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浮雲の月夜に薬師を迎えしこと

 さやかな月夜であった。

 庭に碧い光が満ち、水面に映じた月影が時折風を受けて揺らぐ。

 縁側に腰を下ろし、朔夜はその様をじっと眺めていた。傍らには玄玲が寄り添うように座っている。


 静けさの中に、ちりん、と微かな音が鳴った。朔夜が顔を上げる。

「客人だね」

 手にしていた扇子をゆるりと持ち上げ、顔の前でぱんと開いた。広がった扇子が月光を遮り、朔夜の顔に影が落ちる。


 時間にして、数瞬。

 再び扇子が閉じられた時には、朔夜の姿は白髪の老人のそれに変わっていた。玄玲が立ち上がり、青龍刀を手にする。

 そうして準備を整えた二人の前に、ふわりと人影が出現した。何処から現れたものか、まるで月明かりの中から生まれ出でたかのように不自然に、それでいて自然に、その人影は二人の前に立った。


「こんばんは、罪深き庵の主」

 柔らかな声で人を食ったような挨拶をしたそれは、十二、三の少年に見えた。

「こんばんは。何か用かな」

「勿論さ、願いを叶える庵の主」

 少年は時折銀色に光る白い着物を翻し、両手を広げた。

「僕はお願いがあって来たのだよ。だからそう睨まないでおくれ、麗しき竜神の姫君」

「……睨んでなどいない」

 唐突に話を振られた玄玲が、やや不機嫌そうに言う。少年は肩を竦めた。

「そうかい?なら、いいのだけど」

「本題に入ろう」

 飄々と言葉を紡ぐ少年を、朔夜が促す。少年は頷いて、居住まいを正した。


「僕は薬師なのだけれど、薬の材料が手に入らなくて困っているのさ」

 そう、切り出す。朔夜は目を細めた。

「何を手に入れたいんだい」

 問いを受けて、少年の表情がすっと真剣なものになる。風が吹き渡り、月影が揺らいだ。


「黒龍の逆鱗」

 よく通る声が月光の中に広がる。玄玲の柳眉がぴくりと跳ねた。次の瞬間には、彼女の手にある青竜刀が少年の喉元に突きつけられる。

 薄紙一枚の近さで刃の冷たさを感じている筈なのに、少年は慌てもせずに飄々と笑った。

「おお怖い。噂通り短気だね、北海宮の気高き公主」

「貴様は……」

「よしなさい、玄玲」

 益々眉を寄せて白刃を少年の首に押し当てようとした玄玲を、朔夜が止める。

「そちらもあまり挑発しないでくれないか」

「これは失敬」

 おどけた仕草で肩を竦めた少年は、しかしすぐに表情を引き締めて腕を組んだ。

「しかし実際困り果ててしまってね。龍の逆鱗というだけで命がけなのに、よりにもよって黒龍ときた」


 龍の体には一部だけ、鱗の逆しまに生えた部分がある。多くは顎の下にあると言われるその部分に触れられると龍は我を忘れて怒り狂うという。

 そして黒龍は、玄玲がそうであることからわかるように、北海宮の眷属であった。ごく低級の者ならばいざ知らず、格の高い黒龍ともなれば殆どが北海龍王の、ひいては玄玲の血族であると言っていい。だからこそ玄玲は怒り、少年は困り果てているのだ。


「何とかならないものかな、長き時を渡る庵の主。薬が出来なければ、僕の首が飛んでしまうのだよ。文字通りね」

 口調こそ軽いが、少年の目には焦燥が見え隠れしていた。嘘でも冗談でもなく、彼の首がかかっているのだ。

「何かで代用はできないのかい」

「貴方は主に献上する薬を作るのに、霊草の代わりにその辺りの雑草を使うかい?」

 つまるところ、不可能ということである。朔夜は顎に手を当て、小さく唸った。

「都合よく北海宮に罪人でもいればよかったのだけれど」

 軽い口調でそう言った少年は、玄玲に睨みつけられて首を縮めた。

「逆鱗に触れるとなると命がけ、いや、よほど高位の神仙でもない限り十中九まで命を落とす」

 呟いた朔夜が、ゆるりと笑みを浮かべる。

「なるほど、だからここへ来たわけだ」

「朔夜」

 その意味するところを汲み取った玄玲が、険しい顔を向ける。


 十中九まで命を落とす。それが、朔夜には当てはまらないのだ。

 何しろ彼には、落とすべき命が無い。死を禁じられた彼は、何があっても死なないという一点において、まさに適任であった。

 しかし、それは死なないというだけである。


「君の様子を見るに、低級の龍ではだめなんだろう」

「そうだね。何しろ我が娘娘(ニャンニャン)が天帝陛下に献上する薬だから」

 少年が含むように笑う。つまり、求められているのは最難関、高位の黒龍の逆鱗なのである。


 確かに、朔夜は死なない。しかし、高位の龍の逆鱗に触れて無事に済むわけはない。

 ただその性質故に命を落とさないだけで、肉体的には間違いなく死ぬほどの損傷を受けることは免れない。逆に言えば、それほどの傷を負い痛みを味わいながら、死ぬことができないのだ。考えようによっては、死よりもよほど恐ろしい体験である。

 それを、朔夜は苦笑ひとつで引き受けようとしていた。


「まさか北海龍王の逆鱗を持って来いなんて言わないだろうね」

 朔夜が確認すると、少年は頷く。

「さすがにそこまでは。でも最低でも北海宮の直臣級。高位であればあるほどいいね」

「貴様は……!」

 玄玲が怒りを隠そうともせずに少年に刃を向けた。その気迫に怯むことなく、少年は肩を竦めた。

「僕は貴方の主と交渉をしているのだよ、北海の公主。少し下がっていていただけないかな」

 少年が言うが、玄玲は引き下がらない。その肩に、朔夜が手をかけた。

「下がっていなさい、玄玲」

「しかし……!」

「彼の言うとおり、今話をしているのは俺なんだ」

 宥めるように彼女の肩を軽く叩き、朔夜が前に出る。玄玲は暫しの間不快げに少年を睨んでいたが、やがて黙って姿を消した。

「いいのかい、公主様のご機嫌を損ねてしまったようだけれど」

「心配ないよ。話を続けよう」

 あっさりと言う朔夜を刹那、感情の籠らない瞳で眺めてから、少年は再び薄い笑みをその顔に張り付けた。

「たくさんはいらない。ほんの小さな一枚でいいんだ。対価は貴方が望む通りの薬でどうだい、死を禁じられた天の罪人」

 唄うような声音で交渉をもちかける少年に、朔夜は微笑を返した。

「それを知ってなお」

 口を開き、穏やかに言葉を紡ぎ出す。老人のままだったその姿が、月光に溶けるようにその輪郭をぼやけさせ、形を変えていった。朔夜の本来の姿、十五歳の年から流れることを止めてしまった時を纏う、青年の姿へ。

「俺が欲しがる薬があると思うのかい」

 少年は肩を竦めた。朔夜の変貌にも驚いた様子は無い。当初から匂わせていた通り、朔夜の事情も正体も承知していたのだろう。


「確かに、貴方はもはや何の薬も必要とはしないのだろうね。そして貴方を殺す薬は、いかにこの僕でも作れない」

 ふわりと月光の中に翳された少年の手に、いつの間にか絹の袋が握られていた。

「いかにその肉体を壊そうとも、魂魄を器から引き離そうとも、たといその魂を溶かす猛毒を用いたとしても」

 さらりと恐ろしい言葉を並べて、少年は朔夜の顔を覗き込む。

「天帝の下したもうた檻は壊せない。貴方という存在はその形のまま永劫の時を流れる他の選択を与えられていない」

「よくわかっているじゃないか。驚いたよ」

 朔夜が薄く笑って言うと、少年はにこりと笑った。

「月はいつも下界を見ているのだよ、哀れなる囚われ人」

 翻る袂が、月光を弾く。

「けれども貴方はここに居場所を持った。故に欲するものがあるはずだよ、人ならざる者の住まう庵の主殿」

 朔夜の眼前から身を引き、少年は絹の袋の口を開いた。その中から、小さな壺を取り出す。

「例えば、一足早くその命を散らしてしまう者を引き留める薬とかね」

 朔夜は何も言わない。ただ、ゆっくりと目を閉じた。

「いいだろう」

 低い声が、夜気を震わす。

「君の願いを引き受けよう。但し、少しばかり難しすぎる願いだ」

 薄く目を開いて、月光の中に佇む少年を見据える。

「結果の保証は、しかねるね」

「結構さ」

 少年は頷いた。

「対価は成果と引き換えに。失敗しても貴方を恨んだりはしない。そういうことでいいのだろう」

「そうだね」

 朔夜の肯定は、交渉の成立を意味した。少年が満足げに笑って踵を返す。

「それでは、期待しているよ、終わりなき彷徨い人」


 月光が揺らめく。

 次の瞬間、少年の姿は既にそこには無かった。




 朔夜のもとを離れた玄玲は、冷たい海の底を揺蕩いながら思考を巡らせていた。

 依頼が持ち込まれた以上、たとえそれがどんなに困難であっても、朔夜は受けるだろう。少なくとも玄玲は、朔夜が条件が難しいという理由で誰かの願いを拒否するところなど見たことが無かった。


 そしてこの願いをかなえるためには、北海宮でも高位の黒龍から逆鱗をはぎ取らなければならない。その困難は言うまでもないことだが、朔夜にならば可能かもしれない。無論、多大な犠牲を払わざるを得ないだろうが、それが己の苦痛で賄えるならば頷き一つで引き受けてしまうのが朔夜だ。

 しかし問題はそこに留まらない。

 もしも朔夜が黒龍の逆鱗を手に入れられたとしても、その逆鱗の持ち主、ひいてはその周囲にいる者がそのまま黙っているということはあるまい。必ずや、朔夜は罪に問われることとなる。相手によっては北海宮との全面闘争にもつれ込みかねない。


 玄玲は目を閉じた。

 できうることならば、この身の鱗をはがして朔夜に与えてやりたい。しかし必要なのが逆鱗であるという一事が、それを不可能にしていた。


 逆鱗に触れられると、龍は怒り狂い我を忘れる。そして自身の逆鱗を自ら引きはがすということはできない。それは龍の本能でもあり、体の構造の問題でもあった。誰かにはがさせるというのは論外である。ほぼ間違いなく、我を忘れた自らの手でその相手を殺すことになる。


 必死に解決策を探した玄玲は、一つだけ可能性を見つけた。

 四海竜王の水晶宮には、それぞれに強い力を持った秘宝がいくつか存在している。その中の一つに、遁龍環というものがある。三千年ほど前に仙道の戦いの中で使用された伝説の武器だというが、そう伝えられる同名の秘宝は各所に幾つか存在するようなので、恐らくはそのものではなく類似品か模倣品であろう。水晶宮の権威を慮って誰も口には出さないものの、冷静な者はそう考えている。

 その来歴はともかくとしても、その力は確かであった。玄玲は一度だけそれが使用されるところを見たことがある。普通に見た限り、それは何の変哲もない腕輪に見えるのだが、対象を捕らえる瞬間、それは三つの強固な箍となり、身動きを許さぬ拘束となるのだ。

 あれを使えば、逆鱗に触れられても暴れて周囲を破壊する結果を招かずに済む。


 ならば問題は、どうやって秘宝を使い拘束される状況を作るか、そしてその罪が朔夜に及ばぬようにするか、ということになる。

 その問題に対して結論を出した玄玲は、ゆっくりと水底から身を起こした。黒曜の瞳が剣呑に光る。

「よかろう。それが私にできることならば」

 海がざわめき、彼女の前に北海への道を作りだした。




 少年が姿を消した後、朔夜は庭の池を覗き込んだ。水面は静かに凪いで、月夜を映すばかりである。

「玄玲、いないのかい」

 声をかけてみる。機嫌を損ねて姿を消した玄玲だが、常ならば朔夜の呼びかけに応じて現れるはずである。しかし今夜はその濡羽色の色彩が月下に立つことは無く、代わりに亀が一匹、のっそりと顔を出した。

「玄玲公主なら、ここにはおいででないぞ」

 亀――甲玄はそう教えると、岩の上に這い上がって甲羅を月明かりにさらした。

「そうか。本格的に怒ってしまったかな」

 呟きながらも、朔夜はどこか落ち着かないものを感じていた。手にした扇子をくるりと回し、甲玄に問いかけてみる。どうせ彼も、池の中から先程の一幕を見聞きしていたに違いないのだ。

「なあ甲玄」

「何じゃい」

「どうすればいいと思う?」

 それは黒龍の逆鱗を手に入れるには、という質問のつもりだったのだが。

 甲玄の答えは、朔夜の想定から大きく外れていた。

「そりゃお前、一刻も早く玄玲公主を追いかけた方が良いと思うぞ」

「玄玲を?」

 朔夜は困惑に眉を寄せる。

「追いかけるって、何でさ。そのうち機嫌が直れば戻ってくるだろうし、俺はさっきの願いの事を……」

「わからんやつじゃな」

 甲玄が不機嫌に鼻を鳴らす。

「お前は、何一つわかっとらん」

「何をさ」

 首を傾げる朔夜に、甲玄はかっと口を開いた。

「阿呆かお前は。玄玲公主のことに決まっとろうが。お前は一体何故玄玲公主ほどのお方がお前の傍に留まっておられると思っとるんじゃ」

「それは俺との契約が……」

「とぼけるのもたいがいにせい」

 甲玄の一喝が朔夜の答えを切り捨てる。

「お前もわかっとるじゃろう。契約だけならああしてしょっちゅうここに顔を出し、お前やわしらの馬鹿騒ぎに付き合う必要などどこにもないわ」

 朔夜がぐっと言葉に詰まる。甲玄は更に追い討ちをかけた。

「この際はっきり言うぞ。公主はあれじゃ、お主に惚れとる」

「そんな馬鹿な」

 漸く、朔夜は反論を舌に乗せた。

「そんなこと……第一、不毛だ。俺には……!」

「理屈で割り切れることなら誰も苦労はせんわい」

 ふん、と鼻を鳴らして、甲玄はそっぽを向いた。

「今お主がそれを信じようが信じまいがそれはわしの知ったことじゃない。じゃが朔夜、もう一度言うぞ。疑っとる暇があったら一刻も早く公主を追え」

 甲玄の強い口調に、朔夜は軽く目を細めた。理由を考えようとしている表情である。そんな様子を見た甲玄は、その間も惜しいとばかりに声を上げた。

「ええい、まだわからんのか。惚れた男が難題を抱えておるのを知ったおなごがいったいどういう行動に出るか、それすらわからんようでは救いようがないぞ」

 苛立ちを露わにしたその言葉が、朔夜の思考に答えを突きつける。滅多に強い感情を露わにしないその目元が、愕然とした色に染まった。

「まさか……!」


 その頃、北海水晶宮の門扉が黒龍の強力な一撃によって打ち破られていた。



 長大でしなやかな原型によって門扉を破壊し一息に玉座の間まで押し入った玄玲は、室内では動きを阻害されるその姿を人型に収束させ、手に握った青龍刀を振るって衛兵を弾き飛ばした。

「げ、玄玲公主!?」

「こ、公主ご乱心!」

 衛兵たちが立ち騒ぎ、口々に警告を叫びながら玄玲を取り囲む。玄玲はその様子に鼻を鳴らし、青龍刀をくるりと舞わした。

「生憎乱心などしていない」

 静かに言うと、玉座を睨む。

「父上、その玉座、今日この場で、この玄玲が譲り受けさせていただく」

「これはまた異な事よな」

 彼女の視線の先に座す龍王は、目を細めて自身の娘を見据えた。

「そなた、龍王の位が嫌だと天帝の玉命に逆らったのではなかったか」

「気が変わりました」

 眉一つ動かさずに言い放ち、玄玲は己を止めようと向かってきた衛兵を青龍刀の石突に引っ掛けて後方へ投げ飛ばした。

「ふむ」

 龍王がゆったりと頷く。

「つまりそなたはこの北海龍王、ひいては天帝陛下に弓を引くと、そう申すのじゃな。何ぞ思惑あっての事か」

「邪推は不要です。私は私の一存でその首を頂きに参るのみ」

 青龍刀の刃を父に向けた玄玲が、その身を躍らせて前に出る。衛兵が止めようとするが、誰一人として三秒以上玄玲の前に立てる者はいない。その様子を見て、竜王はふう、と溜息を吐いた。


「致し方あるまい。如何なる存念あっての行動か知らぬが」

 ゆっくりと、その腕に嵌っていた腕輪の一つを外す。

「向かってくるならば止めねばなるまいよ」

 ひょい、と空中に放られた腕輪が、中空で燦然と光を放つ。

「遁龍環。反乱者を拘束せよ」

 次の瞬間、玄玲の体は三つの輪に締め付けられ、一切の動きを封じられていた。




 扇子の端の飾り紐を解くのももどかしげに引きちぎった朔夜が、そこに結わえられていた玉を池に沈める。口中で何事か呟き、水面を手刀で切り裂いた。水鏡に映っていた星空が乱れ、上がる飛沫が淡い光を放って水と水を繋ぐ。

「おわ!?」

 どこか間の抜けた叫びとともに、水面の裂け目から巨大な質量が吐き出された。黒い鱗に覆われた長い体が夜空へ躍り上がり、反転して着地する頃には人の形に姿を変える。

「何すんねん朔夜!いきなり強制的に呼び出すやなんて、第一お前こんなしょぼい池と東海どないして繋いだねん!水族の眷属でもあれへんくせに無茶苦茶な奴やな!」

 若い男の形で抗議の言葉を並べるのは、言わずもがな蛟である。朔夜はその怒涛のような苦情をあっさりと聞き流した。

「悪いが緊急事態だ。説明している暇はない。今すぐ北海宮へ行きたい」

「はあ!?」

 蛟が目を見開き、すぐに首を横に振る。

「そんなこと言われても無理や!俺が水場から繋げるのは東海だけやで!そんなん玄玲公主に頼むのが筋やろ!?」

「その玄玲を追いかけるんだよ」

 朔夜はそう言うと、いつの間にか詰めていた距離を零にして蛟の襟首を掴んだ。

「東海で構わない。東海の水晶宮になら北海宮へ繋ぐ手段だってあるだろう」

「さっきの術で自分で飛べへんのかい!?」

「あれはお前の存在を指定して引き寄せただけ。お前の言う通り水族でもない俺に東海まで自由に空間を繋ぐ術などないよ」

 準備なしではね、と不穏な一言を付け加えて、朔夜は蛟の襟首を捕まえたまま池へと身を躍らせた。


「ああもう、また鰲秋に叱られたらお前のせいやからな!」

 恨み言を叫びつつ、蛟は朔夜を伴って水の道を東海へと飛んだ。




 遁龍環によって身柄を拘束された玄玲は、そのまま宮の一室に拘留され、沙汰を待っていた。

 因みに今は人間の姿だが、たとえ龍の原型に戻ったとしても遁龍環の拘束が解けることは無い。対象の大小や形状によって自らも形を変え確実に拘束する、秘宝の秘宝たる所以である。


 先程までの暴れ方が嘘のように静かに座っている玄玲の眼前で、不意に見張りの兵士が膝をついた。まるで急激な睡魔にでも襲われたかのように、次々に眠り始める。

「やっぱり、馬鹿なことをしたんだね」

 柔らかな声が降ってきたのを耳にして、玄玲は顔を上げた。そこに予想した通りの顔を見て、小さく言葉をこぼす。

「朔夜……」

「北海宮を襲撃して、罪を背負ってまで、黒龍の逆鱗を手に入れようとしたんだね」

 朔夜の問いに、玄玲はふっと笑みを浮かべる。

「何を言う、人間」

 傲岸な笑みをその頬に刻んで、玄玲は朔夜を睨んだ。

「私はただ己の意志と力でもって竜王の座を欲したのみ。人間風情の事情など知ったことではない。私を偶然契約で縛ったからと言って図に乗るな」

 この言葉に、朔夜が失望してくれればいいと思った。そうすれば彼は良心の咎めることもなく、玄玲の逆鱗をはぎ取ることができるだろう。


 けれどもそれは難しいだろうとも、玄玲は思った。果たして、朔夜は失望の欠片も見えない、優しげな苦笑を浮かべる。


「嘘が下手だね、玄玲」

「……逆鱗が欲しいのだろう」

 肯定も否定も避けて、玄玲は己の身に加わる拘束を指し示す。

「私を拘束しているのは遁龍環だ。私がどれほど暴れても解けることはない。何の犠牲も無しに逆鱗を手に入れる、唯一の機会だ」

 乗ってくれ、と願った。

 事実、冷静に考えて、これが一番被害の少ない方法なのだ。逆鱗は厄介な性質こそあれ、龍にとっては鱗の一枚、覚悟があればその損失そのものは何ほどの事でもない。その一枚で朔夜があの少年の願いを叶えられるのなら、玄玲は喜んでそれを差し出せる。

 しかし朔夜は、苦笑を浮かべたまま玄玲の頬に手を当てた。

「愚かだね、玄玲。君自身には一片の利もないというのに、こんなに傷ついて」

 玄玲は竜王に対して反乱を起こした。その罪は軽くはあるまい。

「愚かなことをしたものだ。でも」

 その行為を愚かだと断じながらも、頬を撫でる朔夜の手つきはどこまでも優しい。

「その愚かさが誰かを救うのだから、生きるとは複雑なことだね」

 穏やかな言葉と、微笑み。

 半ばぼうっとそれを享受していた玄玲は、朔夜の背後に閃いたものを見て我に返った。


「よせ!」

 叫びは、間に合わない。


 玄玲の白い顔に、文字通り浴びるほどの鮮血が降りかかった。

 玄玲の目の前、横一文字に閃いた柳葉刀が、一点の滞りも無く滑らかに、朔夜の首を刎ね飛ばしたのだ。


「あ……」

 小さく零れた声は、震えていた。

 いつも通りの暗色の着流しを纏った身体がゆらりと揺れ、崩れ落ちて視界から消える。


 呆然と目を見開く玄玲の前で、その惨劇を齎した張本人は眉一つ動かさずに刃を拭うと、鞘に収めて控えていた侍従に渡した。

「珍しいですね、そんなに驚いた顔をなさるのは」

 平静な表情を崩さないまま玄玲の顔を覗き込むのは、青年と呼ぶにはまだどこかあどけなく、少年と言ってしまうには成熟したものを感じさせる、そんな微妙な年齢に位置する男性だった。

「お、まえ……」

「何を驚かれているのですか」

 その言葉の裏には、驚いたことに何の含みも無かった。皮肉でも、反問でもない。彼は本当に、玄玲の表情が意味するところを理解していないのである。

「ここの警備をするように言われて来たのです。侵入者があれば排除するのは当然の責務でしょう」

 何か間違えましたか、とでも言い出しそうな表情で、彼は首を傾げる。無表情だったその目元が、ほんの少し不安げに揺れた。

「いけませんでしたか」

 そう尋ねて、足元の骸に目を落とす。

「人間のようですね。どうやってここへ来たのか知りませんが……ひょっとして、先程の暴挙にはこの人間が何か関係していたのですか」

「ちが、う」

 彼の問いに、玄玲は辛うじてそう返した。そう返すことで、精一杯だった。思考が停止している。凄惨な光景が、目に焼き付いたように脳裏から離れない。

 それでも否定を口にしたのは、朔夜に罪を着せまいとする一心の賜物だった。

「そうですか」

 あっさりと頷いた目の前の彼は、再び首を傾げた。

「ならば何故あんなことを?姉上が王座を狙う理由など私には思い当たらないのですが」


 姉上、と彼は言った。事実、彼は玄玲の弟である。

 北海龍王の子、未だ年若く先だっての竜王退位騒ぎの際にはその若さを理由に継承者より外されていた王子である。


「それに、この人間はいったい……」

「ちょっと質問攻めにするのは待ってやってくれないかな。顔が真っ青だ」

 唐突に、姉弟の間に割り込む声があった。

 その穏やかな声色に玄玲は目を見開いて勢いよく首を回し、弟の方はゆっくりと視線を動かす。姉弟の目が向いたその先には、床に座り首のあたりを摩っている朔夜がいた。


「朔夜……!」

「そんな顔をしないでくれないか、玄玲。君は俺の事情を知ってるだろう」

 幽霊でも見たかのような顔をする玄玲に苦笑を見せ、朔夜が立ち上がる。それを見て目を瞬かせた王子が、足元の血の海を確認し、首を傾げた。

「首を刎ね飛ばしたと思いましたが」

「そうだね。容赦ないいい一閃だったよ」

 朔夜は首を回しながら答える。先程の惨劇が夢や幻ではなかった証拠にその体は血まみれなのだが、床には死体も首も転がってはいなかった。

「首を飛ばされてなお生きていられる者とは珍しいですが」

 感心したような字面とは裏腹に淡々とした口調で呟いて、王子が侍従を手招く。即座に侍従が差し出したのは、鞘に収まった二振りの柳葉刀。王子はその柄をそれぞれ左右の手に握り、一息に引き抜いた。

「姉上の暴挙と無関係ではないと見ました。その上北海宮への侵入と衛兵への催眠。これだけで即誅殺が許される罪だということは了解済みでこの場にいるのでしょう」

 朔夜は黙って微笑むことで、答えに代えた。

「北海龍王が子、緇珀(しはく)がお相手致します。覚悟はよろしいですね」

「待て緇珀!」

 玄玲が叫ぶ。

「この度の事は私が……朔夜は無関係だ!」

「目的だけ聞いておきましょう」

 玄玲の訴えは緇珀に届かない。彼は朔夜に向かい、ゆっくりと二刀を構えながら問うた。多くを聴くつもりはないと、その態度が物語る。朔夜もまた詳しく語るつもりは無いというかのように、微笑んだまま一言だけ口にした。

「黒龍の逆鱗の入手を頼まれてね」

「そうですか」

 何の感想も述べずに首肯した緇珀が床を蹴る。閃いた二刀の初撃は、朔夜の手にした扇子に受け流された。

「よせ、緇珀!やめろ――!」

 玄玲の叫びが空を裂く。緇珀は一度朔夜との間に間合いを開けると、両手の柳葉刀をくるりと回した。

「姉上の望みとあれば、ここで手心を加えて貴方に鱗の一枚差し出すくらいのことはしてもやぶさかではないのですが」

 半ば呟くような低い声で言って、緇珀は朔夜と視線を合わせた。

「貴方はそれを望んでいない」

 朔夜は微笑んだ。無防備に両手を広げる。

「ただの箱入り王子でなくて安心したよ。次期竜王の資質は期待できそうだ」

「私は未だ姉上の継承放棄を認めたわけではないのですが」

 ついと目を細めて、緇珀は再び二刀を構える。

「死なない自信はあるようですから、全力で参ります」

「自信じゃなくて確証だけどね。それも自分は望まない方向の」

 肩を竦める朔夜に向かって、銀光が交差した。



 どれほどの時間が経過したのか、正確に把握している者はいないに違いない。

 それほど、そこに流れたのは異常な時間であった。


 ぴちゃん、と粘りを帯びた液体が滴り落ちる音が響く。静かに佇む緇珀が両手の柳葉刀を振ると、刃に纏わりついていた血が振り飛ばされて床に新たな染みを作った。

 もっとも、その染みが一切目立たないほどに、この場は汚れてしまっている。床も、壁も、天井ですら。

 その中に立つ緇珀も、例外ではありえない。黒髪は血に浸されて重たげに滴を垂らし、白皙の面にも赤黒い汚れが目立つ。その中でどこまでも凪いだ縹色の瞳だけが赤を拒絶していた。その瞳をゆっくりと細めて、彼は口を開いた。


「さすがに」

 その声音に混じる息遣いは、嘆息に似ていた。

「これほど執拗に切り刻んでも死なないものは初めて見ました」

「俺もここまでやられたのは初めてだよ。君はちょっと加減を学んだ方がいいかもしれないね」

 呆れ交じりに応える朔夜は、足元に広がる血の海から着物の端切れを拾い上げ、小さく呪を唱えて切り刻まれた衣服を元通りに身に纏った。


「な、何なんだ、この人間は……」

 緇珀の侍従がわなわなと全身を震わせ、後ずさる。


「やめてくれ……もう、やめろ」

 玄玲は顔を伏せ、震える声で懇願していた。その様子を一瞥し、少しだけ辛そうに眉を寄せた朔夜が緇珀に向き直る。

「このくらいで気は済んだかな」

「……これ以上はこちらの気がおかしくなりそうです」

 緇珀は無表情の中にどこか辟易したような雰囲気を漂わせ、二刀を侍従に渡して血にまみれた両手を拭った。

「では、こちらの用件に移っても構わないかな」

「ええ、いいですよ、とは参りませんので」

 そんな言い方をして、緇珀は再び柳葉刀を手に取った。逆手に構え、腰を落とす。

「力づくでどうぞ」


 朔夜は微笑んで、この惨状の中でも染みひとつない扇子を開いた。


 一瞬で、間合いが詰まる。


 先程まで無抵抗で切り刻まれていた人間とは思えない動きに侍従が息を呑むが、緇珀は冷静に対処した。喉元を狙ってきた扇子を左手の刀で迎え撃ち、右の刀で攻勢に出る。それをするりと躱した朔夜の片手が、僅かに緇珀の首元を撫でた。途端、その部分の変化が解けて元来の鱗に覆われた肌が露わになる。

 緇珀は背後へ身を捩りながら跳躍することで朔夜の手から逃れ間合いを開けようとするが、その複雑で俊敏な動きに朔夜はぴったりとついてきた。扇子と刀のせめぎあいが何度となく起こり、二人の間に火花が散る。


 外見の年齢を考えてみれば、緇珀と朔夜はちょうど同じくらいの年恰好であった。少年と青年の間に位置する二人が、危うい均衡の上でめまぐるしい攻防を繰り返す。


 変化は一瞬だった。

 緇珀の喉元に滑り込んだ朔夜の扇子が、そこにさかしまに生える鱗の一枚を引っ掛け、引きはがしたのである。


 雷鳴に似た轟音が響いた。

 急速にその姿を膨張させる相手から遠ざかりながら、朔夜は宙に浮いた黒い鱗をしっかりとつかみ取る。そしてそれを懐から呼び出した紙の鳥に託すと、可能な限りの速度でその場を離れさせた。次の瞬間、怒り狂う龍の尾の一撃が朔夜を冷たい海中に叩き込む。

 荒れ狂う若き黒龍は、周囲の全てを破壊し尽くさんとするかのごとく暴れた。しかし水晶宮の中で震える者達にその尾が襲いかかった時、その破壊は黒龍を覆う結界に阻まれた。


 逆鱗に触れられ我を忘れた龍を結界の中に封じ込め、被害の拡大を防ぐことは不可能ではない。ただそこから逆鱗に触れた当人が逃げ出すことは許されない。その存在が龍の本能に任せた怒りを受け止めなければその怒りを落ち着かせることは難しいし、第一龍の身辺にいる当人が結界の外へ逃げきれるような暇は与えられない。

 故に今、怒れる黒龍の側にはただ一人、朔夜だけが留まっていた。


「落ち着くまで好きなだけ暴れるといい。どの道俺が死ぬことは無いのだから」

 朔夜は龍を見上げながら呟いた。

「俺の勝手に巻き込んで済まない。意図を理解してくれて、ありがとう」


 あの場で玄玲の逆鱗を取れば、それは確かに最も犠牲の少ない方法だったのかもしれない。

 けれども朔夜はそれをしたくなかった。

 たとえ勝手な感傷であっても、自分の為に犠牲を顧みず愚かな行為に走ってくれた玄玲を利用するようなまねをしたくなかった。そして玄玲の望みだからと言って緇珀が無条件に犠牲を払うことも、道理に合わない。

 そういう朔夜の感情を理解したからこそ、緇珀はまず朔夜の罪を払わせたうえで対等な条件に持ち込んで鱗の奪い合いを演じてくれたのだ。朔夜を切り刻んだ時も、対等に戦った時も、彼は全力であったに違いない。そうでなければ朔夜に罪の意識を残すことになるからだ。


 そして最後の贖罪として、朔夜は彼の忘我の怒りが落ち着くまで、その破壊を受け止め続ける。

 それが報いというものだから。



 やがて緇珀が理性を取り戻し、元通り表情の乏しい少年の姿に戻った時、朔夜は殆どその存在を留めてはいなかった。だが死に拒絶され、天帝によって肉体の損壊も急速に恢復される彼の肉体は、四半時も必要とせずに元に戻る。


「朔夜!」

 自我を取り戻したとき、玄玲が自分の顔を覗き込んでいるのに気付いて、朔夜は薄く微笑んだ。しかしすぐに口元を押さえ、背を向けて嘔吐する。

「朔夜!」

「う……大丈夫。ちょっと短時間に規格外の苦痛を受け過ぎたもんだから、久しぶりに堪えただけだよ」

「普通ならば百度気がふれても釣りがくると思いますが」

 平静な声とともに、背中に玄玲のものよりも一回り大きな手が乗る。顔を上げると、すっかり平常通りになった緇珀の姿があった。

「ああ、俺には狂うことも許されていないからね」

 朔夜が自嘲気味に言うと、緇珀は首を傾げた。

「しかし貴方の罪とはいったい。これはあまりにも……」


「深入りするな、北海の龍太子」

 緇珀の言葉を切り裂くように遮ったのは、中空に座し白い衣と髪をなびかせる神だった。隣には彼の片割れである赤い着物の神もいる。彼らの姿を目にして、朔夜は小さく笑った。

「いつもことが終わってから介入してくるんだね、君達は」

「好きでやっているわけではない」

 吐き捨てるように言う白衣の神、北斗神君は、恐らく朔夜の顔すら見たくないと思っているに違いない。

「しかし今回の騒動は大きい」

 傍らに立つ南斗神君が、冷え冷えとした声で言った。

「北海宮にかけた迷惑を思えば貴様は極刑相当だが、天帝の命により不問とせよとのことだ」

「なんだ、いい加減殺してくれればよかったのに」

 さらりと恐ろしいことを本気とも冗談ともつかぬ口調で言って、朔夜は立ち上がった。気分もだいぶ回復してきたようだ。あとは北海竜王に一応詫びを入れてからとっとと帰ってしまうに限る。


「待て」

 話は終わりとばかりに踵を返しかけた朔夜を、北斗神君が呼び止める。

「天帝の命により貴様は不問となったが」

 鋭い視線が、朔夜ではなくその隣を射抜く。

「北海龍王に弓を引いた娘に関しては何も言われていない」

 はっと顔を上げる玄玲の身は、既に遁龍環から解き放たれている。緇珀が父王に願い出て、龍王からは咎め無しの裁決を貰ったのである。

 しかし北海龍王の臣下ではない北斗南斗両神君が罰すると言うならば、それは受けなければならなくなる。身を固くする玄玲の前で、北斗神君が剣を抜いた。


「姉上」

 咄嗟に緇珀が前に出かけるのを、玄玲自身が制する。龍王の子というだけで天上の官位を持っていない彼ら姉弟は両神君より明白に格下だ。逆らうことは父にまで累を及ぼしかねない。


「――いい加減にしろ」

 緊迫した状況を破ったのは、低い呟きだった。

 その場にいる者達がはっとするより早く、北斗神君の背後を取った朔夜がその首筋に扇子をつきつける。

「俺を嫌おうと罰しようと好きにするがいい。でも玄玲に手を出すな」

「――一丁前にそういう顔もできるじゃないか」

 僅かに振り向いた北斗神君が薄く笑みを浮かべた。その前に、玄玲の制止をやんわりと外した緇珀が進み出る。

「神君。姉は既に罰を受けております」

「ほう」

 南斗神君が短い相槌で先を促す。緇珀は淡々と続けた。

「私は姉の目の前で朔夜を数えきれないほど八つ裂きにしました。それに先程のことも併せ、精神的な苦痛は十分罰に値する程度まで受けたのではないかと」

 どうやら緇珀はそこまで考えて玄玲の目の前で惨劇を繰り広げてみせたらしい。朔夜は思わず苦笑した。

「八つ裂きじゃすまないくらいの目に遭った気がするけどね……」

「いくらやっても死なないので、つい」

「つい、何だい」

 つくづく将来の恐ろしい王子様だ、と溜息を吐く。そんなやり取りを見て、北斗神君が鼻を鳴らした。

「そうか。ならばその娘の罪は龍太子の機転と貴様の珍しい激昂に免じて赦してやろう。但し」

 すっと目を細めた北斗神君が、瞬時に剣を逆手に持ち替え、背後に向けて突き出す。

「俺に刃を向けた罪は己で償え」

「く……」

 北斗神君の剣に腹を貫かれた朔夜が体勢を崩し、膝をつく。それを冷ややかに見降ろして、北斗神君は姿を消した。南斗神君もまた、相前後して立ち去る。


 朔夜の側に駆け寄った玄玲は、呻き声すら漏らさずに玄玲に向けて微笑んでみせる朔夜を見て胸を締め付けられるような痛みを感じた。

 いかなる苦痛も、感情も、もはや朔夜にとっては「取るに足らぬもの」でしかない。それほどに彼は、擦り切れてしまっているのだ。苦痛に慣れ切り。孤独に浸りきって。

 それが無性に悲しく、そして恐ろしい。


 朔夜に寄り添う玄玲は、口角に血をにじませながらも微笑んだままの朔夜の唇にそっと口づけた。そこに何か感情の揺らぎが生まれれば、この胸の痛みが和らぐかもしれないと、淡い期待を託して。

 しかし玄玲が唇を離して目を開いても、朔夜は変わらず微笑んでいるだけだった。縋るような玄玲の視線を受けて、少しだけ首を傾げる。


 届かない。

 彼の擦り切れてしまった心には。


 唇を噛んで俯く玄玲の肩に、緇珀が手をかける。宥めるように数度叩いて、そっと彼女を立たせた。

「傷が治り次第お帰り下さい。父上には私からお詫びしておきます」

「……悪いね、何から何まで」

 緇珀の言葉に従って、朔夜はすぐに北海宮を、玄玲の前を離れた。彼なりに、今彼女の側に長居することはよくないと感じたのかもしれない。

「帰りましょう、姉上」

 静かな声に促されて、玄玲は俯いたまま踵を返す。

 朔夜の心を救えないことが、辛くて堪らなかった。




 銀色の月光の下で鱗を手渡すと、少年は跳ねまわらんばかりにして喜んだ。うっかり変化が緩んで、ひょこりと白くて長い耳を露呈してしまったくらいである。

「おっと。世話になったね、不可思議な庵の主」

 少年はそう言って大事そうに鱗を懐にしまった。

「それで、対価に何の薬を持ってこようか」

 問われて、朔夜は沈黙した。その様子を目を細めて眺めた少年が、小さな袋を投げて寄越す。

「これは?」

「対価だよ、悠久の囚われ人」

 少年は歌うように答えた。

「貴方は欲する薬を決められない。何故なら貴方は空っぽだから。少なくとも、空っぽの振りをしているから」

 朔夜の眉が微かに動いた。少年は朔夜の手に放った袋を指差す。

「その中身は不老不死の薬。使い方は貴方が決めたまえ」

 ゆるりと笑みの形に目元を緩めた少年が立ち去ろうとするのを、朔夜は呼び止めた。

「この願いは天帝の指示だね。あのお方は何を考えている」

 直球の問いに、少年の表情がこわばる。それから、深い溜息を吐いた。

「わかってしまったか。でも薬を作るのも、これが薬に必要だったことも本当だよ。これだけは薬師としての誇りにかけて言わせてもらう」

「それはそうだろうね。気まぐれな君を動かすには珍しい薬で釣るしかないだろうし」

 朔夜が呆れ交じりに言うと、少年は肩を竦めた。

「釣るという表現は些か心外だけれど、間違ってはいないね。それから天帝のお考えについては僕も知りはしないさ。僕は僕の娘娘に頼まれただけだもの」


 ただ、と言って、彼は薄く笑んだ。

「憶測を述べさせてもらうなら、試したかったんじゃないかな、貴方達を」

「試した?」

「そう」

 頷いて、少年はくるりと身を翻す。

「貴方と玄玲公主の心を。絆を。繋がりを。貴方がこの下界で築いたものの堅さを」

 憶測に過ぎないけれどね、と念を押して、少年は今度こそ踵を返した。

「では失礼するよ、天に愛され憎まれ、翻弄される哀れな人の子」


 人を食ったような挨拶とともにいやに恭しく頭を下げ、少年の姿は月光に溶けるように消えていった。後に残された朔夜は、月を見上げながら呟く。

「絆、ねえ……」


 そんなものが築けているのか否か、朔夜は知らない。

 今はただ、冷たい月光だけが彼の姿を照らしていた。


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