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不確かなノイズ  作者: チョコレートブラウニー
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地上からの眺め

マンションに帰る途中、ドラッグストアに寄って白髪染めを買った。

少しサイクルが早いけれど、今晩のうちに染めておこう。明日は一大イベントなのだから。

マンションに戻ると、正面玄関前と駐車場に続く裏玄関の付近に、二社のマスコミのクルーが居た。一社はテレビ、もう一社は新聞社で、その中に防寒着を着込んだユミコの姿があった。彼女は私を見つけると走り寄ってきた。


 「いよいよね」

 「明日、彼女も逮捕されるのね?」

 ユミコは大きくうなずいた。

 「アサヒの望み通りになったわね。こんなに早く急展開するとは思わなかった。ササキの妻と妻の父親、それから法人の社員の男も逮捕されるわ。

 「五人も?」

 私は驚いた。

 「誤認逮捕じゃないよ」

 一瞬脳裏に浮かんだがさすがに口にしなかったことをユミコが言った。

 「寒いでしょう?中に入ったら?カメラさんやほかの記者さんもいっしょに」

 「うん、きょうはここに居ても動きはないと思うんだ。逮捕は明日だし。これからササキの事務所に行ってみる」



 ユミコたちを見送ってから私はエレベーターで二十一階まで上がり、玄関ドアの前で立ち止まって耳をすませた。

 何も聞こえない。風の音も、雪の降る音も。見回すと、ホールも、階段室も、まるでいばらに包まれて長い眠りについた城のように静かだった。そのうち私はドアに背を預けながらその場にゆっくりとしゃがみこんだ。目を閉じて彼女の気配を探そうとする。私は誰よりもあのひとの音を聞き分けることができる。私は彼女のことをよく知っているのだ。

 少しだけ空気が動いたのはその時だった。それはきっと彼女の呼吸だ。その波動は少ずつ私に近づいてきた。彼女がドアをカチリと開きエレベーターのボタンを押した。下降し始める瞬間を確認すると私もボタンを押した。エレベーターは壊れたゴンドラのように一瞬だけガクンと下降して私の階で止まりそして扉が開いた。

 彼女は無表情だった。私が目の前に居ることにも気が付いていないのかもしれない。子どもの手をひいている。子どもはオーバーを着込み、彼女は薄手のカーディガンに赤いミニスカートをはき、サンダル履きだった。私たちは無言のままエレベーターの下降に身を委ねた。一階に着くと彼女は真っ直ぐ正面玄関に向かい、車寄せに停車している黒い車に子どもを乗せ、短い会話をして自分ひとりだけがマンションに戻ってきた。明日起こるであろう事態のために誰かに子どもを託したのだろう。

 私はホールに置かれている白い革張りのソファに腰掛けて彼女を待ち受けた。私は勝者で彼女は敗者だった。私はここに残り、彼女は出ていくのだ。当たり前のことが、無駄な回り道をしてやっと決着するだけのことだ。こちらに近づいてきた彼女は黒い涙を流していた。オレンジ色の口紅はコールタールのようにはがれて溶け,髪の毛は白く透き通っていた。

 「サトウさん」

 私は彼女の名前を呼んだのと同時に、さっき帰りがけに買ってきたばかりの白髪染めが入った袋を差し出した。

 「これで白髪を染めたら。あなたの使っているものと同じよ。もう時間がないでしょう?」

 私は彼女が、白髪を染めたがっているに違いないと思ったし、できることなら騒音のこと以外のことで話しをしてみたいと思っていたのだということに今突然気が付いたのだった。彼女は壊れた人形のような目をして私の顔を見つめ、それから息を吹き返したように二、三度続けて瞬きをしてからおそるおそる手を伸ばし、私の手から白髪染めの箱が入った袋を受け取った。

 その時私は、母が最後の入院の前の晩に、私に白髪を染めてほしいと言ったことを思い出した。もう食事も喉を通らなくて歩くこともままならなかったというのに、痩せた手で髪をさわりながらそう言ったのだった。私は母の背後で彼女の白髪に黒い薬液を塗りながら声を出さないようにして涙を流した。サトウユカリには母親の記憶はあるのだろうか。白髪を染めた母はもう家に戻ってくることはなかった。サトウユカリはいつか釈放されるだろう。私たちはもう二度と会うことはない。


 翌朝早く、ササキエイイチとサトウユカリら五人は、同時刻に別々の場所で逮捕され、身柄はその日のうちにヨシダ町に近い東北の都市に移送された。

 ササキは業務上横領、他の四人は勤務実態がないのに架空の給与を受け取っていたなどの容疑だった。私は彼女が県警のワゴン車に乗せられていくところを二十一階の窓から見下していた。帽子を目深にかぶって、長い栗色の髪が風に舞っていた。


 同じ日の午後、引越し業者がやってきて夫の荷物だけを運んで行った。私はそれからずっと長い間リビングの真ん中に座りこんで、バランスの悪くなった室内を眺めていた。いろいろなことが昨日までとは違っていた。

 ベーカリーカフェに行こうかと思い立つ。二十一階から地上に降りてエントランスを抜けて正面玄関から外に出ると、まばゆいほどの日の光が注いで鼻の先をくすぐる。もしかしたら、私がきのうまで固執していたあの部屋よりも地上の方がずっと眺めがいいのではないかと思い始めた。私もどこかへ行こうか。ここではないどこかへ。私はこの思い付きがとても気に入った。それから思い出して、コートのポケットからサトウユカリの写真を取り出した。その紙切れは南から吹いてきた風にさらわれて宙を舞った。




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