浮雲の憂鬱に夜桜の舞い散ること
冬が終わり、風が暖かくなって、花々が芽吹きだす。そんな季節のことであった。
「飯だぞ」
火の側で鍋をかき混ぜる兵の声に、他の兵達がぞろぞろと集まってくる。そこここで炊事の煙が上がり、簡素な鎧を身に着けた男達がそれぞれ碗を手に持って空腹を満たしていた。
遠くにかすかに見える本陣の旗を見るともなしに眺めながら、一人の兵士が手ごろな木の根元に腰を下ろした。
「どのくらい、こんな生活が続くんだろうな」
ぼそりと呟いて、旨くもない飯を頬張る。春が訪れたとはいえ、戦に駆り出された彼らにぬくもりがもたらされることは無い。まだ当分は、このまま陣中暮らしを続けなければならない筈だった。
「もう花が咲く季節だってのになあ」
仲間と顔を見合わせて溜息を吐き、視線を上に向ける。
彼が凭れ掛かっている木は、空へ向かって伸びた枝に薄紅色の花を半ばほど咲かせていた。
世は乱れている。
力と策謀がぶつかり合い、火花を散らす時代。
人々の心が色濃い希望と絶望により極彩色に彩られる世の中を、まるで窓から窓へと吹き過ぎる風のごとく歩いている者がいた。時により僧侶や山伏にも姿を変えるが、今は目立たない旅人姿である。どこかあどけなさの残る少年のかんばせに、その若さに似ない妙な翳を纏った旅人は、大した荷も持たずに黙々と歩いてゆく。
神代朔夜。
時代が移ろい、世が揺るごうとも、彼は変わらずあてのない旅路をさまようほかないのであった。
ふと、彼は足を止めた。耳を澄ますと、微かに喊声と悲鳴、様々な物音の入り混じった音が聞こえてくる。
「戦だね」
「また。懲りないわね」
少年の背負う荷から、ひょっこりと狐が頭を出す。銀に似た光沢を帯びた白い毛並みを持つその狐は、人目が無いのを確認して荷から這い出ると、ぶるりと身を震わせた。大人の狐にしては小さかった体躯が、標準的な大きさに戻る。
「やっぱり荷の中は窮屈だろう」
「まあね。でも堪えられないほどじゃないわ」
狐は朔夜の言葉にそう返し、風の臭いを嗅ぐように体を伸ばした。
「春だってのに血腥いわ」
「季節は関係ないさ」
朔夜は肩を竦め、ふと視線を巡らした。常緑の葉の緑と枯れ枝の暗い色合いの混じりあう中に一点、異なる色彩がある。
「ああ……花の季節か」
それは一株の山桜であった。どうやら既に満開の時期を過ぎているらしいその樹は、吹き過ぎる風に儚げに花弁を散らしている。それを眺めていた朔夜が、ふと思い出したように狐に目を向けた。
「玉藤、済まないけど今夜は少し別行動をとってもいいかな。寄りたい場所があるんだ」
「何よ、私は連れて行けない場所なの?」
玉藤がじとりと朔夜を睨む。朔夜は苦笑しながら頬を掻いた。
「いや、そういうわけじゃないけど……長く生きてる割に悋気の強いひとだからなあ」
目を細める朔夜に、玉藤は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
静寂を取り戻した野原に、夜の帳が降りる。
そこら中に敵味方の将兵や馬の骸、破損した武器に破れた旗幟が散乱する中を、若い兵士は足を引きずるようにして歩いていた。どうにか、生き残ったらしい。けれどももう、行動する気力もほとんど尽きてしまった。
昼間見た桜の根元まで辿り着いたところで、どさりと倒れこむ。腰の竹筒を持ち上げて振ってみるが、飲み水もとうに尽きていた。
「おう、生きてたか」
聞きなれた声が耳に届く。体が溶けそうな疲労の中でどうにか目だけを動かして見ると、顔なじみの老兵が桜の側に蹲って火を起こしていた。
「あんたも、残ったか」
掠れた声で言う若い兵士に、老兵は黙って竹筒を渡す。その中に残されていた水を、若い兵士は貪るように飲んだ。
「また、たくさん死んだな」
老兵がぽつりと呟く。その肩に、はらりと花弁が舞い降りた。
「酷いもんさ。そこら中血の海だ」
「戦だからな」
やや気力を取り戻して上体を起こした若者の言葉に、老兵は淡々と返して火に小枝をくべた。その手元にも、花弁が舞う。
「見ろよ、花まで血を吸ったみたいに赤くなってやがる」
花弁を摘まんだ老兵が言う。実際、本来ごく淡い薄紅色のはずの花弁が、今はずっと濃い絳色に見えた。若い兵士はどことなく気味が悪くなって、夜空に伸びる枝を見上げる。
「……なあ、じいさんよ」
「なんだ」
「この樹、昼間は五分咲きじゃなかったか」
乏しい明かりの中でも、それは不思議とはっきりと見えた。
半ばしか咲いていなかったはずの花が、満開になっている。はらはらと舞い落ちる花弁が、兵士の頬にもはりついた。
「綺麗だが、なんか禍々しいような」
軽い気持ちで、若い兵士は呟いた。美しさと妖しさは紙一重なのかもしれない。
「いけねえ」
同じく上を見上げた老兵が、途端に焦り出す。
「どうしたよ」
「どうしたもこうしたもねえ。逃げろ、こいつは人喰い桜だ」
「は?」
老兵の言葉を理解し損ねて目を瞬かせる若者の前で、風もないのに花弁が一段と激しく舞った。それは立ち上がって走り出そうとした老兵の足元に絡みつき、その動きを阻害する。
「逃がすと思うてか」
不意に、この荒れ野には不似合いな女の声がこだました。
吹き荒れる花弁に足を取られて転んだ老兵と、未だ事態を理解しきれずに呆然としている若者の前に、いつの間にか豪奢な打掛を纏った女が立っていた。
否、正確には立っているわけではない。彼女は桜の幹を背にして中空に浮いているのであった。
「な……」
若者はその光景にあっけにとられ、無意味に口を開閉させる。扇で顔の半ばを覆った女の目元は美しく、舞い散る花弁に包まれたその立ち姿はひどく幻想的であった。
「ぼさっとするな!早う逃げんか!」
老兵が起き上がろうと地面に手を突きながら叱咤する。
「人の血を吸って満開になる、人の味を覚えた化け物桜だ!喰われるぞ!」
老兵の鬼気迫る叫びに、若者ははっと我に返って立ち上がろうとする。その頬に、いつ近づいたものやら、女がとんと扇を当てた。
「逃がさぬぞえ」
すう、と朱く塗られた眦が細められる。
「愚かなり人間どもよ。この地を死で満たし妾の身を血塗ったは汝らであろう」
花弁が舞う。動けない若者は、逃げようとする老兵の体に触れた花弁がその皮膚を裂くのを見た。
「ぐ……」
「じ、じいさん」
滴る血が土に吸われてゆく。気のせいか、花弁の赤がいっそう濃くなったように思われた。
「汝らの身勝手な戦で妾も傷ついた。代償を寄越すがいい」
言われてみれば、立派な古木の幹には矢が刺さり、大きな刀傷まである。枝もいくらか折れてしまっているようだ。
「ひ……お、俺たちはただの駒だ。好きで戦に出たわけじゃない」
「そのようなこと、妾は与り知らぬ」
美しい女の口元から、すうっと牙が伸びる。
「さあ、その血肉を寄越せ」
「やめておきなよ。あなたには似合わない」
不意に、涼やかな声が女の行動を止めた。同時に、あれほど舞い散っていた花弁が急に勢いを失って地に落ちる。
「誰ぞ」
女が振り向き、誰何する。声の主は桜の木の根元に立ち、微笑を浮かべていた。
「俺を忘れたのかい、紅姫」
見たところ、ごく普通の旅人である。しかしこの異常な場面で落ち着いた微笑を浮かべているその姿は、どこか得体のしれないものを感じさせた。
「……さくや、かえ」
女がぽろりと呟く。朔夜が頷くと、伸びていた牙がすっと引っ込んだ。
「久しぶりだね、紅姫。近くへ来たから寄ってみたんだ。ちょうど花の時期かと思ってね」
朔夜はそう言いながら、桜の木から舞い落ちた花弁を掌に載せた。
「……こんな花になってしまっているとは思わなかったけど」
彼の呟きに、紅姫と呼ばれた女は僅かに眉を寄せた。
「妾とて、好んで人の血など啜っておるわけではないぞよ」
扇で口元を隠しながら、やや不満げに言う。
「人が勝手に地に血をまき散らすのじゃ。妾は地に根付くものぞ。地が穢れれば妾も穢れる」
「わかっているよ」
朔夜はそっと桜の幹を撫でた。桜は傷つくと、その傷口から傷みやすい樹木である。戦で傷ついた桜の木は、既に相当の齢を重ねていることもあり、弱り切っていた。
どこか悲しげに傷だらけの幹を見詰める朔夜に、紅姫は更に続ける。
「妾の身に溶け込んだ人の血が叫ぶのじゃ。生きておる者が憎い、喰ろうてしまえとな」
「そうしてあなたは人喰いになった」
朔夜の言葉に、紅姫は頷く。
「もはやそうすることでしか、妾は命を繋げぬ」
朔夜の干渉によって一時は落ち着いていた花弁が、再び宙を舞い始める。若い兵士は何とか老兵のもとへにじり寄り、肩を貸して逃げようと試みた。だがその眼前を、紅姫の扇が遮る。
「逃がさぬと言うた筈じゃ」
花弁が殺到する。
若者が思わず目を閉じかけた時、朔夜がそこへ割り込んだ。
「もうやめておきなよ、紅姫」
頬と言わず肩と言わず、荒れ狂う花弁が皮膚を裂くのを気にも留めない様子で、朔夜は穏やかに言った。
「嫌なんだろう」
ぴたり、と攻撃が止んだ。黙り込んだ紅姫が、徐に扇を閉じる。
「つくづく不思議な男よの、そなたは」
呟くように言って、桜の木を――己の本体を見上げる。
「あのように禍々しき花ではなかった」
「知ってるよ」
朔夜が静かに頷く。この樹が咲かせる花は本来、それはもう美しく儚げな薄紅の花であったのだ。
「戻りたいと願えども、一度人の血に穢れてしもうたこの身は血の怨嗟に呑まれ、人を喰らわねば気が狂いそうになる」
「ああ」
「……さくや」
独白を終えた紅姫が、朔夜の名を呼ぶ。
「どのみち、妾は終いじゃ」
朔夜は何も言わない。ただ少しだけ細められたそのまなざしが、肯定の意を示していた。
「そなたの手で、葬っておくれ」
紅姫の手が、朔夜の頬に触れる。朔夜はほんの少し、困ったように微笑んだ。
「何故、俺に?」
「妾は長き時を生きてきた。全てが妾を置いて変わっていった。ただ一人、そなたを除いて」
紅姫の本体は、千年にも及ぶ時を経た古木であった。故に自我を持ち、こうして現世に顕現するほどの力を有しているのである。その心を理解した朔夜は、小さく呟いた。
「俺は永遠に置いて行かれる側だからね」
つい、と手を伸ばす。紅姫の額に触れた。
「さようならだ、紅姫。本体も間もなく枯れるだろうね」
「礼を言うぞえ、さくや」
ふ、と微かに微笑んだ紅姫は、最後に己の本体を指差した。
「ささやかな返礼じゃ。妾の身を削って武具を作るがよい。妾の力をそなたに添わせよう」
「……ありがとう」
朔夜は微笑んで、何事か小さく唱えた。淡い光が紅姫を包み、彼女諸共薄れてゆく。
「さらばじゃ、さくや――」
やがてそこには、一株の枯れた老木だけが残った。
桜の散り行く季節の中を、朔夜は当てもなくゆるゆると歩いていた。肩には相変わらず玉藤を載せている。
「次はどこへ行くの」
「さあ。玉藤はどこへ行きたい?」
そう尋ね返す朔夜の手には、それまで無かったものが握られている。見るからに真新しいのに老成した風格すら感じられるその扇子は、どこか朔夜自身の雰囲気に似て、よく馴染んでいる。
「その扇子、どうしたの」
「これか」
玉藤の問いを受けて、朔夜は柔らかく微笑んだ。
「知人からの贈り物さ。武具を作れと言われたけれど、俺にはこっちの方が性に合っている気がしてね」
手の中でくるりと扇子を回し、朔夜はそう答える。
吹き過ぎる風に乗った薄紅の花弁が、一瞬朔夜に戯れるように踊って舞い落ちて行った。