表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

浮雲の庵に温もりと安らぎの満つること

 それは一見なんということのない昼下がりであった。


 とある山の中腹。

 山深い場所というわけでも、人里離れているわけでもないその場所にぽつりと建っている一軒の古ぼけた家屋で、そこの住人達はいつも通り日々を過ごしていた。


 亀の甲玄が酒が足りないと騒ぎ出し、それを妖狐の玉藤が張り倒し、松の樹の精である松影がその様子を呆れ交じりに微笑みながら眺めている。庭では狛犬の白と黒が戯れ、気まぐれに遊びに来た蛟がそれにちょっかいをかけ、そんな彼らの姿を家の中から座敷童の綾音が羨ましそうに覗いている。


 そこに、鈴の音が響いた。その意味を知る者達が、一斉に表情を引き締める。

 この家が来客を受け付けるのは、原則的に夜のみ。故に、昼間はこの家は「閉じた」状態にある。許可を得ている常連でもないのにそこに割り込んで来られるとすれば、それは間違いなく「強いもの」だ。


 ぱっ、と綾音が姿を消した。白と黒も、素早く犬の姿になって走り去る。玉藤がするりと家の中に隠れ、甲玄は池に飛び込んだ。家人ほど警戒の必要のない蛟は寸時迷った後、玉藤に倣って家の中から様子を窺うことにする。


「誰かいませんか」

 入ってきた何者かが声を上げるのを聞いて、仕方なしに松影が動き出した。

 松の樹を本体とし人型が幻影にすぎない彼は、こういう場合に危害を加えられる危険性が最も低い。故に、様子見役として表に出ることが多いのである。


「どちら様でしょう」

 声を辿って庭から表へ回った松影は、来訪者の姿を見て暫し沈黙した。


「あなたはここの住人ですか」

 そう訪ねてきた相手は、仕立ての良さそうな袍を纏い、剰え背後に従者を連れている。どう見ても、松影やここの住人達のようないわば「はぐれ」の妖ではない。

「はい。当家に、何か御用でしょうか?」

 戸惑いと警戒を微笑の下に隠して、松影は如才なく応対した。訪問者は無表情のまま一つ頷く。

「ここに、朔夜という人間が住んでいる筈です。彼に会いたい」

「朔夜は昼間は留守にしています。御用ならば、夜においでください」

 松影が答えると、訪問者はほんの少し考えるようなそぶりを見せた。

「ここで、待たせて貰います」

 身分の高いもの特有の傲岸さというべきか、訪問者は問うのではなく断言する。

 松影はさすがに躊躇した。基本的には来る者を拒まないのがこの家の在り方ではあるが、これほど上位のものを素性の分からないまま通して何かあった場合、恐らく自分達では対処できない。かといってこの場で立ったまま待たせるのはあまりに礼を失するだろう。

「失礼ですが……」

 仕方なく松影が相手の素性を問おうとした時。


「は!?北海宮の龍太子やないですか!何でこんなところに!?」

 家の中をこちらまで回ってきたらしい蛟が、素っ頓狂な声を上げて飛び出してくる。その勢いに侍従が身構えるのを手で制して、訪問者は蛟を見た。

「お前は確か、蛟ですね。東海の」

「はあ、そうです。ご存じで」

 飛び出して来たものの相手が自分を見知っているとは思わなかったのか、蛟がやや怪訝そうな顔で頷く。

「時折姉上から話を聞いていました。不真面目でよく東海龍王に絞られていると」

「何話してくれとるんや、玄玲公主……」

 天を仰ぐ蛟の袖を、松影が控えめに引く。

「この方は……」

「ああ、そうや。北海龍王の御子息、玄玲公主の弟君や」


 松影は微かにではあるが笑顔をひきつらせた。

 そんな相手の応対は、松影では正直荷が重い。相手の格が高すぎるのである。玄玲はもはや顔見知りでもあるし、朔夜と契約していることもあって気を使い過ぎなくても良い相手になっているが、その弟となるとまた話が違う。

「蛟、是非応対をあなたに任せたいのですが」

「は?嫌やって、俺かて龍太子とそう親しいわけちゃうし、この王子さん時々天然でめっちゃ怖いし!」

「なら尚更我々より遥かに格の高いあなたがお相手するべきでしょう!」

 小声で早口に押し付け合いをする二人を見て、龍太子、緇珀はゆっくりと瞬きをした。

「迷惑をかけるつもりはありません。ただ、朔夜の暮らす場所をじっくり見てみたかった」

 つい、と縹色の瞳が松影を捉える。

「樹木の精ですね。見るのは初めてです」

「……だって龍太子、ほとんど水晶宮から出たことないやないですか……」

 溜息交じりに言う蛟をよそに、緇珀は辺りを見渡す。

「ここは面白い場所ですね。家に憑くもの、池に憑くもの……それにこれは、妖狐ですか」


 住人達は全て隠れているにも関わらず、僅かな気配だけで正確に察して見せる緇珀に、松影は慄然とすると同時に諦めも覚えた。もしも彼に害意があれば、自分達が警戒しようとすまいとどの道圧倒的な力量差で蹂躙されるしかないのだ。ならばもう、運を天に任せるつもりで開き直るしかないではないか。


「どうぞこちらへ。大したおもてなしはできませんが、座ってお待ちください」

 覚悟を決めた松影は、緇珀を客人として庭側の縁に案内することにした。頷いて歩き出そうとした緇珀は、ふと背後を顧みる。

「お前は帰っていていいですよ。ここからは私一人で話をつけます」

「ですが……」

 帰還を促された侍従が渋る。緇珀はその手から一対の双刀を受け取って腰の後ろに佩いた。

「心配いりません。私は皆が思うほど子どもではありませんから」

 緇珀は生まれてからまだ百年も経過していない。見た目もまだ少年の域を脱し切れていないように、長命な龍王の一族から見ればまだまだ子どもである。しかし彼は既に自立した思考を始めていた。だからこそ逆鱗の一件の際には朔夜と渡り合えたし、今ここに訪ねてきているのである。


「……承知いたしました。くれぐれもお気をつけて」

 侍従はそう言って一礼すると姿を消した。緇珀は改めて松影に向き直り、その案内に従って庭へと抜ける。勧められるままに縁に座ると、すっと障子が開いて出てきた玉藤が彼の傍らに茶を置いた。

「ありがとう」

 律儀に礼を述べてから周囲を彷徨った緇珀の視線が、庭の隅の茂みに留まる。

「社の守護獣ですか。そんな風に隠れなくても取って食べはしません。こちらへ来ませんか」

 びくり、と茂みが揺れる。そろりと姿を現したのは、狛犬の白と黒だった。

「朔夜は色々なものに慕われているようですね」

「……朔夜に、用?」

 まだ警戒心を解けないのか一定の距離を保ったまま、黒が問う。

「ええ、少し話があります。心配しなくても、物騒なことにはなりません」

 無表情を保っている緇珀の目元に、ほんの僅か、辟易したような色が流れる。

「あんなこちらの気が触れそうなこと、私ももうたくさんですから」

 白と黒は顔を見合わせると、手招きをする緇珀に従ってそろりと歩を進めた。




 山道と言うにはなだらかな道を、麓の高校の制服を纏った学生が自転車で上っていく。慣れたしぐさで古風な家の軒先に自転車を停めた彼は、どこから見ても何の変哲もないごく普通の高校生だった。

「ただいま」

 そう呼びかけて木戸を開けた彼の前に、待ちかねていたように玉藤が現れる。

「遅いわよ、主!」

「どうしたんだい、玉藤」

 そう問いながら、朔夜の視線が横に流れる。

「……玄玲、ではないね」

「その弟よ。急にやって来たんだけど……」

 言葉を濁す玉藤に、朔夜は首を傾げる。


 朔夜の知っている緇珀は、読みにくい相手ではあるが粗暴でも冷酷でもない。いきなり現れてここの住人に危害を加えるようなことは考えにくい。となれば、恐らくは朔夜に用があって訪ねて来て、屋敷で帰りを待っているのだろう。それだけのことに、玉藤は何故こうも動揺しているのか。


「お、帰ったな、朔夜。こっちや」

 そうこうしているうちに蛟が現れ、朔夜を手招く。朔夜は不得要領ながらその後について行った。

 縁に出てその光景を見た瞬間、何とはなしに呆れ交じりの溜息を吐いてしまう。

「……何でこんなことに?」

「そんなん俺が聞きたいわ」

 珍しく蛟も困惑気味である。


 縁には聞いていた通り緇珀が座っていた。

 それ自体は問題ない。

 待ちくたびれたのか、柱に背を預けたまま眠ってしまっている。寝顔は思ったよりもあどけなかった。

 それもまだ、いいだろう。呆れるようなことではない。


 解せないのは、その緇珀の膝に、両側から白い犬と黒い犬がそれぞれ顎を乗せ、一緒になって眠っていることである。おまけに緇珀の手は二匹の犬の頭に柔らかく乗せられていた。


「なんや、じゃれとるなーと思ったら、いつの間にかやな」

「まず、なんでじゃれた……」

 朔夜は額に手を当てた。まったくこの龍太子は、大人びているのかまだ子どもなのか判断の付きにくいところである。

「それで、龍太子は俺を訪ねて来たのかな?」

「もち、そうや。なんや話がある言うてたで」

「……起こすべきか?」

「…………俺は無理やで」

 朔夜と蛟は苦虫を噛み潰したような顔を突き合わせ、溜息を吐いた。いかに朔夜でも、相手が龍太子ともなれば多少は気を遣うのである。


 その時、ぴくりと黒が身じろぎした。朔夜の臭いに気が付いたのかひくひくと鼻を動かし、顔を上げる。その拍子に、頭に乗っていた緇珀の手がぽとりと縁に落ちた。

「あ」

「ん……?」

 緇珀が小さく呻き、持ち上がった瞼の下から縹色の瞳が覗く。

「やあ、龍太子。お待たせして済まなかったね」

 朔夜が声をかけると、緇珀は数度瞬きをしてから身を起こした。

「すみません、つい寝入ってしまいました」

「構わないよ。白と黒も懐いているようだし」

 そう言う朔夜を見上げる緇珀の膝の上で、黒がまだ目を覚まさない白の頬をなめ、覚醒を促す。のそりと身を起こした白と黒の頭を一撫でして、緇珀は立ち上がった。


「話があります」

 朔夜は頷く。引き締められた空気を読み取った白と黒が走り去り、蛟と玉藤も家の中へ引っ込んだ。朔夜と緇珀は縁に腰を下ろす。


「何の話か、わかっているのでしょう」

 緇珀の問いに、朔夜はちらりと視線を動かしてから、淡々と答えた。

「玄玲絡みかな、と予想はしているよ」

 先日の逆鱗の一件以来、玄玲は一度もここに姿を現していない。これまでがほぼ毎日顔を出しているようなものだったために、その異常さは際立った。

「はい」

 緇珀は頷いて、目を伏せた。

「あれから、姉上はご自分の宮に籠ったきり、出てきません」

 落ち込んだ様子だった姉を案じて、緇珀も何度か声をかけてみた。しかしその度に、「気にするな」と冷えた声で返されるだけだった。

「……俺のせい、かな」

 朔夜が微かな声で呟く。緇珀は肯定も否定もせず、ただ淡々と言葉を綴った。

「朔夜を責めるつもりはありません。その身の事情は、詳しくは知らずとも、あの時刀を通して理解しました。貴方に想いを寄せるのも、その擦り切れた心に届かぬと悩むのも、姉上の勝手であって貴方の責ではない」

「はっきり言うね」

 朔夜は苦笑した。先日の件で緇珀がただの箱入り王子でないことは確認済みだったが、姉の心情を正確に言い当てている辺り、人情というものも案外理解しているようだ。


「ですが、私は姉上の弟です」

 緇珀の瞳が、真っ直ぐに朔夜を見詰める。

「姉上のあの状態を放ってはおけない」

「……それで、俺にどうしろと?」

「覚悟を」

 予想外の言葉を返されて、朔夜は瞠目する。緇珀は揺らがず、強い口調で言い切った。

「覚悟を、決めていただきたい。情を受け入れるのか、捨てるのか」

「それは――」

 口を開いた朔夜を、緇珀が制する。


「貴方は、逃げている」

 声を荒げることも、表情を変えることも無くただ事実として突きつけられた言葉は、朔夜の擦り切れた心にじわりと染みて痛みを齎した。

「なに――」

「貴方は姉上の想いに薄々感づいていながら、それに気づかないふりをした。否、気づかないよう努めた。己がもはや、情などと無縁であると思うが故に」


 朔夜はあの時、甲玄に言われて初めて玄玲の気持ちを意識した。

 しかし、それは本当にその時初めて気づいたことだったのだろうか?

 目を逸らしていただけではないのか?


「気づかないようにしなければならなかったのは、貴方の心に姉上の存在が染みているからではないのですか」

 緇珀の指摘に、朔夜は穏やかに笑った。

 笑顔は武装である。本心を晒さないための、頑強な仮面。


「まさか。俺にそんな人間らしい心は無いよ」

 言い切る朔夜に、緇珀は微かに眉を動かした。

「己の心の動きさえ否定するというのですか」

「俺の心なんて、とっくに麻痺してしまっているからね」

 朔夜は穏やかに微笑む。緇珀はとん、と踵を踏み鳴らした。


「嘘吐きですね、朔夜」

 緇珀の足元が音を立てて凍るのを、朔夜は見た。


「……何の真似だい」

「貴方の心がもはや動かないのだと言い張るなら、試してみましょう」

 高く澄んだ音を立てて、氷は見る間に広がってゆく。

「心が動かないなら、この家の者が死に絶えても貴方は平気ということですから」

「ちょっと待たんかい龍太子!」

 ばん、と音を立てて障子を開いた蛟が猛然と抗議する。

「盗み聞きは感心しません」

「盗み聞きなんかしてへんわ!急に龍太子の霊気が具現化したから慌てて来てみたんや。何してはるんですか!」

 言っている間にも、氷は広がってゆく。朔夜の足元を通り過ぎた氷は、縁を凍らせながら蛟に迫っていた。


「ちょ、洒落になりませんって!これ俺でも死ぬやん!朔夜、何とかせえ!」

 蛟が叫んだ瞬間、ぱん、と氷が弾けた。

 場を満たしていた冷気が霧散し、凍りついていたという事実そのものが跡形も無く消え去ったかのようにいつも通りの光景に戻る。


「俺を脅してどうしようというんだい」

 朔夜の言葉に、緇珀はゆっくりと瞬きをした。

「脅すつもりはありません。ただ――」

 相変わらずの無表情。しかし、その瞳に宿る光は真摯だった。

「貴方に、向き合ってもらいたい。その結果姉上を受け入れられないというのなら、私も姉上も引き下がります。しかし、貴方は逃げている」

「向き合ってどうなるというんだ?俺は永劫に生きる。誰とも寄り添えないし、寄り添った相手のぬくもりを感じることすらできない」


 死を奪われた朔夜に生は無い。

 生を奪われた朔夜に、愛などあろうはずもない。


「朔夜、それは俺にも言い訳に聞こえるで」

 蛟が静かに口を挟んだ。

「朔夜が辛いのも、心が擦り切れてもうてるのも、ほんまやと思う。けどお前、ここの連中と、玄玲公主と過ごして、安らぎを感じてたんやないんか?」

 朔夜は言葉に詰まった。


 ――今、幸せか?

 そう、玄玲に訊かれたことがある。その時、朔夜は答えた。


 ――この穏やかで暖かな気持ちを幸せと呼ぶのなら、俺は今きっと、幸せなんだろう。


 たとえ擦り切れた心でも、枯れ果てた感情でも、傍に寄り添う誰かの心があれば、安らげるものなのではないか?少なくとも朔夜は、それを感じていたのではないか?


「朔夜、さっき龍太子が覚悟言うたな。俺も、お前は覚悟決めなあかんと思う」

 情を受け入れるのか、捨てるのか。

「捨てることを選んだなら、お前の心はこのまま擦り切れて、いつか乾ききって崩れてしまうんやろな」

「貴方の境遇からすれば、とうにそうなっていておかしくなかった筈」

 緇珀が静かに言う。

「それが未だ、これほど様々な者達に慕われて安らげる場所を作っているのは、畢竟貴方が情を捨てずに少しずつ受け入れてきたからではないのですか」


 例えば、玉藤のひたむきさを。

 例えば、甲玄の明るさを。

 例えば、松影の穏やかさを。

 例えば、狛犬達の純粋さを。

 例えば、綾音の優しさを。


 そして、玄玲の想いを。


「……ろ」

 聞き取れないほど微かな声が、朔夜の喉から漏れた。

「やめてくれ……俺は」

「失うのが怖いのですね」

 緇珀の言葉を肯定も否定もせず、朔夜は黙って俯いた。永劫の命を強制された朔夜は、相手が人間であれ妖怪であれはたまた神であっても、永遠に見送る側なのだ。


「朔夜」

 蛟が名を呼んで、後ろからその肩に両手をかけた。

「あほかお前は。小難しく考えるからしんどいんやぼけ!」

「うっ!?ちょ、蛟、痛い痛い!」

 容赦ない力で肩を握り締められて、朔夜は叫んだ。こう見えて蛟とて一端の大妖怪である。その膂力も人間よりはよほど強い。朔夜の肩の骨が音を立てて軋んだ。


「覚えてるか、朔夜。お前、俺が人間の嫁さん探してた時、人の寿命は短い言うたな。俺が何て答えたか、覚えてるか」

 妖怪よりも遥かに寿命の短い人間。ならばその短い一生の間、全力で大切にするのが自分にとっては実りのある恋なのだと、蛟は言った。ずっと儚く、すぐに老いてゆく、それが人間の可愛げであるとも。

「確かに、せんかてとうの昔に冥界へ行ってもうた。けどな、朔夜。たとえもう傍に居らんでも、せんがくれた温もりやら思い出やら、それは俺の心の中に残ってるんや。今でもな」

 蛟の恋愛観は、一種独特なものであろう。それでも彼は、短い間でもともにすごし心を通わせた後に残る物を知っていた。そしてそれを慈しむことを知っていたがために、相手が己の傍に在り続けることにこだわらなかったと言える。


「朔夜、お前が情を捨てて心の擦り切れて行くままに任せたい言うんやったら、俺は止めはせん。それも一つの選択や。けど、逃げたままでは中途半端な悔いだけを残すことになると思うで」

 思い出や温もりが消えた後に、寄り添えなかった哀しみだけが残る。

「あとな、お前の心が壊れた時、お前の感じてきた温もりも安らぎも、本当の意味で死ぬんやと、俺は思う」

 朔夜は何も言えなくなった。


「らしくなく演説ぶってもうたけどな、俺が言いたいのはあれや、未来がどうのと小難しいこと考えて今そこにある温もりを逃すんはあほのすることちゃうか、ってことや。お前もう少し単純に素直に生きたらええねん。失ったら失った時のことや」

 無言で俯く朔夜と、その肩を握っていた手を緩めて傍らに座る蛟を見て、緇珀は目を瞬かせた。

「乱暴な論理ですが、一理あるように思えます。ただの女好きではなかったのですね」

「北海宮での俺の評価ってどないなってんの!?」

 蛟が大仰に嘆く。そういえば玄玲にもあまりいい扱いを受けた覚えが無かったなと思い返す。脳裏によみがえる記憶は、どれも青龍刀を突きつけられたり、頭を踏みつけられたりと粗雑な扱いばかりだ。


「……でも俺は、生きていないんだ」

 弛んだ空気の中、一人黙していた朔夜が、ぽつりと呟いた。

「狂うことすら許されないまま少しずつ心が擦り切れて行くのを見ながら……いつまで耐えればいいのか、いや、終りなんてない、そんな中で……」

「そんな中だからこそ、寄り添う思い出が支えになると、蛟は言っているのではないのですか」

「せや。生き続けるのが辛いなら、悩むより少しでも楽しく生きる努力をしたらどうや。人間界を見てみ。面白いで、どんどん変わっていくし」

「そんな単純なことで――」


 反論しようとして、不意にすとん、と朔夜の心に落ちてくるものがあった。

 そう、そんな単純なことなのだ。


 思い返してみれば、何度となく狂った方がましだと思う時があった。しかし今この屋敷で、彼らの言う通り、朔夜は安らぎを得ている。この場所を、失いたくないと思う程度には。

 そうした場所を、これから先、二度と見つけられないという保証など、どこにある?


「……そうか、単純なこと、か」

 朔夜は目元を覆った。笑い出したいのに、涙が出そうだ。

 涙なんて、とうの昔に枯れ果てたと思っていたのに。


「おう、単純なことや」

 蛟が笑う。緇珀も、目元を僅かに緩めた。

「時には愚者に学ぶことも必要だということです」

「龍太子さっきからちょっと酷いんやないですか!?」

 騒がしい蛟の声に反応して、向こうの茂みから黒と白がひょこりと顔を出す。池の縁には亀の姿の甲玄が這い上がってきた。家の中からは綾音を抱いた玉藤が様子を窺い、庭木の傍で松影が微笑む。

 彼らの傍にいる自分が、生きていないとどうして言える?


「ありがとう、蛟、龍太子。そして――」

 みんな、と呟いた声は、微かに震えて掠れていた。




 北海の水底で、自分の宮に籠ったまま、玄玲はぼうっと虚空を見詰めていた。何度か弟や侍女が声をかけていたようだが、全て構うなと言って下がらせた。


 何故これほどに落ち込んでいるのか、自分でもよくわからなかった。

 朔夜の心に届かないことなど、知っていた筈だった。それでも共にいることを選んだのは、いつか届くかもしれないという儚い希望に縋ったからだ。

 自分は甘かったのだろう。己の思うよりも遥かに、朔夜の心は麻痺してしまっていた。

 一体誰が、あれほどの仕打ちを受け、傷ついて、狂うことすら許されない永劫の檻の中で笑っていられる?


 玄玲は座り込み、己の膝に顔を埋めた。ただひと時でも安らぎを与えられるかもしれない、心を交わせるかもしれないなどと、己は何を思い上がっていたのだろう。


「公主、お食事をお持ちしましたが……」

「必要ない。さがれ」

 扉越しの侍女の声に、温度の無い声を返す。到底、物を食べる気分などではなかった。


「いけないね、食事くらい摂らなくては」

 不意に聞こえた声に、肩がこわばる。


 まさか、そんな筈はない。


「俺と違って君には食事が必要だろう?なんならうちで食べるかい。龍太子と蛟も居て大勢だから、庭でバーベキューをしようと白と黒が張り切っていたよ」

 あの子たちの本体は石像だから食事は要らない筈なんだけどね、と苦笑気味に語る穏やかな声が、信じられない。玄玲は恐る恐る顔を上げた。その先に見慣れた顔を見つけて、ひゅっと喉が鳴る。

「朔、夜……?」

「うん」

 頷いた朔夜は、まるで何でもないことのように、玄玲の自室に存在していた。

「なんっ……どうしてここへ!?」

「水晶宮の中までは龍太子が送ってくれたよ。勝手に部屋まで入るのは悪いかなと思ったけれど、他人に見つかると面倒だから入らせてもらった。悪いね」

「そうではなく……!」

 いやそれ――ここまで入り込んだ手段――も問題ではあるのだが、そもそも朔夜は前にも北海宮への侵入を果たしている。今更そこに驚く玄玲ではない。

 問題は、何故朔夜がここへ来たのかということだ。


「緇珀にでも言われたのか、私を連れ出せと……」

「いや、それは言われていないね。色々と話はしたけれど」

 何の話を、と追及しようとした玄玲の前に、すっと朔夜の手が差し出された。


「一緒に、来てくれないかな、玄玲」

 どこか改まったその口調に、咄嗟に返事ができない。目を見開く玄玲と視線を合わせるようにしゃがんで、朔夜は玄玲の手を取った。

「一緒に来てくれないか。そしてできれば……傍に居てくれないかな。いつか、別れが来るまで、ずっと」


 これは夢だろうか。

 悩んだ末に見た、都合の良い幻覚だろうか。


「な、に……」

「蛟に説教されたよ。もっと単純に、素直に生きろって」

 苦笑交じりに言う朔夜の表情には、今まで見ていた感情の無い微笑とは違う、温もりが籠っていた。

「俺は死ねない。寄り添ったぬくもりを肌で感じることも、眠ることも、美味しいものを食べて笑いあうこともできない。でも」

 少し冷たい朔夜の掌が、玄玲の手を包みこむ。

「心はまだ、ここに在る。朽ちてはいない。寄り添って、安らぎを感じることは、俺にもできる」

 それから、少しだけはにかむように微笑んで、朔夜は言った。


「こんな俺に、玄玲の一生をくれなんて言う資格は無いのかも知れない。それでも――俺の傍で、安らぎを与えてくれませんか」

 玄玲は呆然としたまま、朔夜を見詰めていた。


 理解が追いつかない。

 それでも、一つだけわかったことがあった。


 ――傍に居ることを許された。朔夜が、望んでくれた。

 玄玲は朔夜の手を握り返し、空いた手で包み込んで額に当てた。そこに隠れた目元から、熱い雫が滴る。そんな彼女の震える肩を、少し遠慮がちに朔夜が引き寄せた。高いとは言えない体温が、玄玲を柔らかく包み込む。


 二人は暫しそうして、静かに寄り添っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ