[閑話]浮雲の庭先に新たなる年の来たること
「羽根つきをしよう」
元日の朝。
そう言いだしたのは、甲玄だったか、松影だったか、はたまた偶然遊びに来ていた蛟であったか。
些細な疑問を取り留めもなく脳裏に遊ばせながら、朔夜は目の前で繰り広げられる騒ぎを見るともなしに眺めていた。
「いくでー」
漢服を着崩したような個性的な装束に不似合な羽子板を握り、声をかけるのは蛟である。
「よしきた」
対峙するは僧衣の甲玄。蛟が手にしていた羽根を放り、羽子板を振るう。
「ほれ」
やる気の無さそうな身のこなしとは裏腹に、羽根はおよそ羽根つきと呼ぶにはふさわしくない高速で冬の冷気を切り裂いた。
「なんの」
しかし甲玄も負けてはいない。即座に反応し、打ち返す。僅かな間に二人の間を飛び交った羽根は、甲玄が小石に躓いた一瞬の隙に反復運動から解放され、後方にあった松の木に激突した。
「いたっ!なんてことをするんです」
松の木の根元に、水干姿の青年が姿を現す。腹を摩りながら恨めしげに二人を見ているのは、言うまでもなく松の精である松影であった。
「まあま、そう目くじら立てんといてや。それより亀、ほれ、お前の負けや。面貸しい」
にやにやと笑う蛟が、墨をたっぷりと含ませた筆を手に甲玄に近づく。苦い顔をする甲玄の目元に、大きく○を描いた。
「うう……わしの男前が台無しじゃ」
「安心しい。もともと大して男前でもあれへん」
呵呵と笑って、蛟がからかう。呻く甲玄の手から、松影が羽子板を取り上げた。
「交代です。まったく、私の幹に傷をつけるなんて」
溜息を吐きながら、松影は自らの幹から回収した羽根を中空に放る。
「蛟殿にも罰を受けていただきますよ」
「やれるもんならやってみい」
高く乾いた音とともに、再び羽根が飛び交い始めた。
縁側に座って庭を眺めていた朔夜は、ふと隣に視線を向けた。いつの間にかそこに、小さな女の子が座っている。
「綾音」
朔夜が名を呼ぶと、綾音は一瞬視線を寄越したが、すぐにまた庭の方を熱心に見つめ始めた。
「羽根つきがしたいのかい」
問いかけると、ぴくりと肩を揺らす。どうやら図星のようだ。朔夜は少し考えて、それから庭の方を見て、苦笑した。
「少しだけ待ちなさい。じきに白と黒が来るだろうから、あの二人と一緒にするといい」
そう、綾音に言い含める。
「『あれ』に混ざるのは、ちょっとばかり危険だからね」
綾音は一瞬動きを止め、それから深く頷いた。
その目の前では、既に顔中墨だらけにした大の男が三人も、大人げなく本気で羽根つきをしている。
蛟が渾身の力で打ち返した羽根が松影の人型に命中し、その片腕を吹き飛ばした。
「おいおい蛟、それはなかろう!」
顔を真っ青にした甲玄が大慌てで喚く。
「お前わしらを殺す気か!」
「まったくです」
松影も、空になった片袖を振りながら抗議した。蛟があちゃーと呟いて頬を掻く。
「加減間違えてもうたわ」
「気を付けてくださいよ」
松影が溜息を吐く。腕を飛ばされたといっても、もとより人の姿には実体がない彼の腕は幻のごとく消え、血の一滴も出てはいない。
「本体が別にある私だからよかったものの、これが甲玄なら大変なことになっていますよ」
彼がもう一度空の袖を振ると、そこには元通り腕が現れた。だが彼の言うとおり、これが松影でなければ冗談では済まない事態になったことは間違いない。蛟はこんなところで遊んでいるが、本来は東海の大妖怪である。彼がうっかり本気を出そうものなら、甲玄や松影程度の妖怪は簡単に消し飛んでしまう。齢千年の妖狐である玉藤でさえ危ないくらいだ。
「悪い悪い。しかしか弱いもんやな」
「齢三千年のお主の基準で物を言うでない」
甲玄が不機嫌に言って、松影の背後に転がった羽根を拾った。
「物騒なことやってるわね」
不意に割り込んできた呆れ交じりの声に、三人は一斉に振り向いた。そこには、帽子で狐耳を隠し、黒と白を引き連れた玉藤の姿があった。黒が大きな袋を抱えているところをみると、買い物にでも行ってきたのだろう。
「ご苦労さん、三人とも」
縁側に座していた朔夜が声をかける。黒が真っ先に駆け寄って、手にしていた袋を縁側に置いた。
「お餅」
「うん、玉藤と一緒に準備しておいで」
いつの間にか腰から生やしていた尻尾をぱたぱたと振りながら催促する黒に微笑んで見せ、朔夜は袋からもち米を取り出して黒の手元に返す。
「白はちょっとこっちへ来て、綾音と羽根つきをしてやってくれないか。そこの三人は交代。顔を洗ってきた方がいい」
朔夜が指示を出すと、松影が素直に羽子板を綾音に渡し、水干の袖で徐に顔を拭う。もとより実体のない彼の顔は、それだけで元通り綺麗になった。
「なんや、ええとこやったのに」
ぶつくさと文句を言いながらも、蛟も手にした羽子板を放る。白が器用にそれを受け止めて、綾音とともに遊び始めた。今度は平和な、何の変哲もない羽根つきである。
「餅つきをするのか」
そう尋ねつつ朔夜の隣へやって来た甲玄は、真っ先に買い物袋からお屠蘇を取り出して玉藤に頭を叩かれた。
「そういえば朔夜、玄玲公主はどないしたんや」
蛟が朔夜に声をかけながら、池に頭を突っ込んで顔を洗い始める。蛟である彼は水に入るのに何の抵抗もないし、むしろ地上にいるよりも気分がいいくらいなのだ。
もっとも、池に頭を突っ込んだ体勢のまま、その頭を踏みつけられるとは思わなかったが。
「!?」
「今戻ったところだ」
「……お帰り、玄玲」
もがく蛟の頭に片足を乗せた状態で姿を現したのは、今まさに話題に出ていた玄玲である。
「それで、蛟よ。東海宮に年賀の挨拶にも行かず、無論我が父の宮に顔を出すでもなく、こんなところで何をしている?」
朔夜はあまり詳しくないが、どうやら四海竜王の水晶宮では官僚機構が維持されており、色々と細かい規定があるらしい。蛟のようなはぐれ者も、四海の内に生きる以上、そうした関係からは逃れられないのだとか。
その義務たる挨拶を怠ったことに、どうやら北海宮の姫である玄玲は怒っているらしい。
「あ、あれ?拝年は春節の時やありませんでしたっけ……?」
「元旦にも簡略ながら顔を出すようにと、百年ほど前に改正が有った筈だが?」
玄玲の返答には淀みがない。そして蛟の頭を踏みつける力にも容赦というものは無かった。
「そういえば、東海宮の法官が嘆いていたな。通達を右から左へ聞き流す不届き者がいるとかいないとか」
「か、堪忍や、玄玲公主。春節の時にちゃんと詫び入れます」
「今すぐ行け」
玄玲がぐっと足に力を籠めると、蛟は人型を崩して元来の姿に戻り、ずるりと池の中へ滑り込んだ。水底へと沈んだ巨体が、泡とともに姿を消す。どうやらおとなしく東海宮へ向かったようだった。
「容赦がないな」
「これで色々とややこしいのだ。あのまま放っておけば朔夜にも面倒が降りかかりかねない」
玄玲は腕を組んでそう言い切ると、朔夜の側へとやってきた。先程までの騒ぎをよそに、庭先では白と綾音が羽根つきを楽しみ、奥では玉藤と黒が米を蒸している。甲玄と松影はというと、玉藤の指示で杵と臼を用意しているところだった。
「何を始めるのだ」
臼を庭に据え、杵の先を水に浸して試しに振っている松影と甲玄を見て、玄玲は訝しげに言った。彼女はどうやら、この島国の人間が培ってきた正月の風習には詳しくないらしい。
「餅つきだよ」
朔夜が答えている間に、玉藤が蒸し上がった米を持ってくる。蒸し上がりがやけに早いが、この屋敷ではこのくらいの不思議は日常であった。
甲玄が杵を振り上げる。松影が杓文字を構える。
朗らかに響く彼らの声を聞きながら、玄玲は傍らの朔夜に目を向けた。朔夜は穏やかな表情で、庭の彼らを見ている。
「朔夜」
言葉が、つるりと玄玲の唇から滑り出た。
「今、幸せか?」
朔夜が驚いたようにこちらを見る。それから、戸惑うように胸元に手を当てた。
「幸せ、か……」
目を細める。
穏やかな一日。楽しげに騒ぐ仲間達に、緩やかに吹く風。
「そうだね」
朔夜は微笑んだ。
「この穏やかで暖かな気持ちを幸せと呼ぶのなら、俺は今きっと、幸せなんだろう」
生憎、朔夜は人間として生きていた期間、幸せとは縁が無かった。故に永遠の時間を与えられた今も、人々の口にする幸せというものが、よくはわからない。
けれども今、間違いなく、彼の心は穏やかで、暖かかった。
「そうか」
玄玲は多くを語らず、それだけ言って庭に目を戻した。
甲玄が杵を振るう。松影がリズムよく臼の中身をこねる。白と黒、それに綾音もそれを期待の籠った眼差しで見ていて、玉藤はそんな彼らに餅を食べる為の碗と箸を配る。
浮雲の庵に訪れた今年の元旦は、賑やかに、それでいて穏やかに過ぎて。
庵の主の胸に、ささやかな幸せを教えてゆくのだった。