復讐の章、倍にしてお返ししますね
翌日私はヒガシオさんの事務所を訪ねた。
「ヒガシオさん、ひどいじゃないの。こんな特殊な事情なら、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?もっと早く知っていたら私、少なくともこんなに苦しまなくても済んだわ。なにが個人情報ですか!私には知る権利があると思います」
「申し訳ございません、奥さま」
彼は深々と頭を下げた。これまで幾度となく仕事上でそうしてきたのだろう。全く心がこもっていない。条件反射だ。
私は、法務局に行って登記簿を調べて彼女たちの正体を知ったことを話した。
「彼女の素性を知っているのはヒガシオさんしかいないと思っていたから、ふつうに聞いて吐かないのなら、次はお色気作戦で迫ろうとまで思っていたのよ」
「私の口からは言えなかったのです、個人情報ですから」
「でも、私もいい年齢になったし、お色気作戦は効かないわね」
「私も最初はあの人たちの正体を知らなかったのです」
「昔観たスパイ映画のワンシーンみたいに、突然上半身裸になって抱きつこうかとも思いつめたのよ」
「あの人たちが入居したのは昨年の十一月でした。翌年の三月に偶然、ササキエイイチの一連の疑惑を追うテレビのドキュメンタリー番組を観て驚いたのです。それにはサトウユカリさんの名前も映像も出ていませんでしたが、このマンションを購入する際に、ササキエイイチと一緒に来ていましたから私にはすぐにわかりました。番組では、名前こそ出してはいませんでしたが“ササキの愛人に、法人名義で購入したマンションを住居にして住まわせている、というふうに伝えていました。グレースマンションも映っていました。でも、北側の部屋のバルコニー部分だけをアップにしていましたから、そこだけクローズアップしても、住人の方でも気が付かないと思いますよ」
「その番組、ヒガシオさんも観ていたのね」
番組が放送されたのは日曜日の午後二時だというから、私にとってはなかなか気が付かない時間帯だ。
「もう“え~~~っ”って感じでした」
ヒガシオさんは目を丸くして表情を崩し、女の子がするみたいに五本の指を広げて大きく開けた口を押さえた。漫画みたいだ。ヒガシオさんでもこんな風になることがあるのか。
「その番組のシリーズ第一弾は2011年の震災直後に放映されているそうです。その時は、ササキエイイチが代表を務めるnpo法人の無償の働きぶりを湛えたもので、彼らの活動を好意的に紹介したものだったようですよ」
ヒガシオさんは、今まで黙っていてすみません、でも本当はしゃべりたかったんですよというように話しを続けた。
「マンションの代金は全額現金で支払っています。その時にその数千万の現金を持ってきたのは、一昨日二十二階から飛び降り自殺したアサダミキです」
「そうですか」
私はこれまで知り得たいくつかの情報を頭の中で組み立てた。
「では、あの部屋に東北ナンバーの高級車で頻繁に出入りしている幾人かの女性たちは皆NPO法人の従業員なのですね?そのアサダミキが自殺した原因というのは、知らないうちに犯罪に加担させられていたことに気付いて後悔したか、あるいはゴシップ的な想像ですが、ササキエイイチを巡る愛憎のもつれとか・・・?」
私はこうなったら話しを派手に広げようと思ってそう言ってみた。
「それはわかりませんけれどもね。ただ、上階の騒音は、彼らは事業費で購入した備品を勝手に持ち出していますから、多分それを何らかのルートで転売しているのでしょう。その時の梱包や運び出し作業の音なのではないかと想像しています」
昨年五月に二十二階に直接苦情を言いに行った時に、広い玄関ホールに夥しいほどの段ボール箱が積み上げられていたことを思い出した。
「もう完全に犯罪じゃないの。業務上横領ね。ササキエイイチが逮捕されれば、サトウユカリも当然同罪でしょう?あのひとは二十二階に住み続けることはできないわね。私の苦しみも期限付きになったわ」
「それからサトウさんは、ここ三か月ほどマンションの管理費を滞納しています」
「どうして?何億も横領しておいて、月々数万円の管理費を払えないわけはないわよね?当然どこかに現金だって隠し持っているでしょう?」
「たぶん。でも管理費は払えないのではなくて、払いたくないのでしょう。そういうことをしても平気な人というのが世の中にはいます。彼女はきっとその部類でしょう。三カ月以上滞納すると、管理組合の規約で法的手段をとることになりますが、彼女は三カ月間滞納してはぎりぎりで支払う、ということを繰り返してきたそうです。マネージメント会社の支店長さんも頭を悩ませていました」
あの支店長も知っていたのか。
「すみません奥さま」
ヒガシオさんはまた機械的に腰を折り頭をさげた。
「マネージメント会社の支店長さんも、コンシェルジュもマンションの理事長さんもとっくに知っていました。知らなかったのは奥さまだけです」
「ひどいわ、ヒガシオさん」。
私はそうつぶやきながら、まぁいいや、と思っていた。とにかく状況は変わったのだ。スタートはここからだ。
「インターネットの動画サイトに、その番組がアップされています。奥さまもご覧になったらいかがですか」
「そうですか、帰ったらすぐに観てみます」
「本当に申し訳ございません、奥さま。ご主人さまはなんとおっしゃっていましたか?」
「わかりました、ごきげんよう」
いつものように外まで見送ろうとするヒガシオさんに、ここで結構よと手で合図をして事務所を出た。
帰り道、私は小学生の時に、クラスの男の子に自慢されたスパイ手帳のことを再び思い出していた。とても近代的でカッコいい手帳を開くと、中には追跡シールや水に溶けるメモ紙、あとは具体的には忘れたが、犯人を追いつめ、真実を暴くための道具がセットされていた。あの時は子どもながらに、こんなものを使うような出来事がいったいどこの誰に起こるのだろうと思ったが、その時から四十年の時を経て、そのどこの誰が自分になってしまったではないか。まさに私が犯人を追いつめるのだ。そのためなら尾行もするだろうし誰か協力者と秘密の暗号をかわすことだってあるかもしれない。水に溶けるメモ帳だって絶対に必要ないとはいいきれない。ただ待つのではなく、必ずくるXデーのためにできる限りの材料を集めるのだ。
私は、サトウユカリが手錠をかけられ、あのグレースマンションから去っていく姿をテレビのフレームの中に想像した。その時は彼女を華やかに送り出してやろう。そう心に決めると私は、なにか重要なミッションを極秘で遂行しなければならないような気分に酔いしれ、東京パノラママンボボーイズが演奏する「キーハンター」の主題曲を、車の中で大音量でかけながら夕暮れの街を疾走した。