駆け寄ってくる。一匹は白く、もう一匹は黒い。月光と縺れ合うように走ってきた二匹は、朔夜の目前でぽんと宙返りをした。着地した時には、そこに犬の姿は無く、二人の幼い子どもが手を繋いで立っている。色素の薄い女の子と、黒髪の男の子。

「朔夜」

 男の子が口を開く。

「お肉、食べたい」

 続いて、女の子が言う。

「たまには少し贅沢をしてみたいと思うのは、いけませんか」

 二匹の瞳にじっと見つめられて、朔夜は苦笑した。

「……まあ、いけなくはないね」

 やれやれ、と肩を竦めて、扇子で肩を叩く。

「わかったよ。この件の対価は、お金で貰うことにしよう」

 二人の子どもが、無表情のままハイタッチをする。その様子を見て、松影が笑う。

「白と黒も、食事は要らない筈なんですけどね……」

「でも、白も黒も、それに松影も物を食べるよな。いったいどこに入るんだい」

 朔夜が不思議そうに問う。松影は首を傾げた。

「さあ?でも、滋養にはなっている……と思います」

「そういうもの?」

「そういうものです」

 こう見えて長く生きている朔夜だが、世の中には未だに摩訶不思議な物事が沢山あるようだ。



 俄然やる気を出した屋敷の住人達によって、二日目の夜には、身体から抜け出してしまった少年の生き霊が発見された。白と黒に手を引かれて屋敷へやって来た少年は、浮かない顔をしている。

「……戻りたく、ないんです」

 歳の割に大人びた様子で、少年は言った。

「両親は、なんていうか、お金が大好きで……それだけならまだいいんですけど、お金の無い人を馬鹿にするんです」

 訥々と、少年は語る。拝金主義のがめつい父親。貧乏人とは遊ぶな、と口うるさく言う母親。学校帰りに友達と遊んでいるのを見つかった時には、母親が少年の友人を金目当てと罵ったこともあるという。

「それはまた極端だね」

 少年の話を聞いている朔夜は、例によって老人の姿である。その彼に、少年はすがるように頼んだ。

「お願いします、おじいさん。お父さんからお金を取り上げてください」

 少年の願いもまた、少々極端である。しかし、奇しくも屋敷の住人達の思惑と一致していた。

「多少取り上げてどうなるとも思えないけど」

 朔夜は微笑んだ。

「君がそう願うなら、少し痛い目を見せてあげよう」

 その代わり、君は明日の晩にはおとなしく身体に帰ること、と約束させる。父親がここに来た直後に、少年の意識が戻るという寸法だ。少年はしっかりと頷いた。



 訪ねてきた男は、松影に庭に案内され老人姿の朔夜と対峙するなり、怒鳴り散らした。

「約束の期日だ!息子はまだ目覚めない。やはりいんちきか!」

「……三日後に一度来てくれとは言ったけれど、三日目までに彼を治すと約束した覚えは無いよ」

 連絡の日時と依頼の期日を勘違いしているらしい男に無情に告げて、朔夜は白と黒を手招いた。実のところ白と黒に挟まれるようにして少年の生き霊がいるのだが、男は気づかない。見えていないのだ。

「貴様……」

「だけど、居場所は突き止めた」

 涼しげに言って、朔夜は手の中で扇子をくるりと回した。

「今夜中に、彼は目覚める」

「今夜……」

 実感が湧かないのか、男は呆然としている。朔夜は微笑んだ。

「対価の話をしてもいいかな」

 屋敷のもの達や少年との約束どおり、朔夜は現金での支払いを要求した。金額は、決して安くはないが、男の持つ資産を考えれば負担はさほどでもない。恐らく、これまで少年の治療につぎ込んだ額の方が多い筈だ。少年が微かに不服そうな顔をした程度には、良心的な額だった。

「……わかった。本当に今夜、息子が目覚めたら、払おう」

 男がそう言うのを聞いて、朔夜は少年の額を扇子でとんと突いた。少年の姿が掻き消える。彼は身体に戻った筈だ。間もなく目覚める。

「では、よしなに」

 欠けた月の光が注ぐ中、朔夜はゆったりと笑んで、男を送り出した。



 胡散臭い。

 男は顔をしかめながら、緩やかな坂を下っていた。


 本当に息子は目覚めるのだろうか。いや、今夜と言っておいて、目覚めなかったら何のかのと理由をつけて正当化し、息子が目覚めるまで金をむしり取ろうという魂胆ではなかろうか。よくある宗教詐欺に、自分も引っ掛かったのでは?


 その時、男のポケットから電子音が鳴り響いた。男は端末を操作して、耳に当てる。妻からの電話だ。

「もしもし!あの子が……あの子が目を覚ましたの!」

 男は立ち止まった。胡散臭さに、不気味さが混じる。


 本当に、願いを叶えた?いやいや、ひょっとしたら、あの老人は何らかの手段で、息子の体調を調べ、今日目覚めることを予測したのかも知れない。

 だとしたら、息子は目覚めるべくして目覚めたのだ。そうだ、息子に会ってすらいない老人に何かができる筈はない。

 だったら、対価とやらを払うだけ無駄だ。

 どうせ、あの屋敷にさえ行かなければ、向こうはこちらの連絡先すら知るまい。

 男は足取りも軽く、病院へと向かった。



 そのまま、数日が過ぎた。対価を払うどころか、男は不思議な屋敷のことを殆ど忘れつつあった。元通りの日常に戻り、足早に街を歩き回る。

「のう、そこの旦那。そう、あんたじゃ」

 ある日、歩き慣れた街角で、男は易者に声をかけられた。街角で人の運勢を占う、ごくありふれた易者だったが、何故か墨染の僧衣を着ている。男は無視して歩き去ろうとしたが、易者の言葉に足を止めた。

「どうやら、最近約束を破ったようじゃのう」

 心当たりなら、ある。息子が目覚めたら払う約束の対価を、払っていない。

「……だったら、何ですか」

 男は不機嫌に問うた。易者が、じっとこちらの目を覗き込んでくる。

「厄が訪れるぞ」

 真っ黒な目に見据えられて、男はぞくりと寒気を覚えた。

「なにを、ばかな」

 辛うじてそう言って、易者に背を向ける。それ以上何か言われる前に、逃げ出すように歩き出した。

 なに、ただの偶然だ。気にすることはない。あの屋敷で、自分は名乗ってすらいないのだ。



 夜闇に包まれた山道を、僧衣の男が歩いている。手に提げた瓢を振っては、中身の少なさに顔をしかめていた。やがて見えてきた屋敷に、勝手知ったる様子で入っていく。

「どうだい、甲玄」

 縁側に、朔夜が座っていた。その隣にどかりと腰を下ろして、僧衣の男、甲玄は手を振る。

「あれは駄目じゃな。払う気無しじゃ」

 朔夜は苦笑した。

「それじゃ、『来てもらう』しかないね」

 何度でも、と呟いた言葉は、何を意味しているのか。


「なんや、おもしろそうな相談してるやん?」

 不意に、割り込んだ声があった。庭池のほとりに、長身の影がある。濡れたような黒髪を長く伸ばし、異国の気配のする独特の着物を纏った若い男だ。

「蛟か。久しぶりだね」

「そうやったかいな?まあ、どうでもええやろ」

 蛟は軽い足取りで歩いてくると、朔夜の顔を覗き込んだ。

「おもしろい事するんなら、俺も混ぜてぇな」

 にまっと笑う蛟に、朔夜は含むような笑みを返す。

「さほど、面白くはないと思うけどね……」

 言いながら、朔夜は扇子をくるりと回し、縁の床をとん、と叩いた。



 男は家路をせかせかと歩いていた。太陽が沈んだばかりの、黄昏時である。ふと何かが足に触れた気がして、男が足元を見ると、黒い犬が足にまとわりついてきていた。

「こら、離れろ。しっ、しっ」

 追い立てるが、なかなか立ち去らない。あまつさえもう一匹、白い犬まで現れて足元をうろつき始めた。

「ええい、邪魔だ。うちでは犬は飼わん!」

 男は舌打ちしながら、犬を追い立て追い立て歩き始めた。それでもしつこくまとわりつく犬達に、ついに辛抱ならなくなって鞄を振り上げる。

「ああ、待って!すみません!」

 その瞬間、女性の声が男を制止した。見ると、妙齢の美女が、慌ててこちらへ走ってくる。

「ごめんなさい、私の犬なの。ちょっと目を離した隙に……」

「首に綱くらいつけておけ!」

 男は犬を庇う女性を叱りつけたが、その勢いは少々弱い。相手が、口汚く罵るのは躊躇われるほど、上品で儚げな美女だったからである。

「申し訳ありません。何とお詫びすればいいやら……」

「……ふん、まあいい。気を付けなさい」

 言い捨てて立ち去ろうとした男の袖を、女性が掴んだ。

「待って。是非、お詫びを……」

 女性と目が合う。ごく普通の色合いの筈の瞳が、不可思議に煌めいて見えた。頭がぼうっとなる。

「ね、こちらへ……」

 導かれるままに、男は歩き出した。夢でも見ているような気分だった。


 はっと気付いたとき、男は自分が例の屋敷の前に立っていることを発見して冷や汗をかいた。何故、こんな所へ来てしまったのか。

「さあ、お入りくださいな」

 美女が微笑む。怒りと恐怖の混じりあった震えが、男を襲った。

「な……貴様、ここの回し者か!」

 捕まれていた腕を引こうとするが、女は手を離さない。くすりと笑って、男を木戸の中へ引き入れる。抵抗しようとした男は、後ろから腰を押されてたたらを踏んだ。いつのまにか、幼い二人の子どもが現れて、彼の腰を押していた。

「な……なんのつもりだ!」

 喚く男を三人がかりで引き込む。その先の露地に、水干姿の青年が立っていた。

「御苦労様、玉藤。結構強引に連れてきたんですね」

「力ずくになったのは最後だけよ」

 答える女の髪の色が、いつのまにか銀灰色に変わっている。しかも、その頭には三角の耳が生えていた。

「な……なん……」

「こちらへどうぞ」

 松影に微笑みかけられて、男は玉藤の手を振り払った。後ろにいた子ども達を突飛ばし、一目散に逃げ出す。

 こんな気味の悪い場所にいられるか。

「おや、逃げてしまいましたね」

 松影がのんびりと言う。

「無駄なのに」

 玉藤が呆れたように呟いた。


 数刻後、男はぜいぜいと荒い呼吸をしながら、地面に膝を突いた。

「なん……なんだ、どうなっているんだ!」

 男の目の前には、件の屋敷の木戸がある。どちらへ走っても、何度逃げても、この場所へたどり着いてしまうのだ。明らかに奇妙な事態が起こっていた。

 からり、と木戸が開く。

「入る気になりました?」

 松影が、にっこりと微笑んだ。


 男は力なく立ち上がり、松影について歩く。

 庭には、以前と同じく、老人がいた。違うのは、その傍らに若い女性がいることだ。先程の女性とは別人らしい。……化けていなければの話だが。

「やあ、いらっしゃい」

 朗らかに言う老人に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。

「貴様、何のつもりだ!」

 男は老人に食って掛かった。

「あれ」

 男が怒り狂っているのと対照的に、老人は落ち着いている。しかし、その目の光は冷たかった。

「わからないかな、ここへおいでいただいた理由」

 男はぐっと詰まった。約束の期日は過ぎているが、男は未だ対価を払っていない。

 だが、と、男は考えた。

 だが、あんなのはいんちきに決まっている。こんな連中に金を払う謂れはない。

「っ……貴様の力で息子が戻ったという証拠などどこにもない!それに、契約書を交わしたわけでも……」

 だんっ、という鋭い音が、男の口上を遮った。

 見ると、老人の傍らに立っていた女性が、手にした青龍刀の石突きで床を突いたのだった。男の全身から冷や汗が吹き出た。青龍刀である。鈍色に光る刀身は、まさか本物ではあるまいが、見る者の恐怖を煽るには十分だった。

「契約を破っておいて居直ろうというのか?」

 女性が口を開く。青龍刀を小脇に抱えて、歩み寄ってきた。

「く、来るな……!拉致した上に刃物で脅すなど、立派な脅迫だぞ!」

「まだわかっていないようだね」

 老人がやれやれと肩を竦める。

「この屋敷の住人達に、人間の法が通用するとでも?」

 背後の池で、波立つ音がした。ざばり、と水が溢れる。慌てて振り返った男は、そこからにょきりと突き出た巨大な頭を見た。爬虫類に似たその頭は、ぎょろりと男を睨んだまま、頭上高く伸び上がる。

「う、わぁあ!化け物!」

 男は悲鳴を上げた。失神しなかったのが不思議なくらいだ。池から出てきた巨大な蛟は、腰を抜かしてあたふたする男を見下ろしてけらけら笑った。

「なんや、取るに足らん小者やなー。よう朔夜との契約破るような度胸があったもんや」

「蛟、場の緊張感が台無しですよ」

 いつのまにか松の枝に腰掛けていた松影が呆れ顔で指摘する。老人が立ち上がって、男の側へ来た。

「人間は騙し合いが好きだけれどね、こういうもの達にとって、一度交わした契約というのは絶対なんだよ」

 さて、どうする?


 その問い掛けに、男が契約の履行を固く約束したのは言うまでもない。




 淡い月光の見守る夜更け、縁に腰掛けた朔夜は大きく伸びをした。既に、もとの青年の姿である。

「なんだか、今回は大したことはしていないのに、やけに疲れた気がするよ」

 苦笑して、庭でじゃれあっている白と黒を眺める。

「玄玲も、こんな用事に付き合わせて済まなかったね」

「いや」

 青龍刀を携えた玄玲は、軽く首を振った。普段人間や陸の妖との関わりを持たない彼女にとって、この屋敷で起こることは常に新鮮だった。

「この屋敷は、興味深い」

「そう?」

 朔夜は穏やかな目で玄玲を見た。


「主、さっそく買いたいもの纏めてみたわ!」

「待て玉藤、酒が足りん、酒が」

「要らないわよ!」

 玉藤が朔夜に声をかけ、しかしそのまま甲玄との口論に突入する。

 朔夜は苦笑して、夜空を見上げた。

「まあ、お陰であまり退屈はしなくなったね」

 そんな呟きを夜気に委ねて、朔夜は微笑むのだった。


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