刑事さんは私とあの女、どちらの味方なの?
”引越しをしたいので相談にのっていただけますでしょうか?“
私は、このマンションを購入した時の販売担当者のヒガシオさんが、独立して不動産会社を経営しているということを思い出して電話をかけ事務所を訪ねた。
「奥さま、お久しぶりです」
相変わらず率なく、人畜無害な執事のような態度は変わらない。彼に“奥さま”と呼ばれるといつも、上品でお金持ちのマダムになったような気分になった。
「ご無沙汰しています。いい事務所ですね」
彼はきっときれい好きなのだろう。小さなマンションの一室に、事務机と応接セット、パソコンなど必要なものだけが置かれていて床のすみずみも塵ひとつない。白い壁がより白く映える気持ちのいい空間だ。こんな場所に身を置いていると、頭の中も自動的に理路整然となる。
「引っ越しといってもあのグレースマンション内で移動したいんですの。空きはないかしら、たとえば私の住んでいる棟の二十三階とか、最上階もいいですわね」
ヒガシオさんの顔がさっと曇った。世の中の忠実な執事は皆、奥さまの身によくない出来事が起こった時にはきっとこんな表情になるのだろう。
「もしかすると奥さま。奥さまがそんなことをおっしゃるのは、二十二階のサトウさまが原因なのではないですか?」
「ヒガシオさん、何かご存じなの?」
「先日、用事があってサトウさまのお宅へ伺ったのですが、その時にちらっとそのようなことをおっしゃっていましたので」
「そのようなことってどのようなこと?」
つまり彼女は、自分は至って静穏な暮らしをしているのに、階下の住人から騒音がすると執拗に言われている、というようなことを話していたという。私は上階についてのかなり詳しいことを知っている彼から少しでも情報を聞き出そうと矢継早に質問をした。あんな騒音を立てて何をしているのか、彼女の所有する車は東北ナンバーだが震災で避難してきた人なのか、なぜあんなに人の出入りが多いのか、仕事はしていないのか。
「申し訳ございません、奥さま。私の口からは何も申し上げられません。すべて職務上で知り得た個人情報ですから」
「そうよね、わかっています。不動産媒介人はあなたくらい口が堅くなければね。だけどこれは極めて特殊な状況なの。特別に教えてちょうだい」
「奥さま、そういうわけにはまいりません、申し訳ございません」
職業上、彼の口は固いということは最初からよくわかっていた。
「奥さま、騒音の件はご主人さまにお任せした方がよろしいのではないでしょうか。少なくとも奥さまが直接お話し合いに行かれるよりは解決につながると思います。ご主人さまはお元気でいらっしゃいますか。
「わかりました。また来ます」
夫が不在であることは言いたくなかったし、今日はこれ以上聞き出すことはできないだろうと思い、外まで出て送ろうとする彼を制して事務所を出た。彼のことだから、雨の日も雪の日も、コートも着ないで車が小さなくなるまで手をもみもみしながらじっと外で見送るのだろう。そんなことをされたら運転のへたな私は緊張する。ヒガシオさんは玄関先で腰を二つ折りにして私を見送った。
頭の上から降ってくる突然の異音は私の心臓を日に日に弱らせた。
その日も、脈打つ鼓動に息が詰まりそうになりながら、私はストレッチポールで天井を突つき、それでも一向にやめる気配がないことがわかると、小型のレコーダーを手に階段を上っていった。今度はあの女の暴言を録音してやろうと思った。二十二階のチャイムを数回連続して鳴らし、そして何度も名前を呼びかけた。彼女は出てこない。出てくるつもりはないのだろう。そして私はためらわずに一度、ドアを蹴った。足先に鈍い痛みを感じ、私は興奮したまま階段を走り降りて自分の部屋に戻った。それから五分もたたないうちに、エントランスホールからではなく、すぐ目の前の玄関でチャイムが鳴った。何かを思って彼女が改めてやってきたのだろうか。私はすぐにドアを開けた。
そこにいたのは七人の大男たちだった。そのうちの四人は警察官だった。制服を着て帽子を目深にかぶっている。やはりあの女が110番をしたのだ。私は「どうぞ」と言ってなかに招き入れた。それから私服を着た三人の男たちの方を向き「あなたたちは誰ですか」と尋ねた。するとその男のうちのひとりが胸ポケットから黒い手帳を出しながら「刑事です」と言い、それを開いてみせて「ね」、と言った。
体格のいい七人の男たちがリビングに入ると部屋はたちまち狭く感じられた。私がソファを勧めると、二人の刑事がそこに座り、一人の刑事と四人の警察官はソファの後ろ側に手を後ろ手に組み、両足を肩幅に開いて門番のように静止して起立した。
「いいお住まいですね」
黒い革ジャンパーを着てジーンズをはいた三十代後半の刑事が、まるでなにかのセールスでやってきたような感じでそう言った。刑事という職業のひとをはじめて生で見たが、まるでフツーの若者だった。そのとなりの刑事はもっとものすごくフツーで、小学生の男の子のようなキャップをかぶり、ジャンパーを着て、どちらかというとぱっとしない男子といった感じ。三人目の刑事は、よく市役所の職員が着るような薄いブルー系の作業着のようなものを着ていて、頭髪は坊主頭、見ようによっては暴力団風の風貌だ。これも変装の一種なのかもしれない。
「夜景がきれいですね」
革ジャンの刑事が言った。私はそれに答えずに、
「私がドアを蹴ったくらいで、おまわりさんならともかく、どうして刑事さんまで登場するんですか?しかもこんなに大勢で」
私は本当に不思議だった。
「うん、ちょっとね。もしも事件につながるようなことがあったらやだなぁと思って」
と革ジャンの刑事が言った。
「私はチャイムを鳴らして、たった一度ドアを蹴っただけですよ。殺してやるとかそんなことは言っていません。ここに証拠だってあります」
私はレコーダーを手に取ってみせた。
「あのね、僕と約束してくれる?」
革ジャンは、まるで子どもに諭すようにそう問いかけた。
「もう二度と、ドアを蹴ったり、直接訪ねて行ったりしなでほしいんだ。今後は弁護士を立てて話し合ってほしい」
私はまたかと思った。弁護士に依頼したらいったいいくらかかるのか想像もつかないし、しかも訴訟を起こして勝てるかどうかもわからない。そんな面倒な手続きを踏む前に、今ここで、すぐにやめさせたいのだ。
「刑事さんはどうして上の人に注意をしてくれないの?」
「上の人は寝ていたと言っていたよ、パジャマを着ていたし、部屋も暗かった」
私は「けっ!」と言った。そんな言葉づかいはしたくなかったが、本当に「けっ!」と言う以外に適当な言葉も感嘆詞も見つからなかった。
「刑事さん、そんなこと本気で信じているの?」
刑事はにっこり笑った。
「もう一度聞くけど、どうして刑事さんが来るの?私がドアを蹴ったことが理由なら、おまわりさんふたりくらいで十分じゃない。それに、どうして直接相手と話しをしてはいけないの?警察も管理組合も市も、なんにもしてくれないじゃないの。だからこうして自分で解決しようとしているのよ」
「あのね、本当は被害者的立場なのに、相手と直接交渉しているうちにいつの間にか加害者になってしまったという例を僕たちはいやというほど見ているの。だからそんなふうにはなってほしくないから、自分だけで解決しようとしないで弁護士さんにたのんでほしいんだよ。約束してくれる?」
なんだかよくわからなかったけれど、その刑事の声や話し方、表情がちょっと魅力的に思えてきたので、私は約束するという意味でうなずいた。
彼らが帰ってから、私は夜景を眺めながら声を出して泣いた。もう打つ手はないと思った。二十二階の騒音をやめさせる手立てはない。どれだけ攻撃されても、これからはもうただ黙って耐えるしかないのだ。こうして少しずつ神経が壊れていくのを待つくらいなら、引っ越すという選択肢が残されている。私はもう立ち去るべきなのだ。明日、引越しの準備をしようと思った。